オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

好き嫌いを超えて

2016-06-26 19:17:00 | 礼拝説教
2016年6月26日(日)伝道礼拝(ルカ福音書10:30~37)岡田邦夫

「だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」「その人にあわれみをかけてやった人です。」「あなたも行って同じようにしなさい。」ルカ福音書10:36-37抜粋」

 先々週、黒豆の種を植えましたが、長雨のせいで発芽率が悪く、しかも、やっと芽が出たのを人が見ていない間に鳩が来て、かなり食べて行ってしまいました。私、ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽの歌は嫌いになりました。「豆がほしいか、そらやるぞ。みんなでいっしょに食べに来い」ですからね。
今日のテーマは渡辺和子師の著書の中の「好き嫌いを克服する」から拝借しました。修道士であっても、彼女自身、それが身近なこととなると何か難しいようなことを書いておられます。しかし、そこに誠実さを感じます。
 人が生きていく上で、聖書が示す大切な根本精神は第一に「神を愛せよ」、第二に「隣人を愛せよ」です(ルカ10:27)。その隣人とはだれのことかが問題です(ある律法の専門家の問、ルカ10:29)。好きな人なら愛せても、嫌いな人でも愛さなければならないのか?そこが問題です。

◇まあ、そのほうがいい
 このような話が適切かどうかわかりませんが、生き物の世界で、オスとメスが結ばれるのに、行き当たりばったりではなく、多くはメスがオスを気に入ることが決め手のようです。広い意味で好き嫌いは生きていくための必要なことのようです。箴言によれば「男の女にあう道」は自然界の不思議な現象の一つだと言っています(30:19)。好きとか好きでないとか、それは生命の神秘に関わることなのかも知れません。
 ところが、人との関わりで、そんなに好き嫌いは言っていられないし、無理して人に合わせるのも疲れるし、結局、程よい距離感をもって付き合うのが生きる知恵でしょうかね。結婚披露宴の祝辞で使われている、吉野弘の「祝婚歌」はヒントになりそうです。
 二人が睦まじくいるためには/愚かでいるほうがいい/立派過ぎないほうがいい/立派過ぎることは/長持ちしないことだと/気づいているほうがいい/完璧をめざさないほうがいい/完璧なんて不自然なことだと/うそぶいているほうがいい/二人のうち どちらかが/ふざけているほうがいい/ずっこけているほうがいい/互いに非難することがあっても/非難できる資格が自分にあったかどうか/あとで疑わしくなるほうがいい/正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい/立派でありたいとか/正しくありたいとかいう/無理な緊張には色目を使わず/ゆったりゆたかに/光を浴びているほうがいい/健康で風に吹かれながら/生きていることのなつかしさに/ふと胸が熱くなる/そんな日があってもいい/そしてなぜ 胸が熱くなるのか/黙っていてもふたりには/わかるのであってほしい。
 伝道者の書の“過ぎてはならない” でしょうか(7:16-17)。「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか」。

◇おお、そのほうがいい
 ところが、それが身勝手になると、問題が生じてきます。今日のイエスの話されたたとえ話に出てくる、ある人はユダヤ人、その人を助けたのがサマリヤ人です。元は同じイスラエル人で、国が南北に分裂し、南の方の子孫ユダヤ人は民族の純潔を保ってきたと言います。北の方の子孫サマリヤ人は異邦人との雑婚などあって、汚れた人たちだと蔑んで、嫌っていたのです。両者、隣人となる人たちでした。
 イエスのたとえはこうでしたね。強盗に襲われ、身ぐるみ奪われたユダヤ人を祭司も、レビ人も彼を見たのに反対側を通り過ぎて行ってしまった。しかし、犬猿の仲でしたが、サマリヤ人はかわいそうに思い、傷の手当てをし、家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱しました。次の日、また宿屋に来て、費用はみな払うと言いました。
 ここで、イエスが質問します。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(10:36)。「隣人とはだれか」という自分を中心にした定義ではなく、「だれが隣人になったか」という相手のことを考え、状況に応じた行動を求められたのです。好き嫌いを超えて、律法的な「ねばならない」を超えて、素直に「かわいそうに思い」行動に出ることを言っています。隣人に「なる」ことが愛なのです。
 ずいぶん前のことです。私が遣わされていた教会の早天祈祷会にある朝、教会員の方が一人の男性が入口近くにいた男性を連れてきました。かなり、酔っていましたが早天後、話を聞くと100円貸してくれという。身の上話を始めた。実は自分は酒に弱い。いったん飲みだしたら、一ヶ月の給料を一週間で使ってしまい、家に帰らず、どこでどう過ごしたか、気が付いた時には路上で寝転んでいるという始末。妻や子供に愛想をつかされ、今は独り身。飲みさえしなければ仕事はよくできるのだが、これまで、数々の失敗を重ねてきた。ある社長が良い人でこんな自分を承知で雇ってくれて、ずっと飲むこともなく、まじめに働いてきた。自分でもよくやったと思う。もう大丈夫と思い、自分にご褒美と一杯だけ口にしたのがいけなかった。もらった給料を使い果たし、今、教会の近くの自動販売機の前に来た。あの善意の塊の社長に合わす顔がない。謝りたいが、勇気がない。缶ビールをひっかけた勢いで行こう。ところが一円もない。だから、牧師さん、100円貸してくれと言う。私は貸せないと言いはる。両者、ゆずらない。身の上話を延々と続けたり、子供のころ日曜学校に行ったことがあると「山路超えて」を大声で歌ったりして、2時間がたった。100円は貸さないが、水だけは何杯でも出した。結局このまま帰って、社長に謝ることを決心した。私はアルコール依存症から立ち直って、牧師をされている方がいるから、訪ねるようにとだけ伝えた。
 数日後、きちっとした身なりの立派な紳士が玄関に立っていた。誰だかわからなかった。あの100円貸してくれの人だった。社長は許してくれたという。再度、例の牧師を訪ねるようにと住所を伝えた。彼はその牧師を訪ね、回心しクリスチャンになり、酒から解放され、アルコールの臭いがする温泉旅館のボイラーマンとして、飲まずに働いていると、後にその牧師から聞きました。
 私はこの人の隣人になったのはたった2時間。しかし、長いこと親身に世話をされた社長こそ、隣人になった方だ。魂に届く関わりをされた牧師さんこそ、良きサマリヤ人だったと私は思います。さらに、真のサマリヤ人は依存症の病から解放してくださったイエス・キリストだったのではないかと思います。

◇断然、そのほうがいい
 このたとえ話の真の良きサマリヤ人はイエス・キリストご自身だと、神学者は言います。人は罪に罪を重ね、不信仰に不信仰を重ね、神を嫌い、神に嫌われ、神とは敵対関係にありました。そして、様々なことで魂は傷つき、倒れ、半死半生の状態。滅びに向かっている状況でした。そこに近づかれたのがイエス・キリストです。かわいそうに思われ、その傷口を聖霊の油とイエスの血できよめ、いやし、救いのロバに乗せ、御国の宿に入れ、十字架の命の代価を十二分に払われたのです。イエス・キリストは私の真の良きサマリヤ人なのです。私たちは良きサマリヤ人・イエス・キリストを重々知らなければなりません。愛を感じなければなりません。それが解ればわかるほど嬉しくなります。
 愛は強要されるものではありません。隣人となる、良きサマリヤ人となる機会が与えられているのです。神の愛に押し出されて、良き隣人となりましょうか、キリストに倣って良きサマリヤ人になりましょうか。愛は自由です。自発性に意味があります。私たちは傷ついている人のオリーブ油となりましょうか、包帯となりましょうか。倒れている人の支える腕となりましょうか、ろばとなりましょうか。困っている人のデナリとなりましょうか、宿となりましょうか。隣人を愛する機会を生かしたいものです。

何という人か、ソロモンは…

2016-06-19 08:37:44 | 礼拝説教
2016年6月19日(日)主日礼拝(1列王記8:22~30)岡田邦夫


「この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。」1列王記8:29

ソロモンを通しての説教は今回までで3回のセットになっています。上は誕生・選び、中は賜物・知恵、下は使命・祈祷です。ところで、欧米人でデイビッド=ダビデという名前の人は良くいますが、ソロモンはあまり聞きません(そう思っているのは私だけか?)。人気の程はともかく、彼を通しての神の御心は何なのでしょう。聖書を紐解いてみたいと思います。

◇ああ、何ということか・知恵
バルナバの会で学んでいるバイブルガイド「目で見てわかる聖書」でソロモンの人物評価が面白いです(マイク・ボーモント)。「賢い男の愚かな振る舞い」と題をつけ、こう述べています。「ソロモンはその40年にわたる統治期間の間にダビデの遺業を引き継いで、イスラエルのために領土を広げ、繁栄をもたらし、今まで以上に影響力を増し加えた。しかしまさにその成功のゆえに、イスラエルを破壊に導く火種をまくことになった。これほどの知恵のある男がかつてないほどの愚かさを露呈したことはいまだかつてなかった」。
成功の陰に失敗もあったのです。神殿建設、宮殿建設、要塞建設のため、重税と強制労働を課したので、民の心に不満が蓄積され、ソロモンの死後、それが噴出し、国が分裂することになりました。また、近隣の強国との同盟、また、交易同盟を結ぶ際に、政略結婚がなされたのか、700人の妻と300人の側室を得て、富豪であることを誇示しました。その外国人妻を通して偶像礼拝が入り込みます。それが神の怒りをかい「王国は引き裂かれる」と告げられ、彼の死後、事実そうなっていったのです(1列王11:1-13)。
しかしです。このような男でも「今、私は、私の神、主の名のために宮を建てようと思っています。主が私の父ダビデに『わたしが、あなたの代わりに、あなたの王座に着かせるあなたの子、彼がわたしの名のために宮を建てる。』と言われたとおりです」と言って、神殿を建てるという使命を果たしたのです(5:5)。もともとあった礼拝所である「幕屋」の原型をもとにしました。神がそこに名を置き、神がそこに住むという場を作ったのです。「賢い男の愚かな振る舞い」と評されるような人物でさえ神に用いられたのです。神殿が立った時には、「主の栄光が主の宮(神殿)に満ちた」のです(8:11)。素晴らしいことでした。

◇ああ、何ということか・祈祷
曽野綾子著の「いい人をやめると楽になる」にこのような文章があります。「私はものの考え方は不純がいいと思う。むしろ小さいことでは不純を許すほうがいいと思う。人間には、自分を疚(やま)しく思う部分が必要だ。自分は正しいことしかしてこなかった、と思うようになったら、周りの者が迷惑する。自分の内面の美学や哲学には不純であってはならないけれど、生きて行くための方途(ほうと)については誰も理想どおりにはやっていないのだから、その誤差をおおらかに許せる人のほうが好きなのである」。曽野流のものの言い方ですが、内面の美学や哲学には不純であってはならないはそうだと私は思います。ソロモンについては「祈り」だったと思います。
ソロモンの残した輝くものは有形のものではなく、無形のものです。神殿の奉献式の時の祈りと祝福の言葉です。ぜひ、1列王記8:22~61を読むのがよろしいかと思います。その前半は教会堂完成時の献堂式に用いられていて、末代までも残るものです。初めと終わりだけでも見てみましょう。
「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です」(8:23)。「どうぞ、しもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに、あなたの目を開き、すべてあなたに呼び求める時、彼らの願いをお聞きください。」(8:52)。

◇ああ、何ということか・贖罪
先週の日課・ヨブ記33章にこんな素敵な話がありました。
「ある町に大きな教会堂が建っていました。その中にすばらしいステンドグラスがつけられていました。ある日、大きな嵐がその町を襲い、その教会のステンドグラスは壊れてしまいました。人々は大変ショックを受けました。そして壊れたガラスを拾い集めて箱の中に入れて、教会の地下室に運びました。一人の旅人が「このガラスの破片をよかったら、私に譲ってくれませんか」と頼みました。人々は、「どうぞ、どうぞ、お持ち下さい。もう何の役にも立ちませんから」と、それを承諾しました。しばらくしてから、一通の招待状が教会に届きました。ある有名なガラス工芸家からでした。工芸家のアトリエに行くと、ステキなステンドグラスが完成していました。その工芸家は「これは私があなたがたからいただいた、壊れたガラスの破片です。あとは元の所に戻すばかりです」と。こうして再び、美しいステンドグラスは教会に飾られました。しかもそれは、以前のものよりもはるかにすばらしい物でした。あなたは自分の計画に失望・落胆しているかも知れません。そのとき、このことを知っていただきたいのです。神は弱い者を 役立つように生かしてくださいます。イエス・キリストは人生の修復師です」。
後に神殿は壊されてしまいますが、天にある本物の神殿は永久に破壊されません。キリストはご自分のきよい血を携えて、大祭司として、天の至聖所に入られ、一度で、完全に私たちをきよめられたのです(ヘブル9:12-14)。キリストという修復師が栄光に満ちた完璧な天の神殿を造り上げたのです。大祭司なるキリストがご自分の贖いの血を携えて、天の至聖所に入り、父なる神から、私たちの罪の赦しをいただき、和解させていただいたのです。見えない天のところでこの様にしていただいたこを信じてまいりましょう。
そればかりではありまえん。地上にいる信仰者が神殿だというのですから、驚きです。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(1コリント3:16)。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮(神殿)であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」(同6:19-20)。

最高の知者に学ぶ

2016-06-12 18:08:48 | 礼拝説教
2016年6月12日(日)主日礼拝(1列王記3:3~15)岡田邦夫

「あなたが自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、…見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。」1列王記3:11~12

30代のころ、自己啓発の本に「判断力が実力の最大の量を占める。それが養われ発揮されるのが40代なのである」とあって、啓発されたものでした。ソロモンがダビデから、王位を継いだのはそのくらいの年代だったでしょうか、夢の中に現れた神にこうお願いしました。自分が小さい者で民の数は多いので、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください」(3:9)。すると、神はあなたが長寿や富や勝利を求めず、判断力を求めたので、「今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。…あなたの願わなかったもの、富と誉れとを与える」でした(3:12-13)。

◇状況の判断
ソロモンの知恵を示すこんなエピソードがあります(1列王3:16-28)。二人の女性が王の所にきて、訴えました。二人は一緒の家に住んでいて、一方に子どもが生まれ、三日後にもう一方にも子どもが生まれた。その夜の間に片方の子が死んで、夜中、寝ている間に死んだ子と生きている子をすり替えたと一人が主張し、もう一人はそうではないと主張し、生きている子は自分の子だとそれぞれ言い張る。それならばと、王は子どもを二つに切って分けよと命じる。すると、生きている子の母親が殺さないであの女に渡してくれと言い出し、そうでない女は断ち切ってくれと言った。王は殺してはならない、この子の母親は初めの女性、彼女に渡すようにと判決を下した。

ソロモンの判断力は抜きんでたものがありました。国内外の情勢を見極めていました。国内と言えば、父ダビデは周辺諸国との争いに明け暮れて、晩年にはそれも収まって、国は安泰となっていました。国外と言えば、北はアッシリヤ、南はエジプトの大国も弱まっている時期でした。これをチャンスと判断し、富国強兵の国造りに邁進(まいしん)していくのです。
ピラミッド型の中央集権の体制にしていきます。これまであった12部族連合を12の県のようなものして、徴税・徴兵制にし、中央の力を強固なものにします。戦車なども入れて、最強の軍隊を作りますが、ほとんど戦争はしていません。このあたりの人たちは商業を軽く見ていましたが、ソロモンは力を入れます。内需拡大と諸外国との交易を盛んにし、イスラエルはかつてないほど経済的に豊かになります。それで贅沢な王の宮殿を年月かけて建設します。約束でもあった神殿の建設も財を尽くして、見事に建造します。このようなソロモンの手腕を知りたいとシバの女王が来訪したりするほどでした。実にその業績はイスラエルの歴史において、最大のものだったでしょう。「ソロモンの栄華」と言われる所以(ゆえん)がそこにあります。
と言いましても、不思議なことに聖書はそのことをそれほど賞賛してはいないのです。やはり、重要なのは神の前の信仰なのでしょう。

◇信仰の判断
ソロモンの作と思われる書が三つあります。イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの「箴言」、エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば「伝道者の書」、ソロモンの「雅歌」という知恵の書です。知恵文学というのはこうです。モーセの五書がすべての基本ですが、現実の問題となると、矛盾を感じたり、困難を覚えたりします。たとえば、神が創造された世界は「非常に良かった」というのが創世記のメッセージ。それを受けて、すべてに時があり、神のなさることは時にかなって美しいと伝道者の書は述べます(3章)。しかし、人には永遠への思いがあるのに、現実には神の御業を見極められないという矛盾があり、そこにいたたまれない苦悩が巻き起こり、はてしない虚しさに襲われます。永遠を思っても、人は獣と同じように死んでしまう。人生、どんなに労苦しても意味があるのか、虚しいではないかと嘆きます。そこで、知者は提唱します。現実に即し、分に応じ、時に応じて人生を楽しむがいい。結局は信仰である。創造者を覚え、その命令を守るなら、その永遠への思いは満たされていくだろうと答えを出します。
箴言は信仰者が律法を守りつつ、世に対応していく知恵を並べていきます。雅歌は神との愛を見出そうと恋愛の葛藤と純愛を物語っていきます。それら三書とも貴重なソロモンの知恵の書です。
イスラエルのネタニヤ市で7日、第二次世界大戦当時、ナチスドイツの迫害から逃れた約6千人のユダヤ人にビザを発給したことで知られる日本人外交官、杉原千畝(ちうね)氏の名を冠した通りができたとのニュースがありました。同市には杉原氏に助けられたユダヤ人が多く移り住んだからだと言います。ナチスから逃れたユダヤ人難民たちがカウナスの日本領事館に通過ビザを求め押し寄せた。外務省は三国同盟があるので許可しなかったが、杉原領事代理は悩み苦しんだ。彼はハリスト正教会のクリスチャン。この状況では外務省に背いてでも、助けようと人道的判断を下した。妻の幸子さんに「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と決意を述べていたといいます。

◇究極の判断
知恵のソロモンから学ぶことは実に多いのですが、「見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです」とイエス・キリストが言われています。それは神の知恵たるキリスト、私たちはその方を学ぶのです(マタイ12:42、1コリント1:24)。信仰は世間対応の知恵を超えて、御国対応の知恵を得て救われるのです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(1コリント1:18)。その宣教の愚かさによって救われるという逆説的な知恵です。逆ピラミッド型の世界を目指す教会の知恵です。
ただ、究極の知恵は「隠された奥義としての神の知恵」ですから(1コリント2:7)、神の御霊によって開かれる必要があります。「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。…御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません」(1コリント2:12)。「わきまえる」を口語では「判断する」と訳しています。十字架による永遠の救いへの、究極の判断は聖霊がしてくださるのです。
多くの船が行きかう港や海峡などで、大型船を安全にリードする水先人(英語ではパイロット)がいます。その環境に精通し、的確に状況判断をし、無事に岸壁につくようにリードする専門家です。聖霊は信仰者の船に乗り込んで、的確に状況判断をし、天の港に導く水先人です。
今日は聖餐式、制定句の「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」の「わきまえる」は正しい判断をするという意味もあります。聖餐において、正しい判断をし、最も大切な十字架の福音の原点に帰ることが必至です。水先人である聖霊の判断に従って、信仰の船の舵とりをしてまいりましょう。

ソロモンの即位

2016-06-05 23:35:09 | 礼拝説教
2016年6月5日 主日礼拝(1列王記1:28~31)岡田邦夫

「その名をソロモンと名づけた。主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤ(主に愛される者)と名づけさせた」のです」。2サムエル12:24-25
 動物の生態を紹介する番組で面白いなと思うことがあります。例えば、トムソンガゼル、牛の仲間だそうですが、シカのように見えます。天敵のチーターに狙われ、追いかけられますが、脚力が強く、はねながら逃げ延びる映像を見ますと、映像を見ているものは何かホッとします。しかし、チーターが取り上げられれば、子供が成長して狩りができるようになり、ガゼルを見事に仕留めて餌にありつけると、視聴者は一安心という思いになります。どこに視点を当てるかで違ったものになってくるものです。
ある方が聖書に出てくるサウル王を信長に、ダビデ王を秀吉に、ソロモン王を家康に比較して、面白い人物評価をされていました。たぶんそれは成功物語という視点から見たのでしょう。しかし、今日は素朴にソロモンがどのように王位についたのか、それには信仰者に何を物がたってるのか、見てみましょう。
◇人による王位継承
アカデミア美術館にあるミケランジェロのダビデ像は力強く、美しい見事な作品です。といいましても、旧約聖書に記されたダビデは今日の目から見ますとそんな理想の人物ではなさそうです。ダビデはサウル王に召し抱えられ、その娘ミカルと結婚します。しかし、戦果をあげ人気の高まる彼をサウル王は嫉妬し、殺しにかかったので、逃げ出します。彼をなきものにしようと執拗に追われるのですが、何と逃れ、仲間を作り、用心棒のようなことをして生き延びていきます。
ナバルという富豪が頑固に報酬をくれないというので、ダビデが怒りをあらわにしますが、聡明な妻のアビガエルのとりなしで、事なきを得ます。ところが10日後、ナバルは心臓麻痺で死んでしまったので、ダビデはアビガエルを妻に迎え、アヒノアムという女性も妻にします。続いて、ゲシュルという小国の王女マアカも妻にします。一夫多妻の時代、まだまだ、妻は増えますが、その前にその妻たちの間にできたダビデの子供たちについて述べておきましょう。アヒノアムの子が長男アムノン、アビガエルの子が次男キルアブ(ダニエル)、マアカの子が三男アブシャロム。次男は若死にしたようです。ダビデがイスラエルの王となってからのこと、アブシャロムは妹をアムノンがてごめにしたというので、彼を怒って殺してしまいます。そこで、父ダビデとの関係が悪くなり、4年準備してから、謀反を起こします。しかし、その戦いに敗れ、悲惨な戦死をとげます。
時をさかのぼりましょう。ヘブロンでなおダビデの子が生れます。四男、ハギテの子アドニヤ、五男、アビタルの子シェファテヤ、六男、妻エグラによるイテレアムと(2サムエル3:4、5)。もし、ダビデが王になったら、お世継ぎは四男アドニヤがなるはずです。
しかし、事態は変わるのです。サウル王がペリシテとの戦いで戦死してしまったので、ダビデ家はサウル家を征圧し、ダビデがイスラエル国の王に即位します。その間に他人の妻になっていた最初の妻ミカルを取り返します。周辺国も制圧し、王国も安定して来た時、事件が起こります。忠実な家来ウリヤの妻、バテ・シェバに手を出してしまいます。姦淫です。それを隠そうと最前線にウリヤを送って戦死させ、彼女を妻にしてしまいます。罰が下りますが、悔い改めに導かれ、神の赦しをいただきます。そのバテ・シェバから4人の子が生まれ、その中にソロモンがおり、ダビデの寵愛を受けます。そばめから生まれた子も9人おりました。これだけ子がいれば、王位継承の争いが起きるのは目に見えています。
ダビデが老年になり、かなり弱った時、四男アドニヤが「私が王になろう」と野心を抱き、手勢を集めていきます。生きている息子たちで最年長の王子なので当然の権利はありますが、そうはいかないのです。彼を支持したのが元将軍ヨアブ、晩年ダビデの方針に従わなかったので、退けられていた人物、もう一人は重んじられていなかった祭司エブヤタルです。アドニヤは王となる儀式に王子たち全員と王の家来を集めます。
しかし、寵愛を受けていた王子ソロモンは招かなかったのです。抹殺するつもりだったのでしょう。この危機を乗り越えるため、ソロモン派は奥の手を使います。ソロモンの母、バテ・シェバがダビデの寝室に赴き、訴えます。「わが君。あなたは、あなたの神、主にかけて『必ず、あなたの子ソロモンが私の跡を継いで王となる。彼が私の王座に着く。』と、このはしためにお誓いになりました。それなのに、今、アドニヤが王となっています。王さま。あなたはそれをご存じないのです」(1列王1:17-18)。預言者ナタンも来て、これは謀反である訴えます。ダビデは神の名にかけてソロモンを王にすると誓ったようにすると誓いの言葉を告げます(1:30)。王に命じられたようにします。祭司ツァドクと預言者ナタンがソロモンに王の即位の儀式、油注ぎをします。王の雌ロバにソロモンを乗せ、人々を動員させ、角笛を吹かせ、「ソロモン王。ばんざい」と叫ばせ、家来に「アーメン」と答えさせます。このことがアドニヤたちの耳に入り、招かれたものたちは身震いして、帰って行ってしまいます。この時、命乞いをするアドニヤをソロモンは生かしておきます。
ダビデが死んでから、ソロモン王はアドニヤとヨアブを抹殺し、祭司エブヤタルを解雇し、粛清をはかります。王座を盤石なものとします。
三千年前の話です。現代の目から見れば、なんともドロドロした王位継承の話でしょうか。しかし、今日も似たような話はありますし、政権交代となれば争いは絶えないし、粛清に似たようなこともあります。旧約の歴史も例外ではなかったのです。美化もしていなければ、脚色もしていません。ただ、決定的に違うところがあります。以下のことです。

◇神による王位継承 
まず、神の約束、契約です。ダビデが契約の箱(神の箱)をエルサレムに移すという大仕事をした後、預言者ナタンを通して、神の契約が告げられました。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(2サムエル7:12-13)。ダビデ王朝は永久に続くという神の契約、約束です(2サムエル7章は重要な章です)。ダビデは理想の人は決して思えませんが、そのような器にも神が臨んで、救いの恵みを与えてくださるということです。これから発展して、救い主はダビデの子孫から生まれるという預言となっていくのです(イザヤ書)。
もうひとつは神の選びです。ダビデはバテ・シェバの間に男の子が生まれた時、「その名をソロモンと名づけた。主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤ(主に愛される者)と名づけさせた」のです(12:24-25)。ダビデがソロモンを跡継ぎにすると言った記録は聖書にはありませんが、このことから、何か交わした約束はあったでしょう。世襲でいえば、年長のアドニヤだったのですが、神の選びでいえば、主に愛せられたソロモンが王座に就いたのです。神殿建設と国の繁栄はこのソロモンの知恵によるものでした。神から与えられた賜物によるものでした。
やがて、ダビデの子孫から、救い主(油注がれた者)イエス・キリストが歴史の舞台に現れます。預言者にまさる方、大祭司にまさる方、知者にまさる方として来られ、ロバの子に乗って平和の王、エルサレムに入場されました。王の王としてホサナと賛美され人々に迎えられました。しかし、不当な裁判を受けることになり、十字架家に処せられました。罪状は総督ピラトの命により「ユダヤ人の王」でした。しかし、私たち、人類を罪から贖い救うために十字架の苦しみを受けられたのです。イエス・キリストは私たちを永遠の救いに導く「世界の王」となられたのです。
私たちも神の選びにより、神の約束により、贖われて、神の王国に招き入れられたのです。「神の子供よ、叫べよ歌え」(新聖歌270)。