オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

知識は高ぶらせるが、愛は造り上げる

2018-06-24 00:00:00 | 礼拝説教
2018年6月24日(日)伝道礼拝(1コリント8:1~6)岡田邦夫


「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(1コリント8:1~3共同訳)

メディアは実にたくさんの情報を提供してくれます。常識的なことから学術的なこと、雑学的なことにいたるまで、私たちの知的欲求をかりたて、また、満たそうとしています。それらの知識は身を守るためのものもあれば、人生や生活を楽しむためのものもあります。しかし、それを悪用して、人を貶めたり、殺めたりすることも後を絶ちません。そこで今日は「知識」について聖書がどう言っているか、パウロの言葉からお話ししたいと思います。
「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(1コリント8:1~3共同訳)

◇知識は人を高ぶらせる
 私たちにとって、知識の悪用で最も顕著なのは、核兵器であることは誰もが知るところです。そして、これを無くせないという人間の罪深さが渦巻いています。「ペンは剣より強し」が当てはまりません。これは私たちが持っている人の本質です。そもそも、最初の人間、アダムとエバはエデンの園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならないと神が禁じていたのに、それを破り、取って食べてしまいました。ヘビを装ったサタンが本当に神はそう言ったのかと疑わせ、これを食べると神のようになると誘惑し、人は食べてしまったのです。そこに罪の始まり、罪の本質があります。「かみのようになる」という高慢です。「知識は人を高ぶらせる」はそれを言っていると思います。謙虚に自覚したいと思います。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」。
 それで、ラインホールド・ニーバーの祈りを私たちは祈りたいものです。
「主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと変えられるものを変える勇気とその両者を見分ける英知を我に与え給え」。
「神よ、私に変えることのできないものは、それを素直に受け容れるような心の平和を!変えることのできるものは、それを変える勇気を!そして変えられるものと変えられないものとを、見分ける知恵を!この私にお与えください。」
 彼は神学者です。真の知識が必要であることを知って祈るのです。真の知識とは飛躍しますが十字架の言葉です。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする』。… しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」(1コリント1:18-19,30)。

愛は造り上げる
 ヘレン・ケラーは1880年6月に誕生。1歳9カ月のときに胃と脳髄の急性充血による高熱で、視覚と聴覚を失い、言葉が不自由になった。両親は沈黙の世界にいたヘレンが短気でワガママな子どもになるのを見るにつけ、教育の必要性を痛感。6歳の時に、アレグザンダー・ベルに相談すると翌年、アン・サリバンが家庭教師として派遣された。しつけをするものの「言葉」というものがどうしてもわからない。指文字を教えても遊びでしかない。サリバンは嘆きます。言葉が解れば家族と話が出来、人類の歴史や社会が分かるのに…。
33日目。サリバンはヘレンと散歩中に井戸へ寄った。そしてヘレンの手に水を注ぎながら「W-A-T-E-R」と指文字で何度も綴っていると、突如としてヘレンは言葉と物を結びつけ、すべての物に名前があることに気づいた。暗闇に光が差した!それから、怒涛のように言葉を理解していった。大学にも行った。特に盲人への福祉活動で世界を飛び回った。私は映画「奇跡の人」を見て、ラストに感動しました。アレンジされた賛美歌が流れる中で、椅子に腰かけたサリバンにヘレンがそっと近づき、背中に指で「L-O-V-E」綴るのです。まさに「愛は造り上げる」です。
 少し長いですが、パウロの言葉を見てみましょう(ローマ5:6~10)。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」。
 高慢のアダムの罪を引き継ぐ私たちは神の怒りの下にあります。しかし、神は愛ゆえにご自分の態度を変えられたのです。十字架において神の御子、イエス・キリストに怒りを向け、私たちを赦し、和解しようとされたのです。神がご自分を変えるなど絶対にありえないことですが、私たちを熱心に愛するゆえに、赦しがたい放蕩息子を、大手を広げて迎えるように、私たちを、この私を迎えてくださる…くださっているのです。

◇神に知られている
 さらに高慢を悔い改めて、謙虚になると、神の愛が解る。すると、人は神を愛するようになります。そして、「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」という恵みが解ってくるのです。無二の存在であると認識されています。その人生のすべて理解しておられます。辛さも解っておられます。十字架により罪赦された者だと認知しています。滅びから永遠の命に移されたと確定しておられます。終わりの日に顔と顔を合わせて相まみえる聖徒だと期待しておられます。決して、お前など知らないなどと言わない。十字架と復活の福音によって救われた神の子を永遠に覚えているよと言われます。
テレビなどで名を知られ、顔を知られていくと有名人と言われますは、私たちは十字架の贖いによって、神に知られたのですから、神の国では私たちは永遠の有名人なのです。神に知られているというのはアメイジンググレイスなのです。

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