オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

時は満ち、神の国は近づいた

2012-04-15 00:00:00 | 礼拝説教
2012年4月15日 主日礼拝(マルコ1:14-15)岡田邦夫


 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』と言われた」(マルコ福音書1:14-15新共同訳)。

 日野原重明医師(現在100歳)が全国の小学校で行っている「いのちの授業」でいのちというものをこう説明しています。「いのちは見えないし、さわれないし、感じられません。子どもたちに『時間は見える?』って聞くんです。『昨日も今日も見えないけれど、寝たり、勉強したり、遊んだりするのは、きみたちの持っている時間を使っているんだよ。時間を使っていることが、きみが生きている証拠。時間の中にいのちがあるんだよ』と、伝えています」。
 何時に起きて、何時の電車に乗って、何時までに学校や職場に行くというように、現代人は時計の時間にあわせた生活をし、人生を送っています。しかし、何年何月何時何分何秒というのは人が取り決めた時間です。今を基点に過去に無限に続き、未来にも無限に続くという直線的な時間のイメージをもっています。しかし、もっと重要な時間があります。夜眠くなり、朝目覚めさせるというような体内時計です。生命が持っている生命時計です。渡り鳥が渡りを始める時期を知るのは、体内にもっている、ほぼ1年の周期で時を刻む時計で、渡り鳥は毎年、同じ時期に渡りを始め、同じ地域で渡りを終えるのです。とても不思議に思えることですが、そのような生命時計というのは創造者である神が与えてくださった、意味のある、有用な時計ではないかと私は思います。

◇神の時が来た
しかし、もっと重要な時間があります。それは「神の時」です。聖書の冒頭で、「初めに、神は天地を創造された」という初めの時があり(創世記1:1)、また、「万物の終わりが近づきました」という終わりの時があることを明らかに告げられています(1ペテロ4:7新改訳)。その時の間に出エジプトという救いの時があり、イエス・キリストによる救いの時があるのです。神の創造の時と神の新創造の時との間に、神の直接介入の救いの時というダイナミックな時があるのです。
 そして、神の時は流れ去っていくのではなく、満ちていくものなのです。満ちるというのはコップに水が満ちるようにでしょうか、それとも、月が満ちて、命が誕生するようにでしょうか、たとえようのない程、スケールの大きなことなのでしょう。御子イエス・キリストが人となって、誕生され、公生涯に入られ、先駆者の洗礼者(バプテスマの)ヨハネがヘロデ王に捕らえられた後、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて言われました。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
 時は満ちた。神の国は近づいた。これは神以外には言えない、神の時を告げる「大宣告」です。パウロの手紙にはこう記しています。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」「神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました」(ガラテヤ4:4、テトス1:3)。預言者たちによって預言されていた神の救い時が来たのであり、神の時は満ちたのです。
※ギリシャ語では時を表す言葉にカイロス、クロノス、ホーラがあるが厳密に使いわけてはいない。
 そして、万物の終わりの時の後に新創造される神の国がイエス・キリストの来られたことで、近づいたのです。近づいたというのは見えない形で、神の恵みの支配が始まったのであり、やがて、見える形で神の国・新天新地が現れる時が近づいたという朗報、良い知らせなのです。良い知らせは福音といい、その中心はイエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪を贖い、信じる者の罪を赦し、死人の中からよみがえって、信じる者が神の国に生きる者にしてくださるという救いです。

◇神の時に生きる
 「実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブル9:26-28)。初臨によって救われた者たちは再臨を待望する者なのです。そのように神の時を意識して生きる者なのです。私にとって、初臨による神の国は恵みによって入れたほどに、距離的に近くなったのであり、また、再臨による神の国の現れは時間的に近くなり、迫ってきているのです。ペトロはこう言っています。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(1ペトロ4:7)。
 主イエス・キリストの中心メッセージは「神の国は近づいた」。すでに来ました。そしてまた、万物の終わりが迫っています。だから、「悔い改めて福音を信じなさい。」なのです。神への不信仰、偽善、虚偽、傲慢、反逆を、犯してきた数々の罪、心の中にある根深い罪を悔い改めることに手抜きがあってはなりません。イエス・キリストの贖いに手抜きはないからです。悔い改めるというのは根本的にはメタノイアという言語の意味のように、方向を変えることです。神に背を向けていたり、横を向いていた魂の方向を変えて、神に真っ直ぐに向けることです。軌道修正という意味で「改心」でもあるのですが、180度の方向転換という意味で、「回心」と書きます。
 私はもう一つ述べておきたいことがあります。ガンや難病を宣告された人が最初はたいへん落ち込むのですが、心の葛藤のすえ、死を覚悟し、残された日々をより良く生きようとして、一日一日を感謝して生きるようになることがあります。それまで過去の延長で生きていたのが、人生の終わりを意識した生き方に変えられるというわけです。主イエス・キリストは「神の国は近づいた」と宣告されたのです。終わりの日、キリストの再臨は迫ってきているのです。万物の終わりとその先の神の国の出現を意識して、意識の方向転換をしてキリスト者が生きるのです。そのように悔い改めて、再臨に備えて、福音に生きる者となりましょう。それは人には出来ないことですが、聖霊が意識の深い所まで働いて、きよめて、なしてくださるのです。それが聖なる者(ホーリネス人)の生き方なのです。
 今は様々な情報があふれています。しかし、イエス・キリストの『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』という朗報でもあり、警報でもあるメッセージに魂の耳を傾けながら、信仰の軸がぶれない「 私の時は、御手の中にあります。」という生き方をしていきましょう(詩篇31:15新改訳)。

復活とからっぽの墓

2012-04-08 00:00:00 | 礼拝説教
2012年4月8日 イースター・召天者記念礼拝(マタイ27:62-28:15)岡田邦夫


 「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」マタイ28:6

 私、東京の柳橋にあるウェスレアン・ホーリネス神学院にT兄が入学するというので、奥様が出席。出身教会の牧師ということで私も入学式に出席させていただきました。その帰りに思い立って、子どもの頃、住んでいた日暮里という所に行ってみました。住んでいた所もマンションが建ち、すっかり風景は変わっていました。子どもの時、広く思えた道路は今見れば狭い。遠いと思えた小学校までの道、今歩いてみれば近い。広く思えた校庭も猫の額のように狭い。47年ぶりにそこに立ってみると様々な想い出がわいて出てきます。特にそのことがあって、人生が決定づけたれたのではないかという出来事がありました。その小学校は丘に面して建っていて、正門は二階。校庭から二階の教室には外付けの階段がありました。三年生の時にその階段から下に飛び降りて遊んでいると、着地に失敗し、左足を骨折。当時ボルトで固定するようなことをせず、療養所のような所に入院して、ただ骨がつくのを待つというもの。そうして学校を休んでいる間、母が算数を教えてくれたのが功を奏して、登校した時のテストでたまたま良い点でした。休んでいる人間が出来ているのに、君たちはどうして出来ないのかと先生が生徒全員にげきをとばしたのですが、私は自分が誉められたと勘違いしてしまったのです。それがきっかけで算数、数学が好きになり、得意になり、すっかり理系の人間になっていました。それで、工業化学科のある高校に進学。通学は先ほどの神学院のある浅草橋で総武線に乗り換え、錦糸町で降りて都電に乗るというものでした。三年生の時に錦糸町の都電乗り場でキリスト教の集会のチラシをもらったことから、教会へ行くようになり、キリスト者となり、牧師になったというわけです。私にとって階段から飛び降りて骨折するような愚かしい事があってこそ、今日、神の救いを得ているのだと思います。その出来事の「記録」は何もないのですが、「記憶」にはしっかりとあります。

◇記憶に残る…弟子たちの
 金曜日、イエス・キリストの遺体が十字架から降ろされ、墓に葬られ、弟子たちによって遺体が盗まれないようにと、墓に封印がおされ、しっかりと番兵が墓の番をしたというのが事実です。土曜安息日が終わって、週の初めの日・日曜日の明け方、マグダラのマリヤとほかのマリヤが墓を見に来たのです。すると不思議なことが起きました。聖書を読んでみましょう(28:2ー8)。
 「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。』そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った」。
 イエス・キリストは事実、よみがえられたのです。主は記録となるようなもの記念となるようなものは何も残されませんでした。当局も弟子たちが遺体を盗み出したことにして、記録を残さないようにしました。しかし、弟子たちや付き従う女性たちの記憶には鮮明に、しかも、喜ばしい記憶として、強烈に残りました。「すると、イエスが彼女たちに出会って、『おはよう。』と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ」(28:9)。
 歴史上の事実としてはイエスの遺体がおさめられたはずの墓が空っぽになっていたということで、復活を示す記録となる証拠はありません。しかし、歴史を越えた事実、神の国の事実があるのです。復活の主に出会った弟子たちの記憶の中にあったのです。生きた記録、証拠と言えます。歴史遺産としてではなく、生きた記憶として、代々引き継がれ、今日の私たちキリスト者にも受け継がれているのです。そして、事実、復活の主は今も私たちに出会ってくださるのです。

◇記憶に残る…キリストの
 そのようなわけで、主イエスは死に勝利をされ、死人の中にはおられず、栄光の姿に復活されたのです。そして、復活された主イエスは女たちに、こう言われました。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」(28:10)。弟子たちのは死者を葬る墓で会うのではなく、生前、生活をしていたガリラヤで会うと言うのです。かつて網を打って漁師をしていた所、ある者は収税所で坐っていた所、そこで主と出会い、弟子となり、3年過ごした所で再び会われるというのです。3度もイエスを知らないと言ったり、主が最も苦しい十字架の受難の時にはみんな逃げてしまった弟子たち、会わせる顔がないのですが、イエス・キリストには大切な選びの弟子として、記憶の中に鮮明にあったのです。復活の主は記憶する弟子たちだけに会われたのです。
 最後の日が来た時に、罪ある者、神に反逆する者には、あなたは私の記憶にはないと厳しいですが再臨のイエス・キリストに捨てられるのです。しかし、主を信じる者たちは、十字架の贖いという福音によって、あなたは私の記憶にあると証言されて、主と同じ栄光の姿、復活のからだにかえられて、新天地において、神と共にあることが出来るのです。世界の歴史に名を残すより重要なのは、神の記憶に残していただけるかどうかなのです。どんなに罪深い人間でも、ただ、イエス・キリストを信じるだけで、十字架と復活の福音を信じるだけで、父なる神の記憶に残していただけるのです。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:27、29)。

十字架

2012-04-01 00:00:00 | 礼拝説教
2012年4月1日 棕櫚の主日礼拝(マタイ27:32-56)岡田邦夫
みのお泉教会にて

 「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である」。マタイ27:46

 以前、ロサンジェルスで世界ホーリネス連盟の総会があった後、北米ホーリネス教会の礼拝に出席しました。しかし、その前に近くにある黒人の多く集まる教会の第一礼拝に友人と参加してみました。メッセージは言葉の端々から、出エジプトの救いだと判ったのですが、会衆が自分たちの奴隷解放と重ねて聴いている様子がたいへん印象的でした。黒人霊歌には聖書の出来事に身をおくような表現があります。新聖歌440「エジプトに住めるわが民の、苦しみ叫ぶを聞かざるか…」がそうです。

◇君もそこにいたのか:群衆として
 新聖歌113は十字架の場面です。「君もそこにいたのか 主が十字架に付(つ)くとき ああ何だか心が震える 震える 震える 君もそこに居たのか」
 ピラトがイエスを十字架につけるために兵士たちに引き渡すと、赤い外套を着せ、いばらの冠を頭にのせ、右手に葦の棒を持たせ、ひざまづいて「ユダヤ人の王、ばんざい」と言ってからかった。
 処刑場所、どくろの意味のゴルゴタに着くと、イエスを裸にし、生身のまま、十字架の木に釘付けにする。耐え難い激痛がはしる。差し出された苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうとされなかたので、その痛みはどれほどであるか。ユダヤ人の王イエスの罪状書きを取りつけ、地に立てる。その激痛はなお増して、止むことはない。同時にふたりの強盗が十字架につけら右左に立った。
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」(27:40)。
 祭司長たち、律法学者、長老たちもイエスをあざけった。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから」(27:42ー43)。両隣の強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
 罪のないお方に対して、彼らは何とひどいことをし、ひどいことを言っていたのでしょうか。しかし、「君もそこにいたのか」なのです。彼らは君自身、私たち自身なのです。私たちは釘とハンマーを手にしていたのです。道行く人、祭司長ら、強盗らとして、そこにいたのです。この口でののしったのです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」…ローマ3:10ー18。全人類が、この私が寄ってたかって、主イエスをのろいつくしたのです。君もそこにいたのです。
 レビ記16章(16:6-10)に、罪のためのいけにえに二頭のやぎを使うことが記されています。一頭は罪のためのいけにえとして殺し、一頭はアザゼルのやぎとし、罪をそのやぎにあびせて、荒野に放つというのです。主イエスは十字架の祭壇で私たちの罪のためのいけにえとなられましたが、一方で、アザゼルのやぎとして、私たちの罪をあびせられ、彼方に永遠に追放されたのです。見捨てられたのです。私たちの罪を贖うだけでなく、私たちの罪を忘れ去るためなのです。

◇君もそこにいたのか:受刑者として
 「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)と叫ばれた」(27:45ー46)。君もそこにいたのか。私たちは十字架にかけられた側にもいたのです。この叫びは古き人の叫びです。イエス・キリストと共に古き人の君がそこにいたのです。「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ2:20)。私たちの古き人はこのゴルゴダの丘で断末魔の叫びをあげて、死んだのです。そして、主の復活と共によみがえり、新しき人となったのです。神は時の中に働かれますが、時を越えて働かれます。それを教え、うなずかせ、現実のもにされるお方が聖霊です。聖霊が「君もそこにいたのだ」と臨んでおられます。
 イエスのその叫びを聞いて、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言い、ほかの者たちが「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言ったが、何も起こらなかった。「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」という結末であった(27:50)。完全に苦しみ、完全に死んだのです。完全な救いのためなのです。

◇君もそこにいたのか:証人として
 しかし、不思議なことが起きた。神殿の幕が上から下まで真二つに裂ける。地が揺れ動き、岩が裂ける。墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返る。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われるのである。
 大祭司が年一度、罪の贖いのために、聖所から、隔ての幕を通って至聖所にはいったのだが、その幕が神によって上から下まで真二つに裂けたのです。十字架の贖いによって、旧約のいけにえをささげなくても、誰でも信じる者がはばかることも、ためらうこともなく、神に近づく道が開かれたのです。ユダヤ人にも異邦人にも、男でも女でも、大人でも子どもでも、すべての国、すべての民族、すべての人種、だれでもです。地が揺れ動き、岩が裂ける、墓が開くというのは、終末のしるしです。百人隊長といっしょにイエスの見張りをしていた人々が、それを感じ取ったのか、これらの出来事を見て、非常な恐れを感じて、「この方はまことに神の子であった。」と証言したのでです。「君も気がついたのか 突然日がかげるのを ああ何だか心が震える 震える 震える 君も気がついたのか」。君も聞いていたのか、地が揺れ動くのを。ゴルゴダにおいて、天を開き、聖所を開き、地を開き、墓を開いた方こそ、神の子なのです。罪の赦しの道を開き、復活の希望のある新しい時代を開いた方こそ、神の子なのです。「君もそこにいたのか 主が十字架に付(つ)くとき ああ何だか心が震える 震える 震える 君もそこに居たのか」。私の罪のために、古き人とともに苦しみつくし、死につくされたのは神の子の無償の愛、限りない愛からでたことです。私たちの魂はその十字架の愛に震えます。こんな罪深い者を赦し救うというそのはかりしれない恵みに心は震えます。御子が私たちを永遠の滅びから永遠の救いに導かれる道を開かれた十字架を仰ぐと魂が震えます。わが人生が震えます。私たちは叫びたい。「この方はまことに神の子であった」。