オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

人間万事塞翁(さいおう)が馬、なのか

2014-04-27 00:00:00 | 礼拝説教
2014年4月27日 主日礼拝(マルコ福音書)岡田邦夫


 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

◇賢者の知恵
 どうして、こんなに辛いことが続くのだろう、どうして、自分ばかり、割の合わない苦しい目にあうのか、何もかも順境にいっている人がいるかと思えば、自分はやることなすことうまくいかない、神さまは不公平だ、人はそう思いがちです。しかし、こんな言葉があります。
 「人間万事塞翁(さいおう)が馬」。辞書にはこう記されています。人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。それは中国の故事から来ています。…昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな塞翁(老人)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。やがて、その馬は胡の駿馬(しゆんめ)を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだ。…
 このような考え方は賢人の知恵だと思います。人生におけるバランス感覚でしょう。人生、マイナスのことが続いても、プラスのことが起こるから大丈夫、プラスが続けば、マイナスも来るから心しておこう、人生、プラス・マイナス、ゼロなのだと自分に思い聞かせるのもそうです。しかし、心のどこかでは、あらかた、プラスであってほしいと思っています。ほんとうに「すべてのことを働かせて益としてくださる」なら、そうであってほしいものです。

◇比較しない話
 以前に「生きる」というようなタイトルでキリスト教のテレビ番組がありました。瞬きの詩人と言われた水野源三さんに小学生の男の子が合いに行くドキュメントがありました。水野さんは集団赤痢で高熱のため、体に機能、話す機能を失いました、瞬きでコミュニケーションをとれるようになり、信仰を持ち、詩作をされていました。男の子というのは病のため、まもなく失明すると医者に言われており、辛い思いの中におりました。両親がクリスチャンで、息子のために、水野さんに合わせようと思い立ち、それが実現しました。男の子の状況を聞いた水野さん、お母さんがもってきた50音表を見て、瞬きをして、文章が出来ました。「人と比べないで生きてください」でした。親子三人はすっきりした顔をして帰って行きました。
 人生のグラフを書いてみるのも良いかも知れません。一ヶ月でも、一年でも、これまでの人生でもいいでしょう。横に時間軸、縦に、プラスは自分にとって良かったと思うこと、マイナスは悪かったと思うこと、これを折れ線グラフにしていくのです。あるカウンセラーが言いました。プラスの部分が本当の自分で、マイナスの部分は本当の自分ではないと思う方が鬱になりやすいと言われました。そこからぬけるには、プラスの部分もマイナスの部分もそれはすべて本当の自分なのであり、悪くはないのだと受容することだと言っていました。これも良いと思われる時と悪いと思われる時を比較しないことだとも言えます。

◇信者の知恵
 聖書は言います。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」。自分で有益、無益と決めてしまうのではなく、「神が」そうしてくださると信じ、「知っている」ことが重要なのです。昔、ヤコブという人がいました。息子が12人おりまして、下から二番目のヨセフは父の寵愛を受けておりました。しかも、ヨセフは将来、自分に向かって家族が頭を下げるようになるというような夢を見たと言うものですから、兄たちの恨みを買います。ある日、荒野でヨセフを殺そうとしました。しかし、長男が止めます。そこに商人が通りかかったので、ヨセフを奴隷に売ってしまいます。父親にはヨセフは獣に殺されたと嘘の報告をします。父は嘆きます。
 ヨセフはエジプトに売られ、奴隷として働きます。主人に信頼を受け、家のことを任される迄になるのですが、美しかったので、主人の妻が誘惑します。しかし、ヨセフが拒絶、妻が腹いせに夫に対して自分が誘惑されたと報告。主人は激怒して、ヨセフを獄に入れてしまいます。
 そこでも不思議と獄屋番に信頼され、管理を任されます。そこへエジプト王の家来が処罰されて入獄されてきました。二人が奇妙な夢を見ます。ヨセフが夢解きをします。一人は処刑されるが、一人は復帰すると。その通りになります。時は流れ、今度はパロ王が奇妙な夢を見て震え上がります。復帰した家来がヨセフのことを思い出し、王に引き合わせます。ヨセフはまたまた夢を解きます。七年の豊作と七年の飢饉がありること、それへの対策を述べます。感心した王はヨセフを総理大臣にします。夢解きのように現実はなっていき、エジプトは救われます。
 一方、飢饉の時に、ヤコブの家族は兄たちをエジプトに遣わし食料を求めにきます。ヨセフは兄たちに再会しますが、兄たちはまさか彼が大臣になっているとは思いません。ヤコブの家族がどういう思いでいるかを策を巡らし確かめます。それが判った時点で、自分が弟ヨセフであることを証しします。涙、涙の再会です。兄たちは仕返しされるか案じていると、ヨセフはこう言いました。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。…だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです」(創世記45:5、8)。そして、家族はエジプトに迎えられたのです。
 恨み辛みを言うのではなく、人がなした悪いことも「神が」益にかえてくださったとヨセフは信仰の解釈をしたのです。人生の信仰による再解釈です。これが創世記のメッセージです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。

◇比較にならない話
 この聖書の箇所は「救いとは何か」をテーマにしたローマ人への手紙です。内村鑑三師はロマ書は指輪のようなもの、その8章は宝石にあたる、輝かしいものだと述べています。この手紙には人は皆、神の前に罪人、神に裁かれるのだと述べ、しかし、イエス・キリストが罪の贖いを成し遂げてくださっ
ので、悔い改めて信じるなら、罪赦されて、救われ、神の子供にされるとメッセージが続くのです。神の前ではすべての人が罪によって全部だめにしてしまう、マイナスの人生、しかし、イエス・キリストによって救われると、憐れみと恵みによってすべてがプラスの人生に変えられるというものです。神が与えた人生、神が救いに導いた人生、神の最善がなされていくのです。
 それを信仰によって知ることが出来るのです。神にまかせた人生はこうです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。そして、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(8:15ー17)。 この益とは永遠に無くならない天国の益、財産なのです。

ラザロよ。出て来なさい

2014-04-20 00:00:00 | 礼拝説教
2014年4月20日 主日礼拝(ヨハネ福音書11:38-44)岡田邦夫

 「イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。」ヨハネ福音書11:43-44

 最近、エンディングノートとか、終活という言葉を耳にします。終活というのは就職活動ではなく、人生の終わりのための活動の略だそうです。人生の終わりをより良いものとするため、事前に準備を行うことです。主なことは生前のうちに自身のための葬儀やお墓などの準備をしておくとか、残された者が財産相続などがスムースに行われるための計画を立てておくことだと言います。現実の直面することですから、目をそらさないで、そうできたらよいかも知れません。
 以前いた教会で淀川キリスト教病院のホスピスから、電話がありました。聞いた声でした。家庭集会に来られていた方で、その病院の伝道部でチャプレンをされている方でした。実はTさんという婦人が院内放送で聖書の話を聞いていて、キリスト教を信じたいと思われたそうです。それでその婦人は教会に墓地があるなら、亡くなったら、入れてほしいと言っていますが、先生の教会には墓地がありますかと尋ねてきたのです。さっそく、その病院の最上階にあるホスピス病棟のTさんにお会いしました。教会のお墓はありますから、大丈夫ですよ、お任せください。でも、もっと大事なことがあります。お墓よりも天国に行けること、永遠の命を神さまからいただくことです。すでにチャプレンから個人伝道がなさていたので、ここでは信仰の告白を聞くだけで十分でした。天国の確信を持たれました。日をあらためて、教会員と一緒に病室に向かいました。チャプレンを初め、クリスチャン医師、看護師が集まってきました。入りきれないので、ドアを開けたまま、讃美歌をきよらかに歌い、父と子と聖霊との名によって、牧師から洗礼を受けました。そうとう体は衰弱していましたが、皆からおめでとうと言われ、嬉しそうでした。部屋はお祝いの花で一杯になっていました。ご主人を先におくり、お子さんもおられず、孤独でしたが、希望がもてたのです。その時の写真が大変良く撮れていたので、後に伝道新聞に掲載されました。それから、穏やかな日々を過ごされ、平安のうちに天に召されてゆかれ、教会で葬儀がなされ、教会の納骨堂に埋葬されました。その葬儀で歌ってほしいと指定されたのが、讃美歌の「きよき岸辺に」でした。
 きよき岸辺に やがて着きて/天つ御国に ついに昇らん
その日数えて 玉の御門に/友も親族(うから)も われを待つらん
やがて会いなん 愛(め)でにし者と/やがて会いなん

 この方のことをを通して、私は天国は事実あるのだと、なお確信しました。天国に行くことは大変麗しいことだと思わされました。ラザロの生き返りも確かにあったのです。彼が重い病気にかかり、イエスに知らせに行ったのですが、なぜか、すぐにはイエスは駆けつけませんでした。ラザロは死んだのではない、眠っているだけだと言われ、また、ラザロは死んだのだと言われる。このイエスの言葉、弟子たちは理解できません。そして、ラザロの所に来たのですが、墓に入れられ、四日もたっていました。
 迎えたマルタは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と愚痴のようにこぼします。しかし、主は「あなたの兄弟はよみがえります。」と言います。終わりの日によみがえることは知ってますと反論します。その時に主が言われた言葉が実に力強い言葉でした。後代に残る救いの言葉でした。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(11:25-26)。
 彼女はこう答えるしかありません。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」。それから、イエスは泣いているマリヤに会い、墓に向かいます。最も短い聖句「イエスは涙を流された」が記録されています。この中に万感の思いが盛られているように思います。死に行く人間の悲惨を思われたのでしょうか。「またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた」のです。そして、蓋をしてあった大きくて重い石を取りのかさせます。周囲は言います。盲人の目を開けたのに、死なせないようには出来なかったのかと。主はマルタに「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言って、祈り始めます。現場にいる人たちは主が何をされようとしているか解りません。
 するとです。「イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい』」(11:43-44)。
 「ラザロよ。出てきなさい。」は天地創造の時に、神が「光よあれ」というと光が生じた、無から有を呼び出された、それと同じようです。死から生を呼び出されたのです。人間の理屈では計り知れないことです。神の理屈だからです。このようにも響いているようです。恋愛の歌をとおして、神とイスラレルの関係を伝えているのが「雅歌」です。「私の愛する方は、私に語りかけて言われます。『わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。』」(2:10-13)。
 私には人をよみがえらせる、愛の神の呼びかけだと想います。死人をよみがえらせる愛の言葉です。「わが愛する者、十字架の血できよくされた美しいキリスト者よ。さあ、立って、出ておいで」。終わりの日、主にあって、死んだ死人は「ラザロよ。出て来なさい。」と言うように呼び出され、栄光の体によみがえります。実に力強い呼び出しです。また、「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」と言うように呼び出され、主と同じの体によみがえります。実に愛にあふれたイエス・キリストの呼びかけです。

 以前おりました教会に脊髄損傷の青年がいました。当時はなかなか周囲の理解が得られず、納屋の二階におりました。私は神に示され、毎週、聖書の学びを一緒にしようと言ってかよいました。車いすに乗るよう勧めました。それ用の机を作りました。車の免許を取るよう勧めました。ついに自分で車いすにのって教習所に行き、免許を所得し、最初に来たのが教会でした。祈っていた兄弟姉妹は大喜びでした。私はなぜ、そこまでしたのかというと、雅歌のその言葉が与えられていたからです。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで」。復活の主イエス・キリストが呼び出されたのです。彼は人生における復活劇を体験したのです。

あなたの罪は赦された

2014-04-13 00:00:00 | 礼拝説教
2014年4月13日 主日礼拝(マルコ福音書2:1-12)岡田邦夫

 「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」マルコ福音書2:5

 テレビの宣伝ではないのですが、『奇跡体験!アンビリバボー』というタイトルのドキュメンタリー系・バラエティ番組があります。世の中には信じがたい(アンビリーバブルな)出来事があるものです。しかし、マルコ福音書には信じがたい、とんでもない出来事が次から次に出てきます。

◇とんでもない出来事 A
 主イエスの宣教活動の書きだしは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」という要約と(1:15)、シモン・ペテロ等の漁師を弟子とする召命の話です(1:13-15)。そして、最初の出来事が強烈な悪霊追放の奇跡、現代の私たちには身近かには思えない、とんでもない出来事です。主イエスがカペナウムの会堂で教えておられると汚れた霊(悪霊)につかれた人が叫ぶ。主が、黙れ、出て行けと命じると、悪霊が大声を上げて出て行く。これを見た人々はびっくり、これは権威ある新しい教えだ、悪霊さえ従うのだからと論じ合う程でした。実にセンセーショナルな奇跡であり、ガリラヤ全地に評判が広がったのです(1:21-28)。なおも、病をいやし、悪霊を追い出していき、「こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」と締めくくります(1:39)。
 当時の人々が見えない力、邪悪な霊などを恐れていたのでしょう。悪霊に取りつかれた人も多く、また、悪霊の働きで病気になると思っていたのでしょう。いわゆる、人間を苦しめている源は悪魔の手下の悪霊と感じていたのでしょう。主イエスは人を苦しめている、その源である霊を断ち切られたのではないでしょうか。「黙れ、この人から出て行け」と。拡大解釈をすれば、人を不安や苦悩におとしめている、自分の力ではどうしようもない見えない霊、あるいはその源に向かって、主は正面から立ち向かってくださり、力強く「黙れ、この人から出て行け」と言って、解放してくださるのではないでしょうか。

◇とんでもない出来事 B
 汚れた霊とあったように悪霊につかれた人は汚れた者と扱われていたのですが、そこに、主イエスは手を差し伸べたのです。そして、汚れた者として区別され、更に差別されていたツァラアト(ハンセン病を含む重い皮膚病)の人に手を差し伸べました。「さて、ひとりのツァラアトに冒された人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。『お心一つで、私はきよくしていただけます。』イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。『わたしの心だ。きよくなれ。』すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった」のです(1:40-42)。
 ツァラアトの字義は「打たれたもの」で、神に罰せられ、打たれた者という意味です。その人は罪ある汚れた者と烙印をおされ、町外れに隔離され、通行人に向かっては「汚れた者です。汚れた者です」と叫び、通行人を近づけないようにしなければなりませんでした。触れれば汚れるからです。それですのに、主イエスはその汚れに触れたのですから、それこそとんでもないことでした。ですから、癒しと清めが一緒なのです。祭司に見せ、きよめられたことが証明されれば、社会復帰が出来るわけで、主はそこまで配慮されていたのです。しかし、なんと言っても、この人への「深いあわれみ」でした。ツァラアトの人の深い悩みに手の届く、深いあわれみなのです。漢字の憐れみは隣と似ています。イエスはだれにでも隣に立ってくださり、「わたしの心だ。きよくなれ」と愛の言葉が投げかけられるのです。

◇とんでもない出来事 C
 もう一つとんでもない事件がありました。また、カペナウムでのことです。イエスの話を聞くのに人が集まり過ぎて、戸口までびっしりでした。そこへ一人の中風の人が四人に担がれてきたのですが、入る余地がない。そこで、四人はこの中風の人をイエスに合わせたい一心で、無謀なことをします。外付けの階段を上がり、屋根をはがし、穴をあけ、そこから中風の人を寝かせたままつり降ろしました。ここで主イエスは意外なことを言います。彼らの信仰を見ぬいて、「子よ。あなたの罪は赦されました」と宣言されました。そこにいた律法学者が思ったように、罪の赦しは神にしか権限はないのです。「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』こう言ってから、中風の人に、『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神をあがめた」(2:10-12)。

◇とんでもない出来事 X
 罪の赦しの権限は神にしかないのですが、その権限を知らせるために、この奇跡を行われたのです。しかし、罪の赦しには贖いによるきよめが必要です。そのため、人の子すわちメシヤは十字架の苦難に合わなければなりません。マルコ福音書の目的はそのイエス・キリストの受難の歴史を書くことです。それは8~16章です。その前の部分は序文のようなものです。ですから、この福音は長い序文をもつ受難物語だと言われています。主イエスは十字架において、悪霊つきの人やツァラアトに冒された人のいっさいの汚れをご自分の身に引き受け、中風の人の病も罪も引き受け、すべての人の罪を身代わりに背負われました。それゆえに神に打たれ、ツァラアトされ、「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫び、極限の苦しみを通して、贖いを全うされたのです(マルコ15:34)。
 神の御子が見捨てられ、苦しみを全うすることを通して、私たち、罪人の罪が赦され、解放されるということは、「こういうことは、かつて見たことがない」、良い意味でとんでもないことなのです。こんな罪深い人間が深い憐れみを受けて、このようなみことばが聞けますことは怖れ多いことです。
「黙れ、この人から出て行け」
「わたしの心だ。きよくなれ」
「子よ。あなたの罪は赦されました」

神の国は近くなった

2014-04-06 14:39:34 | 礼拝説教
2014年4月6日 主日礼拝(マルコ福音書1:1-15)岡田邦夫


 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」マルコ1:1
 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ1:15

 例えば、地震があったとします。家が倒れて、足が柱に挟まれて動けない。津波が来るから逃げなさいとのアナウスが聞こえてきた。どうしても足はぬけない。死ぬしかないかと不安でたまらない。すると、「誰かいますか」という声が近づいてきた。「助けて!」と思い切り叫ぶ。「どうしましか」、「大丈夫ですよ」。消防士たちの声だった。てこを原理で一方で柱を持ち上げ、一方で自分を抱えて引きずり出してくれた。怪我はしてなかったから、一緒に高台の避難所に走って逃げた。すると大津波がきた。救助する人が「来てくれた」から助かったのです。

◇来てくれた
 福音書というのはイエスの伝記ではありません。神の御子が私たちを滅びから救うために、「来てくれた」という良い知らせ、ゴスペル、福音なのです。ですから、神の御子は「神の救い」という意味のイエスという名を付けられたのです。イエスはヘブル語ではヨシュア、一般に良くある名前ですが、この方は特別に神から私たちのところに遣わされた、来てくれた救助者で、名前の通りの方でした。
 イエスはガリラヤ地方のナザレという町で育ち、そこにおられましたが、30才になって、使命に進むため、ヨルダン川に行かれました。そこに洗礼者(バプテスマの)ヨハネがいて、私にも洗礼を授けてくれと言われて、受洗しました。罪のない神の子で、悔い改める必要のない方なのですから、この洗礼は「任職式」だったので。イスラエルでは王や祭司が任職する時に香りの良い油を注ぎました(1サムエル10:1など)。旧約の預言者たちが、やがて、民と人類を救う方、油注がれた者という意味のメシヤ、救い主が現れると預言していました。ついにその時が来たのです。ヨハネが言うように神自らの、聖霊の油注ぎがなされたのです。
 「水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」(1:10ー11)。その声は前半が詩篇2:7、後半がイザヤ42:1に通じるメシヤ預言の言葉です。人類史上、特別なこととして、天がさけたのです。天からの声があったのです。あなたがそのメシヤだという神の召命だったのです。これは特別の、特別の、特別の出来事だったのです。なぜなら、「天がさけた」という出来事は後にも先にもこの時だけだからです。天地創造以来の出来事だったのです。主イエスだけ、それが見えたのですから、これも特筆すべき事です。そして、天におられる父から告げられた言葉が何とも愛に満ちているではありませんか。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。父と子と聖霊が融け合うような愛の融合が感じられます。だからこそ、人類を罪と滅びの中から救い出すために、主イエスは受難の道に進み得たのだと私は思います。この三位一体の神の中の愛がほとばしり出て、主イエスはサタンの試みを経て、公生涯に入るのです。

◇やって来た
 甲子園の高校野球などで、入場行進の時に先頭にその高校のプラカードをもって誘導する人がいます。それに選手が続きます。主イエスが地上に登場し、救い主として行進していくのですが、先頭にはヨハネというプラカード持ちがいたのです。預言のとおり、ヨハネは神に選ばれ、救い主・メシヤの道備えをするために、生まれてきたのです(1:2-3=マラキ3:1、イザヤ40:3)。その働きは人々の罪を明らかにし、悔い改めさせ、洗礼に導くという備えでした。その厳しい預言活動のゆえに、ヘロデ王に捕らえられてしまいます。旧約の最後の預言者として、あるいは救い主を紹介するという最大の預言者としてのヨハネの使命がはたされたことを知ったのでしょうか、主イエスはご自身で宣教活動を始めます。「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」(1:14ー15)。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」は主イエスの宣教の要約の言葉でもあります。
 冒頭の消防士が来てくれた話のように、人類救済のために、救い主・メシヤが天から来られたのです。旧約の時代から待ち望んでいた、その救いの時が来たのです。お腹の中にいた赤ちゃんが月満ちて生まれて来るように、神の時が満ちたのです。神の国は近くなったです。神の恵みの支配が始まったのです。新しい救いの時代の幕開けです。神であられた方が全く人となられ、天がさけ、聖霊が注がれ、御声を聞いたそのお方が言われるのです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」。この福音のメッセージは新しい天と新しい地が現れる時まで、語り継がれていくのです。今、ここにいる私たちにも主イエスは聖霊によって、告げられています。アメリカ人が絶えず家族にアイラブユーと言うように、主イエスの御声があるのです。

 社会情勢からすれば、実に大胆なメッセージです。福音(ユーアンゲリオン)はローマ皇帝が市民に言っていた言葉です。皇帝が治める限り、市民には福音をもたらすのだと。人間的に言うなら、ローマ帝国の属国ユダヤのしかも地方のガリラヤで、社会的に名もない人物が、神の「福音」をもたらすというのですから、大胆不敵です。しかも、ダニエル書などの預言者は帝国というものはバビロン、ギリシャ、ローマと次々代わっていき、ついに神の国がとってかわり、メシヤが来て、平和が来ると預言してきたのです。「神の国は来た」というのはユダヤの社会では大胆きわまりないメッセージです。しかし、主イエスのこのメッセージは真実であり、神からのものですから、その言葉に人を圧倒する力がありました(1:22)。汚れた霊を追う出すなど、その御業に神の国の権威が証しされました(1:27)。
 しかし、3年後、主イエスはローマ帝国から、ユダヤ社会から、抹殺されてしまいます。ところが、その十字架の死こそが私たちの罪を贖う福音だったのです。死人に中からよみがえり、永遠の命をくださることになった福音です。絶対に皇帝が与えることの出来なかった贖いと永遠の命の福音が私たちに届けられたのです。律法学者、パリサイ人が先の話だと思っていた、預言者の言う神の国はまさに今ここに来たのです。主の再臨の時に御国は完成するのです。天が開かれたのですから、私たちの心も神に向かって、素直に開き、悔い改め、神の恵みの支配のもとにおきましょう。私の人生、罪につける自我を帝王とせず、救い主、恵みの主に御支配していただけるなら、最善の人生になるのではないでしょうか。