オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

逃れの町

2015-12-27 16:32:50 | 礼拝説教
2015年12月27日 年末感謝礼拝(申命記19:2~13)岡田邦夫

 「――私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら――そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。」申命記19:9


 今日は年末感謝礼拝で、ちょうどよい証詞が寄せられました。D兄による2015年を振り返っての感謝の証詞で、それは三田泉教会の献げものといえるものです。「グレイスインサンダ」に印刷しましたので、ぜひともお読みください。ただ、これまで、シリーズで聖書から話していて、本日の予定が申命記19章の「逃れの町」のところですので、ここからお話いたします。

◇無益な血を流すな…イスラエル
 イスラエルに与えられた掟のうち、特徴的なのが、この逃れの町という制度です。カナンに入国した時、距離を測定し、その地を三区分し、逃げてこられる三つの町を取り分けなければならないというものです。殺人者はだれでも、そこにのがれることができるという「逃れの町」です。
 「たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる」。そのように「知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合」だけです。
 「以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない」という理由です。怒りに任せた血の復讐をさせないため、過失者の保護政策です。真の理由は「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないため」なのです。
 しかし、もし人が自分の隣人を憎み、故意に殺害し、この町に逃げてきた場合は、彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡し、死刑にしなければならない。目には目を、歯には歯を、命には命をの原則です。理由は「彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのため」なのです。

◇有益な血を流す…イエス
 そして、逃れの町を設ける、その根底にあるのは信仰的態度なのであります。申命記19:9「――私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら――そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい」(※ヨルダン川の東の地ではすでに逃れの町は設けられていました。4:41-43)。神が求めておられるのは主を愛し、神の命令を守り、いつまでも信仰の道を歩むということです。そのもとで逃げ場のない者に逃げ場を設けるのだというのです。
 私が見た映画の中に「逃亡者」というのがありました。主人公が逃げきれて、痛快でした。映画解説者がこう言っていました。欧米の作品は逃げ切れるのがよくあるが、日本の作品はほぼ逃げ切れないで捕まってしまう。大陸と島との地理的条件でしょうと。出エジプトこそ、エジプトの奴隷の家から逃げ切った救いの歴史です。
 その前にモーセ自身も、パロ王に殺されのを避けて、ミデアンの地に逃亡しました。ダビデもイスラエルの王になる前はサウル王の殺害の手を逃れ、逃亡生活をしていました。イエスご自身もみどりごの時、ヘロデ王の害の手を逃れ、一時、エジプトに逃れておられました。
 日本語の津波は世界の言葉になっています(Tsunami)。何度も起こった災害を教訓に、大きな津波がきたら、とにかく高いところに逃げなければならないとしきりに言われています。人生にもどうしても逃げなればならない時があるのです。逃れ場が必要なのです。真の逃れ場は全能者の影です。モーセもダビデもそうでした。イエスも人と同じ経験をされるため、逃れることがあったのです。「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント10:13口語訳)。逃れる道を備えてくださっている神のご配慮を経験するためです。

 根底にあるのは私たち罪びとが神の最後の審判から、絶対に逃れられないということです。どんなに人からいい人だと言われ、善行を積んだとしても、すべての人は罪を犯しており、裁きは免れられない、逃れられないのです。しかし、イエス・キリストは逃げ場を造ってくださいました。十字架の贖いにより、罪が赦され、イエスの懐、逃れ場に行けるのです。キリスト・イエスにあるものは(イン・クライスト)罪に定められないのです(ローマ8:1)。今や、逃れの町はイエス・キリストご自身なのです。

 この年、あなたは逃れの町に駆け込みましたか。逃れの道が開かれましたか。イン・クライスト…イエス・キリストの逃れ場で救われましたか。お互いが辛い時の逃れ場となられたでしょうか。永遠の逃れ場を終末において主が用意しておられると望みをおきつつ、生活の場においても、逃れの町、逃れの場、逃れの道を主が用意されていると確信して、新しい年を平安の内に迎えましょう。また、自らが辛い中にある誰かの逃れ場となってまいりましょう。

救い主はどこに?

2015-12-20 16:31:58 | 礼拝説教
2015年12月20日 クリスマス礼拝(ルカ福音書1:39~56)岡田邦夫
 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ福音書2:11-12)

 メリークリスマス!クリスマスはクリスト(キリスト、救い主)、マス(ミサ、礼拝)という意味の言葉です。今は救い主誕生の意味で使っていますので、今日の礼拝は救い主降誕2015年記念礼拝となります。
 その救い主は世界を救うために、神が人となり、ヨセフのいいなずけマリヤからお生まれになりました。それは偶然ではなく、700年前にイザヤという預言者が「ひとりのみどりごが、私(わたし)たちのために生(う)まれる。」と預言していたことが成就したことなのです(イザヤ書)。どこに生まれるかも預言されていました。「ユダの地、ベツレヘム。わたしの民を治める支配者が、あなたから出る」と(ミカ書)。ベツレヘムは「パンの家」という意味で、当時数百人程度のごく小さな村でした。世界を救う救い主は人が見向きもしない小さな存在にも救いの光が届くようにと、天から来られたのです。

 話は変わりますが、今日、祝会でシュトーレンがでます。シュトーレンはドイツでは欠かせない伝統のクリスマス菓子(パン)です。イエスが家畜小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされ、布にくるまれている形です。
 事実、救い主イエスは家畜小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされました。なぜ、そうなったのでしょうか。当時、世界はローマ皇帝が支配。税金などを集めるために住民登録の命令を出しました。それぞれは先祖の町で登録しなければなりませんでしたので、マリヤは身重で、ヨセフに連れられて、ナザレからやってきました。ベツレヘムに到着したものの、登録する人たちで宿屋は満室。もう、臨月なのに家畜小屋に泊まるしかありませんでした。そこで出産。預言されていたように、また、み使いのお告げのように、男の子でした。
 ベッドもゆりかごもありません。飼い葉おけにわらを敷き、布に包まれて、神の御子は寝かせられたのでした。やむなくそうなったのではなく、神のみこころでした。この誕生は羊飼いたちにもみ使いを通して知らされました。それが冒頭に記した言葉です。
 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれに
なりました。この方こそ主キリストですあなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
 救い主のしるしは超自然的な現象が見られるのでく、「飼葉おけに寝ておられるみどりご」だというのです。皇帝や王や大祭司の家の清潔
な、暖かいベッドの上ではなく、不衛生な家畜小屋の冷たい石の飼い葉おけが救い主の居場所なのでした。

 聖なる神から見れば、人というのは汚れた者、罪深いものです。また、愛に満ちた神から見れば、人というのは愛のない、冷え切った者です。私たちの心は家畜小屋の飼葉おけのようなものだと思います。自分で心をきよめ、愛の人になったら、神が来てくださるのではないのです。救い主の方から、汚れたそのままの私たちのところに来てくださるのです。そこで汚れた心はきよくなり、冷たい心に神の愛が注がれてくるのです。この御子イエスは十字架にかけられ、犠牲になられ、まことに救い主となられたのです。

 田原米子さんという方のお話をしたいと思います。彼女が高校3年生の時に母親が亡くなり、それがショックで全てが空しくなり、ついには電車に身を投げて自殺をはかりました。命だけは取り留めたものの、両足と片手を失い、残っている右手も3本の指しか残っていなかったのです。意識が戻って、それを知った彼女は余計に絶望してしまいます。
 そんなある日、一人の宣教師と通訳の青年が病室を訪れ、讃美歌を歌い、聖書を読んで、彼女を励まそうとしました。何度も来るのですが、彼女はかたくなに拒んでいました。しかしある日、二人が置いていったメッセージ・テープを何気なく聞いている時に、涙がとめどもなく流れ出ていたのです。
 「神様は、あなたにどんな欠点や弱い面があっても、そのままの姿で愛しているのです。そして、あなたを生かしたい、助けたい、幸せになってほしいと思われて、独り子イエス・キリストをお遣わしになったのです。キリストは、神様に背を向けていた私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で死んで下さいました。それほどまでに私た
ちを愛して下さっているのです。」
 彼女のぽっかり空いた心にこのメッセージが入ってきました。彼女はこう述懐しています(要約)。「その晩は、入院以来初めてぐっすり眠ることが出来た。翌朝、目がさめた時には病室の窓から射し込む朝日がまぶしく、周りの風景のどれもが輝いて見えた。ふと自分の右の手を見ると、それまでは指三本しかないと思って絶望していたのに、三本も残っていることに気づいた。鉛筆をもって書くことも出来る。嬉しくてなった。枕元にあった聖書をめくると次の言葉が目に飛び込んできた(第二コリント5:17)。
 『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』
 たしかに私は『新しく造られた者』だ。そして今日から新しい人生が始まったのだ。心が変わった。もう指がない、足がないなどと言って、くよくよすることはしない。神様が『そのままの姿でいいのだよ』とおっしゃって受け入れて下さっているのだから。その日、病院内で会う人ごとに『おはようございます』と自分の方から無意識のうちに挨拶していた。」
 その後、その通訳の青年は牧師となり、彼女と結婚。全国どこでも出かけてゆき、教会、中学校、高校で多くの講演会をして、使命を果たされ、天に帰られました(2005年、67歳)。

 救い主はベツレヘムのような顧みられない者のところにこそ、飼い葉おけのような汚れた、冷たい者のところにこそ、そして、そう思う謙虚な人のところにこそ、今も来てくださるのです。そして、平和をもたらし、栄光に輝かせてくれるのです。
 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

マリヤの賛歌

2015-12-13 16:31:19 | 礼拝説教
2015年12月13日 アドベント第3主日礼拝(ルカ福音書1:39~56)岡田邦夫

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主(すくいぬし)なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう」(1:46-47口語訳)。

 12月に入ると巷(ちまた)にクリスマスの讃美歌が流れます。クリスチャンでなくても、きよしこの夜を歌います。クリスマスといえば讃美歌です。ルカによる福音書は賛美が多く記されており、賛美の福音書と呼ばれています。特にイエス・キリストの降誕に関して、三大賛美が出てきます。讃美歌(聖歌)の題はほとんど出だしになっています(カッコ内はラテン語)。
○マリヤの賛歌「わがたましいは主をあがめ」(マグニフィカート)ルカ1:46-55
○ザカリアの賛歌「ほめたたえよ」(ベネディクトゥス)ルカ1:68-79
○シメオンの賛歌「主よ、今こそしもべを去らせてくださいます」(ヌンク・ディミティス)ルカ2:29-32
 今日はマリヤの賛歌を通して、神の恵みと祝福を味わいたいともいます。

◇「あわれみ」は永遠
 マリヤはみ使いガブリエルから、聖霊によって胎にやどり、救い主・イエスが生まれます。処女降誕も神には可能ですと告げられます。マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えます。そして、親戚のエリサベツの家を訪れます。そこでエリサベツから「女の中の祝福された方」と言って祝福されます。それに答えて、マリヤが歌った歌が「マグニフィカート」です。
 その中で基調となっているのが「あわれみ」という言葉です。あわれみは愛を表す一つの言葉で聖書によく出てくる暖かい言葉です。

 神は名もないおとめに目を留め、救い主ををお宿しするとは、神の愛、あわれみですと歌います(1:48.50.54.55)。
 「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。…そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。…主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
 昔の昔、父祖アブラハムの時から約束されて祝福が今、与えられたのだ。そして、私に目を留め、臨んだ神のあわれみはどの時代の人々も、代々にわたって及ぶのだと歌います。神の人への愛、あわれみは決して消えず、永遠に及ぶのです。しあわせ者はマリヤだけではなく、信じ受ける人の上に及ぶのです。歴史の続く限りです。私の人生の中でも限りなく神のあわれみという愛が注がれ続くのです。

◇「あわれみ」は逆説
 世の中はエジプトのピラミッドが象徴するように、ピラミッド型の社会です。その頂点は権力の象徴です。しかし、神の国では逆ピラミッド型です。逆三角形です。
 御子イエス・キリストは「御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返される」方だとマリヤは歌うのです(1:51-53)。びっくりするような言葉です。権力者が聞いたらどう思うでしょう。彼女はたちまち処分されたでしょう。
 しかし、これは神の国の逆説を言っています。イエス・キリストはしもべとなられ、十字架の死に至るまで従われ、逆ピラミッドの下の頂点に立たれました。そこから、栄光に復活されました。仕える者こそ偉いとも言っています。私たちも神の国では謙遜こそ重要なのです。
 マリヤは「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」と謙遜です(1:48口語訳)。私たちも「をさえ」の信仰に立ちましょう。水は低いところへ、低いところへと流れます。神の恵みは低くされた者に注がれていきます。私のことですが、ある企業に入社したばかり時、陰で上司が言っていることが聞こえてしまいました。「また、ジャリが入ってきた」と。ちょっとショックでした。なにくそ頑張ってやると思ったのもウソではありません。上司はそうとう勉強して理学博士とか、工学博士になったエリートですから、それも当然かも知れません。
 今思うと「また、ジャリが入ってきた」の言葉は自分を謙虚にさせます。「このジャリをさえ、心にかけてくださいました」と神に感謝を申し上げたいです。それが神の国の幸せの基準だからです。一人の牧師がパン屋の前を歩いていると、店では母親がパンを売っていて、その奥に一人のただただ、座っている。時折、母親が身の回りの世話している。牧師は何かあると感じて、その少年を足しげく訪ねました。聞くと、小学生の時に集団赤痢にかかり、高熱が続いたため、脳性マヒとなり、体を動かすこともしゃべることもできなくなっていました。しかし、話は聞こえ理解している。牧師は福音を伝えると信じました。洗礼を授けました。彼の顔つきが変わりました。母は知恵が与えられ、神に50音表を見せると指をさしたところで、彼が瞬きをして、言いたいことを文章にします。本を書見台に乗せておくと読み、母がページをめくるということをしていました。その本が聖書に代わり、作った歌が信仰の詩になりました。透き通るような信仰の歌を本にしました。「わが恵み汝にたれり」など。瞬きの詩人と言われ、多くの人を慰め、励ましました。神は一人の少年を心にかけてくださり、逆ピラミッドの下の頂点に近いところにおいてくださり、神の恵みは私に十分だと信仰の証しをさせてくださったのです。
 私たちもマリヤとともにこう信仰をもって、歌いましょう。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主(すくいぬし)なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう」(1:46-47)。

闇の中に光

2015-12-06 16:29:26 | 礼拝説教
2015年12月6日 アドベント第2礼拝(イザヤ書9:1~7)岡田邦夫
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ書9:6

 クリスマスともなると、三田市内でもワシントン村や有馬富士公園、三田駅前などでLEDのイルミネーションで飾られます。今年、駅前の点灯式で市長が「光は人々の心を温め、潤いをもたらす。…」と話していました(新聞記事より)。イルミネーションでもそのように感じるとしますなら、本物の光、まことの光はどれほど人の魂を温め、潤いをもたらすことでしょうか。その光とはこれです。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」の光です(9:2)。

◇まことの証明
 昔の白黒の映画は今に比べるとずっと暗かったものですが、今日の液晶などのテレビでは鮮明すぎて、真っ暗闇を表現するのはきわめて難しいでしょう。都会の夜は証明が豊富ですが、人気のないところに行けば、暗闇は経験できるでしょう。夏、教会の近くで蛍が見られます。蛍の営みは闇に光ることが重要で、それを見る私たちも神秘を感じるのです。
 しかし、ほんとうに知らなければならないのは心の闇であり、歴史の闇です。私、世界史に目を通してみました。その全体を見渡すと、植民地主義だったり、帝国主義だったり、結局「侵略と戦争」の歴史だったのだと思わされました。現在もシリアでの内乱、ISの過激な行動、諸外国の武力介入、多数の難民、という問題があります。現代の闇です。
 預言者イザヤが預言をしていたのが紀元前700年ごろでした。「ゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けた」というのは悲惨な戦争があったことを言っています。ゼブルン、ナフタリ、海沿いの道、ガリラヤのあたりは敗戦によって他国に占領されていました。シリヤ、エフライム戦争というのがありました。イザヤの時代、紀元前734年、アッシリヤ帝国が攻めてきて、北イスラエル王国は滅ぼされてしまいました。残る南ユダ王国も、次に台頭してきたバビロン帝国に敗れ、捕囚されていくとイザヤは預言します。その先にバビロンから奇跡的に帰ってくる、救いが来るとも預言し、その先の先まで預言しています。
 それが救い主が歴史の上に現れる、みどりごとして生まれるとの預言です。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(9:6)。約700年後、イエス・キリストが降誕され、平和の君として十字架にかけられ、人類救済の道が開かれました。
「苦しみのあった所に、やみがなくなる。…やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」は過去形で未来を預言する言い方です。イエスはガリラヤでまず、伝道されたのはその預言の成就を意味します。昨年12月、探査機・ハヤブサ2号が打ち上げられました。小惑星・りゅうぐうで岩石を採取して、2020年末に地球に帰ってくる「予定」とのことです。それは予定です。「預言」は予定とは違います。一点一画が予定通りになったということではないのです。イザヤの予想をはるかに超えて、驚くべき仕方で預言は成就したのです。

◇まことの勝利
 ミデヤンの日になされたようにちのは、ミデアン人がイスラエルを占領して、苦しめられていた時のことです。神がギデオンを士師(指導者)として召し、命じます。戦いのため人を集めよと。集まったものの中から、恐れているものは帰せと命じると2万2千人が帰り、1万人しか残らない。それで神は多すぎると言い、川で水を飲ませます。犬のように口をつけて飲んだもの者は帰し、手ですくって飲んだ者(敵前意識を持つ者)だけ残しました。300人だけでした。そのギデオンの300が神の命に従って、角笛を吹いて奇襲しただけで、ミデアン人に圧勝。敗走させました。
 すべての悪の根源は心の闇からくるもの、救い主イエス・キリストはその闇の中で苦しむ私たちを解放するために、来られたのです。そして、ミデアンの日のように、それをはるかに超えて、圧倒的勝利をもって、私たちを罪のくびき、滅びのくびきから解放してくださったのです。
 「あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる」(9:4-5)。イエスキリストの降誕、十字架、復活によって、霊的な救いはなされました。しかし、戦争のない世紀はなかったし、今なお、戦争は世界のどこかで起こっていますし、人と人との争いは絶えません。ですから、福音を伝える必要がありますとともに、平和を作り出す人である必要があります。主が再び来られ、絶対平和の世界となる日を待ち望み、世界の平和、身近な平和のために、キリスト者はひたすら祈っていくのです。

◇いのちの証明
 「よろこびの泉」という伝道新聞にある方の証しが載っていました。親がクリスチャンで幼い時は教会に行っていたのですが、どうしてか、反抗して、教会を離れ、わざわざクリスチャンでない人を選んで結婚しました。思い通り、金もうけをして、成功しました。しかし、妻の方がそんな生活が不安になり、母の行く教会に行くようになっていました。それは気に食わないことでした。
 オイルショックで商売は一瞬でだめになり、やけになって1年間もぶらぶらすることになりました。妻が働くようにになり、考えさせられ、神の裁きを恐れ、自分も受洗しました。
 二番目の子が2歳の時にはしかで40度の熱を出し、1週間続き、急に熱が下がり、ひきつけ、酸素吸入や強心剤などで手を尽くすのですが、医師から「ここ子はもう助かりません。あきらめてください。もし、助かったとしても、脳に後遺症が残ります」と宣告されました。
 三日三晩、妻と不眠不況、何も食べずに祈りました。「どう神さま、この子を助けてください。この子が助かるならぼくの命はいりませんから」と最後に祈りました。すると、静かな神の御声が心に聞こえてきました。「お前は、この子の死ぬのがたまらない。この子が死ぬぐらいなら、自分が死にたいと言っている。わたしはお前を愛して、お前が永遠の滅びに行くのがたまらない。だからわたしが、お前の代わりに、十字架にかかって死んだ。どうしてそのことがわからないのか!!」と。
 突然ぼくは、神の真理の光が、心の奥底に差し込んだようで、「ああ、イエス様、わかりました。あなたの十字架で、わたしは滅びから救われました」と思わされ、喜びがあふれてきました。「わかった、わかった」と叫んでいました。
 その翌朝、子どもはパッと目を覚まし、視線が合うのです。神の奇跡がおきました。何の後遺症もなく、育っています。医師は脳炎にかかってこんなわけないでしょというのですが奇跡たったとしか言いようがありません。
 しかし、ほんとうの奇跡は神の真理の光が、心の奥底に差し込んだことだと私は思います。イザヤに神が現れ、聖霊によって語られたことを、啓示(リベレイシヨン)といいます。その書かれた聖書の言葉が再び聖霊が働き、神のみこころが明らかにされることを証明(イルミネーシヨン)といいます。彼は神のみ心が証明され「わかった」のです。私の平安のために、世の平和のために、闇の魂、闇の世に、まことの光、命の光をもたらすために、御子をお遣わしなった神のみ心が、証明され「わかった」と納得できますよう、お祈りいたします。