2018年5月6日(日)主日礼拝(イザヤ書11:1~9)岡田邦夫
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」(イザヤ11:1口語訳)
日本列島に雨が降ると水は両側に流れて海に流れていきます。その上流の分かれるところを分水嶺と言います。隣保の人から聞いたのですが、兵庫県は丹波に分水嶺(水別れ)があり、日本海へは由良川が流れてゆき、瀬戸内海には加古川が流れてゆくのだと。しかも、日本で一番低い分水嶺で海抜100メートルもない低い分水嶺です。それで、江戸時代、瀬戸内海から日本海へ物資を輸送するのに、その二つの川を使いました。ただ加古川と由良川はつながっていないので、その間は厳しい峠はないので陸路で運び、また、船で運ぶことが出来たというわけです。川はつながってはいなかったのですが、運送路としてはつながっていたのです。
今日は「つながってはいないけれど、つながっている」という話を致します。
◇エッサイの株から一つの芽がでる
イスラエルは小さな国、それなのに南北に分裂し、北からやってきたアッシリヤ帝国に北イスラエル王国は滅ぼされてしまう。南ユダ国王国も次に現れるバビロン帝国に倒されようとしている絶望的状況です。それは斧で木を切り落とされるようなすような光景です。斧を振るっているのは人間ではなく、主なる神だとイザヤは告げます。しかし、神の民という木は無くなってしまわない。切り株が残り、「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」と希望の預言が告げられます(11:1)。ダビデ王朝は永遠不滅だと神が約束していたのに、民の側が裏切り、神に背き、自分勝手な道に進んでいったので、神は斧を振るわれるわけのです。
では、なぜ「ダビデの株」と言わずに、ダビデの父親の「エッサイの株」というのでしょうか。ダビデ王家は断ち切られてしまうが、子孫から、別の王、すなわち、救い主という若枝が生えて実を結ぶのだと約束します。エッサイはベツレヘムの羊飼いでしかすぎず、「エッサイの子」といえば軽蔑の意味でした。事実、救い主はそういう普通の人の過ぎない者として生まれて来られたのです。しかし、「知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊がとどまった」王でした。神の国の王です。
そのような意味で「つながってはいないけれど、つながっている」ということです。旧約と新約の関係もそうです。つながってはいないけれど、つながっている。新約聖書の冒頭の「系図」がそれをよく示しています。また、私たちは選ばれたイスラエル人とつながってはいませんが、イエス・キリストにより、信仰により、新しい霊的イスラエル人として、つながっています。そして、そのつながりは真に永久不滅なのです。
◇エッサイの根が立って旗となる
イエス・キリストはロバの子に乗って、平和の王として、がエルサレムに入場されました。キリスト来臨による王国の平和は霊的平和です。そして再臨の時にもたらされるのは正義と公平をもってさばかれた「絶対平和」です。その平和の光景を詩的に表現すれば、こうです。「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」(11:6-9)。
おおかみと小羊は襲うものと襲われるもの、共生のつながりはない、しかし、キリストの王国では平和のつながりがあるのです。主が再臨される時、敵対するものはなくなるのです。まず、霊的には始まっています。「キリストにあって一つ」。
その王国を強く一つにつなげるシンボルが旗です。「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。」(11:10)エッサイの根は救い主であり、目立たず、みすぼらしい感があります。私たちを救うところの十字架の受難につながります。それがもろもろの民の旗となるのです。仰ぎ、慕い、集まってくるのです。世界はバラバラです。混乱し、まとまらず、身勝手に歩み、絶対平和はとおいのです。しかし、再臨の「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる。」(11:11-12)分裂のための旗振りではない、福音による統一のはたふりです。戦争のための旗振りではなく、和平のための旗振りを主イエス・キリストがされるのです。
五千円札で知られていますクリスチャンだった新渡戸稲造氏の心温まるエピソードをお話しします。彼が国際連盟の事務次長をしていた時のことです。第一次世界大戦末期、ロシアから独立したフィンランドとスウェーデンの間にある「オーランド諸島」の帰属問題で紛争状態にありました。歴史的経緯においてはフィンランドだったのですが、経済的、文化的な面から見るとスウェーデンが有利とされていて、複雑で解決しようもない状態です。彼は両者の意見をよく聞き、絶妙な解決策を提示します。それが「新渡戸裁定」と言われるものです。内容は「オーランド諸島はフィンランドが統治し、言葉や文化はスウェーデン式のまま。そして、フィンランドの軍隊は置かない非武装地帯とし、自治権はオーランドにある。」見事な和平工作の旗振りを成し遂げたのです。彼が東洋人クリスチャンだから出来たのだと言われています。
キリスト再臨の日、全世界はキリストの御旗のもとに集められ、キリストにある絶対平和がもたらされるのです。その日に向って、私たちはまず、身近なところに和解の福音を携えて、キリストの御旗に導かれて行きたいと思います。しっかりとキリストにつながっていきましょう。主が平和の実を結ばせてくださると信じて…。
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」(イザヤ11:1口語訳)
日本列島に雨が降ると水は両側に流れて海に流れていきます。その上流の分かれるところを分水嶺と言います。隣保の人から聞いたのですが、兵庫県は丹波に分水嶺(水別れ)があり、日本海へは由良川が流れてゆき、瀬戸内海には加古川が流れてゆくのだと。しかも、日本で一番低い分水嶺で海抜100メートルもない低い分水嶺です。それで、江戸時代、瀬戸内海から日本海へ物資を輸送するのに、その二つの川を使いました。ただ加古川と由良川はつながっていないので、その間は厳しい峠はないので陸路で運び、また、船で運ぶことが出来たというわけです。川はつながってはいなかったのですが、運送路としてはつながっていたのです。
今日は「つながってはいないけれど、つながっている」という話を致します。
◇エッサイの株から一つの芽がでる
イスラエルは小さな国、それなのに南北に分裂し、北からやってきたアッシリヤ帝国に北イスラエル王国は滅ぼされてしまう。南ユダ国王国も次に現れるバビロン帝国に倒されようとしている絶望的状況です。それは斧で木を切り落とされるようなすような光景です。斧を振るっているのは人間ではなく、主なる神だとイザヤは告げます。しかし、神の民という木は無くなってしまわない。切り株が残り、「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」と希望の預言が告げられます(11:1)。ダビデ王朝は永遠不滅だと神が約束していたのに、民の側が裏切り、神に背き、自分勝手な道に進んでいったので、神は斧を振るわれるわけのです。
では、なぜ「ダビデの株」と言わずに、ダビデの父親の「エッサイの株」というのでしょうか。ダビデ王家は断ち切られてしまうが、子孫から、別の王、すなわち、救い主という若枝が生えて実を結ぶのだと約束します。エッサイはベツレヘムの羊飼いでしかすぎず、「エッサイの子」といえば軽蔑の意味でした。事実、救い主はそういう普通の人の過ぎない者として生まれて来られたのです。しかし、「知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊がとどまった」王でした。神の国の王です。
そのような意味で「つながってはいないけれど、つながっている」ということです。旧約と新約の関係もそうです。つながってはいないけれど、つながっている。新約聖書の冒頭の「系図」がそれをよく示しています。また、私たちは選ばれたイスラエル人とつながってはいませんが、イエス・キリストにより、信仰により、新しい霊的イスラエル人として、つながっています。そして、そのつながりは真に永久不滅なのです。
◇エッサイの根が立って旗となる
イエス・キリストはロバの子に乗って、平和の王として、がエルサレムに入場されました。キリスト来臨による王国の平和は霊的平和です。そして再臨の時にもたらされるのは正義と公平をもってさばかれた「絶対平和」です。その平和の光景を詩的に表現すれば、こうです。「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」(11:6-9)。
おおかみと小羊は襲うものと襲われるもの、共生のつながりはない、しかし、キリストの王国では平和のつながりがあるのです。主が再臨される時、敵対するものはなくなるのです。まず、霊的には始まっています。「キリストにあって一つ」。
その王国を強く一つにつなげるシンボルが旗です。「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。」(11:10)エッサイの根は救い主であり、目立たず、みすぼらしい感があります。私たちを救うところの十字架の受難につながります。それがもろもろの民の旗となるのです。仰ぎ、慕い、集まってくるのです。世界はバラバラです。混乱し、まとまらず、身勝手に歩み、絶対平和はとおいのです。しかし、再臨の「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる。」(11:11-12)分裂のための旗振りではない、福音による統一のはたふりです。戦争のための旗振りではなく、和平のための旗振りを主イエス・キリストがされるのです。
五千円札で知られていますクリスチャンだった新渡戸稲造氏の心温まるエピソードをお話しします。彼が国際連盟の事務次長をしていた時のことです。第一次世界大戦末期、ロシアから独立したフィンランドとスウェーデンの間にある「オーランド諸島」の帰属問題で紛争状態にありました。歴史的経緯においてはフィンランドだったのですが、経済的、文化的な面から見るとスウェーデンが有利とされていて、複雑で解決しようもない状態です。彼は両者の意見をよく聞き、絶妙な解決策を提示します。それが「新渡戸裁定」と言われるものです。内容は「オーランド諸島はフィンランドが統治し、言葉や文化はスウェーデン式のまま。そして、フィンランドの軍隊は置かない非武装地帯とし、自治権はオーランドにある。」見事な和平工作の旗振りを成し遂げたのです。彼が東洋人クリスチャンだから出来たのだと言われています。
キリスト再臨の日、全世界はキリストの御旗のもとに集められ、キリストにある絶対平和がもたらされるのです。その日に向って、私たちはまず、身近なところに和解の福音を携えて、キリストの御旗に導かれて行きたいと思います。しっかりとキリストにつながっていきましょう。主が平和の実を結ばせてくださると信じて…。