オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

心優しいキリスト

2018-05-27 00:00:00 | 礼拝説教
2018年5月27日(日)伝道礼拝(マタイ11:28~30)岡田邦夫

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ福音書11:28~29)

 初めに、シスター渡辺和子のメッセージ「宝物」を要約して、紹介します(2015年09月29日の心の糧)。
宝物にもいろいろあります。誰が見ても、そうだろうと思わせるものもあれば、他人にはわからない、自分だけに価値あるものである場合もあるものです。修道者になる時、清貧の誓願を立て、自分のものと呼ぶものを持たない私も、一つだけ宝物を持っています。それは、金銭的には全く価値のないものですが、私にとっては、かけがえのない大切なものなのです。
87歳で天寿を全うした私の母は、なくなる1、2年前から認知症になり、見舞いに訪れた時も、娘の私がわからなくなっていました。介護をしていてくださった病院の人の話では、母は、日がな1日、赤い毛糸の玉をころがしては手繰り寄せ、赤い錦紗(きんしゃ)の布をいじっては遊んでいるということでした。見ると、それは紛れもなく、修道院に入る前に私が着ていた赤いセーターの毛糸の残りと、私の羽織の端布だったのです。悲しみの中にも、私は慰められて岡山に戻りました。その日から約1ヶ月後、母は逝き、臨終に間に合わなかった私は次の日、お礼かたがた母が過ごした部屋の片付けに行きました。そして、そこに残された毛糸玉と錦紗の布、それが、その日以来、私の宝物になったのです。
それが母親の優しさというものです。日本語の聖書には「優しい」という語はわずかですが、日本人の感性から見れば、イエス・キリストは優しさに満ちた方だと私は思います。一か所、そのような言葉がマタイ福音書11:28~29に出てきます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」。

◇引き離す優しさ
 この頃、セクハラの問題を取り上げるのが多くなってきましたようです。十戒に「姦淫してはならない」とあります。性には問題がつきものなので、間違わないためには厳しさが必要で、また、健全であるためには人を大切にするという優しさが必要だと思います。主イエス・キリストはこれからお話しする出来事で、その優しさをお示しになったのです。
 それはイエスが朝早く、神殿に行かれると、大勢の人が集まってきたので、教え始めました。ヨハネ福音書8章の初めに書いてある出来事です。
律法学者とパリサイ人という宗教的指導者が、姦淫の場で捕えられたひとりの女性を連れて来て、何と人々の真中に置いたではありませんか。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と言って詰め寄りました。姦淫罪というのは法律では重罪で石打という死刑になるものでした。イエスのことを良く思っていない宗教的指導者の罠でした。イエスを抹殺するために告発する口実を得ようとするものです。ここで、イエスが女性を石打にすべきだと言えば、ご自分の罪の赦しによる救いの教えに反し、人々は離れていってしまいます。女性を釈放するようにと言えば、神の律法を否定することになり、彼らは告発できるわけです。
イエスともノーとも言えないが、民衆がいるから答えなければならない。絶体絶命のピンチ。しかし、主イエスは賢い方。身をかがめて、指で地面に何か書いている。宗教家は告発の口実を得たいとはやる心でイエスの口元を見ている。女性はうなだれて何も見えない。民衆はこの状況がどうなっていくのか、興味深々でこの場面を見ている。しかし、主は地面に何かを書いている。周囲の者たちは何を書いているのかと関心がそこに向く。神殿の庭か、この女を石打にするのか、しないのか、さあ、答えろ、さあ、答えろと責め立てる声で騒々しい。
しかし、彼らの訴えは片手落ち、相手の男性が抜け落ちているという勝手なものです。「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない」とあるからです(レビ記20:10)。でも、イエスは彼らの身勝手さを追求しません。彼らの企みも暴露したりしません。相手をやり込めることもできますが、それをしません。沈黙だけです。ここにイエスの優しさがあります。
 また、彼女を訴える者たちを退かせ、引き離さなければなりません。聖書にこう記されています。「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」。
 彼女を道具に使っていた者たちの手から、完全に引き離され、救いの機会が与えられたのです。

◇引き受ける優しさ
 そこで、イエスは神の優しさでこの女性と向き合います。「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」。法的に訴える者がいなければ、裁かれることはありません。事態はそうなったのです。しかし、神の前にはそうはいきません。罪は罪です。『わたしもあなたを罪に定めない』と罪の赦しの宣告ができるのは神だけです。その罪をイエス・キリストが引き受け、身代わりに罰を受けられてこそ、赦しが宣告できるのです。そのためにイエス・キリストは十字架刑に処せられたのです。それはこの女性を救い、私たちを救うためでした。罪は赦されませんが罪深い人を赦させるのです。ここに神の愛があるのです。

私はひとつの出来事を思い出しました。年配の奥様が教会員でした。そのご主人があごの骨にガンがあるということで手術することになりました。顔なので悪い部分を切除して、そこに腰の骨を取ってきて移植するという難しい手術です。その専門の医師のいる遠い大学病院で行われました。問題はここからです。腰骨があご骨に生きて接合しなければなりませんが、高齢なので難しい。着かなければ切除。顔がこけて、支障をきたします。ところがなかなかつく気配がないのです。
そんな時、家の近所の占い師が来て、こう言って帰っていきました。この病が治らないのは親族に違う宗教の者がいるから、祟られているのだ。その者がその邪教を捨てれば治るのだというのです。親戚はそれが誰を指すかはわかります。それが契機で私たちは教えられました。何かのせいにしたり、あきらめたりしないで、素直のひとりの人を愛し、祈ることでした。教会の愛する兄弟姉妹もひたすら祈りました。奥様は祈る中で知恵が与えられました。食事は液状にして管で流し込むのですが、もう少し、カルシュウムとビタミンが必要と感じ、白身の魚を柔らかく煮てさまし、野菜や果物といっしょにミキサーにかけ、病院のものに加えて流し込んだのです。ずっとイエス・キリストに祈りながらです。ところが年末、医師に言われました。骨は着いていないので、正月が明けたら、除去手術をしますと。私たちは主を仰ぎ祈りました。新年、検査してみると骨が生きてつながっていました。
退院の前日、牧師が見舞いに行くと看護師が奥様に何を加えたのか、参考にと聞き取りに来ていました。私たちは思いました。必要だったのはカルシュウムではなく、神絵の祈りだったと…。退院後、そのご主人が教会で洗礼を受けられました。受洗準備の時、入院中に神を信じたのですか聞くと、「神は愛なり」だというのです。缶ジュースの空き缶に造花をさしいれ、缶の周りに「神は愛なり」の聖書の言葉を張り付けたのを教会から見舞いに持っていったのがずっと目に入り、信じたのだというのでした。


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