2012年1月29日 主日礼拝(マタイ16:13-28)岡田邦夫
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:15-16)
以前、家内がある家のお母さんに電話するのをそばで聞いていましたら、先方が電話口にでたところで、「あんただれ?」といきなり聞いているのにはびっくりしました。そういえば、その家は子供が四人姉妹、声が似てるし、話し方もそっくり、顔が見えないので、誰がでたかわからないというわけです。逆に、この社会で自分が誰であるかを証明するには手続きが必要です。銀行で通帳をつくるなど、日常、色々なことで、本人であることの確認のために、運転免許証や保険証などの提示が求められます。もし、それがないと、顔見知りでも、難しいものです。自分が何者かというのを証明するのはそう簡単なことではありません。
◇信仰告白する者になる事
神の御子が人ととなられ、説教をされ、奇跡を行ってきましたが、それが救い主として、人々に理解されることは難しいことでした。三年、主イエスと共に過ごした弟子たちでさえ、そうでした。五つのパンと二匹の魚で五千人の群衆を満腹させた奇跡を見、湖の上を歩き、風を支配する奇跡を経験した時に、弟子たちは主を畏れ、主を拝し、「確かにあなたは神の子です。」とようやく、告白したのです(14:33)。そうして、念を押すように、主イエスは七つのパンで四千人の群衆を満ちたらせる奇跡を弟子たちに見せました。これらは神の国が近づき、救い主が来られた「しるし」です。16章1-4節を見ますと、パリサイ派やサドカイ派の人たちにはまったく理解できていません。弟子たちの方は「どうして、あなたがたには、わからないのですか。」と言われ、主イエスに説教されると、彼らは「悟った」のです(16:9,11,12)。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:10)。私の母は物事を合理的に説明する傾向の人でした。神はいると思えばいるし、いないと思えばいないのだという具合にです。私が信仰をもって、嬉しかったので、母を教会にさそうと、そのように言ってたものの、息子が世話になっているので、あいさつに行くと言って、教会に来ました。気に入って、時々、来ていたのですが、キルボルンという宣教師が来られての伝道会で、信じる決心をしました。私は集会後、すぐ、ローマ10:10のみ言葉をもって祈りました。母の救いの時でした。共産主義に傾いていた母でしたから、「宗教はアヘンだという。しかし、アヘンも少量使えば、良薬となる。」という理屈をつけて、受洗しました。
ところで、弟子たちにとっても、主イエスにとっても、ここは大事な時でした。こう問答がなされます(16:15-16)。
イエス:「人々は人の子をだれだと言っていますか」。
弟子たち:「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエス:「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロ:「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
イエスを先生と仰ぎ、ついてきた弟子が、これまでよく判らなかったのですが、ここにきて、ようやく判ったのです。明確な信仰告白をしました。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とありますが、神が喜ばれることは私たちの信仰です(ヘブル11:6)。それを告白することを喜ばれます。しかし、その信仰さえ、上から与えられるものなのです。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(16:17)。開示ということです。神の側で御子の存在を証明されたのです。パスポートというのは政府が発行するのですが、御国の父である神が、イエスが「生ける神の御子キリスト」であることを聖霊によって、証明(照明)されたのです。ペテロはそれを主体的に認めたというわけです。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という問いは二千年の教会の歴史でも問われてきました。イエスは神なのか、人なのかと議論もされ(ニカイア公会議、カルケドン公会議)、「まことの神にして、まことの人」だという確認をしてきました。私たちもまた、生涯にわたって、神のご人格とのふれあいの中で、この問答をしていくのです。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。「あなたは、生ける神の御子キリストです」。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:15-16)
以前、家内がある家のお母さんに電話するのをそばで聞いていましたら、先方が電話口にでたところで、「あんただれ?」といきなり聞いているのにはびっくりしました。そういえば、その家は子供が四人姉妹、声が似てるし、話し方もそっくり、顔が見えないので、誰がでたかわからないというわけです。逆に、この社会で自分が誰であるかを証明するには手続きが必要です。銀行で通帳をつくるなど、日常、色々なことで、本人であることの確認のために、運転免許証や保険証などの提示が求められます。もし、それがないと、顔見知りでも、難しいものです。自分が何者かというのを証明するのはそう簡単なことではありません。
◇信仰告白する者になる事
神の御子が人ととなられ、説教をされ、奇跡を行ってきましたが、それが救い主として、人々に理解されることは難しいことでした。三年、主イエスと共に過ごした弟子たちでさえ、そうでした。五つのパンと二匹の魚で五千人の群衆を満腹させた奇跡を見、湖の上を歩き、風を支配する奇跡を経験した時に、弟子たちは主を畏れ、主を拝し、「確かにあなたは神の子です。」とようやく、告白したのです(14:33)。そうして、念を押すように、主イエスは七つのパンで四千人の群衆を満ちたらせる奇跡を弟子たちに見せました。これらは神の国が近づき、救い主が来られた「しるし」です。16章1-4節を見ますと、パリサイ派やサドカイ派の人たちにはまったく理解できていません。弟子たちの方は「どうして、あなたがたには、わからないのですか。」と言われ、主イエスに説教されると、彼らは「悟った」のです(16:9,11,12)。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:10)。私の母は物事を合理的に説明する傾向の人でした。神はいると思えばいるし、いないと思えばいないのだという具合にです。私が信仰をもって、嬉しかったので、母を教会にさそうと、そのように言ってたものの、息子が世話になっているので、あいさつに行くと言って、教会に来ました。気に入って、時々、来ていたのですが、キルボルンという宣教師が来られての伝道会で、信じる決心をしました。私は集会後、すぐ、ローマ10:10のみ言葉をもって祈りました。母の救いの時でした。共産主義に傾いていた母でしたから、「宗教はアヘンだという。しかし、アヘンも少量使えば、良薬となる。」という理屈をつけて、受洗しました。
ところで、弟子たちにとっても、主イエスにとっても、ここは大事な時でした。こう問答がなされます(16:15-16)。
イエス:「人々は人の子をだれだと言っていますか」。
弟子たち:「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエス:「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロ:「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
イエスを先生と仰ぎ、ついてきた弟子が、これまでよく判らなかったのですが、ここにきて、ようやく判ったのです。明確な信仰告白をしました。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とありますが、神が喜ばれることは私たちの信仰です(ヘブル11:6)。それを告白することを喜ばれます。しかし、その信仰さえ、上から与えられるものなのです。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(16:17)。開示ということです。神の側で御子の存在を証明されたのです。パスポートというのは政府が発行するのですが、御国の父である神が、イエスが「生ける神の御子キリスト」であることを聖霊によって、証明(照明)されたのです。ペテロはそれを主体的に認めたというわけです。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という問いは二千年の教会の歴史でも問われてきました。イエスは神なのか、人なのかと議論もされ(ニカイア公会議、カルケドン公会議)、「まことの神にして、まことの人」だという確認をしてきました。私たちもまた、生涯にわたって、神のご人格とのふれあいの中で、この問答をしていくのです。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。「あなたは、生ける神の御子キリストです」。