オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神の素晴らしさを味わう

2014-05-25 13:06:40 | 礼拝説教
2014年5月25日 伝道礼拝(詩篇34:8)岡田邦夫


 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」詩篇34:8

 この頃、朝起きる時に、腰が痛い、動き出してしまえば、治ってしまう。歳を感じます。そこで、私、朝のドラマ(朝ドラ)を考えました。お聞きください。
 口が口出す。腰に変わって言う。「あ痛たた!」
 耳が耳を傾けてくれる。「歳だからなあ」
 目が目を掛ける。「痛いところこそ大事だ」
 手が手助けをする。どこかにつかまって支える。
 再び、口が全身に号令をかける。「どっこいしょ!」
 足は足元を固め、踏ん張って支える。
 腹は腹をくくり、言う。「今日も一日、生きていこう。」
 最後に鼻が祈る。「はなはだ良い一日でありますように。」

 創世記は初めに神が天と地を造られたと書き出します。そして、六日(六つの期間)で世界を造られ、その期間ごとに「夕となり、朝となった。」と言ってはきれいな表現で締めくくります。そのうち、第三日からの地球の創造に関しては「神は見て、よしとされた。」という賛辞が延べられます。最後は「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」と絶賛しているのです(創世記1:31口語訳)。そして、第七日目は休まれたのです。人は頭の中で想像してしまいます。神がお疲れになることは無いでしょうが、神は天地宇宙、この世界を造られるのに全力でなさったので、その後は休まれたのではないかと…。あるいは、じっくりとご自分の作品を鑑賞されるために休まれたのではないかと…。そんな風に勝手に人が想像しても、怒られはしないと思います。
 そして、人間は創造者なる神を知り、愛を深めるために造られたのに、唯一の禁止命令を破り、誘惑に負け、神のようになろうとしたのです。アダムとエバの罪の話です。しかし、人ごとではなく、私たちも同罪なのです。特に旧約聖書を見ると、神の恵みと祝福と救いを受けながら、神に反逆し、神の前に罪に罪を重ねた歴史が記されています。続く、近代化した現代でもそうです。神の目からご覧になると、はなはだ悪かったという状況です。しかし、神はこの傲慢不遜の罪人たちを救おうとされ、気にくわないからと私たちを抹殺してしまうのではなく、ご愛をすべて注いで、神の御子をお遣わしになり、十字架にかけ、私たちの罪の身代わりとして、怒りを集中させ、抹殺し、義を通されました。ですから、この十字架の贖いを信じ、悔い改めるなら、その人は良い作品として新しく造られるのです(エペソ2:10、2コリント5:17参照)。信じる者たちをイエス・キリストの色眼鏡で見ていただいて、「はなはだ良かった」と思っていてくださるに違いありません。

 第二次世界大戦敗戦後の困難な時代を実話に基づいて描いた日本映画で「名もなく貧しく美しく」というのがありました(1961年公開)。主人公は視覚障害者、様々な困難を乗り越え、題名のように生きていくという映画です。貧すれば鈍するですが、そこに流れているのは「清貧の思想」です。名もなく貧しく美しくです。今日においても、この「美しく生きる」と言うのが日本人の生き方の伝統なのではないでしょうか。ただ、市民としてワーキングプアなど経済格差など取り組む課題はあります。かつて武士は武士として美しく生きる、農民、職人、商人も同様でした。今日においても日本人として美しく生きたいものです。
 話は聖書にもどしましょう。世界の人々も日本の私たちも創造者を知らなければなりません。伝道者の書が告げます。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に」(12:1)。この書の結論はこうです。「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(12:13口語訳)。それが人の美しい生き方です。
 それは以下のように、神のなさることは美しいからです。3章を読んでみましょう(一部書略)。
1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
12私は知った。…13人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のですから、自分の人生のおいてもそうなのです。幼児の時の美しさ(若葉)、青春の時の美しさ(新緑)、中年の時の美しさ(深緑)、老年の美しさ(紅葉)と時の美しさを生きるのです。そこで重要なのは神のなさることは美しいという信仰です。あなたの美しい生き方は神のなさることなのです。冒頭の詩篇の言葉はなおそれを歌っています。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は」(詩篇34:8)。美術館に行かなくても、主を信じるあなたの人生が神の美術、あまたを取り巻くすべてが神の美術、イエス・キリスト美術館なのです。「主のすばらしさを味わい、これを見つめ」信仰による鑑賞をしましょう。

 N兄のことは忘れられません。彼はかつて捕鯨船に乗り、コック長をされていました。しかし、奥さんが病気のため、陸に上がり洗濯場で働いていました。そのような時にキリスト教と出会い、洗礼を受けました。奥さんは亡くなられ、後日、再婚。そういうところを通りながら、教会には忠実に通っておられました。穏やかで実に人のいい方でした。ある時、急に入院することになり、ガンであることが告げられました。私や家内が見舞いに行き、お祈りすると、必ず、彼も牧師と教会のために祈ってくれました。退院してしばらくは元気で、礼拝にでておられたのですが、再入院となりました。ベッドから落ちて骨折。寝たきりになり、認知症の症状が出てきました。一つは何かを恐れているようでした。私が祈った後、良く聞き取れなかったのですが、心にかかっていた何かを悔い改めたようです。病室が窓側に変わった時、道路を隔てた向こう側のマンションのベランダに「十字架」が掛けられていたのです。熱心なクリスチャンなのでしょう。彼はそれを見た時に罪赦され、天国に行けると確信したのでしょう。心は平安になりました。もう一つは脳の回転の問題。家内が良くかんで食べること、手に小石を持って指を動かすこと、紙に書いた聖書の言葉を声を出して読むことを提案。そのようにされるて、みるみる元気になりました。しかし、ガンは進行していて、その病院で実に穏やかに天に召されて行きました。その臨終の時、奥さんと看護師がおられました。そして、看護師が奥さんにこう言いました。愛称で「なるちゃんは最後まで紳士でしたね」。これを見ていた奥さんは後に教会に来られるようになり、洗礼を受けました。彼は人生の時々を美しく生きたのだと思います。主にあるなら、人それぞれの美しき人生があるのではないでしょうか。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は」。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。