オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

一粒の麦の逆説

2014-01-26 00:00:00 | 礼拝説教
2014年1月26日 伝道礼拝(ヨハネ福音書12:24-25)岡田邦夫


 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」ヨハネ福音書12:24-25

 今、皆さんにお話ししようとしているのですが、この原稿が出来るまでには、何をどう話そうかと考える悶々とした日々が過ぎ、文章を整理して、ここに立っているのです。CSの先生もその苦労をされているのです。そして、聞かれる側でも、聞きながら、自分の中で整理して聞くわけです。
 整理といえば、年末の大掃除の時期に、家の掃除や整理のテレビ番組がくまれます。そこで登場するのが、スーパー主婦です。NHK「朝イチ」にでてくるのが山崎美津江さん。彼女はクリスチャンであることが「百万人の福音」12月号に記されていました。整理というと、たいていはキッチンならそこでしまってある物を全部床に出して、今使う物、時々使う物、たまに使う物、使わない物と分類して、用途別に使い勝手の良いように収納していくというものです。しかし、彼女はキリスト教精神に基づく愛と協力をモットーに羽仁もと子さんが立ち上げた「友の会」の教え、「すべてのものに置き場所を決めよう」に従っていると講演会で話されています。
 彼女が学生時代にドストエフスキー著「カラマーゾフの兄弟」を読みました。そのなかに「一粒の麦」という表現があり、その意味がよくわからないまま時が流れました。結婚して、育児に悩んでいた時に、近所の主婦と出会い、羽仁もと子案家計簿に興味を持ち、「友の会」に入会しました。羽仁もと子著作集には至る所に聖書のことばが出てきます。聖書をもらいました。求める心もあったので、教会に誘われたので行きました。説教によって、十数年理解できなかった「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」の意味が分かりました。クリスチャンになり、1985年に洗礼を受けました。

◇ことばの尺度
 羽仁もと子さんは自由学園の創立者であり、その教育の基本は「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」であり、特に「たましい」の教育が必要であるとその著作集に記されています。この言葉は墓標にも刻まれています。今も必要なことだと思います。
 さて、物の整理は心の整理、人生の整理につなげていく必要があります。雑然とした人生、ただただ周りに流された人生でよいのでしょうか。整理をするには尺度がいります。この尺度というのは、もともとは手を広げて人差し指と親指の長さを尺としていました。その形が漢字の「尺」。それが時代と共に長くなってきて、30センチ位になって、明治になって33分の10メートルが曲尺(かねじやく)として公式のものとなりました。建築などでは曲尺は使っていましたが、反物などは少し長い鯨尺を使っていました。使う物によって尺度があったのです。
 人生の整理にあたっても、何を尺度にするかです。世間体でしょうか、周りの評価でしょうか、自分の願望でしょうか…。羽仁もと子さんのいうように、その尺度は何なのか、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」さぐり、聖書を尺度とするなら、きっと間違いはないでしょう。聖書は正典(基準、物さしの意味)だからです。山崎さんが出会った「一粒の麦」の聖書も人の生き方をはかる尺度です。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」。

◇いのちの尺度
 自然界も整理していく営みがあります。広葉樹は冬には葉を落とし、寒い冬に備えて、自らを整理します。春には芽を出し、葉を茂られせ、花を咲かせ、実をならします。実は鳥などに食べてもらうなどして、自分から切り離し、どこかで種が落ちて、芽を出させるというものです。落ち葉は無駄にならず、腐葉土となり、自らの栄養となります。整理して、捨てることが無駄ではなく、かえって、命を豊かにするのです。
 一粒の麦も何もしなければそのままです。しかし、地に落ちて、死ねば、そこから芽が出て、豊かな実りとなります。一粒の麦はイエス・キリストです。十字架にかけられ、ただ死んだのではないのです。私たちの罪を処理するために死なれたのです。十字架にかけられたゴルゴダ(骸骨)と呼ばれるの丘はエルサレムの外にある処刑場で、罪人の処理場でした。ユダヤの社会では憎しみと呪いをもって死刑囚として処理し、捨てたのです。
 しかし、神のみ思いは反対でした。私たち人類を愛する愛をもって、神の御子を犠牲にしたのです。抹殺するためではなく、生かすためにです。神にとって、人間がゴミではなく、人間の罪とががゴミなのです。極めて有害な罪というゴミを処分しなければ、人は救われない。イエス・キリストはその私たちの滅びに至らせる罪をすべてを身にまとって、ゴルゴダの丘で自らと共に焼き尽くされたのです。そして、イエス・キリストは死んで終わったのではない。栄光の体に復活されたので、私たちはこの方を信じるだけで、罪が赦され、もう処分されることのない永遠の命をいただける道が開かれたのです。信じる者たちこそ、豊かな実なのです。私たちに与えられたのは永遠の命の実なのです。
 ですから、私たちはこの与えられた神の恵み、神の愛を尺度に人生を整理するのです。十字架と復活の恵み、聖霊の恵みを最も大事にして、それを心の中心に置き、わがまま勝手な部分を悔い改めて、処分するのです。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」という逆説に生きるのです。一粒の麦となって、私のために自己犠牲を惜しまなかった、愛にあふれたイエス・キリストを尺度にして、神に仕え、人に仕える生き方を選ぶのです。ただ捨てるのではないのです。与えられた恵みを生かすのです。「神の恵みの良い管理者として」生活するのです(1ペテロ4:10)。

 きょうは一粒の麦という尺度で、人生の整理、霊的な整理を神にしていただきましょう。毎週、礼拝にきて、活かすための整理をしてまいりましょう。そして、天国に召される時は、すっかり整理され、天国の居場所を確保したスーパー・クリスチャンとなっていたいものです。


み国が来ますように

2014-01-19 00:00:00 | 礼拝説教
2014年1月19日 主日礼拝(マタイ福音書6:9-13)岡田邦夫



 私、小学6年の時に一家が引っ越しました。けれど、2学期だったので、引っ越した家から、電車で通いました。京成電車のお花茶屋駅から日(につ)暮(ぽ)里(り)駅に行く電車に乗りましたが、町屋~千住大橋辺りの車窓から、千住火力発電所の煙突を見たものでした。その4本が菱形に並んでいるため、電車が進んでいくと、重なって、3本や2本に見えたり、太い1本の煙突に見えたりし、オバケエントツと呼ばれるものでした(千住のシンボル)。1955年(昭和30年)のことでしたから、戦争で焼け野原になって、まだ復興10年、車窓から見える町並みはきれいとは言えない風景でした。私は過去を振り返る時、自分はその時、どう感じていたのか、その「感性」を取り戻したいと時折、思うのです。特に、思春期の感性、「世の中は濁流のように流れている。私という舟はそれに流されないように生きたい」という素朴な感性です。

◇どうして?考察
 主イエス・キリストは「天の父よ。…み国が来ますように」と教えられました。この世の「国」の繁栄ではなく、「み国」の到来を祈るようにと言われたのです。国というのは領土と支配で成り立ちます。この国は何に支配されているのか、聖書の知者のように賢く、あるいは預言者のように鋭く見つめる目が必要です。蛇のようにさとく、鳩のように素直な感性で、社会を感じ取るのです。時代の風潮に惑わされず、右にも左にもそれないよう、注意が必要です。
 具体的には聖書の歴史や物語を身につけていくのです。聖書の思想や考え方を身につけていくのです。教会学校や礼拝に出席し、奉仕をしたり、聖書日課を読み祈っていると、そういう教会的歴史観や価値観が身についていきます。わが国で、あるいは諸外国で、あるいは、身近な社会で「どうして?」このようなことが起きるのか、いったい、何が支配してるのか、御前に問うのです。主は知者、預言者の感性を与え、国を見る目、時代を見る目を与えてくれることと思います。ユダヤ人がバビロンに囚われの憂き目にあった時、ダニエルは預言者の感性が与えられ、四つの獣の幻が示されました。バビロン、メド・ペルシャ、ギリシャ、ローマと支配者は代わっていき、最後には人の子(キリスト)が支配する神の国となるという遠大なものでした。
 主イエスが公生涯に入る時に、悪魔に誘惑されました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これ(すべての国々とその栄華)を全部あなたに差し上げましょう」。しかし、イエスは「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」と言われ、サタンの支配を退けました。
 あなたはどこに立って、見ていますか?お化け煙突は横から見れば、色々の本数に見えます。しかし、預言者のような位置から見れば、四本全部が見えるのです。

◇どうして!…祈祷
 キリスト者は無責任な批評家の位置に立ってはいないのです。どこに立っているのでしょうか?祭司の位置です。国を憂い、国のために祈る、取りなしの祈りをする祭壇の位置です。どうして、国と国がいがみ合い、人と人がいがみ合うのか、どうして!神よ、人は争いが絶えず、罪に罪を重ねるのか、涙し、祈る、万人が祭司になるのです。「キリストの平和が私たちの心の隅々にまでおよびますように」と心を合わせて祈るのです。世界の国々が、近所や家庭が平和であるようにと祈るのです。
 しかし、このままでは、絶対平和は来そうにない。だから、将来、近い将来「み国が来ますうように」と祈るしかないのです。
 これは人類の罪の歴史は破局に向かっているけれど、キリストの再臨によって神による世界の救いが行われることを信じて祈る、希望の祈りなのです。何億というキリスト者の未来に向けての祈りなのです。人類救済という大目的のための祈りなのです。主が教えてくださった「主の祈り」ですが、何よりも、主イエス・キリストが祈っておられるが「主の祈り」です。全キリスト者は世界の絶対平和の来るのを信じて祈るのであります。主を中心とした同志の祈りです。「ああ、父よ、み国が来ますように」と祈りましょう。
 同時に歴史の終わりにやってくる新天新地の御国の先取りとして、私の中に、家庭の中に、個々の教会の中に、国の中に、扮装にあけくれる国々の中に、キリストの神の平和の支配がありますようにという思いで、「ああ、父よ、み国が来ますように」と平和の使者として祈りましょう。

み名があがめられますように

2014-01-12 00:00:00 | 礼拝説教
2014年1月12日 主日礼拝(マタイ福音書6:9-13)岡田邦夫


 「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』」マタイ福音書6:9

 前回、「イエス・キリストが天の父よと祈っておられる祈りにあわせ、聖霊によって、幼心で開かれた、身近な天に向かって『天にいます私たちの父よ。』と祈りましょう。」と話しました。祈りは神に与えられた最大の賜物です。天の父よと呼ぶ者に天が開かれてくるのです。

◇現れない神
 しかし、主イエス・キリストは山の上の教えで、開かれない祈りがあると指摘します。「祈るときには偽善者たちのようであってはいけません」と(マタイ6:5)。私たちは誤った祈りを警戒する必要があります。
 環状線のような祈りになっていないでしょうか?神が逃れ場ならよいのですが、祈ることが逃れ場になっていないでしょうか?自己満足に陥り、自己陶酔してぐるぐる廻っていないでしょうか?罪を示されたり、恵みが現されたり、あるいは、行動を示されたり、使命が与えられたりと伸展、成長があるでしょうか?
宣伝カーのようなお願いばかりの祈りになっていないでしょうか?そういう自己中心の祈りになっていませんか?神に願うことは間違ってはいないですし、大いに願っていいのですが、神に要求ばかりして、自分が主人で、神を奴隷にしていないでしょうか?自らが僕(しのべ)となって祈っているでしょうか?
 パフォーマンスの祈り、人に見せる祈りという偽善の祈りになっていませんか?幼子のように素直な祈りをしていますか?祈りの中で、無意識に、神にではなく、人に要求する祈りになってはいませんか?祈りをもって、あてつけたり、お説教をしてはいないでしょうか?
しかし、「主の祈り」はこのような自己循環の祈り、主客転倒の祈り、方向音痴の祈りを聖別してくれるのです。「天の父よ、御名があがめられますように」と祈り始めたとたんに、閉ざされた門が開かれて、父なる神が現れるのです。

 また、祈れない時に祈らせてくれるのも、主の祈りです。試練のルツボの中で、つらくて、神に祈れない時、ゆっくり、主の祈りを祈ってみましょう。くりかえしてみましょう。虚無のサバクの中で、心にぽっかり穴があいた時、天を仰いで、主の祈りを祈りましょう。幼子が父を呼ぶように「アバ父」と呼んでみましょう。混沌のカスミの中で、もやがかかったような時、一言一句ていねいに主の祈りを祈りましょう。終わりの日を思って祈りましょう。

 主イエスは「アバ、父よ。…この杯をわたしから取りのけてください」とゲッセマネにて祈られました。主イエスは「父よ。彼らをお赦しください」と十字架上でとりなされました。主イエスは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と十字架上であがないを成し遂げられました。主イエスが息を引き取った時、神殿の至聖所の幕が真二つに裂け、天の門は開かれたのです。主イエスによって、祈りの門は開かれたのです。「アバ、父よ」と祈れるための大きな犠牲が払われたのです。「天の父よ、御名があがめられますように」と祈り始めたとたんに、閉ざされた門が開かれて、父なる神が現れるのです。

◇現れる神
 たとえば、バチカンにおいて、ローマ法王がベランダから、現れて、祝福するなら、カトリックの信者であれば、何とも言えない感動を覚えるでしょう。私たちはプロテスタントですからそれはないのですが、それ以上に天の父が天のバルコニーからみ顔を現してくださるのですから、霊的な感動を覚えることでしょう。そして、主の「み名があがめられますように」とたたえるでしょう。
 「み名があがめられますように」は直訳すると「あなたの名が聖とされますように」(Hallowed be Thy name)です。神の名は聖なる名です。造られた世界のどこを探してもないない聖なる名です。昔、イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時に、そこから、救い出そうと、神が名乗り出ました。モーセに告げました。「わたしはある」という者だと(出エジプト3:14)。今風に言えば、義においても、力においても、愛においても、圧倒的に超越している実在者、それを示すお名前と言えましょう。
 ところが、人の世では偽りの神の名が横行しています。人間の欲望や理想を神とする偶像の名です。その自己中心の罪を悔改め、真の神を神とする=み名を聖とする、神中心の信仰に転換するのです。自己の名中心から、神の名中心へのコペルニクス的転換です。これを聖化といいます。「天の父よ、御名があがめられますように」と祈る時に、聖霊が働くと、私たちは聖化されるのです。

 私たちは徹底的に罪深く、聖のひとかけらもない者です。イエス・キリストが十字架にかかり、その罪をあがない、きよめていただなければ救われないのです。イエスにとっては十字架は苦難の絶頂であり、ゲッセマネではこの苦い杯を取り除いてくださいと祈るほどでした。しかし、父なる神の御心のままにと決断し、祈りました。ヨハネ福音書では「父よ、み名があがめられますように」と祈られたと記されています(ヨハネ12:28口語訳)。十字架において徹底的にイエスの名はのろわれたが、十字架は最大に父の名があがめられる出来事でした。イエス・キリストは栄光を現したのです。
十字架の贖いを信じる者は罪からきよめられ、言い換えれば、神の聖によって私たちも聖なるもの、「聖徒」とされるのです。イエス・キリスト名は「インマヌエル」(神われらと共にいます)となってくださったのです。御名を汚す、神への敵対者だったのに、神の愛によって味方になってくださったのです(ローマ8:31)。私たちを罪におとしめたサタンはやがての日に獣の名を刻印され、完全に敗北します(黙示録13:17)。私たちは父と小羊(イエス)の名を額に記された聖徒として、永遠の勝利者となるのです(黙示録14:1、22:4)。
 私たちはイエス・キリストに購われ、父と小羊の名を額に記された聖徒として、「天の父よ、御名があがめられますように」、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」と祈りましょう。

天にいます私たちの父よ

2014-01-05 00:00:00 | 礼拝説教

 「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」マタイ福音書6:9

 長男が3歳のころ、急に40度近い高熱を出しました。医者に行かなければと思ったのですが、土曜の夜、礼拝の前の大事な時間、また、同居している牧師夫妻は体の弱い。医者に行くには音を立てて起こしてしまう。そう気遣っていると、その熱のためにうわごとを言い始めました。「お父さん、どこにいるの」。私はだっこして、「ここにいるよ」と言うのですが、うつろな目で、お父さん、どこにいるのとくり返すのです。そこで、妻と二人で、祈りました。そうしたら、静かに寝てしまい、翌朝起きた時には熱がすっかり下がっていたのです。妻と二人で顔を見合わせて言いました。「あのうわごとは父親ではなく、天のお父さまを呼んでいたんだね」。

 主の祈りは「天の父よ」というシンプルな呼びかけで始まります。この呼びかけは私たちを幼子にさせます。主は他のところで、こう祈っておられます。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」(マタイ11:25)。学識、研さんを重ねたところに、難行苦行した到達点に天の父がおられるのではなく、人間の誇りを捨てて、幼子心で祈るところに、天の父は耳を傾けておられるのです。
 ルカ福音書の方では弟子たちが「祈りを教えてください」と申し出たので、主イエスがこの祈りを教えられました(ルカ11:1)。祈りは練達していくことも必要でしょうが、基本は祈りを教えてくださいという幼子の謙虚さです。

 祈り向き合う方は父は父でも、「天の父」です。造られた者にとっては最も高い天におられる。罪人にとっては最も遠いところにおられるのです。歌を忘れたカナリヤのように、人は天に祈る祈りを忘れてしまっているのです。天が高すぎるので、こういうものではないかと想定した神々を拝むのです。また、罪のゆえに、心を閉ざし、自分の欲望を神として拝し、天は閉じてしまっているのです。しかし、イエス・キリストは地上に人となって来られ、十字架にかかられ、罪の贖いを成し遂げ、死人の中からよみがえり天のみ座につかれました。そうして、天の御国を近づけてくださったのです(マタイ4:17)。また、天が開かれたのです(マタイ3:16)。もちろん、こちらも天に近づこうという求めが必要です(マタイ7:7)。悔い改めて福音を信じることが求められます(マルコ1:15)。幼子の心で、求め、悔い改め、信じるだけで、天は私に近づき、天は開かれてくるのです。
 天の父よと呼ぶ者に天が開かれてくるのです。隠れたところにおられる父なる神が現れるのです。パウロが第三の天にまで引き上げられるという神秘体験をしましたが、それ以上なのは「わたしの恵みは、あなたに十分」という、み言葉がきた経験だと言いました(2コリント12:1-5)。そのように、祈る者に天のみ言葉の戸が開かれのです。
 天の父よと呼ぶ者に天が開かれてくるのです。迫害にあい、リンチを受けたステパノ、天が開かれ、イエス・キリストが立っておられるのが見えると、輝いた顔であかしし、召天していきました。苦境の中でも、苦境だからこそ、天が開かれるのです。パウロは天が開かれ、価値観が変えられました。ユダヤ人んとは、律法学者、パリサイ人として、名誉も地位もありましたが、それらが塵(ちり)芥(あくた)のようで、キリストを知る知識は絶大な価値があると言いました。キリスト共に苦しみを受け、キリスト共によみがえるという信仰体験のことです。復活の世界が開かれたのです。
 また、パウロは言います。「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(エペソ2:4-6)」。天にものぼる気持ちだと言いますが、キリスト者は霊的に主と共に「天の所にすわらせてくださ」ったのです。キリストが昇天された天が開かれるのです。信仰によって、昇天されて神の右におられるイエス・キリストと共にこの私がそこに座しているのを見られるのです。

 また、「私たちの」父よ、ですから、世界が開かれるのです(新改訳)。世界中の教派を越えた、国も言語も文化も違う10億のクリスチャンたち、 ペテロもヨハネもパウロもアウグティヌスもルターもカルビンもウェスレーもムーデーも中田重治も、2000年の聖徒たち、みんな「私たち」です。私たちの祈りなのです。そのように意識しましょう。決して、独りよがりの祈りではない、みんなの父だ、みんなの父に祈るのだと思い、祈りましょう。祈りにおいて、共同体意識を持ちましょう。そのように「天にいます私たちの父よ」と祈りましょう。
ティーリケという人はこの私たちは「教会の外の人たちも含む私たち」だと言いました。まだ救われていない人の父でもあるはず、彼らのための、取りなしの祈りとなるのです。
 主の祈りは未来も開かれてくる祈りですが、次回にお話しすることにします。イエス・キリストが天の父よと祈っておられる祈りにあわせ、聖霊によって、幼心で開かれた、身近な天に向かって「天にいます私たちの父よ。」と祈りましょう。

キリストの平和の支配

2014-01-01 00:00:00 | 礼拝説教
2014年1月1日 元旦礼拝(コロサイ3:12-17)岡田邦夫

 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。」コロサイ3:15

 昨年、「和食」が日本人の伝統的な食文化として、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。日本食、Japanese-style mealでなく、和食と言います。洋食と対比してのことでしょうが、和の心を表して和を使います。ひとつ言えることは、自然との調和、色の調和、人との調和、その和でしょう。民族のあり方も、和をもって尊しとせよと言われています。それが理想化されたのが平和主義と言えましょう。ところが、身近なところで、いがみ合いやいじめやハラスメントや憎み合いや、なかなか平和であることは難しい。国の中でも、まして、国際社会においては紛争があり、侵略があり、虐待があり、世界平和はほど遠い状況です。神に造られた者として、私たちは平和のための道具としていただきたいものです。山上の教えにあるような「平和を造り出す人」になりたいものです。難しいことです。そのためには、まず、祈ることです。平和の祈りを献げることです。

 聖書が目指しているものは「平和」です。聖書の用語で「シャローム」です。それは平和、平安、健康、繁栄など幅広い意味の言葉です。ユダヤ人のあいさつはシャロームです。争いや圧迫の絶えない状況に置かれているからこそ、そうあいさつしたのでしょう。復活されたイエス・キリストが意気消沈し、恐れと不安の中にある弟子たちに現れた時、シャローム=平安があるようにと言って部屋に入ってこられました。すっかり、その場は平和と喜びに包まれました。
 弟子たちとの最後の晩餐、イエス・キリストを捕らえ、裁判にかけ、死刑にしようというユダヤの当局による殺害の手がにびている鬼気迫る状況でした。そのような中でも、主は実に穏やかで、シャロームでした。遺言のように言われました。「私はあなたがたに平安・シャロームを残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14:27)。わたしの平安、キリストの平和を残されたのです。
 そのわたしの平安=「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」と主が言われるです。

 このキリストの平和は差別を取り除くのです。「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」(3:10-11)。ギリシャ人は賢い者、ほかは未開の者と差別、ユダヤ人は自分たちは選びの民、異邦人は汚れた民と差別、ロシアの方のスクテヤ人を未開人と差別、キリストにある者に区別、差別はないと言い切っています。これがキリストの平和です。神の前に、十字架と復活の前に、平等であり、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」。
 そういう新しい人となったのだから、このように装いなさいと言います。「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。それは平和の鎧です。また、キリストの平和の使徒として、わたしたちはこう生きるのです。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」。さらに、平和の鎧です。「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」。

 しかし、私の平和主義で全うは出来ない現実があります。イエス・キリストが公生涯に入られる前にサタンの試み、誘惑に会いました。非常に高い山に連れて行って、この世のすべての栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と言った。イエスはきっぱり言いました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10)。一言で言うなら、支配欲の誘惑です。エデンの園でアダムが誘惑された。これを食べると神のようになる。すなわち、神のような支配をほっする誘惑でした。支配欲は究極の罪です。
 イエス・キリストはその生涯、神に仕え、人を救うために仕えられたのです。十字架の死に至るまで仕えられたのです。そして、罪と死に支配されている私たちを神と和解させ、復活の世界へと解放してくださったのです。世界を見ても、自分を見ても、罪ある私たちはすぐ支配したくなるのです。それは果てしなく強力です。サタンの誘惑に陥ります。しかし、主は言われます。
 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」(3:15-17)。
 これがキリストの平和が支配している素晴らしい風景です。弱い私たちは祈りましょう。信仰者として、キリストの平和の祈りをしましょう。日本聖公会聖歌集562&こどもさんびか34に塩田泉というカトリックの神父の作詞・作曲の単純で、本質をつく、祈りの歌があります。
「キリストの平和」
 キリストの平和がわたしたちの心のすみずみにまで行き渡りますように
 キリストの光がわたしたちの心のすみずみにまで行き渡りますように
 キリストの力がわたしたちの心のすみずみにまで行き渡りますように
 キリストの命がわたしたちの心のすみずみにまで行き渡りますように
 キリストの愛がわたしたちの心のすみずみにまで行き渡りますように

 私たちは市民として、世界平和のため祈りますが、信仰者として、キリストの平和がすみずみにまで行き渡りますように祈り続けましょう。