オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

私はだれか

2012-01-29 00:00:00 | 礼拝説教
2012年1月29日 主日礼拝(マタイ16:13-28)岡田邦夫


 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:15-16)

 以前、家内がある家のお母さんに電話するのをそばで聞いていましたら、先方が電話口にでたところで、「あんただれ?」といきなり聞いているのにはびっくりしました。そういえば、その家は子供が四人姉妹、声が似てるし、話し方もそっくり、顔が見えないので、誰がでたかわからないというわけです。逆に、この社会で自分が誰であるかを証明するには手続きが必要です。銀行で通帳をつくるなど、日常、色々なことで、本人であることの確認のために、運転免許証や保険証などの提示が求められます。もし、それがないと、顔見知りでも、難しいものです。自分が何者かというのを証明するのはそう簡単なことではありません。

◇信仰告白する者になる事
 神の御子が人ととなられ、説教をされ、奇跡を行ってきましたが、それが救い主として、人々に理解されることは難しいことでした。三年、主イエスと共に過ごした弟子たちでさえ、そうでした。五つのパンと二匹の魚で五千人の群衆を満腹させた奇跡を見、湖の上を歩き、風を支配する奇跡を経験した時に、弟子たちは主を畏れ、主を拝し、「確かにあなたは神の子です。」とようやく、告白したのです(14:33)。そうして、念を押すように、主イエスは七つのパンで四千人の群衆を満ちたらせる奇跡を弟子たちに見せました。これらは神の国が近づき、救い主が来られた「しるし」です。16章1-4節を見ますと、パリサイ派やサドカイ派の人たちにはまったく理解できていません。弟子たちの方は「どうして、あなたがたには、わからないのですか。」と言われ、主イエスに説教されると、彼らは「悟った」のです(16:9,11,12)。
 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:10)。私の母は物事を合理的に説明する傾向の人でした。神はいると思えばいるし、いないと思えばいないのだという具合にです。私が信仰をもって、嬉しかったので、母を教会にさそうと、そのように言ってたものの、息子が世話になっているので、あいさつに行くと言って、教会に来ました。気に入って、時々、来ていたのですが、キルボルンという宣教師が来られての伝道会で、信じる決心をしました。私は集会後、すぐ、ローマ10:10のみ言葉をもって祈りました。母の救いの時でした。共産主義に傾いていた母でしたから、「宗教はアヘンだという。しかし、アヘンも少量使えば、良薬となる。」という理屈をつけて、受洗しました。
 ところで、弟子たちにとっても、主イエスにとっても、ここは大事な時でした。こう問答がなされます(16:15-16)。
 イエス:「人々は人の子をだれだと言っていますか」。
 弟子たち:「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
 イエス:「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロ:「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
 イエスを先生と仰ぎ、ついてきた弟子が、これまでよく判らなかったのですが、ここにきて、ようやく判ったのです。明確な信仰告白をしました。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とありますが、神が喜ばれることは私たちの信仰です(ヘブル11:6)。それを告白することを喜ばれます。しかし、その信仰さえ、上から与えられるものなのです。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(16:17)。開示ということです。神の側で御子の存在を証明されたのです。パスポートというのは政府が発行するのですが、御国の父である神が、イエスが「生ける神の御子キリスト」であることを聖霊によって、証明(照明)されたのです。ペテロはそれを主体的に認めたというわけです。

 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という問いは二千年の教会の歴史でも問われてきました。イエスは神なのか、人なのかと議論もされ(ニカイア公会議、カルケドン公会議)、「まことの神にして、まことの人」だという確認をしてきました。私たちもまた、生涯にわたって、神のご人格とのふれあいの中で、この問答をしていくのです。
 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。「あなたは、生ける神の御子キリストです」。

水の上を歩くイエス

2012-01-22 00:00:00 | 礼拝説教
2012年1月22日 主日礼拝(マタイ14:22-33)岡田邦夫


イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14:27)

 私たちは音に囲まれた生活をしています。それが自然の音だったり、機械の音だったり、人の声だったり…。ある意味、それが生きているといことかも知れません。以前、佐渡の教会に招かれた時に、海岸沿いの旅館に泊めていただきました。寄せては帰す波の音、ザザーザブンという音が絶え間なく聞こえ、それ心地よいのです。心が安まるのです。むずかっている赤ちゃんに、母親の胎内の音を録音したものを聞かせると、泣き止んで穏やかになるという、その音とさざ波の音がもしかしたら似ていて、精神が安定するのではと私は想像したのです。

◇嵐の中に立つイエス
 しかし、いったん嵐になると、海は牙をむき、荒れ狂う波が押し寄せます。日々の生活にも起こり来ることがさざ波で、それがかえって心地よく、過ぎていくと思えば、思わぬ嵐にあい、どうしたらよいかとおじ惑うことがあります。弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸に行こうと舟を出し、何キロメートルか進んだものの、向かい風に悩まされて、時も夜中の三時ごろになっていました。そんな状況になってしまったのはこれまでの経緯がそうさせたのです。
 イエスへの歓心や人気が高まり、大勢の群衆が集まってきて、日が暮れようというのに、食べ物がない、あっても、パン五つと魚二匹だけ。しかし、イエスが祝福してパンを裂き、弟子たちが配ると、そこにいた五千人以上の人たちが満腹し、あまったパンくずが十二かごあったという奇跡が起こりました。しかし、イエスはこの群衆を普段の生活に戻すためでしょうか、夕方、解散させ、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、出発させ、ご自分は祈るために、ひとりで山に行かれました。そのような経緯で、弟子たちの舟は向かい風で波に悩まされ、しかも夜中。不安のただ中におりました。

 ところが、この時、考えられないような出来事に遭遇します。イエス・キリストが湖の上を歩いて彼らのところに来られたのです。困っている弟子たちを助けるにはこの方法しかないのですが、弟子たちは暗闇でイエスの姿をを見たのですから、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げたのです。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけたのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(14:27)。励ましの言葉、救いの言葉です。私たちは人生において、色んな問題が波のように押し寄せ、なかなか前に進めず、悩まされることがあります。その様な時に、イエスは私たちを一人にはさせません。人生の荒波に悩まされている私のところに来てくださり、優しく、力強い声をかけてくださるのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。

◇嵐の中に立つペテロ
 その言葉にペテロは大胆にもこう言います。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」。イエスが「来なさい。」と言われので、それを信じて、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行けたのです。イエスの言葉を信じ、イエスを見つめていた時は歩けたのですが、風(波)を見た途端に、こわくなり、沈みかけたのです。「主よ。助けてください。」と叫ぶと、すぐに手を伸ばして、彼をつかんで助け、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われて、二人で舟に乗り移ります。すると、風がやんで、凪になったので、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで言いました。「確かにあなたは神の子です」(14:33)。そうして、舟はゲネサレの地に着いたと聖書に記されています。
 人生のとても乗り切れないような荒波の上を奇跡的に乗り切らせてくださるのも、救い主イエス・キリストです。主のお言葉を信じ、主を見て歩き出すと、乗り切れるのです。ペテロは後に主の命に従って立ち上がり、宣教に踏み出しますと、迫害という荒波が押し寄せてきました。投獄されるという嵐にも、教会の熱心な祈りもあって、御使いにより獄が奇跡的に開けて、助けだされたこともありました。迫害と困難の荒波を渡って、世界に向けて、福音を広め、届けていったのです。
 イエスの奇跡は単に神の力を示すだけでなく、重要な意味がありました。昔、イスラエルの民が神によりエジプトの奴隷から解放されて、荒野の旅をしましたが、紅海を前にして、逃げ場のない切羽詰まった時に、その紅海の水を分け、渇いた所を渡らせてくださり、エジプト軍は水が戻って、全滅させられ、イスラエルの民は救われました。また、食物の乏しい荒野で神は天からの食物、マナをもってイスラエルを養われました。そのイスラエルを救い養われた神、その同じ神が地上に来られ、同じ事をされて、救い主であることを示されたのです。イエスが五千人の人にパンを与えた奇跡と、イエスが湖の上を歩かれ、ペテロも水の上を歩けた奇跡がそれです。それを弟子たちに示し、教えられたのです。イエスは第二のモーセ、それを越える救い主として、ご自身を弟子たちに示されたのです。
 私たちは地上の荒野、荒波を渡って、約束の地、向こう岸の、御国に行くのです。地上での荒波も、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけ、「来なさい。」と招き、私たちの人生の荒波を乗り越えさせてくださるのです。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われてしまいそうな私たちです。しかし、手を伸ばして、私の舟に乗り込んで、荒波も凪に変えてくださるのです。やがて、押し寄せる終末の大艱難時代の嵐にも、最後の審判の大嵐にも、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」とみ声をかけ、「来なさい。」と招き、手を伸ばして助けてくださるのです。復活され、召天された主が、十字架の釘跡のある手を伸ばして、引き上げ、抱えて、救いに導かれるのです。

 水野源三さんという方は1946年(昭和21年)9歳の時、赤痢のための高熱が原因で脳性小児麻痺になられ、手足を自由に動かすことも話すこともできなくなりました。見ることと聞くことは出来ましたが、意思表示の手段は瞬きをすることだけでした。12歳の頃、偶然訪問された牧師の置いていかれた聖書を読むようになり、毎日欠かさずに訪ねてくれた牧師の愛により、ラジオのキリスト教放送を聴かれ、また通信教育も受けられてイエスを信じるようにりました。病のため、瞬きしかできなくなるという人生の荒波に飲み込まれた水野さんに、イエス・キリストがお声をかけ、乗り込んでくださり、お救いくださいました。
 お母さんが「あいうえお」の表を指差し(後には、表ではなく口頭で)、その語に来た時に源三さんが目で合図するという方法で一つ一つの作品を作り、47歳で召天されるまで、心からあふれ出る言葉を多くの詩や短歌、俳句にしました。一つの詩を載せておきましょう。
はっきり見えてきた
 自分の力では動けない生きられないと
 気づいた瞬間に
 私をしっかり支えていてくださった
 キリストの愛の御腕が
 はっきり見えてきた

キリストにお会いしてから
一、戸をかたく しめきっていた
  部屋に入って来られた
  キリストにお会いしてから
  キリストにお会いしてから
二、その両手と 脇腹に
  きずあとが いたいたしい
  キリストにお会いしてから
  私の心が かわった
三、信じないものに ならずに
  信じなさいと言われた
  キリストにお会いしてから
  私の心が かわった
  お会いしてからー

 脳性小児麻痺という嵐にあい、人生、前には進めない、手も足も出ないという、絶望的な状況にあった少年に、主イエス・キリストが声をかけ、手を差し伸べ、荒波を乗り越えさせてくださったのです。心の中の嵐はイエス・キリストが彼の人生に乗り込んでくださることを通して、快いさざ波の凪になったのです。

人間をとる漁師

2012-01-15 00:00:00 | 礼拝説教
2012年1月15日 主日礼拝(マタイ4:18-22)岡田邦夫


イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)

 男性は女性に何秒か見つめられると、後ろめたいことがあるなしにかかわらず、責められているように感じてしまうという心理現象があるそうです。男性の心理と女性の心理の違いがそうさせるということです。しかし、赤ちゃんの透き通ってきれいな目で、じっと見られると、こっちが何か見透かされているような、何かごまかせないような気になってきたり、理由なしに心が和み、いやされるものです。主イエスが目について、こう言われています。「体の光は目である。あなたの目が澄んでいれば全身が明るい」(マタイ6:22共同訳)。主イエス・キリストの目は誰よりも澄んだ目をして、人々を見ておられたに違いありません。

◇人間を見る
 救い主の現れの先(さき)駆(が)けとして活動していた洗礼者(バプテスマ)ヨハネが捕らえられた時、イエスはガリラヤに退かれ、そこで「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言って宣教を開始しました。主イエスの活動には三つの柱がありました。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(4:23)。
 そのような中、ガリラヤ湖のほとりを歩いていたイエスが、湖で網を打っていた二人の漁師に出会います。こう記されています。「ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった」(4:18)。ご覧になったという原語エイドンの意味から察すると、イエスは単に彼らの姿が「目についた」だけでなく、二人の人間のすべてを「見抜かれ」、その人生を充分「知られ」、この後のこと、弟子となることを「認められ」、真実に「出会われた」のです。様々な状況に生きている私たちにも、イエス・キリストはそのように、私という人間のすべてを見抜かれ、その人生を充分知ってくださり、この後のこと、主の弟子となることを認められ、真実に出会ってくださって、私たちは救われたのです。
 主がご覧になったということは神の選びです。預言者サムエルが王となるべき人物を捜しにエッサイの家に導かれて行った時のこと、サムエルは長男エリアブを見て、確かに、主の前で油を注がれる者だと思ったのですが、そうではないと主のお声を聞きます。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サムエル16:7)。結局、八番目の末の子、羊の番をしていたダビデが主に選ばれ、油を注がれたのです。主イエスは漁師たちのうわべを見たのではなく、彼らの心を見たのです。私たちには説明のできない、私たちの考えを越えた、神の恵みの無条件の選びがあるのです。

◇人間を捕る
 そして、主イエス・キリストは彼らを弟子として召します。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(4:19)。魚を相手にする仕事から、人間を相手にする使命に導かれたのです。自分が生きていくために働いていたところで、他者を生かす働き人に召し出されたのです。私たちは自分の人生に、イエスがついて来てくださって、私の人生を良いものにしてくださるようにと願います。しかし、主は「わたしについて来なさい。」とはっきりと命じます。「天の御国が近づいた」と言われた神の国には、救い主イエスについていくしか、従っていくしか、入れないからです。東日本大震災の時に、高台に逃げろという声に従って、逃げた人たちは助かりました。
 イエスがサタンに「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と誘惑された時に、イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と答えられました。イエスの言葉、私たちを罪と死と滅びの中から救うために、十字架にかかり、犠牲になられたイエスの言葉に、その神の口から出る一つ一つのことばに、私たちが聞き従う時に、私たちは真に生き、永遠の命に生きるのです。イエスについていくのです。
 神の国の使命のために従っていくのです。弟子たちがそうしたように、すぐに網を捨てて従っていくのです。なおも召命は続きます。「イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った」と。この四人は主イエスの弟子となり、使徒となっていくのですが、今日、この召命の物語は、すべてのキリスト者の物語でもあると思います。牧師、伝道者として召され、神に仕えていく道と、信徒として召されて、神に仕えていく道とがあるかと私は思います。実際的に網を捨てて従うのと、精神的に網を捨てて従うとの違いはありますが、また、役割は違いますが、基本的には主に従うことにはかわりはありません。
 人間を捕るという大それたことは私たちにはできません。神にしかできません。イエスに従う者のみにできる光栄ある働きです。主イエス・キリストの復活後に、ペテロをはじめ弟子たち一同に聖霊が下った時、立ち上がって、イエス・キリストの福音を語り始め、悔い改めて、洗礼(バプテスマ)を受けた人たちが、3000人もいたのです。人間を捕る漁師たちにとって、まさに大漁の神の業が起こりました。それは数の奇跡ではなく、人間が福音に捕らえられて、生まれ変わっていくところに奇跡があるのです。私たちはその人間を捕る漁師に呼び出されているのです。個人的に従っていきましょう。また、ペテロとアンデレの二人がいっしょに従ったように、私たちはいっしょに主イエスに従ってまいりましょう。

 私がクリスチャンになった時、牧師にあこがれていたところがありました。洋画や小説に出てくる牧師のイメージがそうさせたのでしょうし、所属する教会の牧師の品性に魅力を感じていたからでしょう。しかし、牧師にはなりたくてなれるものではないことを無知な私にはまだ分かりませんでした。ある日、会社から帰る時のことでした。電車が急ブレーキをかけて、止まりました。アナウスもなく、中々発車もしない、乗客は左側の窓から、首を出している、何か緊張した雰囲気でした。私も顔を出して見ると、後の方から、車掌が車両の下をのぞきながら、こちらに近づいてきました。私たちのいる窓の下あたりに来た時に、「ここだ、ここだ」と言って、真っ赤にそまった遺体を引きずり出し、むしろをかけ、車掌室に戻っていき、電車はやっと、次の駅に向けて発車しました。車内の人たちが話していた話だと、労務者風の人が陸橋から飛び降りたらしいというのです。私は眠れぬ夜を過ごしました。「もし、誰かが福音を伝えていてら、このようにならなかっただろうに!」、そう思うと、涙の出るのを抑えきれませんでした。この時、自分は伝道者にならなければならないと使命を感じ始めました。教会で献身したいと証ししました。
 そのうち、会社の研究所が移転するという時に、将来性のある地方の部門に転属希望を出して、牧師のところに報告にいきました。ところが、あなたが献身するなら、地方に行かず、この教会で献身者訓練を受けなさいと言われて、それもそうだと思って、いっそ会社を辞めようと辞表を出してしまいました。また、報告にいくと、牧師になるには「召命」というものがなければ出来ないが、あなたにはあるのかと聞かれ、私は召命の何たるかも知らないで、自分の思いで、行動してしまったことに後悔しました。
 会社は辞めたは、召命もない、困り果て、家に帰ったのですが、とにかく祈るしかない、といってどう祈ったらいいかわからない、悶々として、わけのわからない祈りをしていました。一週間たった時に、内なる声が聞こえてきました。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。私はそれはすべてのクリスチャンへのみ言葉ではないですかと主イエスに申し上げると、あなたは伝道者になるのだと告げられたのです。私は伝道者として召されたのだ、そう確信した時に、暗雲がただよっていた心が一瞬で晴れわたったのです。牧師に報告に行くと、それが召命ですと証言してくれました。
 東京聖書学院に入学する前に、兄から、おまえは説得力がないから、牧師なるのはやめとけと言われました。兄の言うことは合っています。その通りだと思います。でも、「…にしてあげよう」と主イエスから約束されたのだから、主がそうしてくれると信じて踏み出しました。私のあとから、母がクリスチャンになっていたので、赤飯を炊いて、学院に送り出してくれました。それから、46年がたちましたが、自分でやれたことは一つもなく、主イエス・キリストがこのようなつたない器を通して、人を捕る伝道者の業をしてくださったと思うのです。

悪魔の誘惑、信仰の勝利

2012-01-08 00:00:00 | 礼拝説教
2012年1月8日 主日礼拝(マタイ4:1-11)岡田邦夫


 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)

 人気の少ない裏通りを歩いていると財布が落ちているのが目に入りました。拾って、警察に届けようと天使の声、しかし、誰も見ていないから、持って帰ろうと悪魔の声、心の中で葛藤します。悪魔の試みというとそんなイメージが一般的にあります。しかし、それ以上に、現実的で、目的を持った、救いに関わる試みがイエスにおいてなされたのです。

◇これまでの事…ふみなおし
 イエスは神の子として、宣教に踏み出すために、バプテスマのヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けられました。聖霊が臨み、救い主の任命式となったのです。その後、その使命を果たす準備として、試みられました。「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」のです(4:1)。モーセもシナイ山に昇り,四十日四十夜、断食をして、十戒を授かり、神と民の契約がなされました(出エジプト34:28、申命記9:9)。この同じ行為がイエス・キリストは第二のモーセとして、新しい民を導く救いの担い手となるためのものでした。
 また、荒野での四十日というのは、エジプトの奴隷から救い出された、イスラエルの民が四十年、荒野で神に試みられたのですが、心をかたくなにして、神の声に従えなかったという事と対比しています。かつて、荒野で食べ物がないと物質的欠乏をつぶやいたので、マナという糧が与えられる一方、神へのつぶやきのため、その人たちは約束の地に入れませんでした(民数記14:27-29)。しかし、試みる者が「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と誘惑しますが、イエス「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と申命記のみ言葉で答えて、勝利されました。そのように、主は私たちの犯した失敗をふみなおしてくださるために、神に従い、十字架への道を進まれ、勝利されたのです。
 また、民は荒野で欲望にかられ、主を試みました(詩篇106:14)。しかし、主は「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」と申命記6:16のみ言葉をもって答えられ、生涯を通して、私たちの失敗を踏み直しました。また、民は他国の栄華を見て、神ならぬもの、欲望の化身、偶像に捕らわれてしまいました。しかし、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と申命記6:13のみ言葉をもって答えられ、十字架の道を通して、私たちの失敗を踏み直しました。
 私たちは過去のあやまちをやり直す事はできませんが、イエス・キリストにおいて、その罪がきよめられ、踏み直していただき、私たちが御国に入れるように書き換えられるのです。私たちはそれを信じる信仰をもって答えるのです。イエスの御名によって歩んだ生涯としてです。そして、誘惑との戦いの中、要約すると、こう生きていくのが勝利の道です。
 ①神の言葉に生きる。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』
 ②神の言葉を利用しない。『あなたの神である主を試みてはならない。』
 ③神の言葉に仕える。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』

◇これからの事…ふみだし
 別な側面から、見てみましょう。ヘンリー・ナーウェン著「イエスの御名で」には、この荒野での試みと復活の主がペテロを牧者に召したところから、21世紀におけるリーダーシップについて、説教されていて、副題は(聖書的リーダーシップを求めて)です。彼はカトリック司祭ですが、ハーバード大学の教授として活躍していた方ですが、燃え尽きて、知的障害者のためのラルシュ共同体の司祭に転任になります。そこで、これまでの学問など通用せず、違う生き方をしなければならなくなったのです。そこで、霊的に、聖書的に目が開かれていきます。それを綴ったのがこの書です。目次だけ記載しておきましょう。
 (1)能力を示すことから、祈りへ
誘惑……自分の能力を示すこと
  問い……「あなたはわたしを愛するか」
  訓練……観想的な祈りの恵み
 (2)人気を求めることから、仕えることへ
誘惑……人の歓心を買うこと
  問い……「わたしの羊を飼いなさい」
  訓練……告白と赦しの回復
 (3)導くことから、導かれることへ
  誘惑……権力を求めること
  問い……「ほかの人があなたを連れていく」
  訓練……神学的思索への希望

 聖書的リーダーシップ、あるいは聖書的キリスト者の生き方はイエスがしもべとして生きたように、イエスと共にしもべとして生きることが最高の神のみ旨なのです。以下、「むすび」の部分を載せておきます(ヘンリー・ナーウェン著「〈聖書的リーダーシップを求めて〉イエスの御名で」p95-98)。

 ハーバードからラルシュに移ったことで、私はクリスチャンのリーダーシップについて、それまで気づかなかった新しい見方を与えられました。それは私の考えが、自分の能力を示したい、人気を得たい、権力を持ちたいという欲求に、いかに深く影響されていたか、ということです。あまりに私は、能力を示すこと、有名になること、強い権力を手に入れることを、効果的な働きをするために必要だと見なしていました。しかし本当のところ、これらの欲求は神の召しではなく、誘惑です。イエスは「あなたはわたしを愛するか」と問われました。そしてイエスは、私たちを羊飼いとして遣わし、私たちが少しずつ自分の手を伸ばして、自分からはむしろ行きたくない所に行かねばならない人生を約束されました。
 自分の能力を示そうとする関心から祈りの生活へ、人気を得ようとする気遣いから、相互になされる共同の働きへ、権力を盾にしたリーダーシップから、神は私たちをどこへ導いておられるかを批判的に識別するリーダーシップへと、私たちが移行することをイエスは求めておられます。
 ラルシュの人々は、こうした新しい道を私に教えてくれています。私は学ぶに遅い者です。かつてきわめて有効であった古いパターンを断念するのは、生易しいことではありませんでした。しかし、次世紀のクリスチャン・リーダシップについて考えるたびに私が確信することは、私がこれまでほとんど学ぼうとしてこなかった人々から道を教えられる、ということです。
 私が願い、祈ることは、この新しい生活で私が学びつつあることが、私にとって価値があるだけではなく、これからのあるべきクリスチャン指導者像をとらえようとしている皆さんにも助けとなってくれることです。
 私が申し上げたてきたことは、もちろん何も目新しいことではありません。しかし、私の願いであり、祈りとするところは、もっとも古く、もっとも伝統的ですらあるこうしたクリスチャン・リーダーシップに対するビジョンが、これからの時代においても実現が待ち望まれているということを、わかっていただきたいということです。
 私は、皆さんの心にあるイメージを残して、ここを去りたいと思います。それは、手を伸ばし、あえて下降する生涯を選び取る指導者のイメージです。祈る指導者、傷つきやすい弱さを持った指導者、主に信頼を置く指導者、と言うこともできます。来るべき世紀を想うとき、このイメージが、希望と勇気と確信をともなって皆さんの心を満たしてくれるようにと、切に願うものです。

新しい人を着る

2012-01-01 00:00:00 | 礼拝説教
2012年1月1日 元旦礼拝(コロサイ3:1-11)岡田邦夫


 「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ人への手紙3:9b-10)

 新年おめでとうございます。あるブログに「年をとりたくないのに、新年が来るのを待ちわびて、新年をお祝いするというのも矛盾したことだなと、思いつつ。」いうのがありました。月日の流れるのは早く、私自身の定年が、もうすぐそこまで来ていると思わされ、残された時をどう過ごしたらいいのかを、この年末考えていました。頭に浮かんでくることは「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべき」ということで、神は新しいぶどう酒という恵みを用意しておられるだろうから、それに対応して、こちらは新しい革袋という入れ物を用意しなければならないと考えていました。そうして、心に響いてきたのはコロサイ人への手紙3章10節の「新しい人は~新しくされ」のみ言葉のフレーズでした。そうなると、新年おめでとうではなく、新人おめでとう、ということになりそうです。

◇新しい事
 日本人にとっての正月、古いしきたりに従うことで、原点に帰って、出発しようという精神的な営みがあるわけですが、そこには古いものが良いという要請があります。同様に、聖書においても、祭司というのは古いものに権威があり、古いものがよいとして、それを守ることに、その務めがあります。ところが、知者は、今を生きろと言います。「見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも/その後の世にはだれも心に留めはしまい。」「わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。…神は人間が神を畏れ敬うように定められた」(伝道1:10ー11、3:14の共同訳)。
 しかし、預言者は「新しい」ことを熱く語ります。特に三大預言書がそうです。イザヤは、新しい事、新しい歌、新しい天と新しい地、エレミヤは新しい契約、エゼキエルは新しい霊という言葉で、終りの時代を明確に預言しています。その預言者たちが待ち焦がれていた新しい時代が、イエス・キリスト(救い主(メシヤ))が地上に来られた時にやって来たのです。主が十字架にかかられ、復活されて、「新しい事」が起こり、「新しい契約」が結ばれ、「新しい霊」が注がれる時代が訪れたのです。
 その救いをパウロはコロサイ人への手紙で、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るという斬新な表現をします。服でしたら、流行があり、古い服を脱ぎ捨て、新しい服を着るということになりますが、新しい時代に新しく生まれ変わることを服の脱ぎ着のように明確なことなのだと告げます。肉体というものは古い細胞が壊れ、新しい細胞ができて、新しくされていくという命のメカニズムがあります。この聖書の3章9-10節ですと、命の脱ぎ着が救いなのだというのです。2章12節では古い人が死んで、新しい人が生きるというの生き死にが救いだと言っています。驚きです。重ねてみましょう。
 キリスト者となった「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」(3:9b-10)。
 「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(2:12)。

◇古い人間
 ある人が伝道メッセージでよく言っておられました。「聖書は問題の人間を扱っているのではない、人間の問題を扱っているのだ」と。古い人というのが問題なのです。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました」(3:5-7)。古い人の根性は「むさぼり」なのだと言います。今の社会というものがこのむさぼりに上に成り立っているように思われます。
 昨年の年頭で、再建のメッセージをいたしました。すると、3月11日、東日本大震災が起こり、私たちは日本の再建のための祈りに導かれました。この時、福島の原子力発電所から放射能漏れが起こり、二重の打撃を受けました。そして、国民は原子力には大変な問題があることを知らされました。そもそも、発電所で使用した高濃度の放射性廃棄物、原爆の何倍もあるような危険な放射性物質をどう処理するかというと、それをガラスなどで固めて、数十年、地上で冷却しておいて、その後、500メートルの地中に埋め、その放射能が消えるまで、少なくとも一万年かかるというのです。今、電気を使いたいからと、後世の人たちにとんでもない有害な遺産を残すというのは「私たち」現代人の中にある「むさぼり」が元凶なのです。単に社会批判をするのではなく、自己批判として述べているのです。社会の仕組みを変えなければなりませんが、人間そのものが変えられなければなりません。
 パウロはこの「むさぼり」という罪について、とことん取り組みました。ローマ人への手紙7章に記されています。「律法が、『むさぼってはならない。』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました」。むさぼりを止めようと思うのだがむさぼってしまうという罪が内に住み着いていて、罪の原理にがんじがらめに縛られている、「 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆くのです(7:7、8、24)。それを越えて、救いを見出します。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(8:1ー2)。私の中の古い人がイエスと共に死に、新しい人がキリストとともによみがえったのだと、聖霊により、信仰により、確信したのです。私たちも「すでに」十字架において古い人を脱ぎ、復活において新しい人を着たのだと信じましょう。神がそうしてくださったのだと受け入れましょう。聖霊がそううなづかせてくれるのです。何とも、これは大変な救いです。「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」との宣言がなされているのです。

◇新しい人間
 新しい人とされたものの素晴らしさが続いてメッセージされています。「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(3:10)。神のかたちに似て造られた最初の人間は、これを食べたら神のようになるとサタンに誘惑されて、禁断の実を食べ、罪が人類に入り込み、神のかたちが壊れてました。しかし、イエス・キリストに救われた「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る」というのです。人間が古くなっていくのではなく、新しくなっていくのです。悔い改めては信じ、古い人を脱いでは新しい人を着るということを続けて行くのです。
 新しい人間には新しい生き方があります。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(3:12)。「互いに赦し合いなさい。」「これらすべての上に、愛を着けなさい。」「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。」「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」「ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」ときよく美しい生き方が示されています。子供が育つ時に、良いにつけ、悪いにつけ、親が同じ事をくり返し、くり返し言い続けていますと、子供は言われたとおりになっていくようです。造り主、父なる神にこれらの良い言葉が投げかけられ続けていくと、そのようになっていく、そのように新しくされていくのです。
 「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(3:10)。