オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

平安は川のように

2013-08-25 00:00:00 | 礼拝説教
2013年8月25日 伝道礼拝(ヨハネ16:33、イザヤ48:17-19)岡田邦夫


「どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになり、」イザヤ48:18口語訳

 黒柳徹子ユニセフ親善大使の南スーダン訪問の報告です。南スーダンは長い内戦が続き、2011年にやっと独立をした世界で最も新し国。犠牲になっている子どもたちの救済のため、1996年に日本からの寄付で建てられた「トットちゃんセンター」を再度訪問。“トットちゃん”は黒柳のニックネーム、偶然にも“トット”はスワヒリ語で子どもの意味。センター設立以来、近隣国を含め武力紛争で心に傷を負った約2500人の子どもたちを支援したとのこと。徹子さんが子どもたちに何が一番欲しいかと尋ねると、まだまだ困窮の状態であるにも関わらず、「平和」「学校」「優れた教師」と答えたと報告されました。
 人が生きていくために最も重要なのは平和、そのための学校、教師が必要ということでしょう。聖書で言うなら、冒頭の聖句がそれを述べています。イエス・キリストという教師から、神の教えを学び、聖霊の導きに従うなら、平安は川のように流れ来るのです。この平安はヘブライ語で「シャローム」と言い、平和とも訳されています。他に安心、安全、穏やか、幸福、健やか、繁栄、和解などと訳されているように、幅広い意味で、祝福に満ちた状態を表しています。聖書が示す神の御心は人類が平和、平安になることです。人類を根こそぎ滅ぼしてしまうほどの核兵器を持つような罪深い私たちに、全き平和な世界を作れるのか疑問ですが、それでも、私たちは神に造られた者として、人々の平和に尽力する勤めがあります。また、最終的にライオンが羊と一緒に草を食べているような「絶対平和」を、神ご自身がもたらして下さるという預言に望みをおき、祈っていくことも信仰者の姿勢です。
 シャロームは外に向かえば平和、内に向かえば平安と言えましょう。福音によって心に「平安」を得ていくことも神の御心です。そうして、内に平安を得た者が外の平和に勤めていくというのが理想でしょう。きょうは二つの讃美歌を通して平安へと導かれたいと思います。

◇安けさは川のごとく
 新聖歌252番の作者スパフォードは弁護士、法医学教授で、長老教会で熱心に奉仕をしていた信徒でした。ある時、シカゴの大火災にあい、家財のすべてを失ってしまい、家族と共に慰安旅行に行くことにしました。しかし、急用が出来たので、妻と4人の娘を船で先に送りました。ところがその船が夜中の12時に大西洋の真ん中で、貨物船と衝突して、12分で沈没してしまいました。妻は助かったものの4人の娘は多くの犠牲者と共に亡くなりました。すぐに彼は他の船で事故現場まで来た時、「なぜこんなに禍が重なるのでしょうか」と、泣きながら祈り続けました。真夜中になった時に、不思議なことが起こりました。彼の心は平安で満ちあふれていたのです。やがて、その時にことを詩にしました。
 讃美歌520番
 「浮き悩みの嵐を わたり行くおりも こころ安し、神によりて安し」
 新聖歌252番
 「やすけさは川のごとく 心ひたすとき
  悲しみは波のごとく わが胸満たすとき
  すべて やすし 御神ともにませば」
 愛する者を失った者の悲嘆は表現されていないのですが、イエス・キリストが「わたしは平安をあなたがたに残していく」と言われた平安をいただいたのでしょう(ヨハネ14:27)。それは「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」というイエスの言葉が現実になったのでしょう(ヨハネ16:33)。

◇安かれ、わが心よ
 新聖歌303番の歌詞は以下ですが、曲はフィンランディアです。
 「安かれ、我が心よ 主イェスは ともにいます
 痛みも 苦しみをも 雄 々しく 忍び耐えよ
 主イェスの ともにませば 耐え得ぬ 悩みはなし」
 これはシベリウスの交響詩「フィンランディア」からとられたもので、1899年当時フィンランドが帝政ロシアに抑圧されていて、スターリン支配のソ連が侵略してきた時に、このフィンランディアが人々に大いに勇気を与え、勝利しました。歌詞は「おお、スミオ、見よ、お前の夜明けだ…」(スミオはフィンランドのこと)です。それでフィンランドの第二国家として、愛されているのです。その曲を用いた讃美歌が上記のシュゲールというドイツの敬虔主義の詩人の作です。作詞者が激烈な苦しみの中でこの詩を作ったと想像されるものです。
 この曲を用いた讃美歌は他に5曲あります。日本語には訳されいない曲で‘We rest on Thee’(私たちはあなたに憩う)という讃美歌にまつわる話を致しましょう。1956年、南米エクアドルで、五人の宣教師がアウカ族に殺され殉教しました。その一人エリオットは信仰深い父親のもとで育ち、ハイスクールに入ったに時は神に仕える仕事をしたいと願いました。製図が得意でベンソン工芸学校で学び、福音派のホイートン大学に進んで、二年生の時に、南米の土着民に福音を伝えるようにと神が召しておられると信じました。土着民の言語に聖書翻訳が出来るようにとギリシャ語を専攻しました。このような青年宣教師と他の4人の若いアメリカ人宣教師たちは南米の最も強暴なアウカ族の伝道に出かけました。争いがあればすぐ人を殺す習慣のある部族です。死を覚悟の出立でした。まず飛行機で空から物資を投げて、好意を示してから、5人はジャングルに入りました。
 彼らは‘We rest on Thee’(私たちはあなたに憩う)を賛美しながら赴いたのです。しかし、白人への不信感があったかどうか解りませんが、ヤリで皆殺しにされてしまったのです。「ライフ」のカメラマンが現地に飛んで、ライフに掲載され、アウカ族を愛し、キリストの愛を伝えようとした宣教師5人の殉教に世界の多くの人が感動しました。5人未亡人たちは夫の遺志をついでエクアドルでの伝道を続けました。残されたエリオットの日記には、神を賛美し、神に身を献げる以上の喜びはない、という意味のことが綴られていました。死の間際での、その賛美は‘We rest on Thee’(私たちはあなたに憩う)でした。
 イエス・キリストの元に行き、罪を悔い改め、その罪のすべてがイエス・キリストの十字架において赦されたと信じて、良心の責めがなくなると、心に平安が訪れます。それは神との平和、キリストの平安です。そこに賛美が生まれるのです。

教会の伝統

2013-08-18 00:00:00 | 礼拝説教
2013年8月18日 主日礼拝・紙上説教(使徒2:42-47)岡田邦夫


 「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」使徒の働き2:42

 力士は土俵の上で勝負を決めます。いくら稽古場で強いからといっても、土俵で勝たないかぎり、勝ったことにはなりません。学問でも何でもそうですが、同じ土俵で相撲を取ることが必至です。土俵という「場」で決めるのです。キリスト教については正しく(生き生きと)伝承されているかどうかが最も問われるところです。その土俵=場というのが「きよい公同の教会」(聖なる公同の教会)です。旧約39書に新約27書を加えた66書を聖書とし、正典と決めたのが397年、第三カルタゴ教会会議でした。教会という場において、聖霊の迫りにおいて、正典が決められたのです。決定した時から66書の聖書正典が教会を生かし、また、はかることになったのです。また、逆に聖書が正しく解釈されて伝承されているかどうかを見極める場が教会です。
 「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです」(1コリント15:1 -5)。
 パウロも「教会」を通して伝えられた福音を受けたのであり、それをあなたがたに伝え、あなたがたはそれによってたっているのだという、正しく生きた福音伝承のことを言っています。そうすると、聖霊が降り、聖霊によって誕生した最初の教会の姿が原型になります。使徒の働き2章です。
 まず、使徒たちが福音の使信を伝えます(宣教)。それを聞いた人々が求めて、悔い改め、イエス・キリストを信じ、三千人が洗礼(礼典)を受けました。聖書をそのまま読みましょう。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし(聖徒の交わり)、パンを裂き(聖餐)、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ(臨在)、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟(御業)が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた(奉仕)。そして毎日、心を一つにして宮に集まり(礼拝)、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし(愛餐)、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた(証詞)。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった(宣教)」(2:42-47)。
 まとめますと、
 a.主イエス・キリストの現臨のもとで礼拝(祈り、賛美)、礼典(聖餐、洗礼)がなされていた。
 b.主イエス・キリストの恵みが共有され(奉仕)、聖徒の交わり(愛の交わり)がなされていた。
 c.主イエス・キリストの活動が聖霊によって(宣教)という形でなされ、聖霊の御業が起こっていた。

 幸いにも事実なされていた原初の教会の姿がこのように書き残されているということです。歴史の流れの中で、文化の違う中で、目に見える教会はたえず、正しく生き生きと伝承されているかどうか、聖霊降臨による原初の教会との対話をしながら、現教会を形成していきたいものです。

教会

2013-08-11 00:00:00 | 礼拝説教
2013年8月11日 主日礼拝(エペソ1:15-23)岡田邦夫


 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ1:23

 「牧師は空を飛ぶ」という横山幹雄師のエッセイ集があります。先生が内灘聖書教会で牧会していた時には、毎週6つも7つも8つもの説教準備に追いたてられていて、そのプレッシャーで空を飛ぶ夢をしばしば見ていたので、それを書名にしたそうです。私も以前はよく空を平泳ぎで泳ぐ夢を見ましたが、最近は見なくなりました。ところが、先週、なぜか、空を飛ぶ夢を見ました。
 そのような眠っている時の夢でもなく、何かを達成したいという夢でもない、もっと重要な夢があります。聖霊が降って、教会が誕生した時に明らかにされた聖霊による夢です(使徒2:17-18)。それは預言の成就であり、預言者ヨエルの言葉はこうです。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)。夢、幻は預言のことで、神の言葉を預かり、神の御旨に生きることです。ペテロは夢心地の時に天からの敷布の「幻」を見、パウロは「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」という懇願の「幻」を見ました(使徒10章、16章)。それは宣教の幻、地の果てまで証人となるという教会の使命でした。

◇見えない教会
 一般に夢の実現というと自己実現ですが、教会の夢の実現というと御旨実現です。イエス・キリストはペテロの信仰告白がなされた時、言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門(=陰府の力)もそれには打ち勝てません」(マタイ16:17-18)。
 しかも、わたしの教会とは信じられないような偉大なものだとエペソ人への手紙で述べています。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(1:20ー23)。
 これが「きよい公同の教会」=聖なる公同の教会なのです。教会の原語は「エクレーシア」=召し集められた者という意味です。この世から、復活の主が召し集め、この世からイエス・キリストの贖いによって聖別した共同体です。全時代、全民族の、全教派のキリストをかしらとする、見えない「一つの教会」です。見える教会の礼拝はそれぞれ言葉も違う、形も違う、規模も違うのですが、見えない所では同じ主を、同じ聖霊によって、同じ使徒信条をもって告白し、公同の礼拝を献げているのです。

◇見える教会
 現実の教会、教会の現実を見ていると、そうは思えないのですが、パウロが祈っているように、私たちも祈りましょう。神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられますように、心の目がはっきりと見えるようになりますようにと。すでにキリストの血の贖いによってきよい聖なる教会ですが、現実の教会は一致と成長をつとめる必要があります。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ4:11ー13)。「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」(4:15-16)。
 キリストのからだである教会の夢、幻は実に壮大です。横に向かっては真理と愛における一致、上に向かってはかしらなるキリストへの到達、外に向かっては地の果てまでの証詞なのです。それは神の御旨ですから、必ず成っていくことなのです。歴史はそこに向かっていないように見えますが、父なる神は教会の完成に向けて、全能の御手をもって進めておられるのです。そう信じるのです。きよい公同の教会を信じますというのはそういうことです。
 さらに御旨を知らせ、御旨を実現させるのは聖霊です。教会を信じるというのは今ある教会に聖霊の業が起こると信じることです。そして、欠けのある私たちの教会ですが、そこに聖霊が教会の本質を現してくれることを信じ、期待することです。そうして、「使徒の働き」の続きを書き続けるのです。

 ある日、三田泉教会の事を考えながら寝ました。その翌朝、み言葉が脳裡に浮かび、心に響きました。「下に根を張り、上に実を結ぶ」。井土ヶ谷教会の献堂記念のしおりに載せられていたみ言葉です。ちょうど、黒豆を300ほど植えて、芽が出てから、2~3回土寄せをするのですが、これが結構大変な労力でした。それをしておけば、木がしっかりと根を張り、実をたくさん着け、台風が来ても倒れないのです。そのことと、教会形成とが重なって思わされたのです。この教会も「下に根を張り、上に実を結ぶ」のだと。聖書の前後も見てみるとこうです。「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする」(2列王19:30ー31、イザヤ37:31-32)。伝道という種蒔き、牧会という土寄せ、それがていねいになされるなら、教会という木自身が下に根を張り、上に実を結ぶに違いない、万軍の主の熱心がこれをして下さるに違いないと思わされたのです。

聖霊

2013-08-04 00:00:00 | 礼拝説教
2013年8月4日 主日礼拝(使徒の働き2:17-21)岡田邦夫


 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」使徒2:17

 天気予報はなかなか難しく「雲をつかむような」ところがあります。しかし、最近では観測データの集積が増えて、予報もあたるようになってきましたが、相手が風や雲ですので、その動きはつかみにくい所があります。そのように、見えない霊のこと、霊的なことは捕らえにくいところがあります。このごろ、スピリチュアル・ブームと言われています(ブームと呼べるほでではないでしょうが)。例えば、パワー・スポット、どこかの神社とか、岩とか、そこにいくとパワーがもられるなど、見えない、何か霊的なものを求めているのでしょう。英語で言うなら「特定の宗教は信じないけれど、スピリチュアルのものは信じる」(I'm not religious,but spiritual.)というものです。

◇解りにくい聖霊
 しかし、それではやはり、雲をつかむような、つかみ所がないものになってしまいます。イエス・キリストは「霊」というのはこういうものであるとユダヤ人の指導者ニコデモに対して、‘風’のたとえて言われました。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハネ3:8)。風はその思いのままに吹くというもの。その音は聞こえるというとらえ所はあるが、それがどこから来てどこへ行くかを知らないというとらえ所のなさがあります。これは聖霊について言えることです。
 サン・テグジュペリ「星の王子様」は聖書の次に読まれているそうですが、その中で有名な言葉は、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」。示(し)唆(さ)に富んだ言葉です。聖霊はそういう方だと言っても良いでしょう。聖霊ご自身は私には捉えどころのない感じをもちますが、聖霊は私たちに見えない最も大切なことを明らかにし、手渡してくださるのです。

◇解らせる聖霊
 解るというのは、言葉で解るものです。私たちは見えない神や神の国について、聖書を通して知るのですが、たが読んだだけでは解りません。心で読むのです。祈って読むのです。すると、聖霊が働いて、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(詩篇119:130)。人が書いた、人の言葉に見える聖書が、聖霊が助けてくださり、神からのみ声、神の言葉として、受けとめられるのです。印刷された聖書が言葉の意味が解るというのを越えて、見えない神の国の世界が感じ取れ、神からの手紙、しかも神のラブレターとして、受けとめられ、神のご人格にふれるのです。そして、神との対話が生まれるのです。
 なぜ、そうなるかというと、「聖書はすべて、神の霊感によるもの(神の霊感(インスピレーシヨン)を受けて書かれたもの=口語訳)」だからです(2テモテ3:16)。聖書は書かれる時点で著者が見えない神のみこころを聖霊の霊感を受けて書いたものですから、読む時も、聖霊に照らされる、聖霊の照明(イルミネーシヨン)(霊感とはいわない)が必要なのです。そこまで、聖霊は個人教授のような親切なお方です。

 倉敷の大原美術館の玄関にロダンの「説教する聖ヨハネ」が展示されています。わたしの後に来る方はわたしより優れた方だと言って、バプテスマのヨハネがイエス・キリストを指し示し、紹介しました。このヨハネ像は右手は上を指し、左手は後を指して、それを表現しています。ヨハネは先駆者としてそうしたのですが、聖霊はペンテコステの日に使徒たちの上に降り、イエス・キリストの証言者として、今日に至るまで、臨んでおられます。イエスが言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15:26)。「御霊はわたしの栄光を現わします」(ヨハネ16:14)。イエス・キリストが花婿、私たちは花嫁にたとえられています。そうすると、聖霊は仲人のような方です。私たちにイエス・キリストを紹介し、出会わせてくれて、結び合わせてくださる、親切なお方です。
 私たちも、簡単にはイエスは神の子であり、救い主だとは信じられないのですが、聖霊は私たちの心の奥まで働いてくださり、「イエスは主です」と告白させてくださるのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」(1コリント12:3)。見えない方ですが、実に懇(ねんご)ろに働いてくださっているのです。
 ※聖霊が教会の創設者、救済の成就者であることは追ってメッセージいたします。

◇解る聖霊
 聖霊(ホーリー・スピリツト)、は単なる霊だとか、力だとかいうものではありません。父なる神、子なる神(イエス・キリスト)と共に、ご人格をお持ちの方です。三位一体の神の一人格(ペルソナ)です。私たちにしてみれば、隠れて働くお方です。しかし、聖霊降臨(ペンテコステ)以来、この終末の時代、このお方が主役となって働かれるです。ですから、聖霊を勝手に利用したり、聖霊の声に従わずに悲しませたりしてはなりません。聖霊の促しに従い、イエス・キリストの救いをしっかり信じていきましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。…天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11:9、10、13)。