2014年4月27日 主日礼拝(マルコ福音書)岡田邦夫
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28
◇賢者の知恵
どうして、こんなに辛いことが続くのだろう、どうして、自分ばかり、割の合わない苦しい目にあうのか、何もかも順境にいっている人がいるかと思えば、自分はやることなすことうまくいかない、神さまは不公平だ、人はそう思いがちです。しかし、こんな言葉があります。
「人間万事塞翁(さいおう)が馬」。辞書にはこう記されています。人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。それは中国の故事から来ています。…昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな塞翁(老人)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。やがて、その馬は胡の駿馬(しゆんめ)を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだ。…
このような考え方は賢人の知恵だと思います。人生におけるバランス感覚でしょう。人生、マイナスのことが続いても、プラスのことが起こるから大丈夫、プラスが続けば、マイナスも来るから心しておこう、人生、プラス・マイナス、ゼロなのだと自分に思い聞かせるのもそうです。しかし、心のどこかでは、あらかた、プラスであってほしいと思っています。ほんとうに「すべてのことを働かせて益としてくださる」なら、そうであってほしいものです。
◇比較しない話
以前に「生きる」というようなタイトルでキリスト教のテレビ番組がありました。瞬きの詩人と言われた水野源三さんに小学生の男の子が合いに行くドキュメントがありました。水野さんは集団赤痢で高熱のため、体に機能、話す機能を失いました、瞬きでコミュニケーションをとれるようになり、信仰を持ち、詩作をされていました。男の子というのは病のため、まもなく失明すると医者に言われており、辛い思いの中におりました。両親がクリスチャンで、息子のために、水野さんに合わせようと思い立ち、それが実現しました。男の子の状況を聞いた水野さん、お母さんがもってきた50音表を見て、瞬きをして、文章が出来ました。「人と比べないで生きてください」でした。親子三人はすっきりした顔をして帰って行きました。
人生のグラフを書いてみるのも良いかも知れません。一ヶ月でも、一年でも、これまでの人生でもいいでしょう。横に時間軸、縦に、プラスは自分にとって良かったと思うこと、マイナスは悪かったと思うこと、これを折れ線グラフにしていくのです。あるカウンセラーが言いました。プラスの部分が本当の自分で、マイナスの部分は本当の自分ではないと思う方が鬱になりやすいと言われました。そこからぬけるには、プラスの部分もマイナスの部分もそれはすべて本当の自分なのであり、悪くはないのだと受容することだと言っていました。これも良いと思われる時と悪いと思われる時を比較しないことだとも言えます。
◇信者の知恵
聖書は言います。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」。自分で有益、無益と決めてしまうのではなく、「神が」そうしてくださると信じ、「知っている」ことが重要なのです。昔、ヤコブという人がいました。息子が12人おりまして、下から二番目のヨセフは父の寵愛を受けておりました。しかも、ヨセフは将来、自分に向かって家族が頭を下げるようになるというような夢を見たと言うものですから、兄たちの恨みを買います。ある日、荒野でヨセフを殺そうとしました。しかし、長男が止めます。そこに商人が通りかかったので、ヨセフを奴隷に売ってしまいます。父親にはヨセフは獣に殺されたと嘘の報告をします。父は嘆きます。
ヨセフはエジプトに売られ、奴隷として働きます。主人に信頼を受け、家のことを任される迄になるのですが、美しかったので、主人の妻が誘惑します。しかし、ヨセフが拒絶、妻が腹いせに夫に対して自分が誘惑されたと報告。主人は激怒して、ヨセフを獄に入れてしまいます。
そこでも不思議と獄屋番に信頼され、管理を任されます。そこへエジプト王の家来が処罰されて入獄されてきました。二人が奇妙な夢を見ます。ヨセフが夢解きをします。一人は処刑されるが、一人は復帰すると。その通りになります。時は流れ、今度はパロ王が奇妙な夢を見て震え上がります。復帰した家来がヨセフのことを思い出し、王に引き合わせます。ヨセフはまたまた夢を解きます。七年の豊作と七年の飢饉がありること、それへの対策を述べます。感心した王はヨセフを総理大臣にします。夢解きのように現実はなっていき、エジプトは救われます。
一方、飢饉の時に、ヤコブの家族は兄たちをエジプトに遣わし食料を求めにきます。ヨセフは兄たちに再会しますが、兄たちはまさか彼が大臣になっているとは思いません。ヤコブの家族がどういう思いでいるかを策を巡らし確かめます。それが判った時点で、自分が弟ヨセフであることを証しします。涙、涙の再会です。兄たちは仕返しされるか案じていると、ヨセフはこう言いました。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。…だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです」(創世記45:5、8)。そして、家族はエジプトに迎えられたのです。
恨み辛みを言うのではなく、人がなした悪いことも「神が」益にかえてくださったとヨセフは信仰の解釈をしたのです。人生の信仰による再解釈です。これが創世記のメッセージです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。
◇比較にならない話
この聖書の箇所は「救いとは何か」をテーマにしたローマ人への手紙です。内村鑑三師はロマ書は指輪のようなもの、その8章は宝石にあたる、輝かしいものだと述べています。この手紙には人は皆、神の前に罪人、神に裁かれるのだと述べ、しかし、イエス・キリストが罪の贖いを成し遂げてくださっ
ので、悔い改めて信じるなら、罪赦されて、救われ、神の子供にされるとメッセージが続くのです。神の前ではすべての人が罪によって全部だめにしてしまう、マイナスの人生、しかし、イエス・キリストによって救われると、憐れみと恵みによってすべてがプラスの人生に変えられるというものです。神が与えた人生、神が救いに導いた人生、神の最善がなされていくのです。
それを信仰によって知ることが出来るのです。神にまかせた人生はこうです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。そして、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(8:15ー17)。 この益とは永遠に無くならない天国の益、財産なのです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28
◇賢者の知恵
どうして、こんなに辛いことが続くのだろう、どうして、自分ばかり、割の合わない苦しい目にあうのか、何もかも順境にいっている人がいるかと思えば、自分はやることなすことうまくいかない、神さまは不公平だ、人はそう思いがちです。しかし、こんな言葉があります。
「人間万事塞翁(さいおう)が馬」。辞書にはこう記されています。人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。それは中国の故事から来ています。…昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな塞翁(老人)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。やがて、その馬は胡の駿馬(しゆんめ)を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだ。…
このような考え方は賢人の知恵だと思います。人生におけるバランス感覚でしょう。人生、マイナスのことが続いても、プラスのことが起こるから大丈夫、プラスが続けば、マイナスも来るから心しておこう、人生、プラス・マイナス、ゼロなのだと自分に思い聞かせるのもそうです。しかし、心のどこかでは、あらかた、プラスであってほしいと思っています。ほんとうに「すべてのことを働かせて益としてくださる」なら、そうであってほしいものです。
◇比較しない話
以前に「生きる」というようなタイトルでキリスト教のテレビ番組がありました。瞬きの詩人と言われた水野源三さんに小学生の男の子が合いに行くドキュメントがありました。水野さんは集団赤痢で高熱のため、体に機能、話す機能を失いました、瞬きでコミュニケーションをとれるようになり、信仰を持ち、詩作をされていました。男の子というのは病のため、まもなく失明すると医者に言われており、辛い思いの中におりました。両親がクリスチャンで、息子のために、水野さんに合わせようと思い立ち、それが実現しました。男の子の状況を聞いた水野さん、お母さんがもってきた50音表を見て、瞬きをして、文章が出来ました。「人と比べないで生きてください」でした。親子三人はすっきりした顔をして帰って行きました。
人生のグラフを書いてみるのも良いかも知れません。一ヶ月でも、一年でも、これまでの人生でもいいでしょう。横に時間軸、縦に、プラスは自分にとって良かったと思うこと、マイナスは悪かったと思うこと、これを折れ線グラフにしていくのです。あるカウンセラーが言いました。プラスの部分が本当の自分で、マイナスの部分は本当の自分ではないと思う方が鬱になりやすいと言われました。そこからぬけるには、プラスの部分もマイナスの部分もそれはすべて本当の自分なのであり、悪くはないのだと受容することだと言っていました。これも良いと思われる時と悪いと思われる時を比較しないことだとも言えます。
◇信者の知恵
聖書は言います。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」。自分で有益、無益と決めてしまうのではなく、「神が」そうしてくださると信じ、「知っている」ことが重要なのです。昔、ヤコブという人がいました。息子が12人おりまして、下から二番目のヨセフは父の寵愛を受けておりました。しかも、ヨセフは将来、自分に向かって家族が頭を下げるようになるというような夢を見たと言うものですから、兄たちの恨みを買います。ある日、荒野でヨセフを殺そうとしました。しかし、長男が止めます。そこに商人が通りかかったので、ヨセフを奴隷に売ってしまいます。父親にはヨセフは獣に殺されたと嘘の報告をします。父は嘆きます。
ヨセフはエジプトに売られ、奴隷として働きます。主人に信頼を受け、家のことを任される迄になるのですが、美しかったので、主人の妻が誘惑します。しかし、ヨセフが拒絶、妻が腹いせに夫に対して自分が誘惑されたと報告。主人は激怒して、ヨセフを獄に入れてしまいます。
そこでも不思議と獄屋番に信頼され、管理を任されます。そこへエジプト王の家来が処罰されて入獄されてきました。二人が奇妙な夢を見ます。ヨセフが夢解きをします。一人は処刑されるが、一人は復帰すると。その通りになります。時は流れ、今度はパロ王が奇妙な夢を見て震え上がります。復帰した家来がヨセフのことを思い出し、王に引き合わせます。ヨセフはまたまた夢を解きます。七年の豊作と七年の飢饉がありること、それへの対策を述べます。感心した王はヨセフを総理大臣にします。夢解きのように現実はなっていき、エジプトは救われます。
一方、飢饉の時に、ヤコブの家族は兄たちをエジプトに遣わし食料を求めにきます。ヨセフは兄たちに再会しますが、兄たちはまさか彼が大臣になっているとは思いません。ヤコブの家族がどういう思いでいるかを策を巡らし確かめます。それが判った時点で、自分が弟ヨセフであることを証しします。涙、涙の再会です。兄たちは仕返しされるか案じていると、ヨセフはこう言いました。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。…だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです」(創世記45:5、8)。そして、家族はエジプトに迎えられたのです。
恨み辛みを言うのではなく、人がなした悪いことも「神が」益にかえてくださったとヨセフは信仰の解釈をしたのです。人生の信仰による再解釈です。これが創世記のメッセージです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。
◇比較にならない話
この聖書の箇所は「救いとは何か」をテーマにしたローマ人への手紙です。内村鑑三師はロマ書は指輪のようなもの、その8章は宝石にあたる、輝かしいものだと述べています。この手紙には人は皆、神の前に罪人、神に裁かれるのだと述べ、しかし、イエス・キリストが罪の贖いを成し遂げてくださっ
ので、悔い改めて信じるなら、罪赦されて、救われ、神の子供にされるとメッセージが続くのです。神の前ではすべての人が罪によって全部だめにしてしまう、マイナスの人生、しかし、イエス・キリストによって救われると、憐れみと恵みによってすべてがプラスの人生に変えられるというものです。神が与えた人生、神が救いに導いた人生、神の最善がなされていくのです。
それを信仰によって知ることが出来るのです。神にまかせた人生はこうです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。そして、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(8:15ー17)。 この益とは永遠に無くならない天国の益、財産なのです。