オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

聖書に親しんで

2014-03-30 00:00:00 | 礼拝説教

 「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、」2テモテ3:15-16a

 トルストイの懺悔(ざんげ)のなかにこのような寓話が記されています。「古い東洋の寓話の中に、草原で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。猛獣から逃れて、旅人は水の涸(か)れた古井戸の中へ逃げ込んだ。が、彼はその井戸の底に、彼をひとのみにしようと思って大きな口をあけている一ぴきの竜を発見した。そこでこの不幸な旅人は、怒り狂う猛獣に一命を奪われたくなかったので、外へ這(は)い出ることもできず、そうかと言って、竜に食われたくもなかったので、底へ降りて行くこともできず、仕方がなくて、中途のすき間に生えている野生の灌木の枝につかまって、そこにかろうじて身を支えた。が、彼の手は弱って来た。で彼は、井戸の上下に自分を待っている滅亡に、まもなく身をゆだねなければならないことを感知した。それでも彼はつかまっていた。とそこへさらに、黒と白との二ひきの鼠(ねずみ)がちょろちょろとやって来て、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲をまわりながらこれをかじりはじめたのである。もうじき灌木はかみ切られて、彼は竜の口へ落ちてしまうに違いない。旅人はそれを見た。そして自分の滅亡が避け難いものであるのを知った。が、しかも彼は、そこへぶら下がっているそのわずかな間に、自分の周囲を見まわして、灌木の葉に蜜のついているのを見いだすと、いきなりそれを舌に受けて、ぴちゃりぴちゃりと嘗(な)めるのである」。

◇上から下に
 私がこれを読んだ時にこう考えました。ある人はやがて木がかじり尽くされ、落ちて竜に飲まれ死んでしまうということを何も意識しないでただただ生きる。ある人はどうせ死ぬんだったら、快楽などのつかぬ間の喜びを味わって生きる。ある人はどうせ死ぬんだから、手を離して終わりにしてしまう。ある人はこの現実を知りつつ、蜜には手が出ない、人生を虚しくただただぶら下がって生きている。私は考えました。この救いがたい状況で、一本の綱が上から降りてきて、それに飛び移れば、引き上げられて、安全地帯に行き、旅人は救われるという話です。この寓話にはそぐわない展開ですが、聖書の救いとはそのようなものです。このロシヤの文豪は言います。私はいかに生くべきか?その答えは無限無窮の神との合一、天国であり、それを信じる信仰だったと言います(懺悔p76)。
 「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので」す。神の助けの手は上から降りて来たのです。上からの神の啓示を受けて、書かれたのが聖書です。色々の著者が神の霊感を受けて、神の息吹を受けて書かれたのが聖書です。人が下から求め、探求し、頂上にたどり着き、悟ったという悟りの書ではありません。信仰の祖と言われるアブラハムも上からの神の言葉、あなたと子孫を祝福するという救いの言葉を受けました。そうして、「主はこう言われた」と聖書全巻にわたって、救いの言葉が綴られています。イエス・キリストが公生涯に入る前に、サタンの誘惑、試みの言葉にあいました。その時、イエス・キリストは聖書にこう書いあると言って、サタンを退け、勝利しました。洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時も、聖書の言葉が臨んで、人類救済の使命の道に進みます。十字架上でも、わが神、どうして見捨てたのかという言葉も、苦しみを引き受けたところの聖書の言葉でした。
 それは大いなる模範です。私たちは上からの啓示の言葉、神の言葉を信じ、従って生きるところに救いがあるのです。人が救われ続けていくために、神の使命に生きるために、聖書は規範です。

◇初めから終わりに
 聖書の要約ともいえるものが「使徒信条」だとお話ししました。それは三位一体の神が何をされたかというものです。父なる神は天地を創造された。子なる神は地に来られ、十字架にかかられ、救いの業を成し遂げ、昇天され、再び来られ救いを完成する。聖霊なる神はイエス・キリストのなされた救いを私たちの人生に届けてくださり、永遠の救いに導く。
 その意味で聖書のいう救いは歴史的です。信条にあるようにイエス・キリストの救いの歴史を信じるのです。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」。聖書の歴史の中軸は天地創造の初めがあり、イエス・キリストの来臨の中心があり、神が決着をつける歴史の終わりが来るというものです。それから永遠の新天新地が現れて、救いの歴史は完成します。それは私の人生という歴史にも言えることです。この聖書における人類の救いの歴史を私のサイズに縮小するとこうなります。私も生まれた初めの時があり、ある時、イエス・キリストを信じて、救われ、洗礼を受けます。それが救いの時の中心です。そして、人生の終わりが来て召天し、やがて復活します。聖書の全歴史が私の歴史に投影されるのです。ですから、私の救いも、他者の救いも、すべてのキリスト者の救いも同じなのです。
 イエス・キリストの救いは罪の赦しです。神の前にどう生きてきたがすべて問われ、裁かれなけばなりません。しかし、神の前に悔い改め、イエス・キリストを信じる時に、そのすべての罪が贖われ、赦されます。ということは私の全生涯が赦されるということです。私の全歴史が救われ、その未来に永遠の救いがあるということです。このごろ、自分史というものを書く人がおられます。しかし、キリスト者は神の言葉を聞きながら、「私の救済史」「私の救いの物語」というものを心に書き綴り、それを天国に持って行きましょう。生きている間に私の救いを物語り、証詞していきたいものです。私の歴史が誰かの救いとなるような「ミニ福音書」となるのであれば、何と幸いなことでしょう。

愛は絶えることがない

2014-03-23 00:00:00 | 礼拝説教
2014年3月23日 伝道礼拝(1コリント13:1-8)岡田邦夫


 「愛は決して絶えることはありません。」 1コリント13:8

 わが家にこの「愛は決して絶えることがない」が書かれた湯飲み茶碗があります。私たちの結婚式の引き出物としてお渡ししたものです。コリント第一の手紙13章は「愛の章」と言われている有名な箇所です。
 ある牧師の家のお隣が犬を飼いました。しかも、牧師の寝室のそばでした。まだ暗い早朝に遠吠えを始めました、「ウオオオオ~ン」。牧師は叫んだ、「うるさいぞ~」。奥さんがその声で目を覚まします。「あなた、うるさいわね。今、何時だと思っているの!」「おまえ、ポチのあの声がうるさいくないのか?」「ポチ?全然!あなたのほうのがよっぽどうるさいわよ」。…これは「百万人の福音」に載っていた横山幹雄牧師のメッセージのなかの一部です。もう少し続きがあります。

◇愛・獲得のリスト
 一匹の子犬によって、わが家の平和が乱され、ポチへの憎しみと怒りが牧師生命まで危うくしてしまいました。ポチの声を封じる作戦はないものか。半年ほど前に、説教で用いた例話を思い出しました。
 ある人が庭に芝生を植えた。順調に伸びてきたが、同時にタンポポも生えてきた。抜いても抜いてもタンポポを退治できないので、専門家に質問状を送った。しばらくして返事がきた。「あなたがタンポポを退治できないなら、タンポポを愛することを学べばいいでしょう」。
 ポチを愛そう。
 これまで憎しみのこもった顔でにらみつけていた態度を一変させ、ほほえみをもって近づきました。歯をむいて警戒するポチに、忍耐強く接するうちに、ついにポチは私に飛びついて、顔をなめてくれました。愛の勝利です。翌朝、いつものように叫びます。「ウオオオオ~ン」「あ~愛するポチの声がする、ムニャムニャ…」。
 この牧師は愛というものを学ばれました。「愛は怒りません」を自分のものにされました。
 この聖書の愛の章はまず、宗教的な神秘の経験も、預言の賜物も、慈善の行為も、それがどんなに最高であっても、愛がなければ、何の値打ちもないと言い切っています(13:1-3)。そして、最後には「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」です(13:13)。愛は最高、愛は永遠なのだと言っています。といいましても、愛とはなんぞやと難しい定義をするのではなく、具体的に述べています。
 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(13:4-7)。そうして、「愛は決して絶えることはありません」と続きます。
 まず、これを壁に貼っとくのが良いかも知れません。人を批判したり、されたりする材料になってしまうので、心の壁に貼っておいた方が良いかも知れません。先ほどの牧師はこういう心の作業をしたのです。ポチの声に振り回されました。気にしなければいいのに、気になってしまう。ポチが自分の生活の中に入ってきて、心が乱されたのです。自分の人生の主人公は自分であるはずなのに、ポチになってしまった。タンポポの話を思い出し、私の人生の舵を私がにぎって、ポチを愛することに切り替えたのが鍵でした。そうして、この方は「愛は怒らず」を手に入れたのです。日常が穏やかな生活に戻れただけではなく、「愛は決して絶えることはありません」の愛の一つを身につけたのです。

◇愛・傾注のリスト
 この愛のリストの全部を身につけようなどと大それた考えは起こさない方がいいでしょう。それほど求めるなら、修道院に入られるしかないでしょう。自分にとって、うるさく吠えるポチのような人がいるかも知れません。自分にとって、目障りでしょうがないタンポポのような人がいるかも知れません。自分の人生の船の舵取りは私がするのだと切り替えて、この愛のリストのどれかが身につくとすれば、大変な価値を得たことになります。このリストが自分のだめさを計るリストとしてではなく、獲得したいリストとして、心の壁に貼っておきたいものです。

 もし、完璧さを求めれば、このような無償の愛というものは自分の中には何一つない事に気づきます。寛容ない、親切ではない。ねたみます。自慢します、高慢になります。礼儀に反します、自分の利益を求めます、怒ります、人のした悪を思います、自分の不正をゆるし真理を遠ざけます。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」はとてもできません。愛というところに自分の名前を入れて、文章が成り立ちますか。成り立つ言う人がいたら、偽善者です。しかし、そこに名前を入れて、完璧に成り立つ方がいます。イエス・キリストです。イエス・キリストは寛容であり、親切です…自分の利益を求めず…人のした悪を思わず…すべてを耐え忍びます。イエス・キリストはすべての人に対して、分け隔てなく、この愛をもって、向き合ってくださっています。
 イエス・キリストの御生涯が愛の生涯でした。その愛の極みは十字架における、無償の愛、犠牲の愛でした。使徒ヨハネの手紙にはこう述べています。「なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:8-10)。
 自分こそがうるさく吠えるポチのような人であり、自分こそが、目障りでしょうがないタンポポのような罪人なのです。しかし、そのような罪深い私たちの罪の身代わりになって、十字架で裁かれ、犠牲になられ、無限の愛を示されたのです。また、父なる神はそのように御子イエス・キリストを犠牲にしてまで、私たちを救おうと限りない愛を注がれたのです。ヨハネは続けます。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」(4:11)。この愛のリストは私に向けられたイエス・キリストの愛のリストなのだと受け止め、ひとつひとつを味わってみましょう。すると、隣人を、兄弟姉妹を愛せるようになれることでしょう。神の愛の賜物をゲットできることでしょう。

 やがて、世があらたまって、天国が現れます。その時には、この愛の憲章は当たり前のようにすべてがなされ、御国の隅々まで行き渡っているのです。イエス・キリストの十字架の愛を信じましょう。そして、完全な愛の世界が実現するようにと再び来られるイエス・キリストを待ち望みましょう。そして、神に愛され、人を愛して生きましょう。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」です(13:13)。

主の祈りという祈りの型

2014-03-16 00:00:00 | 礼拝説教
2014年3月16日 主日礼拝(ルカ福音書11:1-4)岡田邦夫


 「祈りを教えてください。」ルカ福音書11:1

 茶道や剣道など、道と呼ばれるものにはそれぞれの流儀があり、それぞれの独特な「型」があります。それは師から弟子へと伝承されていきます。先日、ピアノにかける大変素敵な刺(し)繍(しゆう)をいただきました。その刺繍は有名な先生の直伝とのこと、流儀や型があるのですね。イエスがある所で祈られ、それが終わると、弟子のひとりがイエスに言いました。「主よ。(バプテスマの)ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」。そこでイエスが「祈るときには、こう言いなさい。」と言って教えられたのが「主の祈り」という祈りの型です(ルカ福音書の方には記されています。11:1 ー2)。
 いつでも、どこでも、誰でも、どんな状況でも、いつの時代でも、祈れるのが主の祈りです。手を組んでも、天に向けて大手を開いても、生活しているそのままの姿勢でも良いのです。ただ、精神的な姿勢があります。

◇対応の姿勢
 主の祈りは十戒と大枠は似ています。十戒も主の祈りも、前半は神について、後半は人についてというように組まれています。神第一の姿勢です。たとえば、一般的な祈願というと、家内安全、商売繁盛、無病息災というようなものですが、そうした御利益的なものはなく、神の前にある人間として、神優先の姿勢を示しています。十戒と主の祈りは構造が同じ。御前にある人間のあり方を示す戒めと、それが実現していくようにとの祈りが対応しているのです。
 十戒の序文「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と主の祈りの呼びかけ「天の父よ」はともに福音的です。これを合わせてみると、キリスト者はイエス・キリストにより、罪と死との奴隷から解放され、聖なる神を「天の父よ」と呼べる神の子にしていただいた者なのだとなります。そのように、願ってもない救い、最高の祝福に与ったのですから、神優先、神第一の姿勢は当然でしょう。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。…あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」と、「み名があがめられますように。」が対応します。後半の人間としての根本的な問題についても、両者は呼応します。「殺してはならない。」と「わたしたちに今日もこの日のかてをお与え下さい。」とが、生存に関わる最も重要なこと、命を大切にするということです。
 私が洗礼を受けたころでした。求道中に祈っていて下さった牧師にお礼の挨拶に行きました。その時に会堂に若い青年と壮年の方がいましたので、お交わりをさせていただきました。その壮年と若者が実に中が良く、友達のように話しており、趣味は何かと聞くと、皆さん、嬉しそうに「一本釣り」だと答えました。一本釣りというのは個人伝道のこと。あとでわかりましたが、その若者はゴスペルの「イエスさまがいちばん」を作った人でした。その壮年の方は定年後、献身して、聖書学院で学び、当教団の牧師になられました。私はあの時、彼らが喜びをもって、神第一に生きている姿勢が輝いていたことを忘れることが出来ません。
 野球の話です。阪神タイガースにクリスチャンがいます。マートン選手がヒーローインタビューの時、日本語で「神様は私の力です」と必ず言いますが、スタンリッジ投手はこう祈っているそうです。「神さま、どうぞ僕をあなたを示すよい見本にしてください。チームメート、相手チーム、ファン、テレビを見ている人に対して。そしてすべてのことにおいて、キリストを示せるように。たとえ勝っても負けても。すべてのことにおいて神さまを現したい。マウンドの上で、またマウンドから降りたときも日々の生活を通して。僕を通して神さまの愛が輝くように」(2010年「百万人の福音」10月号より)。ここにも神第一の祈る者の姿勢が見られます。

◇自由の姿勢
 十戒を話しました時に、これは「自由の憲章」だと言いました。神の民はこうでなければならないという規制にとどまらず、むしろ、こうであるはずがない、神を神としないはずがない、人を殺すはずがない、奴隷から解放していただいた主なる神に愛されているのだから。そう言う意味で、神と民の自由の憲章、愛の契約だと話しました。主の祈りにおいても、「父よ」という呼びかけで始まります。言語では「アバ」、子供がお父さんを呼ぶ、幼児語です。親にとって子供は何にも代え難い愛すべき存在です。私たちはイエス・キリストに贖われた神の子、父なる神にとっては人の親にはるかに勝って愛すべき存在なのです。罪の他はすべてを受容される神に、アバと呼んで近づけることは理屈抜きでありがたいことです。ここに父と子の自由があります。わがままではない真の自由です。ここに神の子供としての素直で思慮があり、謙虚で大胆な姿勢があるのです。
 十戒の精神は何でしょうか(マタイ22:37、39)。前半の部分に対しては「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」です。後半は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」です。主の祈りはそれに対して、こうなります。心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、わたしの神である主を愛せますように。わたしの隣人を自分自身のように愛せますように。神は自由なお方です。天と地をご自由に造られました。アウグスチヌスによれば、人が造られた時に自由意志を与えられたのだと言います。しかし、人はその自由意志を間違って使い、罪の奴隷となりました。神の義によれば、罪人は滅ぼすしかないのですが、代わりに御子を十字架で裁くことによって、人を罪の奴隷から解放し、自由な神の子にしようとされました。それは愛における神の自由なのです。神の選びの自由によって、私たちはイエス・キリストを信じて、救われ、「天の父よ」と自由に呼べるようになったのです。私は思います。私のようなちっぽけなもの、罪深い者、滅んで当然な者がどうして神に選ばれ、天の父よと呼べる存在になったのか、理解できません。神がただただ理屈抜きでこのような者を愛してくださり、救ってくださったのだ、神のの自由なだ。だとすれば、私も自由に神を愛して生きたい、自由の精神で隣人を愛していきたい、そう思い、祈るのであります。こうして、私たちは神の子として振る舞い、神の子として祈る、それがキリスト者の流儀です、型です。

み国も力も栄光もとこしえに

2014-03-09 00:00:00 | 礼拝説教
2014年3月9日 主日礼拝(1歴代誌29:11)岡田邦夫


 「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。」1歴代誌29:11

◇行ったり来たり…往復
 「だから」という言葉はよく使います。子供が何かをやらかしかした。母親がしかる。「だから言ったでしょ。しょうがないわね」。プレゼンでも結論を言う時に使います。数学の証明問題で結論をいう時、点三つの「だから」を書きます。
 聖書でも「だから」は良くでてきます。主イエスは山上で、祈る場合は父なる神は求めないさきから、私たちの必要はご存じなのだから、くどくど祈るなと言われました。そして、「だから、こう祈りなさない」と短い祈り、主の祈りを教えられました。そして、最後に「み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。」の頌栄で締めくくります。しかし、この頌栄は聖書にはなく、2世紀頃に第1歴代誌29章11節を基に加えられたものです。それは主の導きだったのです。重要な意味を持っています。「~だからです」と、祈りの理由を言っています。ですから、この言葉を最初に持ってきても、流れは自然です。「み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだから」、父よ、御名があがめられますように……。この言葉は信仰の言葉です。すべては主のものだと信じる、だから、このように祈れるのです。天も地も、み国も力も栄光も、ありとあらゆるものも、創造者であるあなたのものです。そう信じる、だから、こう祈るのです。
 また、現実を見るとそう見えないこともあります。横暴な国家権力、弱肉強食の世界、不公平で理不尽な社会…神が本当にいるのかと疑ってしまうような現実に遭遇します。そのような状況でこそ、主の祈りを祈ることを主は求めておられます。すると、聖霊が働き、信仰が与えられてきます。そして、「み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです」という信仰の応答へと導かれます。そのように、「信仰から祈りへ」、「祈りから信仰へ」という往復運動が起きてくるのです。

◇前へ前へ…志向
 ある女子高生が入学して、初めてのテストでした。周りを見ると、皆、勉強が出来そうに見えてしまい、たまらなく不安になりました。そうだ、主の祈りを祈ってみようと思いつきました。目をつむり心の中でゆっくり祈り初めました。「天にまします我らの父よ…」。祈り終わって目を開けると、不思議なことに、周りの生徒が見えなくなり、自分とイエスさまだけがいるような感じになりました。心はとても平安になり、すらすらと答えが書けてしまいました。そのように中高生科の分級で証ししていました。
 ある牧師婦人が80才を過ぎた母親にどうやってお祈りを教えようかと考え、「そうだ、“主の祈り”にはすべての祈りが集約されているから、主の祈りを教えよう」。そう思って、毎日これをお祈りしてねと言い、主の祈りを大きく書いて、渡しました。母親は毎朝、家族のために祈り、主の祈りを読み、覚え、祈り続けました。やがて、92才で洗礼を受け、98才で、平安のうちに天に帰ってゆきました。
 私たちの教団で、聖書学院の初代院長であった笹尾鉄三郎師の説教集がでています。その中でご自分の証詞をしているのを要約して紹介します。
 「自分の経験を話したい。私は明治21年米国に行き、その年の暮れに救われ、心に一種の平和があった。私は当時キリスト教主義の学校にいたが、毎朝礼拝には必ず主の祈りをする規則だったので、私もこれを行った。ところが24年の春のある朝「み旨の天になるごとく」まで祈ったが、その後の句が続けられない。「口先だけか、腹の中からか」とささやきがあった。神が私の心を刺されたのだ。当時、神のみ旨がなるよりは、わが心のなることを思っていた。自己中心である。金、名誉、肉体の楽しみ、その心棒はおのれである。ついにひとり野原に行って神に求めることにした。毎晩、野原で祈ったがいくら祈っても心がきよくならない。聖霊を受けられない。悪魔は駄目だと言った。せんかたつきた…。その時、神が私の目を開き、主の愛を知らされた。「お前の心が苦しいのは、目のつけどころが違うからだ。おのれを見、世を見るからだ。主がどれほど愛して下さったかを見ないからだ」という声を聞いた。主は私を愛するために天を辞し、人となられて、ついに十字架の死さえ受けて下さった。私の沈んでいた所よりもっと下に降って下さった。主は「悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれた」。その生涯は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所も」ない御苦労を、みな私のためにして下さった。恥ずかしめられ、捨てられ、呪われ、キリストの方から献身して下さった。これを思った時、キリストの愛が私に焼きついた。御恩に感じた」。そうして、笹尾師は「主のため、人のため」に生き、献身され、日本に帰り、宣教に人生を献げ尽くしました。

 このように様々な人が様々な状況で主の祈りを祈ってきました。そのように主の祈りは全歴史にわたる全世界の兄弟姉妹たちによって祈られてきたものです。やがて、主の来臨の時にはこの祈りが完全に答えられるのです。そのことを信じて、私たちは祈るのであります。主のみ名が永遠に崇められ、…命の糧が永遠に与えられ…というふうに、新天地の完全平和(シャローム)は訪れるのです。そのような「未来」に向かっての今の祈りなのです。そして、その時には千千万万の聖徒たちが声をそろえて、こう頌栄を唱えるのです。「み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです」。
 そのような希望と確信を持ちながら、いまだ、そうなっていない「今」の現実の世界に、私たちは頌栄を唱えた後、遣わされていくのです。糧のために奉仕をし、弱い人を助け、罪の赦しの福音を宣教するのです。サタンの支配する世に向かって、神の言葉を告げて、勝利の道を進むのです。それが小さな歩み出しでも、大きな一歩でも、主が先立ちゆき、あるいは、後押しをして下さり、主と共に進んでいくのです。主の祈りは前進運動の祈りなのです。

悪からお救いください

2014-03-02 00:00:00 | 礼拝説教
2014年3月2日 主日礼拝(マタイ福音書6:9-13)岡田邦夫

 「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救い下さい。)マタイ福音書6:13

 ずいぶん前の話ですが、私、テトリスというゲームにはまってしまい止められなくなったことがありました。ついに土曜日までやるようになって、説教準備に支障をきたすようになったので、これではいけないと思って、きっぱり止めました。サタンに翻(ほん)弄(ろう)されました。後から知ったのですが、このテトリスというゲームは最初、ソ連が開発した軍人教育ソフトで、動体視力を高め、素早い動きを身につける訓練用のものでした。ところがテトリスの訓練中の脳というのが、非常に反射的な状態になり、人を殺しても何とも思わなくなるという結果をまねくものでした。とても恐ろしくなりました。

◇「向こうに」…終末意識
 サタンの誘惑は個人的にも、社会的にも、あらゆる機会、あらゆるところにあります。有史以来、人間の最大の敵です。そもそも、アダムとエバがへびに誘惑されて禁断の実を食べて罪が入り込んでしまったことから始まっています。後に、イエス・キリストが来られたのは私たちをサタンの支配から救出するためでした。パウロがアグリッパ王にこう証ししています。「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」(使徒26:18)。そして、歴史が終わり、新天新地が現れる時に、サタンは神によって滅ぼされると預言されています。ヨハネ黙示録にこう描写されています。神がサタンと戦って勝ち、「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。……それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」(20:10、20:14)。完全勝利は約束されているのです。
 イエス・キリストが最初に来られ、十字架にかかり、よみがえられて、信じる私たちを「サタンの支配から神に立ち返らせ」たのであり、イエス・キリストが再び地に来られる時には「惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれ」るのです。私たちは主の初臨と再臨の間、終末という時に生きているのです。ですから、十字架と復活において、すでにサタンに勝利しているのですが、完全な勝利はキリストの再臨があってからで、いまだ、完全勝利まで戦いは続いているのです。そういう、すでに勝っているけれど、まだ勝っていないという「終末意識」をもって祈るべきものがこの祈りです。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください(わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救い下さい)」(マタイ6:13)。このような終末を自覚して「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続け」なければならないのですが、私たちは弱いので、「誘惑から導き出して、悪からお救い下さい」と祈り、助けていただくのです。

◇「前に」…敵前意識
 目をさまして祈るといえば、ギデオンの話を思います。ミデヤン人、アマレク人、東の人々の連合軍がイスラエルを攻めてきた時に、神がギデオンに命じます。恐れおののく者は帰し、水場でテストして、精鋭を選び出して、戦わせなさいと。そのテストで、膝をついて水を飲んだ者は失格、犬のように、舌で水をなめた者は合格。たった300人だった。しかし、ギデオン率いる、その精鋭300が信仰によって大群を破ったのです。この選ばれた300人は水を飲む時も、油断せず、敵前意識があったからです。私たちの敵は巧妙で、強力なサタン。だから、ギデオンの300のように、敵前意識を持つことが必至です。
 格調高いメッセージであふれたエペソ人への手紙の最後に「 終わりに言います。」と言って、そのことが記されています(6:11-13)。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」。私たちの真の戦いは成功とか、名誉とか、経済とか、利権とか、…血肉の戦い、人を相手にした戦いではありません。誰かと競争したり、暗やみの世界の支配者、神に敵対する悪霊、サタンとの戦いなのです。隣のライバルでも、隣の国ではなく、悪=サタンが敵なのです。その敵を意識して、備えるのです。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」。くり返しますが、「邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」。どんな神の武器かはその続きをお読みください。
 それはどんな策略でしょうか。先人たちはこう言っています。サタンはものごとがうまくいくいっている時に、自分がやったかのように思い込ませ、気づかないうちに人を「傲慢」にさせ、ついに神がいなくても自分で出来ると不信仰に至らせるというものです。反対に色々なことがうまくいっていない時に、自分はだめな人間だと思い込ませ、「落胆」させ、ついに神なんかいるもんかと不信仰に至らせるというものです。あるいは、特にうまくいくわけでも、悪くいくでもなく、普通にことが進んでいくうちに人を「緩慢」にさせ、神がいるような、いないようなという感覚のなまぬるい信仰にさせ、いざという時の備えができないようにしてしまうというのがあるでしょう。ですから、過度な恐れはいけませんが、策略家サタンを正しく意識しましょう。敵前意識をもって「わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救い下さい」と祈り続けましょう。

◇「横に」…味方意識
 イエス・キリストが伝道生涯にはいる前に試みられました。サタンの三つの誘惑にあい、いずれにもきっちりと勝利されました。それはご自身のためでもあり、私たちのためでもありました。言い換えれば、イエスは人となられ、私たちが遭遇するサタンの誘惑にあわれたのです。私たちの味方になるためでした。そして、十字架にかかり、死んでよみがえることによって、勝利されました。結果はこうです。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。…主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブル2:14-18)。
 これまで述べてきましたように、完全勝利は約束されてはいますがまだ先ですし、今は暗やみの世界の支配者と格闘しなければなりません。しかし、イエス・キリストというお方が共に、傍らにおられて、祈り支えてくださいます。そうした中で、後の完全勝利を「先取り」として、今、信仰により、聖霊により、垣間見ることが出来るのです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。……しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:31、37-39 )。
 そこで、祈りましょう。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」。「わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救い下さい」。