2017年11月26日 伝道礼拝(2コリント4:16-18)岡田邦夫
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(2コリント4:16-18)
朝、教会から東の空を見ると小高い相野の山をくっきりと浮かび上がらせ、空を真っ赤に実にきれいそめます。朝焼けとはよく言ったものです。写真におさめようとカメラを取ってきた時にはもう明るくなっていて、あの真っ赤な美しさは半減してしまっているのです。美の光景は一瞬なのです。
◇見えるもの、一時的だから快い
では、聖書を見てみましょう。第2コリント4:18「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。
見えるものは一時的と言います。私たちは多くのものを見、様々な体験をしています。映像の時代。テレビ、ラジオ、パソコン、スマホ、映画と情報は豊かで、その時々を楽しめます。旅行、スポーツなど、体を動かすもの、絵や音楽など、物や事づくり…そういう楽しみもあれば、仕事に打ち込むところの充実感もあります。それらは一時的です。一時的だからいいわけです。もし、先ほどの朝焼けが四六時中だったら、きれいだとも何とも思わないでしょう。「すべてに時があり、神のなさることは時にかなって美しい」のです。澄み渡った青空を見上げ気持ちを晴れやかにし、しとしとと降りしきる雨をボーっと眺めながら、物思いにふけるのです。幼さを楽しみ、若さを楽しみ、老いを楽しむのです。
◇見えるもの、一時的だから虚しい
ところが、この見えるものは一時的というのが曲者です。入社して、山岳部(といっても、普通の山登りのクラブ)に入って、いくつかの山を登りました。3千メートル級の赤岳という山に登った時のことです。山小屋に泊まり、よく朝のこと、足元より下の方に雲が一面に広がっている、雲海というのを目にしました。雲より上にいる!…感動でした。雲海をよく見ると虹が見える。よく見る丸子橋の虹ではなく、小さな円形の虹です。またまた、感動。先輩がこれはブロッケン現象というんだよと説明してくれた。真ん中に人影が見えるだろ、それは見ている人自身の影だよ、手を振ってごらん。私は手を振ってみたら、振ったように影が動いた。虹の中に自分がいるのだ!天にも昇るような感激でした。あとで写真を見ましたが、どうというものではありませんでした。あの時、あの所での一瞬が最高だったのです。
しかし、下山をし、中央線に乗り、私鉄に乗り換え、駅を降りてから、重いリックも軽く、ルンルンで家路につきました。楽しかったと言って玄関を入る。余韻を楽しんで床に就く。その時、急に虚しくなってきました。とてつもない空虚感に襲われたのです。翌朝、それを打ち消し、顔を洗って出社、仕事に打ち込むことにしました。
それらのことは私が信仰を求める要因の一つになったのだと思います。パスカルの原理でご存知の科学者パスカルはクリスチャンの哲学者でした。彼の「人間は考える葦である」の言葉は有名です。弱いが思考する偉大な存在だという意味、ご存知と思います。一方、人間は有限で死にゆく存在、虚無という面をもっている。神なき悲惨な状況におかれていると言います。ところが気晴らしという天使の贈り物があって、虚無を仮に満たしている。それは良いことだが、あくまで気晴らしに過ぎず、空虚な魂そのもの満たしを得ようとしないことが、真の悲惨なのだと言います。イエス・キリストの神を信じることを勧めています。
◇見えないもの、永遠だから心強い
世界中で愛される物語、サン=テグジュペリの『星の王子様」に出てくる次の言葉はよく知られています。「心で見なくっちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」。
その出どころは聖書かも知れません。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(4:18)。
それは何か。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリント13:13)。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(口語訳)。いつまでも存続する神を信じ、望み、愛するからいつまでも残るのです。また、信仰も希望も愛も神から与えられるものだから、いつまでも存続するのです。それが真に魂を満たすのです。
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)。初めに神のことばがあって、そのことばによって、世界は創造されたのです。そのことばが肉体をとって人となり、神から離れ、罪を犯し、虚無のもとにおかれた私たちを神のもとに帰し、罪を赦し、充実、平安に導くために、十字架にかかり、死んでよみがえられました。そのことばはイエス・キリストです。そのイエス・キリストのことばは永遠に立つのです。信じるものは永遠の命をえて永遠に立つのです。
さきほどのパスカル、回心した時の喜び、満たされた思いをメモに残しています。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。わが神、すなわち汝らの神 、汝の神はわが神とならん。神以外の、この世およびいっさいのものの忘却」。
最後にヘブル13:5、7、8を見てみましょう。「主ご自身がこう言われるのです。『私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』…神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。いつまでも続く、見えないものは、神であられた方が人となり、十字架にかかり、復活されて、再び、地上に来られ、新しい天と新しい地に私たちを導く御方、イエス・キリストです。十字架の死に至るまでの究極の愛、復活のおける無限の力ある愛、それはいつまでも存続する愛、その愛を注いでくださるイエス・キリスト御自身に目を止めましょう。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(2コリント4:16-18)
朝、教会から東の空を見ると小高い相野の山をくっきりと浮かび上がらせ、空を真っ赤に実にきれいそめます。朝焼けとはよく言ったものです。写真におさめようとカメラを取ってきた時にはもう明るくなっていて、あの真っ赤な美しさは半減してしまっているのです。美の光景は一瞬なのです。
◇見えるもの、一時的だから快い
では、聖書を見てみましょう。第2コリント4:18「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。
見えるものは一時的と言います。私たちは多くのものを見、様々な体験をしています。映像の時代。テレビ、ラジオ、パソコン、スマホ、映画と情報は豊かで、その時々を楽しめます。旅行、スポーツなど、体を動かすもの、絵や音楽など、物や事づくり…そういう楽しみもあれば、仕事に打ち込むところの充実感もあります。それらは一時的です。一時的だからいいわけです。もし、先ほどの朝焼けが四六時中だったら、きれいだとも何とも思わないでしょう。「すべてに時があり、神のなさることは時にかなって美しい」のです。澄み渡った青空を見上げ気持ちを晴れやかにし、しとしとと降りしきる雨をボーっと眺めながら、物思いにふけるのです。幼さを楽しみ、若さを楽しみ、老いを楽しむのです。
◇見えるもの、一時的だから虚しい
ところが、この見えるものは一時的というのが曲者です。入社して、山岳部(といっても、普通の山登りのクラブ)に入って、いくつかの山を登りました。3千メートル級の赤岳という山に登った時のことです。山小屋に泊まり、よく朝のこと、足元より下の方に雲が一面に広がっている、雲海というのを目にしました。雲より上にいる!…感動でした。雲海をよく見ると虹が見える。よく見る丸子橋の虹ではなく、小さな円形の虹です。またまた、感動。先輩がこれはブロッケン現象というんだよと説明してくれた。真ん中に人影が見えるだろ、それは見ている人自身の影だよ、手を振ってごらん。私は手を振ってみたら、振ったように影が動いた。虹の中に自分がいるのだ!天にも昇るような感激でした。あとで写真を見ましたが、どうというものではありませんでした。あの時、あの所での一瞬が最高だったのです。
しかし、下山をし、中央線に乗り、私鉄に乗り換え、駅を降りてから、重いリックも軽く、ルンルンで家路につきました。楽しかったと言って玄関を入る。余韻を楽しんで床に就く。その時、急に虚しくなってきました。とてつもない空虚感に襲われたのです。翌朝、それを打ち消し、顔を洗って出社、仕事に打ち込むことにしました。
それらのことは私が信仰を求める要因の一つになったのだと思います。パスカルの原理でご存知の科学者パスカルはクリスチャンの哲学者でした。彼の「人間は考える葦である」の言葉は有名です。弱いが思考する偉大な存在だという意味、ご存知と思います。一方、人間は有限で死にゆく存在、虚無という面をもっている。神なき悲惨な状況におかれていると言います。ところが気晴らしという天使の贈り物があって、虚無を仮に満たしている。それは良いことだが、あくまで気晴らしに過ぎず、空虚な魂そのもの満たしを得ようとしないことが、真の悲惨なのだと言います。イエス・キリストの神を信じることを勧めています。
◇見えないもの、永遠だから心強い
世界中で愛される物語、サン=テグジュペリの『星の王子様」に出てくる次の言葉はよく知られています。「心で見なくっちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」。
その出どころは聖書かも知れません。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(4:18)。
それは何か。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリント13:13)。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(口語訳)。いつまでも存続する神を信じ、望み、愛するからいつまでも残るのです。また、信仰も希望も愛も神から与えられるものだから、いつまでも存続するのです。それが真に魂を満たすのです。
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)。初めに神のことばがあって、そのことばによって、世界は創造されたのです。そのことばが肉体をとって人となり、神から離れ、罪を犯し、虚無のもとにおかれた私たちを神のもとに帰し、罪を赦し、充実、平安に導くために、十字架にかかり、死んでよみがえられました。そのことばはイエス・キリストです。そのイエス・キリストのことばは永遠に立つのです。信じるものは永遠の命をえて永遠に立つのです。
さきほどのパスカル、回心した時の喜び、満たされた思いをメモに残しています。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。わが神、すなわち汝らの神 、汝の神はわが神とならん。神以外の、この世およびいっさいのものの忘却」。
最後にヘブル13:5、7、8を見てみましょう。「主ご自身がこう言われるのです。『私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』…神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。いつまでも続く、見えないものは、神であられた方が人となり、十字架にかかり、復活されて、再び、地上に来られ、新しい天と新しい地に私たちを導く御方、イエス・キリストです。十字架の死に至るまでの究極の愛、復活のおける無限の力ある愛、それはいつまでも存続する愛、その愛を注いでくださるイエス・キリスト御自身に目を止めましょう。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。