オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

見えないものはいつまでも

2017-11-26 00:00:00 | 礼拝説教
2017年11月26日 伝道礼拝(2コリント4:16-18)岡田邦夫


「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(2コリント4:16-18)

 朝、教会から東の空を見ると小高い相野の山をくっきりと浮かび上がらせ、空を真っ赤に実にきれいそめます。朝焼けとはよく言ったものです。写真におさめようとカメラを取ってきた時にはもう明るくなっていて、あの真っ赤な美しさは半減してしまっているのです。美の光景は一瞬なのです。

◇見えるもの、一時的だから快い
 では、聖書を見てみましょう。第2コリント4:18「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。
 見えるものは一時的と言います。私たちは多くのものを見、様々な体験をしています。映像の時代。テレビ、ラジオ、パソコン、スマホ、映画と情報は豊かで、その時々を楽しめます。旅行、スポーツなど、体を動かすもの、絵や音楽など、物や事づくり…そういう楽しみもあれば、仕事に打ち込むところの充実感もあります。それらは一時的です。一時的だからいいわけです。もし、先ほどの朝焼けが四六時中だったら、きれいだとも何とも思わないでしょう。「すべてに時があり、神のなさることは時にかなって美しい」のです。澄み渡った青空を見上げ気持ちを晴れやかにし、しとしとと降りしきる雨をボーっと眺めながら、物思いにふけるのです。幼さを楽しみ、若さを楽しみ、老いを楽しむのです。

◇見えるもの、一時的だから虚しい
 ところが、この見えるものは一時的というのが曲者です。入社して、山岳部(といっても、普通の山登りのクラブ)に入って、いくつかの山を登りました。3千メートル級の赤岳という山に登った時のことです。山小屋に泊まり、よく朝のこと、足元より下の方に雲が一面に広がっている、雲海というのを目にしました。雲より上にいる!…感動でした。雲海をよく見ると虹が見える。よく見る丸子橋の虹ではなく、小さな円形の虹です。またまた、感動。先輩がこれはブロッケン現象というんだよと説明してくれた。真ん中に人影が見えるだろ、それは見ている人自身の影だよ、手を振ってごらん。私は手を振ってみたら、振ったように影が動いた。虹の中に自分がいるのだ!天にも昇るような感激でした。あとで写真を見ましたが、どうというものではありませんでした。あの時、あの所での一瞬が最高だったのです。
 しかし、下山をし、中央線に乗り、私鉄に乗り換え、駅を降りてから、重いリックも軽く、ルンルンで家路につきました。楽しかったと言って玄関を入る。余韻を楽しんで床に就く。その時、急に虚しくなってきました。とてつもない空虚感に襲われたのです。翌朝、それを打ち消し、顔を洗って出社、仕事に打ち込むことにしました。
 それらのことは私が信仰を求める要因の一つになったのだと思います。パスカルの原理でご存知の科学者パスカルはクリスチャンの哲学者でした。彼の「人間は考える葦である」の言葉は有名です。弱いが思考する偉大な存在だという意味、ご存知と思います。一方、人間は有限で死にゆく存在、虚無という面をもっている。神なき悲惨な状況におかれていると言います。ところが気晴らしという天使の贈り物があって、虚無を仮に満たしている。それは良いことだが、あくまで気晴らしに過ぎず、空虚な魂そのもの満たしを得ようとしないことが、真の悲惨なのだと言います。イエス・キリストの神を信じることを勧めています。

◇見えないもの、永遠だから心強い
世界中で愛される物語、サン=テグジュペリの『星の王子様」に出てくる次の言葉はよく知られています。「心で見なくっちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」。
その出どころは聖書かも知れません。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(4:18)。
 それは何か。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリント13:13)。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(口語訳)。いつまでも存続する神を信じ、望み、愛するからいつまでも残るのです。また、信仰も希望も愛も神から与えられるものだから、いつまでも存続するのです。それが真に魂を満たすのです。
 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)。初めに神のことばがあって、そのことばによって、世界は創造されたのです。そのことばが肉体をとって人となり、神から離れ、罪を犯し、虚無のもとにおかれた私たちを神のもとに帰し、罪を赦し、充実、平安に導くために、十字架にかかり、死んでよみがえられました。そのことばはイエス・キリストです。そのイエス・キリストのことばは永遠に立つのです。信じるものは永遠の命をえて永遠に立つのです。
 さきほどのパスカル、回心した時の喜び、満たされた思いをメモに残しています。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。わが神、すなわち汝らの神 、汝の神はわが神とならん。神以外の、この世およびいっさいのものの忘却」。
 最後にヘブル13:5、7、8を見てみましょう。「主ご自身がこう言われるのです。『私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』…神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。いつまでも続く、見えないものは、神であられた方が人となり、十字架にかかり、復活されて、再び、地上に来られ、新しい天と新しい地に私たちを導く御方、イエス・キリストです。十字架の死に至るまでの究極の愛、復活のおける無限の力ある愛、それはいつまでも存続する愛、その愛を注いでくださるイエス・キリスト御自身に目を止めましょう。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。

結局のところ…

2017-11-19 00:00:00 | 礼拝説教
2017年11月19日 主日礼拝(伝道者の書12:1~14)岡田邦夫

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:13~14)

 先週、ある神学生の珍しい話をしました。彼は将来の伴侶にと、意中の人に御言葉を書いて送り、プロポーズしました。理解しにくいのですが、この書の「神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか」でした(7:13)。これまでの経緯で、男女の仲ですから、スムーズにはいかず紆余曲折があったのでしょう。それでこの言葉だったのですね。「空の空」で始まる、この伝道者の書は悲観的で、暗いというイメージですが、意外と面白いところがあります。虚無思想をのべながら、それを超えていこうとするので、ユーモアが生まれるのだと私は思います。

◇考え方
「神が曲げたもの」に対し、逆に、神が人を「まっすぐに」造られたとも書いてあります(7:29)。
「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ」。
「神は人間をまっすぐに造られたが人間は複雑な考え方をしたがる」(共同訳)。
人はまっすぐに考えればいいのに多くの理屈をこね苦悩するのです。作者自身も末尾で嘆きます。「多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる」(12:12)。人の世の現実は複雑怪奇で、理不尽で矛盾だらけ、何でこんなことがあるのか、なぜ私の身に起こるのかと思ってしまうことがあります。果てしない虚無感に襲われます。「私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ」(1:14)。そこで、これをどう理解し、どう生きたらよいか、伝道者と名乗る知者はこれしかないという理屈を述べ、それを私たちに勧めるのです。数学では公理を基にして、論理を進めていきますが、この書で知者が基にしているのは箴言に主張しています「主を恐れることは知識の初め」です(1:7)。主を恐れるという姿勢で、その観点で、人の世の現実を見渡してゆきます。

◇生き方
 日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。たたただ「時」は流れ、去っていく。何と虚しいことか。その虚しさを埋めるため、快楽、事業、知恵を求めたが満たされるものはなかった。どうせ、獣と同じ結末。死んでいくだけだ。しかし、神のなさることは時にかなって美しいのだ。無意味ではない。人生の労苦の中にも神に与えられた分に生き、労し、その時々、しあわせを見出し、楽しく生きるのが良いと勧めます。
社会を見れば、納得のいかないことばかり。不正がはびこり、しいたげと孤立が蔓延している。正義と愛はどこにあるのか、理不尽だ。何と虚しいことか。富が人を不公平にし、不幸にすることもあれば、富を得たとしても真の満足はないし、必ず人手に渡る。それは何と虚しいことか。その現実をどう受け止めましょうか。
それには原因があると見抜きます。「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから」です(7:20)。それに対して「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時がある」のです(3:17他)。要するに神の裁きがこの世においても見え隠れし、最後には神が明らかにして、すべてを裁き、決着をつけるのです。真の知恵はそれを意識させます。と言っても、人は神ではないので、「人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない」のです(8:17b)。
知者はその見きわめられないことも「すべては神のみわざであることがわかった」と言います(8:17a)。また、「私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめた」とも言います(9:1)。例えば柔道のことです。どこから攻められてもよいように構え、相手と組みます。柔よく剛を制すで、恐れも不安も除き柔らかい精神をもちます。そのように信仰者は神の裁きがあるのだからと構えて生きるのです。一方、神のみ手の中にあるのだと委ねて生きるのです。それが賢い者の生き方です。そこから、具体的な生き方が見えてきます。以下、いくつか列挙してみましょう。

◇続・生き方
 5:19-20「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ」。
4:12「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」。
7:16-18「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している」。
11:1-6「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。…あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」。

◇あり方
 伝道者は「神を恐れる」という姿勢で、その観点から、人の世の現実を見渡してきましたが、それをまとめ、最後にはっきりしたメッセージを告げます。
 「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。…あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」(11:8-12:1)。「初めに、神は天と地を創造された」のですから、その創造者を覚えよ、創造者に心を留めよと命じます。人生を楽しむ中で、創造者を覚え、神を恐れよ。人生の虚しさに襲われる中で創造者を覚え、神を恐れよ。…なのです。逆に創造者を覚え、神を恐れる中で、人生を虚しく感じ、また、人生を楽しむのです。創造者の御手の中で、死んだらすべておしまいと悟りつつ、長生きするのです。
ある旧約聖書各巻概説にはこう記されていました。「人生の空虚に絶望した者にして、初めて此の創造の神に対する信仰の力が理解できる。此の創造の神を信ずる者のみが、反対にこの「虚無」を超克(ちょうこく)する事が出来る」。体操競技で跳馬があります。まず踏切板をけってから跳び箱を跳び越えます。虚しくなる、虚無におそわれる、それは踏切板、けるのに必要ですが跳んでしまえば、いりません。お互いに虚無を踏切板として、創造者という実在の神の手の中に跳びこみましょう。
 最後に念を押すように根本を告げます。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(12:13-14)。

神がまげたもの

2017-11-12 00:00:00 | 礼拝説教
2017年11月12日 主日礼拝(伝道者の書7:1~14)岡田邦夫

「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」(伝道者の書7:13-14)

 先週のメッセージで105歳で召された日野原重明さんの10歳の子どもにされていた「命の授業」のこと、訂正します。「僕は、子ども達にこう問いかけます。『命はどこにあると思う?』そうすると子ども達は心臓のあたりを指したり、脳みそと答えたりするのです。…心臓はポンプ、脳みそは考え出す機能…『命というのは君達が使える時間の中にあるんだよ』と子ども達に伝えてきました。…生きていく時間のうち、人のために使ったほうが多い人が天国に行けるんだよ」(“生きていくあなたへ”p27-29要約)。
 「すべての営みには時がある」(3:1)のその時をどう生きるか、日野原重明さんの命の授業ではとても良く、伝えられていると感心します。

◇私の見た現実
 この書の題名は「伝道者の書」ですが、共同訳では原語を直訳し「コヘレトの言葉」としています。コヘレトは「集会で教える教師」「思慮深い指導者」「知恵を集め、学び、得た者」を指すともいわれていますので、原語にこだわったのでしょう。この書の展開の仕方からみると「知恵を集め、学び、得た者」という面があります。
 1:13-14を見るとその様子が伺えます。「私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした」と知的探求をします。しかし「これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ」と嘆きます。「私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが」と人間社会を観察します。しかし、「なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」と悲観します。そこで、人はどう生きたらよいか、知者として二つの道を教えるのです。
 ここで、神と人の間に立つ役割を担う「器」について大まかなことを述べましょう。その器は預言者、祭司、知者です。預言者は神がこう言われると上から下への告知をします。祭司は神と民との間に立って、とりなしをします。知者は現実の世界で知の探究をなし、下から上に向って問いかけをします。その三種はどれも欠かせない器です。
 例えば、イザヤ書では「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」と告げます(40:26)。彼は神を見たのであり、神はこう言う、神を見よとメッセージをするのです。しかし、伝道者は「私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た」と述べます(3:16)。イザヤの方は「神」が主語、ソロモンの方は「私」が主語です。預言者は人間社会の現実を上から見るのですが、知者は徹底的に日の下で、人間社会の現実を見つめ、考えるのです。私が見聞きしたこと、経験したことを書き留め、あれもあった、これもあったということを、それをああでもない、こうでもない、それはこういうことだと考え抜いたことを加工せずに綴っていったものです。
ですから、「私は日の下で、…があるのを見た」。このフレーズは繰り返されるのです。まず、3:16~22を見てみましょう。「私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た」。今風に述べることをお許しください。…昔も今も変わらない。不正がある。悩ましい事である。しかし、不正をして得をしたところでそれが何になるのか。心に責められるところがあるとしたら、神の裁きを予感させるもの。人の結末も獣の結末も同じ、死んでおわり、土に帰るのだ。だったら、神を恐れつつ、今の時を楽しもう。自分の仕事を楽しむほかはない。それが、神が与えた人の受ける分というものである。…

◇神の見た現実
 預言者であれば、現実はどうであれ、神を信じなさいというのですが、知者は現実はこうなのだから、その現実に即して信仰に生きるため、知恵を用いなさいと勧めるのです。伝道者の書も知恵の言葉が豊かです。
 4章.慰めるもののいない深刻な「しいたげ」、成功に伴う「ねたみ」、ひとりぼっち、いわゆる孤独。そこでの知恵の言葉。「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす」(4:9-10)。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」(4:12)。
 この「三つ撚りの糸は簡単には切れない」は先日もお話ししたことです。このみ言葉が障害の方のおられる三人の家族にとって、救いの言葉となりました。格言のような言葉ですが、それが、魂を救う神の言葉として生きて働いたのです。
5章、金銭、財産のよくある悲劇。あっても満足できず、争いにもなる。「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く」(5:15-16)。
ここでの知恵の言葉。
「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ」(5:18-20)。
6章、財産があっても、知恵があっても、「だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを」(6:12)。
 7章に知恵の言葉。「事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる」(7:8)。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである(7:13-14)。
 ある神学生が将来の伴侶にと、意中の人にみ言葉を書いて送り、プロポーズしました。本人が自分はひねくれ者だと自分で言っていましたからでしょう。これは上記の「神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」でした。この方に何があって、この言葉になったか、意味深です。
しかし、「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」は現実社会に生きる者には実に含蓄のある言葉です。人生、そんなに真っすぐにはいかないし、社会もそう。しかし、信仰者が知恵を巡らし、神が曲げたものと考えが落ち着くなら、幸いです。
 続きがあります。次回のメッセージを祈りつつお待ちください。


日はまた昇る

2017-11-05 21:42:05 | 礼拝説教
2017年11月5日 主日礼拝(伝道者の書1:1~9)岡田邦夫


「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」(伝道者の書3:14)


「日はまた昇る」はヘミングウェイの小説の題です。題からくるイメージは色々なことがあったけれど、また、朝日が昇るように、明るい未来が開かれる、希望があると、私、思ったのですが、そうではなかったのです。作者は「失われた世代」の作家と言われ、それは第一次世界大戦を経て、何かを失ってしまった世代ということです。その時代、若者たちは傷つき、未来に希望を持てず、酒や遊びに溺れる日々を送るようになってしまったのです。この小説でも故郷を離れ、フランスのパリやスペインのパンプローナで豪遊する若者たちの姿が描かれます。努力して日々を積み重ねていけば、安定した当たり前の生活が手に入る時代ではなく、何をやっても圧倒的な暴力で打ち砕かれてしまう時代です。絶望し、享楽的な生き方に走るというものです。
小説は「伝道者の書」の一章の言葉を冒頭に記して、話を進めます。
「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる」(1:4-7)。

◇すべては虚しい。神なくしては
 伝道者の書は小説家とは違って、すべてのものを手に入れ、栄華を極めたソロモン王(エルサレムでの王、ダビデの子)です。状況は違うとはいえ、虚無を感じたのは同じです。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」(1:2-3)。さらに、4~7節の描写の意味はこうです。すべてのことは物憂い、何もかわりばえはせず、虚無だというのです。
「すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」(1:8-9)。
この虚無を乗り越えようと、まず、「知恵」をもとめました(1:13-14)。「私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ」。風を追うようなものという空虚感。
次に「快楽」(2:1-3)。「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんとむなしいことか。 笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう」。
次に「事業」(2:4-11)。「私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、 庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。…」。ソロモンは事業家として成功した。巨万の富を得、豪華な神殿と王宮を建て、贅沢三昧だった。しかし、「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない」。
次に「知恵と狂気と愚かさ」(2:12-17)。知恵と無知とを比べてみたのです。しかし、違いがない。「知恵ある者は、その頭に目があるが(将来を見通せる)、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。』私は心の中で語った。『これもまたむなしい。』と」。「どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ」。
三千年も前に書かれた書ですが、そのまま読んでも、近代人にわかるという書です。結局、人は被造物なのだ。創造者が与えた人生を、当たり前のような日々を満足して生きることが一番なのだと言います。「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか」。

◇すべては美しい。神あってこそ
 ここで、急に「時」という話が出てきます。日は上り、日は沈み、その繰り返しで、何も変わらない、空の空だと言ってきたのですが、時があるではないかと切り出します(3:1)。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」。アウグスティヌスは神が天地を創造された折、時間も創造されたと述べています。新約のギリシャ語では時計を見ながら生活している物理的な時をクロノス。楽しい事をしているときは短く、退屈なときは長く感じる、そういう意味のある質的な時をカイロスと言います。この「3章はその意味ではカイロスです。
「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある…」。両極のことを対比させて詩文を続けます。「…引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある」。これは良い時と悪い時があるという概念ではないのです。生まれるのが良く、死ぬのが悪いという感覚ではないのです。どちらも神のカイロスなのです。
先日105歳で召された日野原重明さんは命の授業というのをされていました。小学生に「命ってなんですか」と問い、考えさせます。先生の答えは「命は時間です。ですから与えられた時間を大切にしなさい」と励ましていました。私もそうだと思います。生まれるのに時があり、すべての営みに時があり、死ぬのに時がある。そのすべて、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(3:11)。その命の時こそ、人生を美しくさせているのです。絵画的には光と影がある、赤と黒があるから美しい。音楽的には強弱、長短、高低があって美しい。神の与えた人生、命はその両方を総合した芸術ともいえます。素晴らしきかな人生です。ですから、「人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを」(3:13)。
それだけではなく、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」のです(3:11改訂版ではない訳)。
人生を彩らせて下さる創造者なる神、永遠者を思えるという賜物が与えられているのです。時の中に生きながら、時を超え、時を支配されておられる全権の方とお交わりが出来るのです。この方を思えば、どんな時でも楽しみ生きていくのです。
この章は「しかし」とくるのです。「しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」。永遠を思うあまり、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで知りたいと思うのです。そうしたら、安心できるのではないかと…。所詮、被造物の人間、見きわめることができないのです。前にもどりますが、知恵を求めても、快楽を求めても、事業を求めても、知恵と狂気と愚かさを求めても、その中には何も答えはなく、風を追うように、何もつかむことのできない、苦悩、虚無に襲われるのです。
伝道者は悟り、近代人にも勧めます。「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない」(3:14)。結局、言えることは、何をしても虚しくなることも、見極められない苦しさも、人の本分である「神をおそれる」ということねたどり着く道なのです。神をおそれるとは、神を神とすること、神を素直に信頼することです。