オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

命より大切なもの

2011-02-27 00:00:00 | 礼拝説教
2011年2月27日 伝道礼拝(使徒の働き20:24)岡田邦夫

 「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」使徒の働き20:24

◇より大切なもの
 今の時代、私たちのまわりは物と情報などがあふれています。そうすると何が大切で、何が大切でないか、分からなくなってきます。人は何よりも健康が第一だ、そのためには何でもする、健康のためなら死んでも良いと皮肉の言葉さえでてきます。「やましたひでこ」という人が“断捨離”(だんしゃり)というライフスタイルを提案をしてます。断捨離(だんしやり)というのは、物理的、精神的な意味で、自分にとって不要なものを切り捨てて身軽になって、シンプル・ライフを目指すことです。もともとはヨガの断行(だんぎよう)、捨行(しやぎよう)、離行(りぎよう)からきていますが、本格的に「行(ぎよう)」をするわけではありません。世捨て人のように暮らすというわけではなありません。
 これがはやるのは、現代人の生活において、物や情報などがたいへん過剰で、便利ではあるものの、人間の中身がむしろ貧弱になっているように感じられるからでしょう。これはあくまで、不要なモノだけを捨てて、自分にとって重要なモノはむしろ大切にしようということが断捨離だそうです。「百万人の福音」の3月号に宮川真琴さんがこれを紹介し、イエスがマルタに言われた「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカ福音書10:42)を取りあげ、クリスチャンとしての生き方を述べています。私たちも時々立ち止まって、整理する時間をとって、物や情報を断捨離をするのもよいかも知れません。さらに、心の中にあるものをノートに書き出し、整理して、断捨離をしてみるのも良いでしょう。どうしても必要なことが何なのか、抽出できるでしょう。

◇いちばん大切な命
 また、何が大切なことかを痛切に感じる時があります。人生に思わぬことがやってきた時です。身近な人を亡くすとか、重い病や大変な事故で、健康が損なわれるとか、何かのきっかけで人間関係が破綻してしまうとか、そうした、喪失(そうしつ)経験をした時に、何が大切なことがわからなくなります。しかし、そこで「命」がいちばん大切なものだ、「生きる」ということ事態が最も重要なことだと気付かされることもあるでしょう。そして、一日一日を大事に生きていこうという心境になります。そういう人の話を聞きます。そのことは聖書ではっきりと教えています。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ福音書16:26新改訳)。この命というのは「まことのいのち」です。まことの生き方、真実な生き方、神と共に永遠に生きる生き方です。

星野富弘さんは1970年、中学校の先生をしていて、クラブ活動の指導中に鉄棒から落ちて、頸椎(けいつい)を損傷し、死の危険にさらされましたが、命は助かりました。しかし、手足の自由をまったく失ってしまいました。そのような喪失経験の中でもだえ苦しんでいる時に聖書に出会い、キリストに出会い、1974年、病室で洗礼を受けました。首から下がまったく動きませんが、口にくわえた筆で詩画を描くようになり、それが多くの人の慰め、励ましになっています。「命より大切なもの」という作品はその代表的なものです。
 「いのちが 一番大切だと 思っていたころ 生きるのが 辛かった いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」
 星野さん、本人に「命より大切なものは何ですか」聞くと、こう答えられるそうです。「さあ、何でしょう。聖書を読んで探してみてください。本気で探してください。そうすれば見つかりますよ。私も見つかりましたから」。

◇命より大切なもの
 私は若い時に、クリスチャンが殉教していくその最後が穏やかだったり、輝いたりしている姿に、心が引かれていました。人生の途中で、命が奪われようとしているのに、彼らはそれを越えた何か崇高なもの、何をされても、奪われないものを持っていたからに違いないとあこがれさえもっていました。20歳の時にその仲間に加えられる機会が与えられ、受洗しました。
 サウロという青年がいました。彼は律法(聖書)を学び、落ち度無くそれユダヤ教的にを守っていた人でしたから、キリスト教は大変な間違いだ、この異端は撲滅しなけばならないと思っていました。ある日、ステパノというキリスト教徒の証しがユダヤ教徒の逆鱗(げきりん)に触れ、寄ってたかって石を投げつけられ、死んでいきました。サウロは石を投げる人たちの着物の番をして、その殉教の光景を目にしていました。そんな状況で、赦しを祈り、天が見えると言い、輝いて死んでいったその姿に、うそではない、何かを越えた崇高なものを感じたに違いありません。それでも、キリスト教が異端だという考えはぬぐえず、熱心にその撲滅活動に走りました。
 ところが、ダマスコの途上で、復活されたキリストが彼に現れ、アナニヤという人に導かれ、キリストの福音を信じ、受洗します。迫害者であったサウロは一転して、キリスト教徒の仲間になり、その急先鋒(きゆうせんぽう)になっていきます。命が奪われようとしても、それを越えた何か崇高なもの、何をされても、奪われないもの、イエス・キリストの福音を信じ、永遠の命という、命よりも大切なものを得たからです。彼はこれを得た嬉しさを届けに、世界を飛び回り、三回にわたって、伝道旅行をしました。サウロ、後にパウロと呼ばれますが、かつての勝手な大望(たいもう)を捨て、復活の主によって、純粋できよめられた大望が与えられました。世界の中心、ローマに福音を伝えに行くことです。囚人となるという方法でローマまで行き、そこで証しを続けました。そして、ローマで殉教したと伝えられています。

 それをもう少し詳しく見てみましょう。パウロが第三次伝道旅行でアジア(現在のトルコ)での伝道の成果も上がり、一段落した時に、それで満足しませんでした。神の「御霊の示しにより」、これからエーゲ海を渡り、マケドニアとアカヤ(今のギリシャ)を通り、その後にエルサレムに行くことにしたのです。彼はさらにこう言いました。「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」(19:21)。パウロはわがままを捨てて、神の思(おぼしめ)し召しのままに生きたのです。勝手な自分の声に従ったのではなく、良心の声に従い、その良心に働く「御霊の声」に従ったのです。マケドニア、アカヤに渡って巡回し、Uターンして、再びアジアに渡りました。トロアスという所で、こんなエピソードがありました。翌日出発するので、夜中まで人々と命より大切なものを実に楽しく語り合っていました。ところが、パウロの話が長いものですから、窓に腰掛けて聞いていたユテコという青年が、眠りこけてしまい、3階から落ちて、死んでしまったのです。パウロが彼の上に身をかがめ、抱きかかえて、声をかけると、生き返ったのです。人は死んで終わりではなく、主にあって復活するのだということのしるしの奇跡でした。それで、なお嬉しくなって明け方まで語り合い、青年のことでは大いに慰められたのでした(20:12)。
 そして、ミレトの港に着いた時に、エペソ教会の長老と再会し、これから「心を縛られて、エルサレムに上る」ので、命より大切なものを委ねていきますという決別説教をします(20:18ー35)。それは珠玉の説教ともいえる愛にあふれたものです。その中の一節が「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」です(使徒20:24)。それから、エルサレムに向かって船出するのですが、寄港したところで、キリスト教徒から、迫害の危険がまっているから、エルサレムに行かないように、止めるのですが、パウロはこの言葉のように、聖霊に導かれて、エルサレムに行きました。案の定、アジアからきたユダヤ人がパウロは律法違反者だと、群衆をあおり立て、大騒ぎとなり、彼を殺そうとします。それをローマ軍の千人隊長が止めます。いろいろ経過はあるのですが、彼がローマの市民権を持つ市民なので、ローマで裁判することとなり、囚人船でローマに行くことになるのです。誰もこんな筋書きは書いてはいないのですから、神の導きとしか言いようがありません。こうして、現実にパウロは神の恵みの福音を証しする任務を果たし終えることができたのです。
 神は勝手に生きようとする罪深い私たちであっても、私たちを愛し、滅んでしまうことを惜しんでおられるのです(ヨナ書4:11)。その私たちを愛し、罪人を救うために、身代わりとして、十字架においてご自分の御子を惜しまず死に渡され、私たちの罪の贖いをなしとげられたのです(ローマ8:32)。この惜しみない神の愛、私たちの救いのために御子を惜しまず死に渡された神の愛こそ、命より大切なもの、これに与った者は「主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」という生き方をするのです(使徒20:24)。

第三回伝道旅行~主のことばは驚くほど広まり

2011-02-20 00:00:00 | 礼拝説教
2011年2月20日 主日礼拝(使徒の働き19:1~41豊中泉教会にて)岡田邦夫

 「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」使徒の働き19:20

 「ペンは剣よりも強し」とありますが、もともとはフランスの枢機卿リシュリューが全く別な意味で言ったらしいのですが、この言葉が一人歩きし、「思想や文学の力は武力よりも大きな力をもつ。」ということわざとして使われています("The pen is mightier than the sword.")。作家や報道人もそれを誇りにして活動している方も多いでしょう。新聖歌303「安かれわが心よ」はシベリウス作曲のフィンランディアに賛美歌の歌詞をつけたものです。19世紀も末のことです。当時のロシア皇帝ニコライ2世によりフィンランドは自治権を取り上げられ、民衆はロシア軍の傍若無人な圧力に日々苦しんでいました。そんな中で1899年11月に演劇「いにしえからの歩み」が上演され、シベリウス作曲の「スオミ」(フィンランドのこと)が奏でられました。するといつの間にか歌詞が付き、フィンランド賛歌として合い言葉のように人々の間で、歌われるようになり、彼らを励まし、奮い立たせました。そして、1917年、遂にフィンランドは独立を宣言することができたのです。歌い出しはこうです。「おお,スオミ(フィンランド),見よ,お前の夜明けだ。お前を脅かす夜(ロシア)は遠くへ追い払われ、ヒバリが,輝く朝(独立)の歌を歌っている…」。この交響詩「フィンランディア」が国を救ったと言っても過言ではないでしょう。
 神戸新聞の文芸欄のエッセイ・ノンフィクションに、家内が投稿しましたら、1月入選しました。「黒豆」と題した、原稿用紙10枚の作品です。三田に来て、すすめられて、畑を借り、黒豆作りをしていること、その料理の仕方、聖書の種まき人のたとえ、開拓伝道の様子をもりあわせたものです。すると、教会員も喜んでくれたのですが農道で、ご近所の方が、「岡田さん、新聞見たよ。この辺のこと、よう書け取ったなあ!」と大きな声で言ってくれました。言いたいことは最後の記しました。「日本のクリスチャンの数は人口の1パーセントといわれ、その中でも牧師は少数派だ。そんな私たちだが、黒豆のおかげでこの土地の人になっていけそうな気がしている」。

◇主の言葉は正確に
 さて、パウロの第三次伝道旅行の話です。その前の伝道旅行で行った教会に再び、訪れるとものでしたが、エペソには長く、三年もの間、滞在して、伝道をし、教会を形成していました。その間、神のご計画の全体を、余すところなく伝え、夜も昼も、涙とともにひとりひとりを教えていたと後に述懐しています(20:27,31)。そのキリスト教の伝道によって、小アジアの最大都市エペソにセンセーションを巻き起こしたのです。
 エペソというのは、パウロたちが第二次伝道旅行の帰りに寄った港町で、一緒に伝道旅行をしていたプリスキラとアクラを残して行った所です。そのエペソに、アポロというアレクサンドリア生まれのユダヤ人が来まして、霊に燃えて、イエスのことを教えていたのを、プリスキラとアクラが聞きました。しかし、ヨハネの洗礼だけを知っていて、十分ではなかったので、二人は彼を家に招き、神の道をもっと「正確に」説明してあげたのです。もともと、彼は雄弁な人で、聖書に通じていた人だったので、エーゲ海を渡って、コリント教会に行き、そこで目覚ましい働きをすることになりました。福音の言葉が正確に捉えられていく時に、人を正しく変え、回りを変えていくのです。ルカの福音書の冒頭でもこう言っています。「尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます」(1:3-4)。

◇主の言葉は生き生きと
 その後、パウロがエペソ教会に到着します。幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、いいえ、ヨハネの悔い改めのバプテスマしか知りませんと答えが返ってきました。そこで、その人々に、主イエスの御名によるバプテスマを授け、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしたのです(19:5-6)。ここに命の事実があるのです。イエスの御名によって受洗した人には聖霊が与えられているのです。もし、確信がなければ、聖霊を求めましょう。求める者に聖霊を下さらないことはありません。
 いつものように、ユダヤ人やユダヤ教改宗者らの集まる「会堂」で「大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。」のです。それが、三か月の間、続いたのですが、「ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせ」ました。場所をかえて、ツラノという人の哲学講堂で、毎日論じ、二年もの間、それを続けたのであります(19:8ー10)。

 ここで、実にリバイバルが起こったのです。それを読んでみましょう(19:10ー19)。
 「これが続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」…多くの人々の渇き
 「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」…驚くべき奇跡
 「ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師」が「ためしに、悪霊につかれている者に向かって、イエスの御名をとなえ」悪霊追放しようとしたら、逆にその人たちに飛びかかられ、押さえつけられ、裸にされ、「傷を負って、その家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。」…偽りへの裁き、聖なるものへの畏敬
 「そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。」…徹底した悔い改め
 このような聖なるリバイバル現象は日本ホーリネス教団の歴史においても、大正8年と昭和5年に起こっています。その時は霊が燃やされ、驚くような回心者、受洗者の数の増加がありましたが、その現象は長く続きませんでした。それは「聖なる」と言いましたように、決して人為的には起こせないことで、聖霊による臨在と認罪、聖霊による言葉と業の一致という、極めつけの終末の出来事だったのだと思います。使徒の働きでルカはこう総括しています。

◇主の言葉は驚くほど広がり
 「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った」(19:20)。不思議な表現です。主のことばが広がっていくというのは分かりますが、人格を持っているかのように「力強くなって行った」というところが何とも不思議です。み言葉はあらゆる人々に広がっていき、力強く救いに導いていくということでしょう。ユダヤ人にもギリシャ人にも、自由人にも奴隷にも、老いも若きも、男にも女にも、強い人にも弱い人にも、健康な人にも病気の人にも、ありとあらゆる人々に、驚くほど広まっていき、浸透していくのです。みことばは神の国の言葉です。イエス・キリストの恵みの支配です。この世で誰が支配していようと、恵みの支配は行き渡って行くのです。力強くなっていくのです。み言葉はサタンをも退ける力を持っています。イエス・キリストのみことばは和解の福音です。隔ての中垣を破って、神と人、人と人を和解させることができる愛の力があります。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」(Ⅰコリント1:18)。
 この後、23節から41節までに、アルテミス神殿のことで、大変な騒動が起こったことが記されています。アルテミス神殿というのは、120年に及ぶ大事業で作られたもので、古代の世界の七不思議のリストにあげらています。アンティパトレスという人がこう言っています。「私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見、アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も、ヘリオスの巨像も、多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも、はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。しかし、アルテミスの神殿がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚きはすっかり霞んでしまった」。
 しかし、使徒の働きの著者ルカはアルテミス神殿に驚いてはいません。キリストのみ言葉の活躍に驚いているのです。「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った」(19:20)。エペソ人への手紙で述べられています。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮(神殿)となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」(2:19-22)。その見えない教会は「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行く」という見える形で現れるのです。

第二回伝道旅行~語り続けなさい

2011-02-13 00:00:00 | 礼拝説教
2011年2月13日 主日礼拝(使徒の働き18:1~22)岡田邦夫

 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」使徒の働き18:9-10

 「ものの見方について」という笠信太郎氏の文章が国語の教科書に載っていたのを覚えています。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。そしてスペイン人は走ってしまった後で考える」という小話で始まるもので、比較しながら、日本のあり方を問うものでした。これは国民性のおよその傾向であって、皆がそうだとくくれるものではないのですが、文化比較というのは面白いものです。
◇異文化の中で
 パウロは第二回伝道旅行で神に導かれて、ローマ帝国ギリシャ州のコリントという都市に来ました。紀元前146年にローマによって市は破壊された後、市街は再建されて、交通の要衝(ようしよう)に位置することで商業都市として発展し、再び繁栄の時を迎えていました。ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人がそれぞれ、生き方は違っていたのですが、住民としてこの都市に混住していました。それを「人間の行動原則の正し手を、宗教に求めたユダヤ人、哲学に求めたギリシャ人、法律に求めたローマ人」とも比較されています(塩野七生著「ローマ人物語」)。そのような所で伝道するにはパウロはうってつけだったかも知れません。彼はギリシャ文化と教育の中心地キリキヤのタルソ出身で、血筋はユダヤ人、エルサレム大学で律法を学び、それを実践していた人で、しかも、法律的には生まれながらのローマの市民権をもつ、れっきとした市民でした(使徒21:39、22:3、22:28)。
 そこで、パウロはまず、アクラという人の家に住み、テント作りの仕事をいっしょにしながら、安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人の説得に努めていました。そして、シラスとテモテがマケドニヤからやって来て、合流したので、パウロはみことばを教えることに専念しました。さらに、ユダヤ人たちにイエスがキリスト(メシヤ)であることを力強く証ししました。はっきりと宣言したと言ってもよいでしょう。律法を説くユダヤ教に対して、福音を説くキリスト教を証しし、宣言したのですから、ユダヤ人たちは暴言を吐いて、それに反抗してきたわけです。それに対して、パウロもまた、拒絶の意味で、着物を振り払って言い切りました。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」(18:6)。これは売り言葉に買い言葉というわけではありません。例えば、ある人にブランドものの良いものだから、あなたにあげましょうと言ったら、そんなの偽物だからいらないと怒って拒絶したので、じゃあ、別の人にあげることにする、という意味です。しかし、それ以上のことを指している発言です。以前にも、同じようなことがありました時、それが神の奥深い御旨であり、神の目的があることを聖書を引用して説教しています。「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである」(13:47=イザヤ49:6)。
◇文化を越えて
 パウロは場所を変えて、異邦人(?)ユストという人の家に行きますと、その隣が会堂であったのが幸いして、その会堂管理者が一家をあげて主を信じ、バプテスマを受けたのです。さらに、多くのコリントの人々も福音の言葉を聞いて、イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けていったのです。この時代は、ローマ市在住のユダヤ人とキリスト者が真の神の民は自分たちだと主張し合って、抗争が絶えなかったので、クラウデオ帝が命令し、すべてのユダヤ人及びキリスト者をローマ市から退去させたというような状況でした(おそらくAD41ー49)。それで、前述のアクラ、プリスキラ夫婦もイタリヤからコリントに来ていたわけです。一方、コリントは商業都市として繁栄していた反面、道徳的に退廃しており、古典ギリシャ語では「コリントする」は不品行を行うの意味で、「コリントの娘」は売春婦の意味でつかわれるほどでした。そのような危険と誘惑の隣り合わせの状況で、パウロはある夜、幻によって主のみ声を聞いたのです。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(18:10)。パウロは、そのみ声を聞いたので、一年半、このコリントに腰を据えて、神のことばを教え続けたのです。
 抗争するまでもなく、イエス・キリストは「わたしの民がたくさんいる」、真の神の民がこのコリントにたくさんいると言うのです。人の目には見えないが、神の目にはご自分の民が見えていて、大勢いると言われるのです。それはコリントに限ったことではないでしょう。私たちの目には日本のキリスト者は少ないし、伝道がなかなか進まないと見てしまいます。しかし、イエス・キリストの目は「わたしの民がたくさんいる」と見ておられるのではないでしょうか。私たちは信仰と希望と愛の目をもって、御前にあろうではありませんか。
 コリントは周囲から見て、評判が悪かった通りに、形成されていったコリントの教会の内部にも様々な問題を抱えていたことが、コリント人への手紙を見ると分かります。その手紙の中で、愛する者たち、私たちは約束を与えられているのですから、聖なる者になりましょうと勧めています。その約束は、「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」なのです(2コリント6:16)。人からどう悪評価されようと「わたしの民」であり、イエス・キリストの十字架により、聖霊により、聖化されて、真の「わたしの民」に、主が導かれるのです。そして、そのような退廃して見えるコリントだからこそ、強力なユダヤ人の反抗にあうまでは(18:12-18a)、主はパウロたちを「1年半ここに腰を据えて…神のことばを教え続け」させたです。
 わたしの民がたくさんいるのだから、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。」と命じられました。しかし、前述したパウロがギリシャとユダヤの教育を受けたローマ市民なので、宣教師としてうってつけの人だったと言いましたが、実はそれでは間に合わなかったのです。「私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。…そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。」と後に書き記しています(1コリント2:1、4)。ユダヤの言葉でも、ギリシャやローマの言葉でも人を滅びから救う力はなく、「十字架のことば」こそ、その力があるのです。神の民、わたしの民にしていくはかりしれない力、聖化の力があるのです。十字架のことばはユダヤ人もギリシャ人もローマ人も日本人も救う力のあることばです。聖霊が恐れず語り続けさせてくれるでしょう。

◇未完成交響曲 ―1984.8.31告別説教より―
 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、命の冠を与えよう」(黙示録2:20)。
 宝塚開拓の幻を与えられ、開拓伝道の働きを担ったT姉が、病のため主のみもとに召されて行った。生前、彼女は教会では奏楽者であった。奏楽者に求められる最も大事なことは「忠実さ」ではないかと思う。
 第一に、技術面で譜面に忠実である事、第二に、精神面で作者に忠実である事、第三に、演奏される場にふさわしくある事、つまり場に忠実である事である。彼女は、この三つを備え、祈りのこめられたその奏楽には、彼女ならではの独特の魅力があった。
 彼女のご兄弟は名の通った演奏家であるが、彼女は自分のピアニストとしての才能を、収入のために使わず、教会の奉仕にのみ献げた人であった。主をほめたたえるために、本当に忠実であった。
 形式は未完成でありながら、内容は完成されたものように演奏され続けている「未完成交響曲」というシューベルトの作品がある。彼女の一生はそのような未完成交響曲にたとえられるものであったと思う。
 T姉は41歳の若さで、ご主人と愛娘、ご両親等を遺し、多くのなすべき事を残し、宝塚の会堂完成を見ずして、天に召されて行った。彼女の生涯において、受洗までが第1楽章、結婚までが第2楽章、宝塚へ転居してからが第3楽章とすれば、その第3楽章の途中で終わってしまっている。どの章も神を証詞している。しかし、何といっても第3楽章が素晴らしい。彼女が35歳の時、残る生涯の私の使命は何だろうかと神に求めていた。
 ある秋の日に、庭にはき集められた落ち葉が、枯れて汚くなっていたのを見た時、宝塚にもこのように神なく、命なく虚しく過ごしている人々がいることを示された。早速近所に毎月二百の「よろこびの泉」を配布、T、W両家を中心とした家庭集会を開始した。「この町にはわたしの民が大勢いる」(使徒18:10)との御言葉を与えられた彼女は宝塚開拓のビジョンをもって祈り始めた。やがて、それは豊中泉教会のビジョンとなり(81年11月)、不思議なように土地が寄付され、84年度の教団開拓指定教会となり、4月豊中泉教会から、宝塚泉教会が株分けされたのである。彼女一人に与えられた使命と幻は、友人を動かし、教会を動かし、教団を動かしていった。
 もし、彼女が神の御声に「忠実に」従わなかったら、宝塚開拓はなかったかもしれない。
 未完成ではないかと思われる41年間の短い生涯であったが、神の前に忠実に歩んだ信仰のメロディーは完全であったと確信する。彼女の遺した未完成交響曲は、多くの人々に神を証詞する曲となって感動させ続けるであろう。彼女の後に続き、私達も「死に至るまで忠実」に歩み、「命の冠」を主からいただきたいものである。

第二回伝道旅行・家族も救われます

2011-02-06 00:00:00 | 礼拝説教
2011年2月6日 主日礼拝(使徒の働き16:16~40)岡田邦夫

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒の働き16:31

 私、弘前の教会のご用に行きました時、いきなり甘い赤飯を出されました。甘納豆をつかうので甘く、この辺りではそれが常識で、店で売っているのも甘いのだと言われました。甘い物好きの私には最高のおもてなしでした。山梨も甘い赤飯ですから、はっきりしたことは分かりませんが、歴史をさかのぼると、鎌倉時代に山梨県南巨摩郡を本拠としていた南部氏が室町時代に青森県の三戸地方に移ってきた時に、この山梨の風習が持ち込まれたらしいです。風習というのは第三者として見れば、その違いに驚くだけですが、現実に入り込んでいこうとすると摩擦を生じることがあります。初代教会がキリスト教を伝えていく中で、そういう問題に直面しましたが、命にあふれていたので、福音は前進していきました。その様子を見てみたいと思います。

◇役だった風習
 パウロとシラスが、小アジア(今のトルコ)で伝道を進めていたのですが、ある夜、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願する幻を見て、エーゲ海を渡り、マケドニア(今のギリシャ)に来ました。ヨーロッパの文化圏に踏みいれたわけです。そのマケドニア州の第一の植民都市のピリピに来ました。ユダヤ人というのは外国に寄留しても、信仰と風習を守るため、会堂(祈りの場所)を持ち、安息日礼拝を行うのが常でした。ピリピにも祈りの場所があって、パウロとシラスはそこに行き、伝道をしていました。すると、そのユダヤ人の集まりの中に異邦人で、アジア州のテアテラ市出身の商人でルデアという婦人がいました。彼女はパウロの語るキリストの福音に耳を傾け、主を受け入れ、彼女とその家族がバプテスマを受けたのでした。きっと彼女の魂が霊的なものを求めていて、その求めがマケドニアの幻として、聖霊がエーゲ海を渡って、二人の使徒に届けられたのでしょうか。聖霊が両者を祈りの場で出会わせ、聖霊の導きで彼女とその家族が救われ、そして、ピリピでの最初の教会の集まりが出来たのです。求めていた人たちには、風習に関しての問題はなかったようです。

◇破られた風習
 ところが、こまった事が起こりました。彼らが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷があとについて来ては、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けるのでした(16:18)。言っている言葉だけは間違いなくあっています。しかし、悪霊が言わせているのですから、不気味で、怖いのです。「占いの霊」の直訳は「ピトンの霊」、ピトンはギリシャ神話で託宣神デルフィを護っている大蛇のこと、その霊が彼女の腹の中にいて、占うというものでした。しかし、パウロが手紙で書いています。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)。現象としては女奴隷が霊に取り憑(つ)かれていたわけですが、見えないところで、ほんとうに「悪」の霊に支配されていたのは彼女を利用し、多くの人から利益を得ていた主人たちだったのではないかと私は思います。それは世界によくある風習だったかも知れませんが、それでは済まされない事態になります。
 幾日もそれをするので、パウロは困り果て、その霊に「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と宣言しました。すると即刻、霊は出て行ったのです。それで女奴隷の主人たちはもうける望みがなくなったので、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てていき、長官たちの前に引き出し訴えました。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております」(16:20-21)。群衆も同調したので、長官たちは、ふたりを何度もむちで打たせて、足かせを掛けて、奥の牢に入れたのです。パウロとシラスは風習の違いで対決したわけではなく、ただ、占い師が叫び続けることに困り果て、御名の力で悪霊追放をした、そのために、訴えられ、むち打たれ、投獄され、余計に困り果てる状況になってしまいました。

◇作られていく風習
 ところが、パウロとシラスは全然、困った様子はなく、「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌ってい」たのです(16:25)。良くあるのは、このような災いにあったのは、何か自分に原因があるのではないか、という因果応報の考えからくる思い過ごしに取りつかれることです。また、見た幻はほんとうではなかったのではという疑いと今後の心配に襲われることです。それは人を神から離れさそうとする「天にいるもろもろの悪霊」の働きです。彼らはこうなった「原因」を探るのではなく、何のためにここにいるのかという、神の「目的」を考え、マケドニアの幻の目的が果たされるようにと祈ったことでしょう。主イエスがむち打たれたように、自分たちもむち打たれたと、背中がずきずき痛み、体が熱をもっていることさえ、光栄と感じ、「キリストは、神の御姿であられる方なのに…」というような賛美の歌を歌っていたのかも知れません(ピリピ2:6-11)。ほかの囚人たちも救いを求める幻の人たちだったのでしょう。祈りと賛美を聞き入っていたのですから。
 すると、祈りと賛美は神に聞かれ、奇跡が起こりました。「突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった」のです(16:26)。この地震に目をさました看守が見たのは、牢のとびらが開いている光景でした。囚人たちが逃げたものと思い、こういう場合、責任を取ることが求められていたので、自害しようとしました。その時、パウロが大声で止めました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」。看守はパウロとシラスとの前に震えながらひれ伏し、外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と求めたのです(16:30 )。
 あの見た幻の声はこの声の持ち主だったのだと二人は思ったことでしょう。即座に福音の言葉を告げました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(16:31)。その後は優しさに満ちた光景が記されています。「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ」(16:32ー34)。
 この二人は釈放されるのですが、二人がローマ帝国の市民権を持つローマ人だと知ると、長官たちがわざわざ出向いてきて詫びをし、町から出て行ってほしいと頼んだのでした。そこで、牢を出た二人はルデヤの家に行き、兄弟たちを励ましてから、不必要な風習などのことでの対決を避け、この町を出て行き、どこかにいるであろう幻の声の主(ぬし)の所に行くために、次の町に向かったのです。ピリピでは商人の家族と看守の家族が救われました。それを特徴づけるのは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」のみ言葉です(16:31)。主の約束の言葉です。

 「百万人の福音」2月号に姉の短歌が載っていました。「十字架を背にしたる夫の遺影見て『かっこいいね』と孫はいいたり」。孫に「おじいちゃんてどんな人」と聞かれたので、お葬式の写真を見せたら、ポツリと言った者だそうです。彼女は結婚して、夫婦は山あり谷ありの生活でした。姉の母親(私の母)が家を建て替える間、姉の家にしばらく一緒におりました。65才でクリスチャンとなっていた母が毎日聖書を読み、祈り、時折、短歌を作っていました。とくに、今日のこのみ言葉を信じて、祈っていました。母の召天の後に、その生き様を見てきて、自分もそのように生きようと思って、姉もクリスチャンになりました。その後、主人が病に倒れ、からだの調子の良い時にはチャペル・コンサートなどの特別集会には一緒に行くようになりました。手術することになりました。前の日に、便箋にしっかりとした文章で、信仰告白を書き記して、渡されました。ところが開けてみるとガンが転移していて手の着けられない状態でしたが、手術を終えました。本人は意識を回復しませんでした。術後に病床洗礼をすると約束していたので、牧師が来ました。しかし、牧師は意識のない状態ではそれできないとは思ったのですが、聖霊に示されて、洗礼を授けたのです。すると、不思議なことが起こりました。明くる日、何と意識を回復したのです。奇跡でした。そして、医師から、彼は化け物だと驚きの声を聞かせれながら、退院していきました。それから、信仰者として、共に教会にかようになったのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」の主の約束の通りでした。今は姉は地上に残されていますが、母の足跡にならって、教会生活をエンジョイし、短歌を作っては日々を過ごしています。そのようなキリスト者の風習が受け継がれていることは幸いです。