オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

人生のページ

2012-05-27 00:00:00 | 礼拝説教
2012年5月27日 伝道礼拝(伝道者の書3:1-11)岡田邦夫


 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書3:11

 栃木県在住の柴田トヨという方がもうすぐ百歳になろうという時に、処女作品集「くじけないで」という詩集を出されました。これが大ヒットとなり、続いて、「百歳」を出版されました。その中に、頁(ページ)という詩があります。
 頁(ページ)
 私の人生の頁を/めくってみると/みんな色あせて/いるけれど/それぞれの頁/懸命に生きてきたのよ/破きたくなった/頁もあったわ/でも今ふりかえると/みんな なつかしい/あと一頁と少しで百頁/鮮(あざ)やかな色が/待ってるかしら
 人生は一冊の本のようなものです。多くの出来事でページを埋めています。各ページには嬉しかったことも、悲しかったことも、辛かったこともあって、それが積み重なっています。今の自分に変化があると、それが書き換えられたりもします。
「人(にん)間(げん)万(ばん)事(じ)塞(さい)翁(おう)が馬(うま)」という言葉がありますが、故事ことわざ辞典にはこう記しています。意味は「人間万事塞翁が馬とは、人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ」。これは『准(え)南(なん)子(し)』に出てくる中国の故事が由来です。…昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。…※「人間」は「じんかん」とも読み。世間のこと。
 これは賢者の教えです。庶民はこう思うようにしています。良いことがあれば、悪いことも人生にはやってくる。プラスが大きければマイナスも大きいに違いないから、良いことが続けば、悪いこともやってくるから、心備えをしておこう。辛いことが続いても、必ず、嬉しいことがその分やって来るから、落ち込まないようにしよう。人生っていうのはだれでも、結局プラス・マイナス・ゼロなのだから…。それは人生のバランス感覚でしょう。
 聖書にも、賢者が書いた書があります。ヨブ記、箴言、伝道者の書(コヘレトの言葉)です。今日は伝道者の書の3章を見てみましょう。おおよそ、三千年近い前の作品ですが、解説なくして読めますので、その詩文を読んで味わってみましょう。
3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
3:3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
3:4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
3:6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
3:7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
 人生をトータルでみれば、良いことも悪いこともやってくるものだなあ、人生には悲喜劇があって面白いのかも知れないと思わされます。調子の良い時には高慢にならないように謙虚にさせてくれるし、不調の時には絶望してしまわないように励ましてくれます。
 しかし、この賢者は信仰者です。知恵の言葉を越えて神の言葉を述べます。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」(3:11)。私たちから見れば、人生が矛盾していたり、理不尽に見えるかも知れないのですが、世界を創造され、人を造られた創造者なる神からご覧になると、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」のです。先週、私の姉が初めて、三田に来ました。近いからというので、兵庫県立陶芸美術館に一緒に観に行きました。「柳宗悦と丹波の古陶」という展覧会が開かれていました。柳宗(むね)悦(よし)が民衆の生活で使われた工芸品の美しさに目覚め、民芸品を収拾した作品の、その中の丹波焼きが展示されていました。どうだ、美しいだろう、上手いだろうと気負って主張している所がなく、その控えめな中に、その渋さの中に、何とも言えぬ美を感じさせる作品(実用品)の数々でした。多少ゆがんだ壺や多少でこぼこしたとっくりが味わい深いのです。
 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」のです。神の作品、神芸品は、妙な誇張はなく、どこかゆがんで見えるようで、実に調和のとれた、神が神らしく、そのご人格が作品に表され、神の美がそこにあるのです。すべて時にかなって美しいのです。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」のです。私たちには永遠への思いを与えられているのです。永遠者なる神を思う思いが与えられているのです。しかし、人は罪深く、その思いを否定し、自分勝手に自分の人生を築き上げようとしています。陶芸家が焼き上がった作品の出来が悪いと壊してしまいますが、創造者なる神は失敗に見えた人生の作品も造りかえて、傑作品にしてくださるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です(2コリント5:17」。イエス・キリストは十字架にかかり、私たちの汚れた人生を打ち壊し、復活によって、私たちを美しい神の作品を作り上げてくださるのです。
 言い換えれば、私たちの虚無的な、廃退的な人生のページを永遠的な、希望的な人生のページに書き換えて、美しい文学作品にイエス・キリストがしてくださるのです。信仰者の人生は「救い」というテーマで書き直されていくものなのです。信仰者の人生は神が愛を持って書き、神がと喜びをもって読む、美しき永遠に残る本なのです。
 どうぞ、神によって、信仰によって、滅びの人生を救いの人生に書き換えていただきましょう。聖書の詩人の言うように。「私の時は、御手の中にあります」(詩篇31:15)。

洗礼というものを知らないのですか

2012-05-13 00:00:00 | 礼拝説教
2012年5月13日 主日礼拝(ローマ6:1-11)岡田邦夫


「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」(ローマ人への手紙6:3)

 食事をいっぱい食べた後に甘いケーキが出されても、それが好きなものであれば、「ケーキは別腹だから」と言って、満腹なのに食べられてしまうことがよくあります。何かケーキの入る場所は別のように感じられます。それが気のせいなのかどうか、実験をしたことがテレビで放映されていました。レントゲンで満腹状態を確かめ、ケーキを見せます。すると、胃が活発に動きだして、腸に送り出し、胃の上部に大きく空きが出来て、ケーキが入ってくる準備するのです。脳がそのように指令を出し、胃が迅速に対応しているわけです。別の胃袋があるわけではありませんが、そこには科学的な法則があると説明が出来ます。
 科学とは別に、信仰に法則があることが聖書、特に、ローマ人への手紙8章2節に述べられています。新改訳は「原理」と訳していますが、口語訳、新共同訳では「法則」と訳されています。「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」。6章3節ではこの法則を「あなたがたは知らないのですか」。知らないと損ですよ。とても大事な法則で、ぜひ知っていてほしいものですと私たちに訴えています。

◇信仰の法則
 まず、「ように」の法則です。初めに、神は天と地を創造されました。造られた人間が罪を犯し、神から離れますが、イエス・キリストが十字架にかかり、復活され、救いをなし遂げられました。やがて、終わりの日が来て、その後、古い天地は消え去り、新しい天と地が現れます。世界の歴史は初めがあり、終わりがあって、時の中心があるという構図です。主は「そのように」信仰者を導かれます。私という人間がこの世に誕生する。やがて、主を信じて、洗礼(バプテスマ)を受け、人生が新しくなります。そして、肉体は死ぬのですが、やがての日に復活に与ります。世界の歴史を縮小した「ように」、私の歴史も全体を眺めれば、初めがあり、終わりがあって、バプテスマという時の中心があるという構図です。すべてにキリスト者がそうなのです。
 その考えはヘブル人への手紙9:26-28に記されています。「キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」。一度で完全なのです。平らな所に、水差しから一点に水を注ぐと、水は平面上に広がっていきます。神の救いの恵みは2000年前、ユダヤで、贖いの恵みが一度だけ注がれたのですが、その恵みは全世界に広がり、全歴史、過去にも未来にも流れ出したのです。そのように、キリスト者の人生の中心はバプテスマであり、そこから、救いの恵みが過去にも未来にも流れ、及んでいるのです。バプテスマは父と子と聖霊との名においてなされたのですから、一度で完全で、その救いは私の人生のすべてに及ぶはずです。
 ローマ人への手紙6:3-5を見てみましょう。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」。
 キリストが十字架で死に、よみがえられた時と、私がバプテスマを受けた時とを結びあわせてくださったのです。完全に死に、完全によみがえったキリストにあずかったのです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と述べて、キリスト者がその恵みを知って、罪の奴隷にならず、神のしもべと生きるようにと勧めているのです。
 これはずいぶん飛躍していて、大胆な考えに見えますが、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と勧めています(6:11)。聖書が言っている、この信仰の法則をしっかりつかんでいきましょう。

◇御霊の法則
 それでは、一点に注がれた水が左右に流れるように、救いの恵みは私の生涯にどう及んでいるのでしょうか。それが御霊の法則です。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」とありますように、御霊(聖霊)は時を越えて、恵みを「今」に持ってきてくださる方です(8:1-2)。私たちの流れは信仰の体験を大切にします。ですから、洗礼を受ける前に「新生」の信仰体験をされるように勧めます。古い罪につける人生に死んで、キリストにある新しい人生が始まるという、新しく生まれる「新生」の信仰体験は、バプテスマの「先取り」の霊的体験なのです。キリストと共に死に、キリストと共によみがえるということが同じ形だからです。教会という公の場で三位一体の神の名によってなされるバプテスマを、個人的で、霊的な新生体験として、聖霊が先取りさせてくださるのです。それが劇的に感じられようと、淡々としたものに感じられようと、バプテスマに結びつける御霊の働きですから、重要なのです。言い換えれば、新生体験とバプテスマの礼典とは切り離せない、一つのものなのです。

 先ほどのローマ6章でバプテスマの意味、意義が語られていますが、授洗後、罪の奴隷ではなく、神のしもべとして、聖霊と信仰によって、生きることを勧めているところです。そして、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と言っています(6:11、口語訳「認めなさい」、新共同訳「考えなさい」)。この言葉を総合すると、思いなさい(感情的に)、考えなさい(理性的に)、認めなさい(意志的に)となりましょうか。全身で受けとめるということなのでしょう。すでに、バプテスマの恵みに与った、しかし、キリスト者となって、時がたった「今」自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと受けとめる信仰にたつのです。それが聖化あるいはきよめの信仰体験なのです。バプテスマの後取りという法則です。現実にはキリスト者になってからの方が、罪認識は深まり、悩みも大きくなります。しかし、あらためて罪を悔い改め、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと聖霊によって「今」信じた時に、新生が第一の転機として、その体験が第二の転機に感じられます。あるいは洗礼式が水でなされることに対比して、キリスト者になってから、上記のような霊的に扱われた体験を聖霊のバプテスマだと表現したくもなる恵みの体験です。
 しかし、原理はひとつです。私はキリストと共に死に、キリストと共によみがえったと信じるバプテスマの原理は同じです。それを聖霊というお方は私たちに先取りさせたり、後取りさせたりと、「今」の体験にして、信仰を実感させてくださるのです。ですから、御霊は7章にあるように律法によって罪を示すのです。そして、8章にあるように福音によって解放させるのです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(8:1ー2)。
 さらに、この法則の完結は復活、栄光に化せられる「栄化」です。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(1コリント15:52 )。

 私は受洗した時に、罪につける過去の私が死んで、キリストにある新しい人生が始まったと信じました。時がたつと信仰が曖昧になり、もやもやしていました。その様な中で、一つのことをきっかけに、自分の罪というものがいやというほど示されました。一夜、その様な自分に涙して悔い改めて過ごしました。翌朝、出勤途中の電車の中で、主の御声を心のうちに聞きました。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです」(ヨハネ17:14、16)。主はこの世のものではない聖なる方、自分はこの世の者、汚れきった者、それなのに、十字架の血によって、きよめ、聖別し、キリスト「のように」世のものではない聖なる者だと宣言をいただいたのです。とてもそうしていただけはしないのに、この世のものではないと言い切ってくださったのです。アメイジング・グレイスとしか言いようがありませんでした。8章の解放されたという感をもちました。ここにも「ように」の圧倒される恵みの法則があるのです。
 私の今という時、恵みを届けてくださる御霊の導きという法則の中に身をおいて生きましょう。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」考えなさい。認めなさい(6:11)。

信仰によって義とされる

2012-05-06 00:00:00 | 礼拝説教
2012年5月6日 主日礼拝(ローマ3:21-30)岡田邦夫


 「神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21-22)

 私が高校1年の時、社会の最初の授業で、先生がこう教えてくれました。人が二人以上集まると社会ができる、その社会にはルールが必要となってくる、それが法であるというものでした。テレビで一つの事例をあげて、法律ではどうなっているのかというクイズ番組があります。例えば、お隣に柿の木があって、その枝が塀を越えて自分の敷地の方に伸びて、しかも、実が着いている。それを、敷地内だからかまわないだろうと、持ち主の許可なく捕ってしまうと、法律では罪になるのか。また、お隣の竹の根がのびて、塀の下を通って、こちらの敷地にたけのこが出て来た。これも断りなしに掘って、とった。これは法律では罪になるのか。前者は罪になり、後者は罪にならないというのが正解だというようものです。

◇聖書は法的
 聖書の内容は法的書物なのです。旧約聖書、新約聖書の「約」は契約の約です。神と人間との関係、ある意味での社会での契約です。旧契約書と新契約書の二部構成になっているのです。創世記の1~12章は契約書の序文です。「初めに、神は…」とあるのは主権者は神だということです。そして、造られた人間が神のようになろうと禁止された行為をしてしまって、人類に罪と死が入り込んだことを述べているのです(創世記3章、ローマ5:17-19)。12章からは神が選んだアブラハムとの契約で始まる「救いの契約」の本分です。しかし、選ばれた民の側に「あなたには、わたしをおいてほかに神(かみ)があってはならない。あなたはいかなる像(ぞう)も造(つく)ってはならない。」などの契約を破り、それがくりかえされるので、すなわち、契約不履行なので、救いがなされないことになります。そこで、神の側で新しい契約を結ぶことにしました。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」と明記(エレミヤ31:31)。

◇救いは法的
 堅い話になりましたが、神との関係の話ですから、いい加減だったり、あいまいだったりではいけませんので、どうしても、そうなります。続けてお聞きください。この神と人の契約は神との正しい関係を持つためのものです。その正しい関係を「義」といい、神との正しい関係を「神の義」といいます。パウロは神の義は啓示されたと1章で言います。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」(1:16ー17)。3章でも言います。「神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」(3:21-22)。
 私たち、人間は例外なく、神の法を犯して、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」という状況です。(3:10-11)「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」という悲惨な状態におかれています(3:23)。どんなに良いことをし、善行を積み重ねても、法を犯している以上、償うことは出来ず、神に裁かれなければならず、救われる道はないのです。

 そこで、神がとられた手段は法的手段です。イエス・キリストが十字架にかかりなし遂げられたのは、私たち、罪人が神に与えた損害を、私たちが絶対払えない分を、イエス・キリストの命で賠償金(代価)を全部はらわれたのです。私たちの犯してきた罪の大きさ、重さは、神の怒りをかうものです。ニュースなどで、殺人など悲惨な事件があると、被害者の家族は加害者を死刑にしてほしいと怒りをあらわにしている様子が報道されることがあります。私たちは何か辛いことがあると、神さまどうしてこんな事を私にされるのですかと言ってしまうものです。それはそれでありのままでよいのですし、そこから、神への信頼に展開すればよいのですが、よく考えれば、私たちは神の前で、神に怒りをぶつける被害者の側にいるのではなく、神の怒りをかう加害者の側にいるのです。しかし、イエス・キリストが十字架につけられ、血をながし、なだめの供え物となられ、神が神自らをなだめられたのです。

◇信仰は法的
 ですから、すでに賠償済みなのです。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(3:24)。良い行いをしたりして、償いをする必要はなく、だだ、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた。」と信じるだけで、神との正しい関係に回復できるのです(4:25)。「それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(3:26)。行ないの原理によってではなく、信仰の原理によってなのです。いいかえれば、行ないの法によってではなく、信仰の法によって、神の義が全うされるです。
 十字架にかけられた強盗の話がルカ福音書にでてきます。そのひとりがもうひとりに向かって「たしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(23:40ー43)。この社会では犯した罪は裁かれ、命をもって償ったわけですが、神の国の社会では悔い改めて、イエス・キリストをただ信じるだけで、義とされ、神の恵みによってパラダイス・楽園に入れていただけたのです。神の法ではそうなっているからです。
 私は悔い改めて、イエス・キリストの十字架を信じたのですが、天国に行けるのでしょうか、神の国の法律ではどうなっているのでしょうか、という質問への答はこうです。御国の法律ではイエス・キリストの贖いによって、あなたの罪は確定せず、無罪とされ、信仰の条件もはたされ、神の義が満たされていているので、天国行きは確定しています。聖書66巻からなる、神の「絶対法」ではそうなっています。安心してください。ただ、悔い改めることを怠らないように、最後まで信仰をなくさないように。