オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

何のために、誰のために生きるのか

2011-06-26 00:00:00 | 礼拝説教
2011年6月26日 伝道礼拝(2コリント5:14-17)岡田邦夫

 「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。…生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」2コリント5:14-15

 今日、若い時に信仰を持ち、その後、教会から長い間離れ、昨年、教会に来られ信仰を復帰された方の証詞を聞きました。今、畑には黒豆が蒔かれ、芽を出したところですが、新芽を鳥が食べにくるので、畑用のCDをひもにたくさんぶら下げて、はったので、その害は今のところありません。しかし、根切り虫に20本程根を切られれてしまいました。信仰を持って間もないころに、何かのことで、信仰の根をサタンに切られてしまうことがあります。しかし、今日の証詞者は根を切られてなかったようで、長い間の空白があっても、どこかで主につながっていて、すっと教会に帰って来られたのだと思います。
 彼の若い時の疑問は「人は何のために生きるのか」という人生の目的でした。それで、イエス・キリストを信じることを通して分かったわけですが、定年を前にして、再び、若い時とは違うものの、同様の「人は何のために生きるのか」の問いをもたれていたので、若き日を思い出し、再度、教会に来られたのでしょう。逆に言いますと、何のために生きるのかという目的がないと人は生きていけないのです。良い学校に入るために、勉強するとか、スポーツにしろ何にしろ、良い結果を出したいために、がんばるとか、さまざまあります。しかし、誰でもが、どういう状況でも、同じ人生の目的があることを、聖書は明示しています。
 生まれつきの盲人を見て、弟子がこれは両親のせいか、本人のせいでこうなったのかと、因果応報の理屈で、原因を聞きました。しかし、イエス・キリストは誰のせいでもない、因果応報はない、神のみ業が現れるためだと、人はだれでも、生きる目的をもって、神が生まれさせたのだと答えられました。本来的に世界を造られ、人を造られた創造者の目的があるのです。しかし、人はこの目的にそうことをせず、自己目的に、言い換えれば、神から離れ、自分勝手に生きるようになりました。神に信頼しないで、神なしで生きることを罪と言います。創造者の目的にそわない罪人を滅ぼしてしまおうとするのは当然です。しかし、イエス・キリストはこの私たち、罪人を救うという目的をもって、地上に来られ、十字架にかかられ、罪の贖いをなしとげ、復活され、天上に帰られました。
ですから、私たちの人生の目的は、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストのために生きることです。聖書はこう告げています。
 「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:14ー17)。

 この教会がこのところで、始められた時に、和田忠三牧師が東京聖書学院に入学する前の一年間、開拓の援助、奉仕をして下さいました。土曜の子供会でも、よくお話をされましたが、その中で、ずっと印象に残るお話しがありました。オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)原作の「大男の庭」という物語です。なかなかいい話ですから、聞いていただきたいと思います。その前に、二つの聖書の言葉をお読みしましょう。
 「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:40)
 「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23:43)

 昔、ある国のお城に、それは愛らしい庭がありました。いつも色とりどりの草花が咲き乱れ、春にはたくさんの桃の木に淡い色の花が咲きました。秋になると、枝はたわわに甘い実をつけます。子どもたちは、毎日その枝で遊ぶのを楽しみにしていました。
 しかし、ある日、お城の持ち主の大男が、長い旅から戻ってきました。そして、自分の庭で遊んでいる子どもたちを見ると、カンカンに怒りだしました。「ここで何をしている!出て行け!」。恐ろしい声で怒鳴り散らしたので、子どもたちは逃げていきました。「ここはオレ様だけの場所だぞ」。大男は庭のまわりに高い塀を築いて、「立ち入る者は死刑にする」という立て札を立てました。
 その日から急に、お城は冬になってしまいました。国中の木々が花を咲かせる春が来ても、なぜか大男の庭は冬のままです。子どものいない庭には、小鳥も来ません。土からわずかに頭をのぞかせた花のつぼみも、立て札を見ると、あわてて地中に姿を隠してしまいました。お城には雪と氷が居座って、北風が一年じゅう吹き荒れています。その上毎日雹(ひよう)が降って屋根をめちゃくちゃにしてしまいました。「どうしてここには春が来ないんだ」。春だけでなく、夏も、秋もやってきません。「どうして、いつまでも寒いんだ」。
 ある朝、大男が目を覚ますと、どこかで小鳥の声が聞こえました。開いた窓からは、かぐわしい香りが漂ってきます。男は飛び起きて、外を見ました。すると、壁のすき間から入り込んだ子どもたちが大勢、庭で遊んでいたのです。庭の木々に子どもたちがよじ登ると、それまで凍り付いていた枝は、うれしそうに花開き、鳥たちも飛んできてさえずります。地面の雪は溶けはじめ、愛らしい草花も暖かな風の中で思い切り背伸びをしています。

 ところが、庭のいちばん向こうの隅だけは、まだ冷たい風と雪に閉ざされたままでした。凍りついた木の根元で、小さな男の子が泣いていました。自分も木に登っていっしょに遊びたいのですが、その子は体が小さくて、どんなに手を伸ばしても枝に届きません。凍えそうになりながら泣きじゃくっているのです。大男の心に、突然熱いものがこみあげてきました。「ああ、わたしは何て自分のことしか考えない人間なのだろう」。急いで庭に出ていって、そっとその子を抱き上げ、木の枝に載せてあげました。そのとたん、枝という枝の花がいっせいに開きました。男の子は小さな両腕を大男の首にまわして、うれしそうに笑いました。それを見た子どもたちが庭に戻ってきました。「これから、この庭は君たちのものだよ」。そう言って、大男はまわりの塀を小さな斧で壊しました。

 その日、子どもたちは夕方まで大男といっしょに遊びました。子どもたちが家に帰るころ、なぜか、あの男の子の姿だけが見えません。どの子に聞いても、その子がどこに住んでいるか知りません。今まで遊んだことのない子だった、とみんな口々に言いました。それから毎日のように、子どもたちは庭に遊びに来ましたが、あの子は二度と来ませんでした。大男は残念で仕方がありません。あの小さな子が忘れられなかったからです。「何とか、もう一度会いたいなあ」。
 そして何年も過ぎました。大男はすっかり歳を取りました。もう子どもたちといっしょに遊べませんが、庭で遊ぶ子どもたちを眺めながら、幸せに暮らしました。ある冬の朝のこと、着替えをしながら庭を見ていた大男は、思わず目をこすりました。庭のいちばん向こうの隅にある木だけが、美しい満開の花をつけているのです。枝は金色に輝き、銀色の実がなっています。その木の下には、あの小さな男の子が立っているではありませんか。

 大喜びで木のそばに走ってきた大男は、男の子を間近に見て、叫びました。「何というひどい傷!いったいだれがそんなひどいことを!」。その子の両手と両足には、釘で打ち抜いた無残な傷があったのです。大男は怒りにふるえました。「そんなやつは、私がただではおかない!」。「いいえ、これはわたしが愛のゆえに受けた傷です」。その時、不思議な畏(おそ)れが男を包みました。「あなたはいったいどなたですか」。そう言いながら、大男はこの子の前にひざまずいていました。すると、その子は微(ほほ)笑(え)んで言いました。「かつてあなたは、わたしをあなたの庭で遊ばせてくれました。今日はあなたが、わたしと一緒にわたしの庭(パラダイス)へ来る番です」。

 その日の午後、子どもたちがいつものように庭にやってくると、男は、あの木の下で白い花に埋もれて、安らかに眠っていたということです。

 人は誰のために生きるのかが重要です。イエス・キリストは私のために生き、死に、よみがえられたのです。ですから、私もこのお方のために生き、それは具体的には最も小さい者のために生きるのです。それは主の愛の中に生きるということです。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。…生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」2コリント5:14-15

エレミヤの召命

2011-06-19 00:00:00 | 礼拝説教
2011年6月19日 主日礼拝(エレミヤ1:1-19)岡田邦夫・於みのお泉教会


 主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。」エレミヤ書1:9口語

 「無人島に持っていく一曲は何か」と質問があったときによく出てくる答がバッハのマタイ受難曲だと言われています。曲としては新聖歌114「血潮したたる主のみかしら」によって多くの人々に知られています(聖歌155ではハスラー作曲、バッハ編曲)。その受難曲の中で、「あなたがたが知っている通り、二日の後には過越しの祭りになるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」の十字架という言葉のところで、「十字架音程」
というのを使っているのです。楽譜を見ると、音2つずつを結ぶと線が交錯して十字架が現れるというものです。しかもシャープが4つもついているのはシャープがドイツ語で十字架(Kreuz)だからです。ただ聞いてるだけでは分からないが、分かる人には分かるという仕掛けがあるようです。バッハは音楽を立体的に表現しようとしたのでしょう。
 聖書に出てくる預言者は単に未来を予告するという直線的なことではなく、それだからとただ警告するという平面的なものではなく、神による民の救いという立体的な使信を伝えているのです。それをよく表しているものの一つがエレミヤ書1章です。

◇前の、前から
 エレミヤはアナトテにいた祭司。神と民の間に立つ仲保者の役割を担っていました。この時代は激動期、小国ユダは迫り来る大帝国に飲み込まれようとしている危機の時でした。その様な時だからこそ、神がエレミヤに臨んだのです。ユダの王ヨシヤの治世の十三年に「主の言葉がエレミヤに臨んだ。」とあり、「主の言葉がわたしに臨んで言う、」と繰り返されます(1:2、4)。上から下に臨む、あるいは彼方から此方に臨むということです。しかも、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした。」という主の言葉ですから、驚きです(1:5)。祭司になる前から、物心つく前から、しゃべり始める前から、いや、生まれる前から、神が選び、聖別していたというのです。この危機の時代を見越して、希望の預言者として、命を与えたのです。その密かなるご計画をエレミヤが知ることができたというのも、決して勝手な思い込みではなく、聖霊の業だ思います。
 しかも、万国の預言者として立てられたという、世界的な広がりがあるのです。小さな国の一人の祭司に何が出来るというのか、どこにそんな資格や権限があるというのか、しかも、若い。何が出来るというのか。しかし主はこう、きっぱり言われたのです。「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」(1:7-8)。神が共にいて出来る話です。神が臨み、神が召し、神が共におられるから、万国の預言者となれるのです。牧師、伝道者もそうでなければ、思いだけでは出来ませんが、召しがあるから、助けられて出来るわけです。
 ルターは宗教改革の原理として、「聖書のみ」「信仰のみ」をあげましたが、「万人祭司」をあげました。使徒たちは「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。…あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見、…僕たちも預言をするであろう。」のヨエル書の預言は成就したと言っています(使徒2:17-18)。そうすると、「万人預言者」ということです。宣教師、牧師だけでなく、広い意味で、私たちのすべてが「万国の預言者」として召されているのです。神の国からこの世の国に遣わされた大使なのです。神のお言葉を預かって届けるのです。若者にすぎない、学のない者にすぎない、口べたな者にすぎない、魅力のない者にすぎない、性格が良いとは思えない者にすぎない…などと言ってはならないのです。「だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と約束していてくださるのです。

◇先の、先を
 神の言葉は与るものであり、預かるものです。そして、それは命の言葉です。今や情報化社会で、情報はあふれています。しかし、それにまさる情報は私たちのからだにあり、細胞にあります。遺伝子情報、DNAです。それが命をつくり、成長させるという、ある意味の生きた言葉です。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。…この言に命があった。」とあります。エレミヤは命の言葉を口に入れられたのです。「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」(1:9-10)。命の躍動、命の活動が起こってくるのです。
 次のやりとりが面白いです。新共同訳でみてみましょう(1:11ー12)。
 「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。』主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。』」。告げられた御言葉、信じた御言葉、伝えた御言葉は、種が命の情報に従って、芽を出し、成長し、葉が茂り、豊かな実を結ぶように、時が来ると必ず成就するのです。それを農夫が見守るように、神が御言葉の成就を見張っているのです。御言葉が虚しく流れ去ったり、虚しくなったりはしないのです。ここに御言葉の命の構図があるのです。

 再び、「あなたは何を見るか」。「煮え立っているなべを見ます。北からこちらに向かっています」。というやりとりです。煮え立っているなべは北の国々であり、バビロン帝国です。なべを持っているのは主なる神です。歴史の必然として、ユダがバビロンに敗北するというのではないのです。預言はこうです。「見よ、わたしは北の国々のすべての民を呼ぶ。彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁、およびユダのすべての町々に向かって、おのおのその座を設ける。わたしは、彼らがわたしを捨てて、すべての悪事を行ったゆえに、わたしのさばきを彼らに告げる。彼らは他の神々に香をたき、自分の手で作った物を拝したのである」(1:15ー16)。エレミヤにはこの裁きのメッセージを伝えるように命じます。しかし、同時に、希望の預言(29章)、再建の預言(31章)も託されます。31:28を見ると、「かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。」とあるのです(新改訳)。
 神はエレミヤに先の先まで、立体的に見せたように、私たちにも、聖霊によって幻を見させているのです。セザンヌの描いた山の絵があります。彼は印象派と言われています。その山は遠近方でいうより、あるいは写真で撮った山よりも大きく描いているのです。なぜなら、人の目というのはよくできていて、遠くても大きいものは大きく見えるように、調整して見ているのです。大きいものが小さく感じてはいけないので、現実をきちんと認識できるように神がお造りになったのです。セザンヌは山を見た印象のままを絵にしたのです。
 私たちは広い意味で預言者として召されているなら、人生の先の先、世の先の先、大山の裁きと救いを神は見せてくれるのです。「何を見るか」と。印象派の画家のように、その見たままを、告げられた預言の言葉を信じ、伝えていく者でありましょう。

きょうは良いおとずれの日

2011-06-05 07:00:00 | 礼拝説教
2011年6月5日 主日礼拝(2列王記6:24-7:20)岡田邦夫

「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」(2列王記7:9)

 教会で借りている畑で、この6月は玉ねぎの収穫期です。野菜の良い収穫を得るコツはその野菜に応じた追肥だと言われています。玉ねぎの場合、肥料が足りないと育ちが悪いので、冬から春にかけて化成肥料を3回にわけて施します。しかし、ある程度大きくなったら、土に溶けた肥料で十分なので、追肥してはいけないのです。肥料をやり過ぎるととうが立ち、固くなってしまうことがあります。ようするに、早すぎず、遅すぎず、多くもなく、少なくもなく、ちょうど良い追肥が必要で、そこが難しいところですが、教えられます。私たちの「食」というのもちょうど良さが原則だと思わされます。

◇こうしていることは正しくない。飢餓の中で
 ところが、今日の聖書では、イスラエル王国の首都サマリヤが飢餓と戦争が重なって大変な状況になっていましたことが記されています。食料を奪っていく、略奪隊のようなものではなく、本格的な戦争で、アラム王国の全軍がサマリヤにやって来て、町を包囲したのです。そのころ、ひどいききんがあって、食料が底をつき、しかも、包囲されていて、食料を買いにいけない最悪の状況。イスラエルの国王が城壁の上を通りかかると、ひとりの女性が「王さま。お救いください。」と叫んだので、どうしたのか尋ねると、この最悪の飢餓状況を端的に伝える言葉が返ってきました。聖書にはこう書いてあります。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう。』と言ったのです。それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう。』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです」(6:28ー29)。
 実に悲惨で、聞くに堪えないことです。子どもを食べるなど、絶対してはならないことですが、極限の飢餓状態では、動物としての人間はそうなる可能性があるのでしょう。それを止めるのは良心であり、神意識です。
 しかし、これを聞いた王は自分の服を引き裂いて、嘆き、こう言うのです。「きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように」(6:31)。神の民を守るために、預言者がいるはずなのに、国家存亡の最悪の事態を招いている。以前、略奪隊が来た時にそれを全滅させるチャンスがあったのに、飲み食いさせて、生かして帰してしまったから、今、アラム軍に包囲されている。すべて、エリシャのせいだ。処罰しようというものです。神の人を殺そうとするなど、大きく道にはずれています。人は窮地に立たされると、人のせいにしたり、神の器を責めたりすることがあります。そういう時はとにかく祈るのです。

◇こうしていることは正しくない。み言葉の前で
 エリシャは王が首をはねに人を遣わすというのはお見通しで、使者が来たら、戸をしめ、戸を押してもはいれないようにしたのです。使者が着くとこう告げます。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」(7:1)。この飢饉でインフレもひどく、食べてはならないろばの、しかも好んで食べることのない頭に高値がつき、また、それが食べるためか、燃料にするためかわからないが、わずかな鳩の糞も銀貨で売られていたほどでした。しかし、預言者はあすの今ごろは小麦粉、大麦が安く手に入るようになると預言したのです。比較してみましょうか。
 いま:ろばの頭1つが銀80シェケル、鳩の糞約0.3リットルが銀5シェケル(6:25)
 あす:上等の小麦粉約7.7リットルが1シェケル、大麦約15.4リットルが1シェケル
 この預言者の言葉を王がその腕に寄りかかっていた侍従は信じられないで「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」とあざけります。ここで彼は言ってはならないことを言ってしまったのです。それが自分に返ってくることを告げられます。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」(7:2)。子を食べた女たちに対しても、神の人を殺そうとした王に対しても、エリシャは裁いてはいません。神の救いの言葉を拒絶した侍従には裁きが言い渡されました。「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」とイエスが言われたことを私たちは覚えなければなりません(マルコ3:28-29)。

◇こうしていることは正しくない。良心の前で
 このあとの話は面白いです。重い皮膚病を患っているために、町に入ることが法で禁じられていた4人が町の門の入口におりました。いわば、社会に見捨てられたような者たちですが、彼らがサマリヤを救う担い手になるのですから皮肉で、不思議な話です。町はききんだから、町に入っていけば死ぬし、ここに座っていても死んでしまう。アラムの陣営に入り込み、生かしてくれれば、もうけものだし、殺されても、どうせ死ぬのだからと覚悟を決めます。夕暮れになって、アラムの陣営の端まで来まっした。ところが、何とだれもいないのです。主がなしてくださった救いのみ業とは気付いていません。「主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、『あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ。』と言って、夕暮れになると、彼らは立って逃げ、彼らの天幕や馬やろば、すなわち、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった」(7:6-7)。彼らは天幕に入り、飲み食いし、それから、物色し、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行ったのです。
 しかし、4人は良心がとがめ、話し合います。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう」(7:9)。4人は引き返し、門衛にこのことを報告します。門衛たちが王に告げるのですが、王は私たちをおびき出す、敵の策略に違いないと言って信じてくれません。しかし、家来の一人がだれかに馬5頭をとらせ、偵察してみましょうと提案します。王はそれを受けとめ、偵察の命令を出します。遣わされた使者たちはアラム軍のあとを追って、ヨルダン川まで行きました。使者たちが見た光景は重い皮膚病の4人の報告どおりで、道は至る所、アラム軍があわてて逃げるとき捨てていった衣服や武具でいっぱいでした。使者たちは帰って、見たままを王に報告しました。それから、民は町を出て行き、アラム軍の残していったものを手にしました。こんな不思議な方法で、戦わずして、戦利品をいただいたのです。飢餓から救われたのです。そして、「主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られ」るように、食料物価が一気に安くなったのです(7:16)。
 前述のエリシャの預言の言葉、言い換えれば、神の救いの言葉を信じようせず、否定した侍従が悲しい最期をとげてしまいます。「王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった」(7:17)。聖書はこのことをていねいに繰り返して記述して、私たちに何かを伝えようとしています。結局、死んだのは神の人の言葉を侮った侍従だけでした。神の言葉を侮ってはいけないということ、逆に、神の言葉は真実であり、必ず、実現するということが強調されているのです。

 重い皮膚病の4人はこの時、食料を得られただけでなく、金持ちになれる千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンスだったかも知れませんが、良心の声に聞き従いました。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」と言って、行動に移したのです。「きょうは、良い知らせの日」(a day of good news)と認識したことが重要なのです(7:9)。聖書では王が子どもを食べた話を聞いた時、服を切り裂いたことが(6:30)、“きょうは、悪い知らせの日”と言っているかのようで、対比して見えます。悪い知らせの日から良い知らせの日へのどんでん返しの神の救いは見事です。戦わずして敵を撃退し、敵のおいていった食料で飢餓から救われるという、二重の救いが起こったのです。
 私たちも二重の救い(罪と死からの解放、永遠の命の付与)というイエス・キリストの福音の良い知らせを今日という日に伝えるのにためらってはいないでしょうか。「つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである」(ローマ10:15口語訳)。イエス・キリストの恵みが、神の愛が、聖霊の慰めが押し出して、私たちを麗しいものにしてくださるでしょう。