2014年1月26日 伝道礼拝(ヨハネ福音書12:24-25)岡田邦夫
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」ヨハネ福音書12:24-25
今、皆さんにお話ししようとしているのですが、この原稿が出来るまでには、何をどう話そうかと考える悶々とした日々が過ぎ、文章を整理して、ここに立っているのです。CSの先生もその苦労をされているのです。そして、聞かれる側でも、聞きながら、自分の中で整理して聞くわけです。
整理といえば、年末の大掃除の時期に、家の掃除や整理のテレビ番組がくまれます。そこで登場するのが、スーパー主婦です。NHK「朝イチ」にでてくるのが山崎美津江さん。彼女はクリスチャンであることが「百万人の福音」12月号に記されていました。整理というと、たいていはキッチンならそこでしまってある物を全部床に出して、今使う物、時々使う物、たまに使う物、使わない物と分類して、用途別に使い勝手の良いように収納していくというものです。しかし、彼女はキリスト教精神に基づく愛と協力をモットーに羽仁もと子さんが立ち上げた「友の会」の教え、「すべてのものに置き場所を決めよう」に従っていると講演会で話されています。
彼女が学生時代にドストエフスキー著「カラマーゾフの兄弟」を読みました。そのなかに「一粒の麦」という表現があり、その意味がよくわからないまま時が流れました。結婚して、育児に悩んでいた時に、近所の主婦と出会い、羽仁もと子案家計簿に興味を持ち、「友の会」に入会しました。羽仁もと子著作集には至る所に聖書のことばが出てきます。聖書をもらいました。求める心もあったので、教会に誘われたので行きました。説教によって、十数年理解できなかった「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」の意味が分かりました。クリスチャンになり、1985年に洗礼を受けました。
◇ことばの尺度
羽仁もと子さんは自由学園の創立者であり、その教育の基本は「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」であり、特に「たましい」の教育が必要であるとその著作集に記されています。この言葉は墓標にも刻まれています。今も必要なことだと思います。
さて、物の整理は心の整理、人生の整理につなげていく必要があります。雑然とした人生、ただただ周りに流された人生でよいのでしょうか。整理をするには尺度がいります。この尺度というのは、もともとは手を広げて人差し指と親指の長さを尺としていました。その形が漢字の「尺」。それが時代と共に長くなってきて、30センチ位になって、明治になって33分の10メートルが曲尺(かねじやく)として公式のものとなりました。建築などでは曲尺は使っていましたが、反物などは少し長い鯨尺を使っていました。使う物によって尺度があったのです。
人生の整理にあたっても、何を尺度にするかです。世間体でしょうか、周りの評価でしょうか、自分の願望でしょうか…。羽仁もと子さんのいうように、その尺度は何なのか、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」さぐり、聖書を尺度とするなら、きっと間違いはないでしょう。聖書は正典(基準、物さしの意味)だからです。山崎さんが出会った「一粒の麦」の聖書も人の生き方をはかる尺度です。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」。
◇いのちの尺度
自然界も整理していく営みがあります。広葉樹は冬には葉を落とし、寒い冬に備えて、自らを整理します。春には芽を出し、葉を茂られせ、花を咲かせ、実をならします。実は鳥などに食べてもらうなどして、自分から切り離し、どこかで種が落ちて、芽を出させるというものです。落ち葉は無駄にならず、腐葉土となり、自らの栄養となります。整理して、捨てることが無駄ではなく、かえって、命を豊かにするのです。
一粒の麦も何もしなければそのままです。しかし、地に落ちて、死ねば、そこから芽が出て、豊かな実りとなります。一粒の麦はイエス・キリストです。十字架にかけられ、ただ死んだのではないのです。私たちの罪を処理するために死なれたのです。十字架にかけられたゴルゴダ(骸骨)と呼ばれるの丘はエルサレムの外にある処刑場で、罪人の処理場でした。ユダヤの社会では憎しみと呪いをもって死刑囚として処理し、捨てたのです。
しかし、神のみ思いは反対でした。私たち人類を愛する愛をもって、神の御子を犠牲にしたのです。抹殺するためではなく、生かすためにです。神にとって、人間がゴミではなく、人間の罪とががゴミなのです。極めて有害な罪というゴミを処分しなければ、人は救われない。イエス・キリストはその私たちの滅びに至らせる罪をすべてを身にまとって、ゴルゴダの丘で自らと共に焼き尽くされたのです。そして、イエス・キリストは死んで終わったのではない。栄光の体に復活されたので、私たちはこの方を信じるだけで、罪が赦され、もう処分されることのない永遠の命をいただける道が開かれたのです。信じる者たちこそ、豊かな実なのです。私たちに与えられたのは永遠の命の実なのです。
ですから、私たちはこの与えられた神の恵み、神の愛を尺度に人生を整理するのです。十字架と復活の恵み、聖霊の恵みを最も大事にして、それを心の中心に置き、わがまま勝手な部分を悔い改めて、処分するのです。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」という逆説に生きるのです。一粒の麦となって、私のために自己犠牲を惜しまなかった、愛にあふれたイエス・キリストを尺度にして、神に仕え、人に仕える生き方を選ぶのです。ただ捨てるのではないのです。与えられた恵みを生かすのです。「神の恵みの良い管理者として」生活するのです(1ペテロ4:10)。
きょうは一粒の麦という尺度で、人生の整理、霊的な整理を神にしていただきましょう。毎週、礼拝にきて、活かすための整理をしてまいりましょう。そして、天国に召される時は、すっかり整理され、天国の居場所を確保したスーパー・クリスチャンとなっていたいものです。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」ヨハネ福音書12:24-25
今、皆さんにお話ししようとしているのですが、この原稿が出来るまでには、何をどう話そうかと考える悶々とした日々が過ぎ、文章を整理して、ここに立っているのです。CSの先生もその苦労をされているのです。そして、聞かれる側でも、聞きながら、自分の中で整理して聞くわけです。
整理といえば、年末の大掃除の時期に、家の掃除や整理のテレビ番組がくまれます。そこで登場するのが、スーパー主婦です。NHK「朝イチ」にでてくるのが山崎美津江さん。彼女はクリスチャンであることが「百万人の福音」12月号に記されていました。整理というと、たいていはキッチンならそこでしまってある物を全部床に出して、今使う物、時々使う物、たまに使う物、使わない物と分類して、用途別に使い勝手の良いように収納していくというものです。しかし、彼女はキリスト教精神に基づく愛と協力をモットーに羽仁もと子さんが立ち上げた「友の会」の教え、「すべてのものに置き場所を決めよう」に従っていると講演会で話されています。
彼女が学生時代にドストエフスキー著「カラマーゾフの兄弟」を読みました。そのなかに「一粒の麦」という表現があり、その意味がよくわからないまま時が流れました。結婚して、育児に悩んでいた時に、近所の主婦と出会い、羽仁もと子案家計簿に興味を持ち、「友の会」に入会しました。羽仁もと子著作集には至る所に聖書のことばが出てきます。聖書をもらいました。求める心もあったので、教会に誘われたので行きました。説教によって、十数年理解できなかった「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」の意味が分かりました。クリスチャンになり、1985年に洗礼を受けました。
◇ことばの尺度
羽仁もと子さんは自由学園の創立者であり、その教育の基本は「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」であり、特に「たましい」の教育が必要であるとその著作集に記されています。この言葉は墓標にも刻まれています。今も必要なことだと思います。
さて、物の整理は心の整理、人生の整理につなげていく必要があります。雑然とした人生、ただただ周りに流された人生でよいのでしょうか。整理をするには尺度がいります。この尺度というのは、もともとは手を広げて人差し指と親指の長さを尺としていました。その形が漢字の「尺」。それが時代と共に長くなってきて、30センチ位になって、明治になって33分の10メートルが曲尺(かねじやく)として公式のものとなりました。建築などでは曲尺は使っていましたが、反物などは少し長い鯨尺を使っていました。使う物によって尺度があったのです。
人生の整理にあたっても、何を尺度にするかです。世間体でしょうか、周りの評価でしょうか、自分の願望でしょうか…。羽仁もと子さんのいうように、その尺度は何なのか、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」さぐり、聖書を尺度とするなら、きっと間違いはないでしょう。聖書は正典(基準、物さしの意味)だからです。山崎さんが出会った「一粒の麦」の聖書も人の生き方をはかる尺度です。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」。
◇いのちの尺度
自然界も整理していく営みがあります。広葉樹は冬には葉を落とし、寒い冬に備えて、自らを整理します。春には芽を出し、葉を茂られせ、花を咲かせ、実をならします。実は鳥などに食べてもらうなどして、自分から切り離し、どこかで種が落ちて、芽を出させるというものです。落ち葉は無駄にならず、腐葉土となり、自らの栄養となります。整理して、捨てることが無駄ではなく、かえって、命を豊かにするのです。
一粒の麦も何もしなければそのままです。しかし、地に落ちて、死ねば、そこから芽が出て、豊かな実りとなります。一粒の麦はイエス・キリストです。十字架にかけられ、ただ死んだのではないのです。私たちの罪を処理するために死なれたのです。十字架にかけられたゴルゴダ(骸骨)と呼ばれるの丘はエルサレムの外にある処刑場で、罪人の処理場でした。ユダヤの社会では憎しみと呪いをもって死刑囚として処理し、捨てたのです。
しかし、神のみ思いは反対でした。私たち人類を愛する愛をもって、神の御子を犠牲にしたのです。抹殺するためではなく、生かすためにです。神にとって、人間がゴミではなく、人間の罪とががゴミなのです。極めて有害な罪というゴミを処分しなければ、人は救われない。イエス・キリストはその私たちの滅びに至らせる罪をすべてを身にまとって、ゴルゴダの丘で自らと共に焼き尽くされたのです。そして、イエス・キリストは死んで終わったのではない。栄光の体に復活されたので、私たちはこの方を信じるだけで、罪が赦され、もう処分されることのない永遠の命をいただける道が開かれたのです。信じる者たちこそ、豊かな実なのです。私たちに与えられたのは永遠の命の実なのです。
ですから、私たちはこの与えられた神の恵み、神の愛を尺度に人生を整理するのです。十字架と復活の恵み、聖霊の恵みを最も大事にして、それを心の中心に置き、わがまま勝手な部分を悔い改めて、処分するのです。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」という逆説に生きるのです。一粒の麦となって、私のために自己犠牲を惜しまなかった、愛にあふれたイエス・キリストを尺度にして、神に仕え、人に仕える生き方を選ぶのです。ただ捨てるのではないのです。与えられた恵みを生かすのです。「神の恵みの良い管理者として」生活するのです(1ペテロ4:10)。
きょうは一粒の麦という尺度で、人生の整理、霊的な整理を神にしていただきましょう。毎週、礼拝にきて、活かすための整理をしてまいりましょう。そして、天国に召される時は、すっかり整理され、天国の居場所を確保したスーパー・クリスチャンとなっていたいものです。