2015年12月27日 年末感謝礼拝(申命記19:2~13)岡田邦夫
「――私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら――そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。」申命記19:9
今日は年末感謝礼拝で、ちょうどよい証詞が寄せられました。D兄による2015年を振り返っての感謝の証詞で、それは三田泉教会の献げものといえるものです。「グレイスインサンダ」に印刷しましたので、ぜひともお読みください。ただ、これまで、シリーズで聖書から話していて、本日の予定が申命記19章の「逃れの町」のところですので、ここからお話いたします。
◇無益な血を流すな…イスラエル
イスラエルに与えられた掟のうち、特徴的なのが、この逃れの町という制度です。カナンに入国した時、距離を測定し、その地を三区分し、逃げてこられる三つの町を取り分けなければならないというものです。殺人者はだれでも、そこにのがれることができるという「逃れの町」です。
「たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる」。そのように「知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合」だけです。
「以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない」という理由です。怒りに任せた血の復讐をさせないため、過失者の保護政策です。真の理由は「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないため」なのです。
しかし、もし人が自分の隣人を憎み、故意に殺害し、この町に逃げてきた場合は、彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡し、死刑にしなければならない。目には目を、歯には歯を、命には命をの原則です。理由は「彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのため」なのです。
◇有益な血を流す…イエス
そして、逃れの町を設ける、その根底にあるのは信仰的態度なのであります。申命記19:9「――私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら――そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい」(※ヨルダン川の東の地ではすでに逃れの町は設けられていました。4:41-43)。神が求めておられるのは主を愛し、神の命令を守り、いつまでも信仰の道を歩むということです。そのもとで逃げ場のない者に逃げ場を設けるのだというのです。
私が見た映画の中に「逃亡者」というのがありました。主人公が逃げきれて、痛快でした。映画解説者がこう言っていました。欧米の作品は逃げ切れるのがよくあるが、日本の作品はほぼ逃げ切れないで捕まってしまう。大陸と島との地理的条件でしょうと。出エジプトこそ、エジプトの奴隷の家から逃げ切った救いの歴史です。
その前にモーセ自身も、パロ王に殺されのを避けて、ミデアンの地に逃亡しました。ダビデもイスラエルの王になる前はサウル王の殺害の手を逃れ、逃亡生活をしていました。イエスご自身もみどりごの時、ヘロデ王の害の手を逃れ、一時、エジプトに逃れておられました。
日本語の津波は世界の言葉になっています(Tsunami)。何度も起こった災害を教訓に、大きな津波がきたら、とにかく高いところに逃げなければならないとしきりに言われています。人生にもどうしても逃げなればならない時があるのです。逃れ場が必要なのです。真の逃れ場は全能者の影です。モーセもダビデもそうでした。イエスも人と同じ経験をされるため、逃れることがあったのです。「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント10:13口語訳)。逃れる道を備えてくださっている神のご配慮を経験するためです。
根底にあるのは私たち罪びとが神の最後の審判から、絶対に逃れられないということです。どんなに人からいい人だと言われ、善行を積んだとしても、すべての人は罪を犯しており、裁きは免れられない、逃れられないのです。しかし、イエス・キリストは逃げ場を造ってくださいました。十字架の贖いにより、罪が赦され、イエスの懐、逃れ場に行けるのです。キリスト・イエスにあるものは(イン・クライスト)罪に定められないのです(ローマ8:1)。今や、逃れの町はイエス・キリストご自身なのです。
この年、あなたは逃れの町に駆け込みましたか。逃れの道が開かれましたか。イン・クライスト…イエス・キリストの逃れ場で救われましたか。お互いが辛い時の逃れ場となられたでしょうか。永遠の逃れ場を終末において主が用意しておられると望みをおきつつ、生活の場においても、逃れの町、逃れの場、逃れの道を主が用意されていると確信して、新しい年を平安の内に迎えましょう。また、自らが辛い中にある誰かの逃れ場となってまいりましょう。
「――私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら――そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。」申命記19:9
今日は年末感謝礼拝で、ちょうどよい証詞が寄せられました。D兄による2015年を振り返っての感謝の証詞で、それは三田泉教会の献げものといえるものです。「グレイスインサンダ」に印刷しましたので、ぜひともお読みください。ただ、これまで、シリーズで聖書から話していて、本日の予定が申命記19章の「逃れの町」のところですので、ここからお話いたします。
◇無益な血を流すな…イスラエル
イスラエルに与えられた掟のうち、特徴的なのが、この逃れの町という制度です。カナンに入国した時、距離を測定し、その地を三区分し、逃げてこられる三つの町を取り分けなければならないというものです。殺人者はだれでも、そこにのがれることができるという「逃れの町」です。
「たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる」。そのように「知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合」だけです。
「以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない」という理由です。怒りに任せた血の復讐をさせないため、過失者の保護政策です。真の理由は「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないため」なのです。
しかし、もし人が自分の隣人を憎み、故意に殺害し、この町に逃げてきた場合は、彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡し、死刑にしなければならない。目には目を、歯には歯を、命には命をの原則です。理由は「彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのため」なのです。
◇有益な血を流す…イエス
そして、逃れの町を設ける、その根底にあるのは信仰的態度なのであります。申命記19:9「――私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら――そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい」(※ヨルダン川の東の地ではすでに逃れの町は設けられていました。4:41-43)。神が求めておられるのは主を愛し、神の命令を守り、いつまでも信仰の道を歩むということです。そのもとで逃げ場のない者に逃げ場を設けるのだというのです。
私が見た映画の中に「逃亡者」というのがありました。主人公が逃げきれて、痛快でした。映画解説者がこう言っていました。欧米の作品は逃げ切れるのがよくあるが、日本の作品はほぼ逃げ切れないで捕まってしまう。大陸と島との地理的条件でしょうと。出エジプトこそ、エジプトの奴隷の家から逃げ切った救いの歴史です。
その前にモーセ自身も、パロ王に殺されのを避けて、ミデアンの地に逃亡しました。ダビデもイスラエルの王になる前はサウル王の殺害の手を逃れ、逃亡生活をしていました。イエスご自身もみどりごの時、ヘロデ王の害の手を逃れ、一時、エジプトに逃れておられました。
日本語の津波は世界の言葉になっています(Tsunami)。何度も起こった災害を教訓に、大きな津波がきたら、とにかく高いところに逃げなければならないとしきりに言われています。人生にもどうしても逃げなればならない時があるのです。逃れ場が必要なのです。真の逃れ場は全能者の影です。モーセもダビデもそうでした。イエスも人と同じ経験をされるため、逃れることがあったのです。「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント10:13口語訳)。逃れる道を備えてくださっている神のご配慮を経験するためです。
根底にあるのは私たち罪びとが神の最後の審判から、絶対に逃れられないということです。どんなに人からいい人だと言われ、善行を積んだとしても、すべての人は罪を犯しており、裁きは免れられない、逃れられないのです。しかし、イエス・キリストは逃げ場を造ってくださいました。十字架の贖いにより、罪が赦され、イエスの懐、逃れ場に行けるのです。キリスト・イエスにあるものは(イン・クライスト)罪に定められないのです(ローマ8:1)。今や、逃れの町はイエス・キリストご自身なのです。
この年、あなたは逃れの町に駆け込みましたか。逃れの道が開かれましたか。イン・クライスト…イエス・キリストの逃れ場で救われましたか。お互いが辛い時の逃れ場となられたでしょうか。永遠の逃れ場を終末において主が用意しておられると望みをおきつつ、生活の場においても、逃れの町、逃れの場、逃れの道を主が用意されていると確信して、新しい年を平安の内に迎えましょう。また、自らが辛い中にある誰かの逃れ場となってまいりましょう。