オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神さまのお宝

2017-08-27 00:00:00 | 礼拝説教
2017年8月27日 伝道礼拝(イザヤ43:1~4)岡田邦夫

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)

何年か前に、東京に行った際に、私がかよっていた荒川区立第一日暮里小学校をたずねてみました。家から学校までこんなに道が狭く、こんなに近かったのか、校庭がこんなに狭かったかなあと驚かされました。校門前には『正直親切』と彫られた石碑があるのが目に留まりました。創立百周年(※創立は明治18年1885)の際に造られたもので、本校卒業生の高村光太郎直筆によるものだと説明文がありました。高村光太郎は彫刻家、画家でしたが、詩集の「道程」「智恵子抄」のほうが広く知られています。

◇どれもこれも…美しい
 彼が美大生の時、水野葉舟にさそわれて、植村正久牧師に会います。「先生、僕はどうしてもクリスチャンになれないんですが、何かいい方法はないでしょうか」と聞きます。問答があって、牧師から「だれがいったいその美しい自然を創ったのか」と問われ、また来るようにと言われました。しかし、キリスト教徒にはなりませんでしたが、美のうしろにあるものを考え続け、うわべではなく、ほんとうに美しいものを表現しようとしたと言います。彼の座右の書には聖書が筆頭にあげていました。
 聖書の最初、創世記1章には「初めに、神は天と地を創造した」とあり、「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった(それは極めて良かった)。」で結ばれています(カッコは共同訳)。創造者の手による世界は極めて良いもの、非常に美しいものだと言っているのではないでしょうか。全体も個々も、マクロも、ミクロも、神の芸術作品。ある神学者が言いました。神は「時」も造られた。これを受けて、伝道者の書は述べます(3:11)。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。
 ですから、夕日や満月や天の川を見て、人は美しいと感じるのでしょう。花や鳥や生き物を見て、美しいと感じる。人の立ち居振る舞いや生き方を見て、美しいと感動する。創造者が神のかたちに創造された人間に「美しい」と感じる感性をお与えになったのです。それが人生をどれほど豊かにしているでしょうか。美術や音楽や様々なものが生まれ、文化を作り上げています。信仰をもって神に近づくとき、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」がより一層感じられてくるのではないでしょうか。それが人にとって幸せなのではないでしょうか。

◇これこそ…美しい
 しかし、人は醜いものを持っています。神の造られたものを、破壊し、神の用意された隣人を愛せず、神を神と思わず、無視しています。人の世がいかに汚れてしまったことでしょうか。これを罪と言います。神はいかに寛大とはいえ、ほおってはおけない、罪汚れを一掃するため、裁きをくださなければなりません。それがノアの大洪水でした。しかし、新たな仕方で、人類を救いに導く道を開かれました。それが今日の聖書です(イザヤ43:1)。
「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの』」。
 ヤコブとかイスラエルのところにあなたの名前を入れて読んでみましょう。神はあなたを新しく造り変えて、非常に良いものにされるのです。あなたを名指しで特別に呼んでくださるのです。オーデションに合格したようなものです。審査員の神に気に入られたのです。
 不信仰で自己中心の醜い罪汚れは贖うという仕方でクリアさせてくださるのです。いけにえにすべてを着せてしまうのです。昔は羊などのいけにえでしたが、2000年前、神の御子が人となられ、十字架にかけられ、いけにえに(犠牲に)なられたのです。私たちは悔い改めて御子を信じるだけで、贖いが成立し、きよめられるのです。神から離れていたものが神のものとなるのです。言い換えれば、「非常に良かった」というほどの神の特別な宝物になるということです。贖うということは代価を払うということ、御子イエス・キリストのいのちの代価が払われて、あなたは神のものになったのですから、決して手放しはしないのです(43:2~4)。
「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。
もう少し、話しましょう。イエス・キリストは私たちの醜い罪汚れを引き取って、十字架にかかられたのですから、ご自身が極みまで醜くなられたのです。そして、死んだ。贖いは完全に成し遂げられたのです。私たちのすることは悔い改めて信じるだけです。しかし、御子は十字架において、徹頭徹尾、自己犠牲を払われたところに、神の御心、神の愛を明らかにされたのです。十字架こそ、神の最も美しい在り方を表されたのです。人となられた御子は最も美しい生き方を示されたのです。威風堂々としたものでした。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」とはそういうことなのです。

主は代々にわたって

2017-08-20 00:00:00 | 礼拝説教
2017年8月20日 主日礼拝(詩篇90:1~17)岡田邦夫

 「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。」(詩篇90:1)

先日、日野原重明さんが105歳で天に帰られました。1970年の日航機よど号ハイジャック事件に遭遇し、58歳の彼も人質になりました。事件4日目、乗客は全員無事、韓国・金浦空港で解放されました。その時、靴底で大地を踏みしめると、無事地上に生還したとの思いが膨らみ、これからの人生は与えられたもの、人のために生きよう、という決意に繋がったそうです。
この詩篇の表題は「神の人モーセの祈り」。モーセは幼児虐殺の手をすり抜け、パロ王の娘に拾われます。成人して同胞を助け、エジプト人を殺害したことが発覚し、パロ王に命を狙われ、ミデアンに逃亡。神の召命を受け、神の民を脱出させることになります。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(ヘブル11:24-25)。そのモーセの祈りなのです。

◇あなたに比べて私たちは…自覚
 その出エジプト、奴隷解放のため、主なる神がエジプトに川を血に変えたり、イナゴの大群や雹などの数々の災害をもたらし、最後は長子の死の悲劇をもたらし、イスラエルの民を奴隷から解放させます。そういう生ける神のわざを目撃したので、神と人を対比させるのです(90:1-6)。
主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。
山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、
まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。
あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」
まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、
夜回りのひとときのようです。
あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。
朝、彼らは移ろう草のようです。
朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。
 もし、永遠なる神を思わなければ、人生のはかなさを実感した時に耐えられるでしょうか。逆に、永遠なる神を思えばこそ、人生のはかなさを本当に実感できるのかも知れません。また、人生のはかなさを思い知らされる時、永遠なる神を慕い求めるのではないでしょうか。
「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」と言えるなら、「人の子らよ、帰れ。」と迫られても、覚悟が備えられます。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです」と信じ、突き抜ければ、うつろう、はかない人生も、小さなことにくよくよしなくてすむのではないでしょうか。

◇あなたに比べて私たちは…畏敬
 しかし、人は永遠の神を思わないのです。自分が永遠者だと思い込むのです。神がいるとか、いないとか、何とか、かんとか、小さな頭ではかろうとするのです。お前は何様だと、神はお怒りになるのです。それがモーセ五書のメッセージです。エデンの園、男と女は何を食べても、自由だった。園の中央の実は食べてならなかった。その知識の実を食べたら死ぬからだと主なる神が告げていた。ところが、それを食べたら「神のようになる」のだとサタンである蛇に誘惑され、女も男も食べてしまった。結果、人は労苦し、死ぬものなったのです(創世記3章)。
 この「神のように」ふるまっている傲慢な人間に対して、神の怒りが下されているのです。それが、次の歌の部分です(90:7-11)。
まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、
あなたの激しい憤りにおじ惑います。
あなたは私たちの不義を御前に、
私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。
まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、
私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。
 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。
だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。
 創造者にして聖なる神を恐れることが人の本分なのです。神を恐れることが知識の初めです。畏敬の念の「怖れる」という言葉がありますが、聖書の翻訳者は恐怖の方の「恐れる」を使っているのは、これらの理由からです。「私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます」から、言い逃れもできないし、ごまかしも効かないのです。そこで、神は人が「祈る」という助け舟を出されたのです。モーセの祈りです(90:12-17)。

◇あなたに比べて私たちは…祈祷
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。
帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。
あなたのしもべらを、あわれんでください。
どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、
私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに
会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。
あなたのみわざをあなたのしもべらに、
あなたの威光を彼らの子らに見せてください。
私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。
そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。
どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。
私たちはこのように祈りましょう。その祈りは現実となっていくものです。つかの間の人生、しかし、決して虚しい人生ではなく、わが人生に神がいてこそ、充実したものとなるのです。
 全身の筋肉が萎縮して身動きできなくなる筋ジストロフィーの石川正一君の「たとえぼくに明日はなくとも…車椅子の上の17才の青春」(1973年)という本を読みました。彼が14歳を迎えた夏、父親と一緒にお風呂に入り、背中を洗ってもらっていた時、勇気を出して「自分は何歳まで生きられるの」と聞きました。すると、父親から20歳位までしか生きられない事実を知らされます。そして、背中越しに父親がこう言いました。「いつまで生きられるかは問題ではなく、いかに生きるかが問題だ」。正一君はその言葉を深く心にとめました。キリスト者として神の前に、死ぬ最後の日まで生きようとしたと言います。毎日聖書を読み、日曜日の礼拝を大切にしたとも聞いています。
 長い時間を生きた日野原さんも、短い時間を生きた正一君も、永遠者の前に「自分の日を正しく数えて」生きたのでしょう。神が「帰ってきて」くださり、「悩まされた日々と、わざわいに会った年々に応じて、楽しませて」いただいたことでしょう。神の永遠は愛の永遠なのです。それはイエス・キリストにおいて明らかにされました(ローマ5:8-11)。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。…そればかりでなく、…和解を成り立たせてくださった…主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」。



付記:「たとえぼくに明日はなくとも」より

障害者になってみなくちゃわからないよ
歩けないっていうことはきっと意味があるんだよ
人間 この世に生まれてきた以上は必ず何かの使命があって 生を受けているんだからね
けれども 何もしていないとすれば
それは 生を受けていないことと同じなのかもしれないね
筋ジスという病気は僕にとって本当に重荷だけれど、それは、神様が何かの意味があって僕に与えてくださったのだから”恵み”ともいえるんだ。それは自分を高めてくれる“神の愛”なんだよ。
だから僕は、そのスタート台に立って、たとえ短くても、自分の納得のできる人生を生きなくてはいけないわけだ。


私の魂は恋い慕います

2017-08-15 08:37:44 | 礼拝説教
2017年8月13日 主日礼拝(詩篇84:1~12)岡田邦夫


 「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。」(詩篇84:2)

 この詩篇は「巡礼者の喜びの歌」と言えましょう。TVのニュースで、ある聖地に向かう巡礼の大群衆の映像が流れたりします。私たちの周辺でも巡礼地は様々あります。宗教には巡礼ということが付き物のようです。その巡礼の心持というのはどんなものなのでしょう。あるドラマを見ていましたら、こんなシーンがありました。地方から東京に出稼ぎに来ていた男が事件に巻き込まれ、行方不明。発見されるが記憶喪失になっていて、家族のことを思い出せない。それでも、父と妻と子供たちが待つ田舎に帰ることになった。思い出せない息子に父親が言う。「よ~く、帰ってきた」。感動の言葉でした。巡礼地というのは魂の故郷、原点なのであり、「よ~く、帰ってきた」と迎えてくれるところではないかと、私は思います。イスラエルの民にとってはシオンの山にあるエルサレム神殿がそれでした。

◇遥かなる聖地よ!
 この賛歌の前の表題にこう歌いなさいと書かれています。たぶんこうです。指揮者によって、ギデトという楽器か旋律をもって、礼拝と賛美の奉仕者・コラ一族が歌うように…と。
 いきなり、盛り上がります。切々たる思いが歌われます。「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います」(84:1-2)。恋人を慕うように、神のお住まい、神殿の大庭を恋い慕って絶え入るばかりですと言うのです。神殿で仕える人たちはもちろん、神殿に巣を作って住んでいる雀やつばめもうらやましいというのです。それは信仰者として、本来的な思いなのではないのでしょうか。「敬虔」というものです。
 私の恩師は敬虔な生き方を求めた師でした。家具といえば、結婚する時に持ってこられた小さなタンスとみずやとちゃぶ台、後は本立て。テレビも相撲と高校野球観戦だけ。下着も裏が透き通るまで着るなど…。修道僧のようでした。クリスマス祝会の最後にはご夫妻が前に立って、思いのたけを歌うのです(新聖歌150)。「旅人なるこの身にとりて、慕わしきは天(あま)つ故郷(ふるさと)、救い主に見(まみ)ゆるまでは、心満たすものはあらじ。さえずり交わす小鳥の歌も、色とりどりに群れ咲く花も、み使いらの歌に及ばじ、天つ家に比べ難し」。
私のような俗人にはとうていまねのできない生活でした。しかし、そういう生活をするかどうかは別として、天の故郷を慕う思いを持つことが大事だと考えます。どうでしょう、信仰者の魂のどこかに「私のたましいは、主の大庭を恋い慕う」、「旅人なるこの身にとりて、慕わしきは天つ故郷」という聖地への思慕があるのではないでしょうか。その敬虔な思いを宝としましょう。主がそれをどんなに喜ばれることでしょうか。

◇間近なる聖所よ!
 「セラ」は休止符のようなもの、次に行きましょう。
 実際の巡礼の旅は乾燥した荒野を行き、険しい危険な谷を通っていかなければなりません。それを詩人は心の旅だと内面化させて歌うのです。
「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり(すなわち「あなたによって勇気を出し」共同訳)、その心の中にシオンへの大路のある人は」(84:5)。心の中にシオンへの大路のある人は幸いなのだと言います。(余談ですが三田市フラワータウンにシオン橋というのがありますが、それは紫苑というキク科の植物のことです。)信仰者には心の中に神の聖所に通じる広い道がある、ハイウェイがあるのです。神が臨在する聖所に真直ぐいける、一つの障害物もないイエス・キリストご自身の道があるのです。
「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」(84:6)。水野源三さんは高熱で脳性麻痺となり、体を一切動かせず、話すこともできなくなるという涙の谷を通られました。しかし、イエス・キリストを信じ救われ、そこを泉のわく所とされ、瞬きをもって、恵みにあふれた詩集を出してくれました。星野富弘さんは頸椎損傷(けいついそんしょう)、首から下が動かなるという涙の谷を経験。しかし、信仰に立って、泉のわく所とし、筆を口にくわえて、多くの人を励ます詩画を世に送り出し続けています。
私たちは涙の谷を通ります。しかし、主イエスはそこを泉あるところとし、神に出会う聖所にしてくださるのです。

◇大いなる聖者よ!
 巡礼者が慕っているのは聖地であり、聖所なのですが、そこに生ける神がおられるからですね。この賛歌に繰り返されている神の名が「万軍の主」です。その訳語から、私たちは軍神のようにイメージしてしまいますが、そうではなく、それを超越された方なのです。羊飼いたちがイエスの降誕のみ告げを聞いた時、「天の軍勢」が現れて、神を賛美しました。万軍の主はそういう天地のすべてを収める最高の方、軍勢の主なのです。しかも、私の王、私の主なのです(84:3)。イエス・キリストのあがないによって、私の味方なのです。
新約のローマ8:31と35を読みます。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。…死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。
 そういう味方である万軍の主のそばにいたいのです。悪の天幕に住むより、神殿の門口にいたいです。万軍の主は太陽のように恵みと栄光を授け、主に信頼する者に良いものを拒まれないのです。それはなんと幸いなことでしょう。
 もし、道を外したとしても、万軍の主であり、父である方の懐に立ち返る時、こう言ってくれるかもしれません。「よ~く、帰ってきた」。懐にいて信頼している者には「よ~く、いてくれるなあ」と…。

静まって私こそ神であることを知れ

2017-08-10 10:06:57 | 礼拝説教
2017年8月6日 二か所礼拝(詩篇46:1~11)岡田邦夫

 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)

 詩篇は賛美歌のようなもので、情感豊かに表現されていますので、読者もその豊かさを感じ取り、思いを自由に膨らませていくのがよろしいかと存じます。今日、お話しするのは詩篇46編、7節と11節にある「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」をおりかえしとすると、1~3節が1番で、折り返しなしで、4~7節が2番、8~11節が3番だと、私は見てとりました。そして、賛美歌を歌うように読んでみました。響いてきた言葉が「立ち騒ぎ」でした。

 それというのも、先週、大阪の教会に行きました。田畑と山に囲まれた所に住んでいますので、都会に出るとその騒音に疲れを覚えました。というのは先日、TVで自閉症の方の特別番組があったので、見ていました時、ある方がこう言っておられたからです。たとえば、都会の道を歩いていたり、お店に入ったりすると、自閉症の自分はいろんな音が聞こえてくる。全部の音を拾って聞いてしまうので、うるさくて、耐えられなくなると言うのです。私もどんな音が聞こえてくるか気にかけていると、電車の中がうるさい、特にトンネルに入ったら、その轟(ごう)音たるや耐え難いものでした。また、TVスタジオで背景がきらびやかすぎて、落ち着かず、いたたまれなくなるという証言もありました。これは色の騒音だと思います。それが象徴するように、私たちは「立ち騒ぎ」の状況にあり、それへの救いのメッセージがこの詩篇にはあるのではと思います。

◇エジプトで、エルサレムで、騒ぎ立ったが…
「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた」(46:5-6)とあるので、聖書の出来事に思いをはせてみましょう。
 イスラエル人がエジプトの奴隷となっていました。過酷な労働や人口抑制政策に耐えられず、主なる神に叫んでいました。神がモーセを立て、パロ王の前に出て、対決する。神の民の解放のため、主はナイル川の水を血に変える災いをエジプトにもたらし、彼らは騒ぎ立つのである。しかし、パロはかたくなに解放しない。そういう災いが何度も何度も起こされて、ついに解放され、神の民はモーセに導かれ、エジプトを脱出。それでも、出エジプトした民をパロの軍勢が追ってくる。紅海(葦の海)岸に追い詰められ、今度は、民は騒ぎ立つ。神の声がモーセにあった。杖を差し伸べると海は分かれ、民が渡り切り、追っ手は海が戻って、呑み込まれ、民は救われ、踊って喜んだのです。
 イスラエルが南北に分かれていた時のことです。北イスラエルがアラムと連合軍をくんで、南ユダ(エルサレム)に攻めてくるという報告があった。すると「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」のである(イザヤ7:2)。預言者イザヤは、それは起こらないと安心させ、むしろ65年後に北イスラエルは滅びると預言する。現実にアッシリヤ軍が北イスラエルを滅ぼし、次は南ユダに迫り、エルサレムを包囲したのである。降伏せよと怒鳴り、騒ぎ立つのである。城内の民は王の命令で、黙り込んでいる。
 ヒゼキヤ王は真剣に祈る。預言者イザヤに神の声があった。「わたしはこの町を守って救おう」(イザヤ37:35)。奇跡が起こる。「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り…」(同37:36-37)。
「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた」のです。
 こうして、「神の民」存亡の危機の時に、そこに助け手となられたのです。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(46:1)。口語訳「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。共同訳「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこ
にいまして助けてくださる」。

◇ガリラヤで、ゴルゴダで騒ぎ立ったが…
 その旧約の救いの神は新約の救い主です。それはこの出来事が証明しています。聖書を読みましょう。「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。』イエスは言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」(マタイ8:24-27)。心が騒ぎ立つ弟子たちを救うため、自然界に命じるのです。風よ、湖よ、静まれと叱る。凪になったのです。前述の奇跡をなした救いの神だということです。
 もう一度、似たことがありました(マタイ14:24-33)。弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸に舟で渡ろうとした時のことです。「風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、…弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ。』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた」のです。立ち騒いだのです。
 そこでイエスは言われました。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。まさに「悩める時のいと近き助け」です。「わたし」は創造の神、出エジプトの神にしか使われない「わたし」です。
 調子に乗ったのか、海上を歩きたいと言うので、ペテロが少し歩いた。「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ」のです。弟子たちは信仰告白をします。「確かにあなたは神の子です」。
 私たちの人生、教会の歴史にも、その船が荒波にもまれ、騒ぎ立つことがあります。しかし、その船の中におられ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と優しく、力強く語りかけます。風と湖をしかりつけられ、大なぎにされるのです。宗教改革を進めていたルターはどれほど、中傷、誹謗を浴びせられていたか。そうした立ち騒ぎの中で、この詩篇46篇が大変な支えになりました。賛美歌も作りました。「やめよ(静まって)。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」(46:10)。

 「騒ぎ立つ」で決して忘れてならないのが、主イエスの受難です。ゲッセマネで、主イエスは心が騒ぎました(ヨハネ12:27)。人類の罪を背負い、贖いを成し遂げることがどれほど過酷なことか、苦しい事か、「わたしは悲しみのあまり死にそうです」と訴え、この苦い杯を過ぎ去らせてほしい、しかし、御心なら、飲みますと三度も祈ります。祈りの中での騒ぎ立ちです。御心に従い、十字架に向かいます。一方、ユダヤの当局も、イエスの出現に自分たちの利権にかかわるとして、立ち騒いでいます。強引に主イエスを逮捕し、裁判にかけます。ピラトの前で、「十字架につけろ」と群衆を巻き込み、シュプヒコール。
 しかし、主イエスは人類の罪を背負い、贖いを成し遂げられたのです。そこまでしてくださったからこそ、私たちは罪と死と滅びの荒波から救われるのです。騒ぎ立つ魂に「やめよ(静まって)。わたしこそ神であることを知れ。」という御声を聴きましょう。