「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、」2テモテ3:15-16a
トルストイの懺悔(ざんげ)のなかにこのような寓話が記されています。「古い東洋の寓話の中に、草原で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。猛獣から逃れて、旅人は水の涸(か)れた古井戸の中へ逃げ込んだ。が、彼はその井戸の底に、彼をひとのみにしようと思って大きな口をあけている一ぴきの竜を発見した。そこでこの不幸な旅人は、怒り狂う猛獣に一命を奪われたくなかったので、外へ這(は)い出ることもできず、そうかと言って、竜に食われたくもなかったので、底へ降りて行くこともできず、仕方がなくて、中途のすき間に生えている野生の灌木の枝につかまって、そこにかろうじて身を支えた。が、彼の手は弱って来た。で彼は、井戸の上下に自分を待っている滅亡に、まもなく身をゆだねなければならないことを感知した。それでも彼はつかまっていた。とそこへさらに、黒と白との二ひきの鼠(ねずみ)がちょろちょろとやって来て、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲をまわりながらこれをかじりはじめたのである。もうじき灌木はかみ切られて、彼は竜の口へ落ちてしまうに違いない。旅人はそれを見た。そして自分の滅亡が避け難いものであるのを知った。が、しかも彼は、そこへぶら下がっているそのわずかな間に、自分の周囲を見まわして、灌木の葉に蜜のついているのを見いだすと、いきなりそれを舌に受けて、ぴちゃりぴちゃりと嘗(な)めるのである」。
◇上から下に
私がこれを読んだ時にこう考えました。ある人はやがて木がかじり尽くされ、落ちて竜に飲まれ死んでしまうということを何も意識しないでただただ生きる。ある人はどうせ死ぬんだったら、快楽などのつかぬ間の喜びを味わって生きる。ある人はどうせ死ぬんだから、手を離して終わりにしてしまう。ある人はこの現実を知りつつ、蜜には手が出ない、人生を虚しくただただぶら下がって生きている。私は考えました。この救いがたい状況で、一本の綱が上から降りてきて、それに飛び移れば、引き上げられて、安全地帯に行き、旅人は救われるという話です。この寓話にはそぐわない展開ですが、聖書の救いとはそのようなものです。このロシヤの文豪は言います。私はいかに生くべきか?その答えは無限無窮の神との合一、天国であり、それを信じる信仰だったと言います(懺悔p76)。
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので」す。神の助けの手は上から降りて来たのです。上からの神の啓示を受けて、書かれたのが聖書です。色々の著者が神の霊感を受けて、神の息吹を受けて書かれたのが聖書です。人が下から求め、探求し、頂上にたどり着き、悟ったという悟りの書ではありません。信仰の祖と言われるアブラハムも上からの神の言葉、あなたと子孫を祝福するという救いの言葉を受けました。そうして、「主はこう言われた」と聖書全巻にわたって、救いの言葉が綴られています。イエス・キリストが公生涯に入る前に、サタンの誘惑、試みの言葉にあいました。その時、イエス・キリストは聖書にこう書いあると言って、サタンを退け、勝利しました。洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時も、聖書の言葉が臨んで、人類救済の使命の道に進みます。十字架上でも、わが神、どうして見捨てたのかという言葉も、苦しみを引き受けたところの聖書の言葉でした。
それは大いなる模範です。私たちは上からの啓示の言葉、神の言葉を信じ、従って生きるところに救いがあるのです。人が救われ続けていくために、神の使命に生きるために、聖書は規範です。
◇初めから終わりに
聖書の要約ともいえるものが「使徒信条」だとお話ししました。それは三位一体の神が何をされたかというものです。父なる神は天地を創造された。子なる神は地に来られ、十字架にかかられ、救いの業を成し遂げ、昇天され、再び来られ救いを完成する。聖霊なる神はイエス・キリストのなされた救いを私たちの人生に届けてくださり、永遠の救いに導く。
その意味で聖書のいう救いは歴史的です。信条にあるようにイエス・キリストの救いの歴史を信じるのです。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」。聖書の歴史の中軸は天地創造の初めがあり、イエス・キリストの来臨の中心があり、神が決着をつける歴史の終わりが来るというものです。それから永遠の新天新地が現れて、救いの歴史は完成します。それは私の人生という歴史にも言えることです。この聖書における人類の救いの歴史を私のサイズに縮小するとこうなります。私も生まれた初めの時があり、ある時、イエス・キリストを信じて、救われ、洗礼を受けます。それが救いの時の中心です。そして、人生の終わりが来て召天し、やがて復活します。聖書の全歴史が私の歴史に投影されるのです。ですから、私の救いも、他者の救いも、すべてのキリスト者の救いも同じなのです。
イエス・キリストの救いは罪の赦しです。神の前にどう生きてきたがすべて問われ、裁かれなけばなりません。しかし、神の前に悔い改め、イエス・キリストを信じる時に、そのすべての罪が贖われ、赦されます。ということは私の全生涯が赦されるということです。私の全歴史が救われ、その未来に永遠の救いがあるということです。このごろ、自分史というものを書く人がおられます。しかし、キリスト者は神の言葉を聞きながら、「私の救済史」「私の救いの物語」というものを心に書き綴り、それを天国に持って行きましょう。生きている間に私の救いを物語り、証詞していきたいものです。私の歴史が誰かの救いとなるような「ミニ福音書」となるのであれば、何と幸いなことでしょう。