オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

受難のしもべ

2018-03-25 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月25日(日)棕櫚の主日礼拝(イザヤ53:1~12)岡田邦夫

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:5

 いきなりですが、福音書に出てくる、一つの事件から話を始めたいと思います。福音書に出てくる主の御業というのはほとんどがいやしや奇跡ですが、この出来事はそうではないものです(ヨハネ8:1-11)。主イエスが朝早く、神殿で民衆に囲まれ、教え始められた時のことです。律法学者とパリサイ人がひとりの女性を連れて来て、真中に置いて言いました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」。そのようにしろと言えば、教えとは違うと言って民衆は離れていくし、やめろと言えば、律法に従わない者だと告発できる。彼らのわなです。イエスを貶めるために女性を道具にしているのですから、ひどい話です。「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。…彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた」。みな去って行きました。そして、こう告げました。尊敬語で婦人よと呼び、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」。そう告げたのです。
 主イエスのこの沈黙がこの女性を救ったのです。イエスはどうして、権威をもって罰しないと言えたのでしょうか。その答えはイザヤ書53章の預言にあります。この章は旧約聖書の中でも最も偉大な章と言われています。主イエスの受難を克明に描いた預言です。

◇こうするしかない…愛の必然性
 聖書全巻に貫かれているのは「救い」です。何から救われるのかというと、神に対して罪を犯した者たちが神の怒りをかい、裁きを受け、滅びてしまう。その滅びから救うというものです。その「神の怒り、神の裁き、滅び」などの言葉が聖書の中に、私の数えたところではごく大雑把で1200以上でてきます。旧新約聖書が約1200章ですから、1章に1回は出てくる程だという事を知らなければなりません。
神に選ばれたイスラエルの民も神に背き、歴史の上で裁かれ、ふるわれ、ユダが残りました。しかし、ユダの民も背信のゆえに、バビロンに囚われていくのだと預言されます。ある学者によると、この53章はユダの民のバビロン捕囚の苦難をさしていると言います。「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた」などを見るとそのような面があります。イザヤ書の特徴の一つは旧約時代に起こることを預言しているとともに、その向こうの新約時代に起こることを預言しています。二重重ねの預言が見られるのです。先の出来事とは皆さんが良く知っておられる、救い主・メシヤの受難のことです。人類全体の救いに及ぶものです。

旧約においては動物のいけにえが代償としてささげられ、犠牲になったのですが、私たちの罪はそれでは間に合わないほど、根深いものです。神の御子・イエス・キリストご自身が代償として、犠牲にならなければならなかったのです。
主イエスは預言の通り、屈辱、呪いを受けられました。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」。
背を鞭でうたれ、頭にいばらの冠をかぶせられ、両手両足を十字架に釘で打ち付けられ、ゴルゴダの丘に立てられました。これ以上ない激痛にさいなまれるのです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。

◇こうしてあげたい…愛の主体性
 預言なのに「~だった」と過去形に訳してありますが、それは原語、ヘブル語の文法によるものです。ギリシャ語でしたら、動詞は時制を過去、現在、未来と分けています。そういう発想をするからです。ヘブル語というと、動詞の時制は完了か未完了かと分けています。そういう発想をするからです。神のなさることは未来であろうと完了していると考えるので、預言も完了形なのです。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」。十字架において完了しているのです。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。私たちの中でも神の御業は完了しているのです。私たちはそう信じるのが信仰です。「救いはこの身に成就しぬ。われいかで疑わん。主の御業を」です(新聖歌359)。
 メシヤは自らすすんで、贖いのいけにえになられたのです。主体的に神のみこころに従われたのです。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」。この神の沈黙こそ、全き救いにつながるのです。初めに話した女性の件で、イエスは沈黙していましたのは、黙って、この女性の罪の攻めを自らに引き受けられたことを表しています。神の沈黙というのは無条件の引き受けなのです。

 さらに10節には神の内面、真情が発露されているのです。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」がそれです。この文が色々の言葉に訳されています。
新改訳は「主のみこころであった」、
口語訳(&バルバロ訳)は「主のみ旨であり」、
共同訳は「主は望まれ」、
文語訳は「エホバ(主)はよろこびて」。
これ程、多用な訳があるという事はきっと、人間の言葉では表せないほど、全身全霊で御父は御子を砕かれたということではないでしょうか。文語訳を見ると、私たちを救うためならと、ご自身のひとり子を砕くことを喜んでなされたのだと思わされます。これ程の愛がどこにあるでしょう。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、…御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」(1ヨハネ3:1)。感謝があふれてきます。
11節も受難の御業を成し遂げた時の御思いを色々に訳されています。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」新改訳
「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。」共同訳
「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」口語訳
 「その心の試練ののち彼は光を見、それに満たされる」バルバロ訳
※参考までに:文語訳は「かれは己がたましひの煩勞(いたづき)をみて心たらはん」。ふりがなの「いたづき」は①病気、②苦労、骨折りの意味です。
漢字は火辺にわずらう、労働の労と書いて【煩労】はんろうと読み、心身をわずらわせること、また,わずらわしい仕事や苦労の意味です。
十字架の受難を振り返ってみた時に、完全に神のみこころにかなってなされたので満足されたのでしょうか。あるいは受難の後に多くの人が救いに導かれる実りや光が見えて満足されたのでしょうか。例えば、日本の伝統の漆職人は実に手間暇かけて、美しい作品を作っていきます。作品を見て、いい仕事してますね!と言われると嬉しいでしょうね。さらに、職人は人からどう評価されるより、自分がとことん納得のいく物を作りたいと言います。まして、神が救いの御業をなさるにあたって、とことん、御子を打ちたたき、納得なさるまで、イエスに「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」と言わさせるまで、手を抜かなかったのです。十字架は神の満足の業なのです。
私たちは母の胎から産みの苦しみの中で生まれてきました。半端ではない産みの苦しみをしたのに、生まれた赤子を抱いた時には、お母さんはもう産みの苦しみを忘れているらしいです。私たちは十字架の難産を通して、神の子として生まれたのです。しかし、救われた私たちを見て、その受難も忘れて、満足されておられるに違いありません。

 この週、主の受難を偲び、イースターを待ち望みましょう。

この川が流れる所では

2018-03-18 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月18日(日)主日礼拝(エゼキエル書47:9)岡田邦夫

「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」エゼキエル書47:9

子どものころ、家に風呂がないので、銭湯に行きました。正面にペンキで富士山の絵が描かれていました。東京の神田にある風呂屋が大正元年(1912年)、客の子供に喜んでもらおうと、洋画家に富士山の絵を描いてもらったのが初め。それが好評で、関東周辺に広まっていったといいます。湯船が正面ペンキ絵の下にあるのは、絵の中にある、海、川、湖の水が真下の湯船と同一空間にあり、富士山で清められた水の中に身をゆだね、体を清める、という心理をもたらすものかもしれません。

◇どこから来て
ところが、聖書の舞台というのは荒涼たる砂漠地帯です。限られた泉や川の周辺しか、緑がない世界です。水は命の水であり、人に命を与える働きをします。水が湧き出て川となり、大きな川なるというのは大いなる神の恵みであり、夢のような風景です。それが今日のエゼキエル書の黙示です。黙示は黙示録の黙示で、天の動画と言えます。ただ、聖霊により、信仰によらなければ、真相は見えない、聞こえないというものです。
エゼキエルは祭司の家系であり、バビロンに捕囚されていったユダの民の一員でした。エルサレムが陥落する前と、包囲されている間と、陥落して民が捕囚されてからと、3期にわたって、預言活動を続けていました。その捕囚となって25年目に神々しい「神殿」の幻を見たのです(40:1-2)。神殿は神の国の幻です。神殿は神の恵みの源です。47章1節にこう書きだされています。「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた」。その恵みの川、命の川は、始め、足首の深さから、ひざに達し、やがて腰、ついには大河となってとうとうと流れていきます。この預言は現実となっていきます。聖霊が弟子たちに降り、その大河は荒野である世界に流れゆくという歴史をたどってきたといえましょう。まさに大河ドラマです。
また、これは霊的な流れです。主イエス・キリストは神の国は近づいたと宣言され、大声でこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)。
私たちは四国の愛媛の教会で7年、牧会していました。水道代を払ったことがありません。井戸水だからです。西日本で一番高い石鎚山が雨水をたっぷり含み、長い年月をかけて濾過されて、ふもとに湧き出てくるので、かれることはないし、消毒しなくても使えました。上なる神殿の敷居の下から流れ出た命の水は主を信じる者の心の奥底に流れ、そこから流れ出るのだと主が言われたのです。これが聖霊の恵みなのです。

◇どこへ行くのか
 命の川はどこに流れていくのでしょうか。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる」(47:8)。海は死海のこと、アラバはその死海に至る荒れ地。死海はその名の通り、塩分が25パーセントで生き物が住めない湖。しかし、この命の水が注ぎ込むとその海の水が良くなり、あらゆる生物が生き、非常に多くの魚が住むようになるという幻です。しかも、大海のように、魚の種類も豊富となり、川の両岸は多種の果樹で覆われ、毎月、実がなり、葉も薬となり、命に満ちているのです。
この世は霊的死海です。イエス・キリストが来られ、永遠の命の流れが私たちにおよんだのです。エペソ2:1、5によれば、クリスチャンは罪過と罪の中に死んでいたが、恵みにより信仰によりキリストと共に生かされ、救われたのだと告げています。

 母教会に神学生(修養生)がミッションに来ていました。日曜の夜の伝道会で説教をされ、その中で証詞をされました。自分は校長の息子で、期待されて東大を受験したが落ちた。浪人して再挑戦したが駄目だった。ストレスで酒を飲むようになり、ひどい依存症になってしまい、入院することになった。良くなったので退院し、家路にむかった。電車に乗ろうと駅のプラットホームに立った。売店が目に入るやいなや、店頭の酒に手を出して、一気に飲んでしまった。振出しに戻ってしまった。同じことの繰り返しだった。ある日、すがるような思いで、教会に行った。女性の伝道者が迎えてくれ、福音を聞き、救われた。不思議とアルコールから解放された。その後、献身し、東京聖書学院に入学した。彼はある時、ミッションである教会に行った。訪問するように言われ、一人のおじいさんを訪ねた。貧しく、ボロ屋に住んでいたが、恵まれた顔で迎えてくれた。どうして、そんなに恵まれた顔をしているのかと聞くとこう言ったという。「水は低いところに、低いところに流れるものだよ!」。その言葉が心に染みたと証しされ、み言葉を取りつぎました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)。
 神の命の大河は低いところに、低いところに流れていくのです

 豊中泉教会で牧会をしている時に、T姉が三田市に家を建て、引っ越すことになしました。「先生、お言葉を下さい」と言われますので、祈って、このみ言葉が与えられ、三田に送り出すことになりました。「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(47:9)。定礎式には教会からは牧師と役員とバイオリニストが行き、バイオリンの奏楽で行われ、それがご近所に響き渡りました。家が建ち、家庭集会が開かれると、十数名が集まり、いよいよ教会堂が必要となりました。1998年に古い農家を買い取り、礼拝が出来、集会が出来、牧師が住めるように改装して、開拓を始めました。そのバイオリンの賛美歌を聞いていたというご近所の方が家庭集会に来られ、教会が出来てから、救われ、ご主人も救われました。後に、T姉のご主人も救われ、献身し、今は関東の教会で牧会されています。何人もの兄弟姉妹が加えられて、「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」のみ言葉のように今の教会となっています。
開拓当初の三田市の地図には教会はカトリック教会と日基の保育園が載っているだけでした。しかし、2001年の地図にはもう一つの教会と「三田泉キリスト教会」が、新たに載っていて、最新版もそうなのです。他にも教会はあるのに、農家を改装した、教会らしくない会堂ですのに、なぜなのか不思議です。この周辺には教会はここしかないのですから、この命の川の流れが流れ続けますよう、私たちは祈っています。新年度から、牧師はみのお泉教会と兼牧になります。牧師の数が足りなくなってきた、歴史の流れですが、この時こそ、神の恵みの流れを思い、祈り、主に仕えていきたいと願います。永遠の命の大河はどこから来て、どこへいくのでしょうか。「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」のみ言葉がなおも、実現していきますように…。

わたしは決してあなたを離れず

2018-03-11 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月11日(日)主日礼拝(ヘブル13:1~17)岡田邦夫


「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」ヘブル13:5―6

 先週、日本ホーリネス教団の牧師たちは召集状をいただき、年会に出席し、最後の聖別派遣式で各地の教会に任命を受け、派遣されました。牧師というのは神の召命を受け、使命をいただいて派遣されていくものです。

◇この世を離れて…二度目をめざして
 教会の原語は召し集められたものという意味で、私たちはイエス・キリストに呼ばれ、召されて、集まってきたのです。毎週の礼拝もそうなのです。初めに招きの言葉、招詞が告げられます。神の招きを受け、集められたのです。そして、礼拝が進行し、最後に祝祷、それは派遣の祈りでもあります。
 また、クリスチャンが使命を終えて、死んで天国に行くのが「召天」です。この頃、終活ということが言われており、それは確かに必要ですが、死んだ後のこと、死後への魂の備えはさらに重要です。このヘブル人への手紙はこう言っています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)。しかし、私たちの救いのために、御子は苦難を全うされ、天の聖所の大祭司となられました。そして、ただ一度、入られ、ご自身の血をもって永遠の贖いを成し遂げられました(9:17)。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(9:27-28)。

◇イエスから目を離さないで…信仰の成熟をめざして
 すでに初臨のキリストによって救われているのですが、再臨のキリストによって、救いは完成するの「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟(完成)を目ざして進もうではありませんか」と勧めます(6:1カッコは口語訳)。これが本当の終末の生き方、終活です。
 成熟(完成)を目ざすにはまず、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ことです(2:2)。
 そして、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てるのです。忍耐をもって走るのです(12:1)。この「忍耐」をある英語の聖書はパースィブィランスと訳しています。堅忍の努力というような錬り強さを意味します。それがどんなに
厳しい試練でも得るものがあるので粘り強く耐えるのです。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(12:11)。忍耐の先にあるもの、信仰者のゴールにあるものは実に輝けるものです。それに近づいているのです(12:22-24、28)。
  シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使いたちの大祝会、天に登録されている長子たちの教会、
万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
新しい契約の仲介者イエス、(キリストの注ぎだされた血※)
揺り動かされない御国     ※アベルの血よりもすぐれたことを語る
 このような永遠の都をめざし、さらに、前向きに神に喜ばれるいけにえをささげる生活を勧めます(13:16)。それは…
 兄弟愛をもて。苦しめられている人を思いやれ。不品行を避け、よい夫婦たれ。金銭を愛すな、持っているもので満足せよ。善を行い、分かち合え。異なる教えに迷わされるな。みことばを話した指導者を思い出し、また従え。キリストのはずかしめを身に負え。そして、賛美のいけにえを絶えずささげよ。

◇あなたを離れないで…御国の完成をめざして
 このように永遠の都をめざし、信仰に成熟をめざす聖徒たちを主は私たちのこのような霊的巡礼の旅の同伴者です。「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」(13:5-6)。
 中学生キャンプでスタッフの奉仕をしている時に、中野雄一郎牧師がこのみ言葉から説教されたのを忘れることが出来ません。先生はご自分の証しをされました。陸上の選手でしたが、昔のこと、16歳の時に結核を患ってしまい、入院しました。もう運動はできないと思うと自暴自棄になっていました。ある朝、ラジオをつけると、たまたま、世の光かルーテルアワーか私、忘れましたが、とにかく福音放送が流れて来ました。この聖書の言葉が少年の乾いた心に入ってきて、気が付いたら、ラジオにしがみついて聞いていたとのことです。それから、教会に行き、救われました。「自分ほど救われて喜んだ人を見たことはない。」と語っていました。そして、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』は大変強い言葉で、決して、決して、決して捨てないのだと力を込めて、キャンパーに語っていました。「決して、決して、決して…」の響きが私の心に今も残っています。

 イエス・キリストは人に捨てられ、身代わりに罪を背負ったので、神に捨てられました。「わが神、わが神。どうしてお見捨てになったのですか。」と叫ばれ、ついに息を引き取られ、墓に葬られ、ハデスにまで下りました。三日目によみがえらされました。使徒がこう証言しています。「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒2:31-32)。受難による贖いの使命を全うされた御子を父なる神は見捨てられなかったのです。ご自身が見捨て置かれなかったからこそ、決して、決して、決して、私たちをお見捨てにならないのです。
そして、その愛は永遠に変わらないのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(13:8共同訳)。


「あしあと」Footprints 
マーガレット・F・パワーズ

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

信仰によって生きる

2018-03-04 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月4日(日)主日礼拝(ヘブル11:1~12)岡田邦夫


「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

 先週、こんな夢を見ました。山の手線の日暮里駅を降りて、山の手側の道を、子どものころ、通っていた小学校に向って、歩いているのです。これはパソコンのストリートビューで見た景色そのままです。ところが途中で建物の中の廊下を歩いており、そこは大聖堂の中らしいと思い、駅に引き返そうと建物を出ると迷って辺ぴなところに出てしまって、心配になったところで目が覚めた、という夢でした。どうして、このような夢を見たのか、すぐわかりました。説教の準備のためと思い、寝床でこのヘブル11章を読んで、どう話したらよいのかと悩み、プレッシャーがかかったまま、寝てしまったからだと思われます。
 それから、私の中ではこの章から色々教えられました。大事なのは「迷わず信仰によって生きる」ということだと示されたのでした。

◇信仰を色彩にたとえると…
 まずは基本です。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(11:6a)。主イエスは、あなたの信仰があなたを直したとか、このような信仰を見たことがないとか、信仰がないのはどうしたことか等と、何よりも信仰が大事なことだと告げています。それは「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(11:6b)。その信仰とは、目に見えない、望んでいる事がらを確認し、確信することです(11:1要約)。
 クリスチャンは皆、この同じ信仰に立っています。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(エペソ4:5)。しかし、それぞれは信仰の色合いは多種多様です。「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」と言って、信仰偉人伝のように物語っていきます(11:2)。
 豊中泉教会で英会話をしていた時に、イギリスから来ていた教師が良く言っていました。イギリスには雨がよく降り、緑がきれいなので、緑にも色々な名前の緑があるのだと英語で言っていました。そういえば、シャネル口紅を開発しているフランス人が最高の「赤」を求めて日本にやってくるというドキュメントの番組を見ました。京都で江戸時代から続く染屋を訪ねます。そこでは伝統的な植物染により日本古来の鮮やかな色文化を再現することに挑戦し続けています。そこで、紅色、桃色、桜色など、名前がついた50種類の赤を見せられ、ヨーロッパにない深みのある赤に出会い、そのフランス人は感動します。それは口紅などに使われていた「紅」です。これが乾くと光線の加減でわずかに金色に光るのです。この話は続きますがここまでにします。
 信仰は一つ、本質は同じですが、ここの信仰の色合いが違います。信じる個々が違うからです。11章を見ていきましょう。
アベルの信仰から始まり、エノク、ノアと進み、アブラハムの信仰に至ります。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(11:8)。サラ、イサク、ヤコブの信仰の彩りをそえ、こう括ります。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」(11:13)。
 次に移ります。モーセの信仰は大輪のコスモスのよう、ラハブの信仰は野に咲く可憐なすみれのよう、同列に並べられています。そして、士師たち、預言者たちの信仰が描かれて行きます。この11章は旧約に生きた信仰者たちが厳しい現実のもとで、神に喜ばれる道を行き、目に見えない、望んでいる事がらを確認し、確信して、人生をかけたのです。それは一本の長い絵巻物のようです。
 ところで、私たちの信仰も色々な色合いがあるようです。何を求めて教会に来られたか、動機は色々で、真理を得たい、安心を得たい、生きがいを得たい、問題を解決したい、あるいは周囲が信仰者でその影響から、信仰を持ったので、信仰もその傾向、その色合いがあるのではないかと、私流に考えています。いずれにしても、それぞれの色合いが違うのですから、互いにその色を認め合い、「配色」の良い信仰者の群れにしていきたいものです。そして、先ほどの「紅」のように、お互いに信仰の色合いを深いものしていただき、御霊によって福音の光を輝かさせていただきたいものです。

◇信仰を競争にたとえると…
 この章の最後に、信仰者のつながりを明確に描いています。「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです」(11:39-40)。駅伝レースのように、信仰のタスキを私たちは渡され、ゴールに向かって走っていくのです。私たちはアスリートなのです。しかも、神の国あげての応援があるのです。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(12:1)。そして、これは個人戦というよりは団体戦です。
 この度の冬季オリンピックで話題になったものに、スピード・スケートでパショート(追い抜き)というのがありました。3人一組でスピードを競い合うものです。ところがアイススケートはアスリートだと自動車並みの時速40~50キロぐらいのスピードが出るので、風圧がものすごく、走るのに力がいります。しかし、その後ろにつくと風圧が無くなって、勝戦は日本とオランダでした。オランダ・チームは個々では早い選手3人をそろえてきましたが、日本チームは個の特性を生かしつつ、チームで走る練習を重ねてきたそうです。結果は日本が金メダルでした。個では負けていても、チームでやれば、個が個以上の力を発揮して勝ったというのを私たちは目撃しました。

 信仰の競争もパシュートのように団体戦で、チームワークが勝利の秘訣です。信仰は見えませんから、誰が先で誰が後かというようなことはわかりませんから、とにかく、励まし合っていくことです。向かい風をも受けましょうという気概、遅れていると思われる人への気遣いを持ちたいものです。
 何といっても先頭はイエス・キリストです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい(「見つめながら」共同訳)。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(12:2)。あの「十字架のはずかしめ」の向かい風を全部受けられたのです。
後に続くペテロのために風よけになられたのです。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22:32)。その後、使徒たちは無学な普通の人達ですが、イエスから目を離さないで、チームで走りました。ですから、周囲からこう見られたのです。「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」(使徒4:13)。
 私たちもその後に続き、信仰の競争(馳場・はせば)を走っていきましょう。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(12:2)。
楽に走れるというものです。それで、三人縦に並んで滑り、上手く先頭を後退して走るわけです。そして、最後にゴールした選手のタイムが早い方が勝ちです。この度、女子の決