オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

イエスの涙

2010-02-28 00:00:00 | 礼拝説教
2010年2月28日 伝道礼拝(ヨハネ11:32~36)岡田邦夫


 「イエスは涙を流された。」ヨハネ福音書11:35

 ある物事に直接にであうという、漢字二文字の「直面」はよくご存じだと思います。この直面は「能」においては「ひためん」と読みます。直面は、面(おもて)を着けない、素顔のことを言い、この素顔もまた、面のひとつと考えるからです。能面をつけるときと同じように、素顔という面をつけて、能面のように演じるというわけで、すべてを含めて、仮面劇なのです。無表情のようで、より深い内面をあふれだす、高度な演劇です。
 人生において、人は仮面をかぶって生きています。しかし、何かに直面する時に、素顔があらわれ、それが「ひためん」となって、内面を豊かに現していくのではないでしょうか。
 私たちは新しい事態に直面するとたいへん緊張します。例えば、子供が幼稚園に行くというのは、家を離れ、集団生活をするわけですから、子供は恐れたり、動揺したり、興奮したりして、対応することがたいへんなのです。いそいそ行く子もいれば、泣く子もいます。よくある光景です。そうしたことは、人生を積み重ねていく上で、ついてまわることです。そうして、人は成長していきます。
 しかし、事故にまきこまれたり、重い病気になったり、大事なものを失ったり…、思ってもないことに遭遇すること、想定外のことに、直面することがあります。病弱な人は病気慣れしているせいか、気持ちは平気だったりします。しかし、元気な人が突然、病気をすると意外と動揺するようです。想定外のことに直面するからでしょう。

◇主の奇跡に直面する時
 今日の聖書の箇所はドストエフスキーの「罪と罰」にも大事な所で出てきます「ラザロの復活」です。イエスが親しくしておられたマリヤ、マルタ、ラザロの姉弟がベタニヤ村にいまして、そのラザロが重い病気になったので、姉妹たちは、イエスのところに使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(11:3)。不測の事態、病気に直面し、死ぬかもしてないと心配し、動揺し、イエスに助けを求めたのです。
 これを聞いたイエスはすぐ駆けつけるかというと、なお、2日もそこに滞在されたというのですから、いっしょにいた弟子たちには理解できません。イエスは平然とこう告げます。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。…ラザロは死んだのです。…さあ、彼のところへ行きましょう」(11:12-15)。ラザロの身に何が起こっているか、また、何が起こるか、イエス・キリストは見通しておられますが、弟子たちはその事態に直面していないので、この言葉を理解できません。
 イエスが到着した時、ラザロは死んで墓に葬られ、4日もたっていました。イエスは悲しみにくれているマルタに告げます。「あなたの兄弟はよみがえります。…わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(11:25ー26)。信じがたいことばです。イエスがほら穴式の墓に行き、ふた石を取りのかさせて、祈りました。そうして、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれますと、何と死んでいたラザロが、生き返り、手と足を長い布で巻かれたまま、顔は布切れで包まれまま、出て来たのです。イエスはそこにいた人たちに言われました。「ほどいてやって、帰らせなさい」(11:43-44)。ラザロの生き返りは「しるし」でした。信じる者は死んで終わりではなく、復活があること、栄光のからだによみがえる希望があることの「しるし」でした。

◇人が死に直面する時
 要点だけを話しましたが、ラザロの死と生き返りに関するプロセスということが重要だと思います。なぜなら、人は誰もが最後に直面しなければならないのが、「死」です。考えたくないことであり、まだ、自分には関係ないと思っているのが普通でしょう。しかし、必ず、やってくることなのですから、考えておくべきでしょう。
 そこで、精神科医エリザベス・キュプラー・ロスという人が「死ぬ瞬間-死とその課程-」という書をあらわし、話題になりました。死を宣告された患者がその人生の最後を、どのような心の課程で過ごしていくのかを、多くの臨床の中から、まとめたものです。
 第1段階は否認です。死の告知を受けると、ほとんどの臨死患者が「違う、それは真実ではない」と反応する。何かの間違いであり、死の事実を受け入れるなどとんでもないことだと否定する。
 第2段階は怒りです。もはや死の可能性が否認できなくなると、怒り、憤り、羨望、恨みなどの感情があらわれる。見るものすべてが怒りの源となる。
 第3段階は取り引きです。
ひょっとすると、自分の死を先へのばせるかもしれないと考える段階である。自分が良いことをすれば、神が褒美に癌を治してくれるかも知れないなどと考える。
 第4段階は抑うつです。もはや自分の死を否認できなくなり、衰弱が加わってくると、喪失感が強くなってくる。抑うつはこの喪失感の一部でもある。
 第5段階は受容です。痛みは去り、闘争は終わりと感じる。疲れきり、衰弱し、短く間隔をおいて眠る状態となる。ここではほとんどの感情がなくなってしまっている。
 人によって違いますので、あてはまらないこともあります。しかし、おおむねこのような悲哀のプロセスをたどるものだということを知っておきたものです。また、見送る家族の悲哀のプロセスはまた違いますが、似ているところがあります。ここで、復活の信仰が与えられれば、たいへん希望のある、平安にたどり着く、展開になるでしょう。そのことを申し上げたいと思います。

◇イエスも死に直面する時
 イエスはラザロを「友」と呼びました。親しい友人として関わられたのです。ですから、ラザロの死はどれほど悲しいものがあったでしょうか。聖書にはこう記されています(ヨハネ11:33ー36)。
 「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
 何事にも冷静で、超越した方のはずのイエス・キリストが霊の憤りを覚え、心の動揺を感じたのです。そして、涙を流されたのです。死人を生き返らせることができるのですし、即刻、それをしようとしているのに、憤り、動揺し、涙を流されたのです。ラザロを亡くしたマルタやマリヤの悲嘆を自らの悲嘆とされたのです。悲しむ者と共に悲しむ者となられたのです。近所の人の同情の涙とは違います。マルタ自身、マリヤ自身の悲しみをそっくり引き受けて、涙されたのです。どこにも持って行き所のない悲嘆を全部、涙に変えられたのです。
 しかし、それだけではありません。きっと、死んでいったラザロの死にゆくプロセスを、経験されたのではないでしょうか。それは上記の5段階かも知れません。否認と孤立/怒り/取り引き/抑うつ/ 受容という、人間にとって壮大なプロセスをすべてを共有されたのが、イエス・キリストが霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、そして、涙を流されたという中にこそ、あるのではないかと思います。まさにイエス・キリストは「死」というものに直面されたのです。ご自身が十字架の死に向かう時に、ゲッセマネの園で祈りました。血の滴るように汗を流し、苦しみもだえ祈られました。そして、その苦い杯をのみほすように、十字架にかかり、死の苦しみを、すべて、私たちのために担われました。
 ですから、あなたがもし、死にゆく時に、決して、ひとりで戦っているのではないことを思い出してください。あなたが否認する時、ラザロの墓におられた主がかたえにおられるのです。怒りるときも、取り引きするときも、抑うつのときも、最後の受容のときは最もそばにおられるのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)。

◇そして、復活に直面する時
 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言われました(15:13)。イエス・キリストは上記のようにいのちを捨てられたのです。このように、まことの「死」を通られたからこそ、父なる神はイエス・キリストをよみがえらせたのであり、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と言われるのです(11:25ー26)。まことに死なれたからこそ、まことに復活されたのです。ですからこそ、信じるあなたが死に直面した後に、まことの復活に直面するのです。あなたは信じますか。これから、直面することがわかっていれば、希望がありますね。


よい羊飼いのイエスさま

2010-02-21 00:00:00 | 礼拝説教
2010年2月21日 CS礼拝(ヨハネ福音書10:1~18)岡田邦夫


 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 ヨハネ福音書10:11

 「迷」という漢字があります。左側のしんにょうは道をあらわします。右側は「米」で、真ん中から八つの方に道がのびてるような字です。真ん中から、道がたくさんあって、どの道を行ったらいいのか、わからなくて、まよっているというような漢字ですね。きょう、お話しする「羊」というのは道に迷いやすい、迷子になりやすのです。どっちにいったら、草や水があるのか、どっちにいったら自分の家に帰れるのか、どっちに行ったら危険なのか、安全なのか、よくわからないのです。羊はよく迷子になるのです。
 イエスさまは、人間は迷子の羊のようだと言いました。神さまから勝手に離れて、神さまの所に帰る道も、天国にいく道も見つけられないで、迷子になってしまっているのです。でも、迷子の羊の所に羊飼いがきてくれれば、迷わないで、帰れますね。
 ちょっと、ことばの遊びをしてみましょう。ブログの方は文字がずれてしまうので修正を




  ま よ い や す い
わ し く き
い な う る

 横に読んで、それから縦に読んでいきましょう。羊である私たちは、「まよいやし」です。また、つらいことや、誘惑や、死ぬことなどに「よわい」ですね。でも、良い「ひつじかい」であるイエス・キリストさまが来てくだされば、私たちのことを「やしなう」ことができ、「すくう」ことができ、そして、永遠のいのちに「いきる」ことができるのです。ブログの方は文字がずれてしまうので修正を。
 でも、私たち羊のところに、「ひつじかい」イエスさまがいないと、
  ま よ い や す い
わ じ け ね じ
い け に る わ
る な る

いじけたり、やけになったり、すねたり、いじわるになったりするのです。

 でも、注意しましょう。良くない羊飼いがいるのです。良くない教えを説く人です。良さそうに見えて、羊を救ってくれない羊飼いです。良い教えを言っているようでも、神さまの所にも、天国にも連れて行ってはくれない人です。それはオオカミが襲ってきても弱い羊を助けてくれませし、羊をおいて逃げていってしまうようものです。
 安心してください。イエス・キリストさまは「わたしは良い羊飼いである。」とおっしゃってくださいました。ほんとうに良い羊飼いなのです。悪魔というオオカミが襲ってきても、羊飼いの杖で追い払ったり、戦ってくれたりして、私たち羊たちを守ってくださいます。
 さらにイエスさまはこう言われました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。良い羊飼いのイエスさまは、羊の私たちを救うために、命を捨ててくださるほど、愛してくださったのです。
「羊」という字の下のほうに「苦」しいという字を重ねてみましょう。ブログは重ならない


真ん中の「十」のところを取ってみましょう。すると「善」という字になります。「良い羊飼い」を昔の聖書では「善き牧者」と書いて、よきひつじかいと読んでいました。罪と死と滅びというオオカミから私たち羊を救うために、羊の身代わりになって、「苦」しみを羊にかわって受けて、「十」字架にかかり、死んでくださいました。そして、復活されて、永遠の命を私たち羊に与えてくださり、ほんとうに救ってくださったのです。

 ウェンディという女性の話をしましょう。1981年8月、キャンプから帰る山道で、車と車が衝突して、60メートル下の谷底におちてしまいました。ガソリンがもれて爆発し、火の海になってしまいました。ウェンディさんはやっとのことで、窓からはい出しました。でも、からだの半分以上やけどをし、背骨も折れてしまいました。
 救急車がくるまで、とても時間がかかったのですが、頭がぼんやりしてきたのですが、ウェンディさんの耳元でだれかが歌ってくれたのです。
  主われを愛す。主はつよければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。
  わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。
 でも、救急車が着いた時、そばには誰もいなかったと救急隊員が話していました。不思議なことです。お医者さんががんばってくれたので、背骨も、やけども治っていきました。体と顔にやけどの痕が残りました。それはとても心に深い傷になりました。でも、良い羊飼いであるイエスさまを知り、心が楽になりました。ウェンディさんはこう言いました。
  「これは私がイエスさまの大切な羊だという印なの。」
 そのようにして、ウェンディは体も、心も良い羊飼いイエス・キリストに助けられたのです。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10:11)。

今はよく見える

2010-02-14 00:00:00 | 礼拝説教
2010年2月14日 主日礼拝(ヨハネ福音書9:1~41) 岡田邦夫


 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」ヨハネ福音書9:3

 生まれつきのもので、ここぞという時にそれが役に立ったという話です。使徒パウロが伝道旅行の三度目に、主に示されてエルサレムに行きましたところ、キリスト教に反対するユダヤ教徒たちによって、町が大騒動になりました。それはローマ軍を出動させるほどでした。そのため、彼は捕らえられますが、その時、生粋のヘブル人だったので、ヘブル語で群衆に証詞ができました。また、生まれながらにローマ市民という特権を持っていたので(使徒22:28)、裁判を受けるために、行きたいと望んでいたローマに行くこととなりました。これは使徒としての特別な使命のためでした。

◇生まれつきなので、変えられないもの
 しかし、人には生まれつきのもので、マイナスと見える、どうにもならないものがあります。それさえなければいいのに思えることがあります。ここにでてきます生まれつきの盲人がそうです。まず、その盲人をイエスは道の途中でご覧になりました。盲人は生活のため物ごいをしていたのでしょう。イエスは一人の人格として、あわれみの眼差しでご覧になったことでしょう。しかし、弟子たちは気の毒だと思いながら、世間一般の感覚で、イエスに尋ねます。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。この人は不幸だ、それには原因があるのではないか、何かのせい、誰かのせいにしようとする因果応報の考えです。当事者には何とも残酷な質問です。因果応報論は旧約聖書の試練にあったヨブをさんざん苦しめたものです。それを克服していった経緯はヨブ記をお読みください。
 しかし、イエス・キリストは一刀両断、それを切り捨てます。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません」(9:3)。決して虚言ではなく、真性の神の言葉です。人は神に造られた者です。造った方の目的があるのです。イエス・キリストは創造者として、告げます。「神のわざがこの人に現われるためです」(9:3)。それはすべての人に告げる言葉です。人の生きる目的は誰もが、神のみわざを現すことなのです。

 スウェーデンで、一人の女の子が両腕がなく、左脚が右脚の半分の長さしかないという障害を持って生まれました。3歳で水泳教室に通い始め、やがて、1988年ソウル・パラリンピックへの出場しましたが、91年からゴスペル・シンガーとして活動を始め、多くの人々に愛と希望のメッセージを伝え、感動を与え続けています。彼女の名はレーナ・マリア・クリングヴァル。愛と希望と感動を与えているわけはこうです。彼女の母アンナさんの祈りでした。「神さまは何らかの目的をもってこの障害をゆるされたのだと思いました。ですから、この障害を用いてください。どうぞ助けて用いてくださいといつも祈らされたのです」。また、レーナさん自身の信仰の生き方です。「神さまは、きっと何か特別なご計画があって、私をこのように造られたのだと思います」。
 レーナ・マリアさんのように、生まれつきの変えられないものと向き合っていくことはそう簡単なことではありません。そこで、ラインホルト・ニーバーの詩、「祈り」のように、祈っていきたいものです。
   変えることのできないものに対しては、
   それを受け入れるだけの冷静さを、
   変えることのできるものに対しては、
   それを変えるだけの勇気を、
   そして、変えることのできないものと、
   変えることのできるものとを見分ける知恵をわたしに与えて下さい
 また、生まれつきの変えられない自分を、瞬き(まばたき)の詩人・水野源三さんの詩、「生きる」のように、素朴に思って生きるのもよいでしょう。
   神様の 大きな御手の中で
   かたつむりは かたつむりらしく歩み
   蛍草は蛍草らしく咲き
   雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
   神様の 大きな御手の中で
   私は私らしく生きる

◇生まれつきでも、変えられるもの
 それから、イエスはこの生まれつき盲人の目を開くという奇跡を行われます。この奇跡というのはイエスが神の子であるということを証しする「しるし」です。イエス・キリストは世の光として、世に遣わされてきました。ご自身の死という夜がくる前に、遣わされている昼の間に、遣わした父なる神のわざを行なわなければなりませんと話されます。私たちは誰もが霊的に生まれつき盲人なのです。神のことも、罪のことも、霊的なことはいっさい見えないのです。これこそ、変えようにも変えられない現実です。しかし、イエス・キリストは私たちが見えるようになるために、世に遣わされたのです。変えられないものを変えるために来られたのです。
 そして、創造の時に土のちりで人を形造りられたように、イエスは「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ、その泥を盲人の目に塗」りました(9:6)。それは再創造の「わざ」です。主は「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」と命じます(9:7)。そこで、彼は行って、洗いますと、見えるようになって、帰って行ったのです。シロアムは父である神から遣わされたイエス・キリストご自身の象徴です。十字架において、贖いをなしとげられ、血と水を流されました(19:34)、その血と水によって、霊の目が洗いきよめられ、開かれるのです。罪のことも、神のことも、救いのことも、霊的なことも見えてくるのです。
 この目の開かれた人はパリサイ人の前で、こう断言しました。「生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません」(9:32口語訳)。霊の目が開かれるとはそれほどのことなのです。「アメージング・グレース」を歌いたいですね。特に4行目です。直訳も載せておきましょう。
Amazing grace how sweet the sound 驚くほどの恵み、なんとやさしい響きか
That saved a wretch like me. 私のような罪深き者も、救われた
I once was lost but now am found, かつて私は失われ、いま見出された
Was blind but now I see. 盲目だったが、今は見える

 この奇跡のなされたのが安息日。安息日はいっさいの仕事をしてはならない日です。医療行為もです。イエスの行為は律法違反になるとして、パリサイ人が当人と両親を追求します。そして、彼を会堂の外に追い出してしまいます。その彼をイエスが見つけ出します。そして、彼は開かれた目で救い主イエスにしっかりと出会い、信じて、真に救われました。そして、真の礼拝をいたしました(9:38)。これこそが、真に変えられた姿です。さらに、イエスはパリサイ人に向かって言われました。「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(9:41口語訳)。偽善ぶりを痛烈に批判しました。ですから、私たちは目が開かれたこの人のように証ししましょう。神の国が見えるように大きく生まれ変わったのですから(3:3)。
 「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(9:25)。
 新聖歌353の歌詞をかみしめて、賛美しましょう(2節)。
  かつては罪のため 心は曇りて
迷いしが今は目も 全く開きたり
  われ知るかつては 目見えざりしが
  目を開かれ 神をほむ 今はかくも

私は、あなたを罰しない

2010-02-07 00:00:00 | 礼拝説教
2010年2月7日 主日礼拝(ヨハネ福音書8:1~12)  岡田邦夫


 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ヨハネ福音書8:11

 列車のダイヤ改正などで、運行表を作る人たちをスジ屋と呼んでいます。運行表は横が時刻、縦が駅名のグラフで、一列車ごとに斜めにスジを引いて作成していくからです。牛田貢平という人が「プロフェッショナル・仕事の流儀」というNHKの番組で取り上げられていました。彼によって、東京の地下鉄・東西線が朝のラッシュ時の慢性的な遅れが半分以下になり、客からの苦情も10分の1に減ったというやり手です。その仕事は600本の線を引くだけでなく、乗務員のシフトや他社の車両の乗り入れなどの交渉もしなければなりません。それで、スジ屋の彼は自分の流儀をこう言います。「サラリーマンはスジを通せ」と。筋を通すというのは大切なことですが、時には変な筋を通そうとして、やっかいなことになることもあります。

◇悪の筋書き
そのやっかいなことがエルサレムの神殿で、イエスが教え始めた時に起こりました。聖書にはこう書いてあります。「すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』」(8:3ー5)。そのような現場を押さえて、その女性を多くの人の集まっている神殿に連れてくるというのは何とも乱暴な話です。また、彼らがイエスを告発する理由を得るために、この女性を利用してやろうというひどい話でした。
 もし、イエスが姦淫は罪、モーセの律法の示すように罰せなけばならない、それが筋だと言えば、民衆はイエスは愛のない人だと受けとめ、離れて行ってしまうでしょう。また、イエスが愛をもって、赦しなさいと言えば、モーセの律法に反することを教えているとして、当局に告発し、抹殺してしまうことができます。どちらを答えてもおとしめられる彼らのワナであり、悪の筋書きでした。

◇イエスの筋書き
 しかし、イエスは絶妙な対応をなさいます。まず、周囲の人たちは姦淫を犯したという彼女に興味の目がいっていたでしょう。そして、この問いかけにどう答えるのかということでイエスに興味の目がいっていたでしょう。視線は両者に向けられていました。そこで、イエスは身をかがめて、指で地面に何かを書き始めました。すると周囲はどうして何も答えず、身をかがめたのか、何を書いているのか、そちらに感心がいくわけです。彼女が何をしたのかという興味が薄れて、イエスご自身の方に興味が集中していくわけです。それで、彼らが問い続けてやめなかったのです。
 ここで、イエスはメッセージをされます。身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われ、もう一度身をかがめて、地面に書かれたのです(8:7-8)。イエスに対する関心事を、彼ら自身の心に向けさせたのです。ほんとうに人を裁くことができるのは神だけですし、また、罪のない者だけです。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と良心に問いかけたのです。これが神の前の人間の筋道(道理)です。その筋道を通そうとされるイエスの流儀なのです。

 1994年6月27日に長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、死者を含む多数の被害者を出した事件がありました。その時にサリン被害者でもある無実の人が第一通報者であることから容疑者とされ、マスコミには犯人扱いされて報道されました。そして、1995年3月20日に更に多くの死者と被害者を出した東京都の地下鉄サリン事件が起きて、カルト新興宗教団体のオウム真理教が起こしたしたことが判明されました。事件そのものが恐ろしいことでしたが、無実の人が何の証拠のないまま、容疑者とされ、犯人扱いされ報道されてしまったことはもう一つの恐ろしいことでした。これは、この聖書の場面でいうならば、女性の周りを取り囲み、手に石を持って投げようとしたことに相当します。松本の事件では実際に無実の人に、犯人だと言って石を投げてしまったのではないでしょうか。それは決して他人事ではありません。主イエスは私たちに告げるのです。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と。
 そもそも、女性を連れてきたこと自体がおかしな話だと思われます。モーセの書(レビ記20:10-19、申命記22:22-30)によれば、姦通罪は男女共に処罰されるか、男性だけが有罪とされるかで、女性だけ処罰されるということは記されていません。それが死刑に処せられる場合は、二人ないし三人の証言を必要とするとあり、死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下すとなっています。
 それで、どうなったのでしょうか。「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」と記録されています(8:9)。だれも、手に石を持つ者はいなかったのです。心の中に石を持とうとしたのですが、石をおいたのでしょう。人生経験から感じる所があっったのでしょうか、年長者たちから去っていったのです。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」という言葉はまさに、賢者の言葉です。

◇福音の筋書き
 皆が去って、ここで話は終わりません。その後のことに、主イエスの主イエスであるところのメッセージがあるのです。イエスは身を起こして、その女性と話します(8:10ー11)。
 「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
 「だれもいません。」
 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 イエス・キリストは単に誰も罪に定めないから、それでよしとするような仕方で安易に赦されたのではありません。人を罪に定めることできる方で、人を罪に定めなければならない義なる方です。義なる方として、父の御前に筋を通さなければなりません。彼女の姦淫罪の処罰を、ご自分が代わって、十字架において、御前で受けられたからこそ、神の義が貫かれ、彼女の罪を赦す神の愛が貫かれたのです。それが救い主イエス・キリストの義と愛の筋道なのです。この姦淫の女は私であり、あなたです。
 ローマ人への手紙を開いてみましょう。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:33ー34 )。イエス・キリストは十字架で贖いをなしとげ、死んでよみがえり、神の右にあげられたことを通して、天に対しても、地に対しても、父なる神に対しても、サタンに対しても、愛と義の筋道を通され、私たちを完全で確かな救いに導いてくださったのです。
 その意味で、今日のみ言葉を心に聴きましょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ福音書8:11)。