オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

生きる道を照らす光

2017-03-26 00:00:00 | 礼拝説教
2017年3月26日 伝道礼拝(詩篇37:3~6)岡田邦夫


 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」詩篇37:5-6

 先週、あるホームセンターに行きましたら、店内放送で、「一年生になったら、ともだち100人できるかな」の童謡が流れていました。自分は該当しないのにと抵抗を感じつつ、この年になっても、初心を忘れず、一年生になったつもりで、人生を考えようと思わされました。
昨年のシャローム・パーティ(入園、入学、進級、卒業、就職のお祝い会)の時の礼拝で、私の青年時代に気に入った言葉を贈りたいと話しました。武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の言葉で、「主にあって」をつけたいとも言いました。「この道より我を生かす道はなし、この道を行く」。この道とは道を求めて歩きつづけるという道で、自分が歩きはじめたその日から、胸を張って生きていけばよいのだというような意味だと思います。

◇したい性か主体性か
 さらにお贈りしたい言葉は詩篇37篇です。この詩篇はアルファベット詩篇です。2節ごとの最初の文字がヘブライ語のアルファベット順になっています。英語でいうと、1節の頭がA、3節の頭がBと続き、最後に39節の頭がZという具合です。正しい道を歩めば祝され、悪しき道に進めば滅びるという、老いた教師が語る教訓の詩です。その中の「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」をとりあげましょう。
 「あなたの道を」とあります。道は皆同じではなく、あなたの道、私の道、生き方があります。それについて、渡辺和子さんは「目に見えないけれど大切なもの」の著書でしゃれた言い方をしています。「したい性と主体性」。したい性はひらがな。あれをしたい、これをしたいという生きる欲は大事です。と言って、悪いことをしていいわけはないし、自分にとっても、周りにとっても我慢が必要なことがあります。主体性を身に着けることが必要です。主体性をもって生きる人になるには、「“今、何がしたいか”と同時に、“今、何をしなければならいか”を、併せて考えられる人になることが大切だ」。
 私は就職するときは企業の研究室という、すきな道を選びました。仕事は楽しいものの、言うに言えない何かが足りないと感じていました。そんな私を友人が前にも行ったことのある教会というところに誘ってくれた時に、これだ、ここに自分が生きていく道、生き方があると感じ、神を信じました。イエス・キリストが言われた「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」の、その道を見出させていただいたのです(ヨハネ14:6)。
 それから、牧師の生き方がいいなあとあこがれるようになりました。また、ある日の帰宅途中の電車に飛び込み自殺があり、自分が牧師になる迫りを感じました。時が流れ、勤めていた研究所が移転することになった時、後先考えずに、今こそ牧師になろうと思い、辞表を出してしまいました。意気揚々と牧師に報告すると、「岡田さん、牧師になる召命がないとなれませんよ。み言葉をいただかないと…」と言われました。会社は辞めて、召命もない、ショックでした。祈るしかない。家で悶々として、祈りの中にいました。一週間したときに、心の底から「わたしにつて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」とみ言葉が響いてきました(マタイ4:19)。これが召命でした。そうして、今日、皆さんの前に立っているのです。
 したいことと、しなければならないことのかみ合わせが重要ですが、神が導かれる道に進むこと、わが人生に神が合わせてくだること、「神合わせ」が最重要なのです。それで私たちは「あなたの道を主にゆだねよ」なのです。

◇主体性か主導性か
 もう一度、詩篇を見ましょう。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」。神にゆだねるということは自分の主体性が無くなるのでしょうか。逆です。ほんとうの主体性を持つことなのです。これを主導性と言いましょう。一つの例をもって話します。
 視覚に障がいのある方がマラソンで走ることができます。見える人が一緒に伴走するからです。直接、手をつながず、1m以下のガイドロープを手でつないで走ります。もちろん、伴走者が引っ張ってはいけません。大切なことは視覚障がい者のランナーが安心して走れるように安全を確保し、周りで何が起きているか状況を説明します。またフォームや走路、ペース、タイムなどを管理もします。ようするに信頼関係が大事なのです。
 神は私たちの人生マラソンの伴走者なのです。
 創世記に出てくる話です。イサクには双子の息子、エサウとヤコブがいました。自分はもうすぐ死ぬとわかった父のイサクは、神の祝福を長男エサウに渡そうとした時に、たくらみがあって、次男のヤコブが横取りしてしまいました。兄が怒って、弟を殺そうとしていたので、父のすすめで、父のラバンの家に向かって旅立ちます。その旅の途中、野宿していた時、天使が夢の中に現れ、彼を祝福します。その中に次の神の約束がありました。
「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28:15)。
 私たちは主体性をもってわが人生をわが人生として走っていきます。しかし、私たちの人生、ほんとうは先のことが見えません。そこで、よく見えて、わかっておられるイエス・キリストという伴走者が強引に引っ張るのでもなく、ブレーキをかけるのでもなく、私たちの歩調に合わせて、いっしょに走ってくれるのです。私たちが安心して人生を走れるように安全を確保し、周りで何が起きているか状況を教えてくれます。また人生の走り方やペース、コースやゴールを教え、いっしょに走って導いてくれます。もちろん、ゴールは天国です。永遠の命です。このようなありかたで、私たちはその神、イエス・キリストを信頼していくのがもっとも大事なのです。一つの歌をのせておきましょう。

「恐れないで - Don't Be Afraid -」作詞・作曲:前田智晶
大きな川の中を渡っていくときも
流れがあなたを押し流すことはない。
死の影の谷を一人歩いていくときも
わたしはいつでもあなたと共にいる。
恐れないで わたしはあなたの前を行く
ついてきなさい 休ませてあげよう。
恐れないで わたしはあなたの名を呼ぶ
ついてきなさい すべてをこの手に委ねて。

燃え盛る炎の中を 進んで行くときも
炎があなたに燃えつくことはない。
死の影の谷を一人歩いていくときも
わたしはいつでもあなたと共にいる。
恐れないで わたしはあなたと共に行く
闇の中でも この手を差し伸べよう。
恐れないで わたしはあなたと共にいる
傷つき倒れる あなたを背負っていこう。
恐れないで わたしはあなたの前を行く
ついてきなさい 休ませてあげよう。
恐れないで わたしはあなたの名を呼ぶ
ついてきなさい すべてをこの手に委ねて。
わたしは命の言葉

力は弱さのうちに現れる

2017-03-19 00:00:00 | 礼拝説教
2017年3月19日 主日礼拝(2コリント12:1~10)岡田邦夫

 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」2コリント12:9

 あるレストランで見た場面である。ある夫婦が小さな子どもを連れて食事に来ている。大きな泣き声が聞こえて来る。その三歳ほどの男の椅子の足元に破り捨てられた紙切れが散らばっている。母親が「さあ、紙を拾いなさい」と繰り返している。そして、ますます子どもは大きな声をあげて泣く。父親は立っているだけ。困り果てるのはただ母親。子どもは分かっている、弱い者の涙は武器だ。周りで大勢の人が見ている中では、家のようには叱れない。長引けば母親は困り果てる。そこで母親は子どもをしつけることが出来ない、自分の方が力はあるのに、自分が弱いことを証明することになる。自尊心が傷つく。結局この戦いはどうなったかと言うと、母親が紙を拾い上げて、息子をテラスに引きずり出した。けれども、子どもには親に抵抗するだけの力はないけれども、ここで勝利者になった。なぜなら、紙を拾ったのは母親だから。
◇強い人、弱い人…心理
 スイスの心理学者ポール・トゥルニエの本「強い人と弱い人」の冒頭に出てくる話です(私が要約)。彼は人間には強い反応をする人と弱い反応をする人の二つの型があると言います。強い人は大げさに他人を非難したりするなど、言葉や態度が強く、弱い人はそれに対して言い返せず、黙ってしまうなど、言葉や態度が弱いという現象をよく見かけます。しかし、弱いといっても、我慢強かったり、強情だったりします。ですから、両者とも、弱いことは良くない、強くありたいという自我が現れるのです。しかし、人の本質は強い人も弱い人も不安や恐れをかかえる「弱い人」であって、強い人は外に向かって強く出て、真の弱さを隠すのであり、弱い人は内に向かっての強い守りで、真の弱さを見せないのです。
 トゥルニエは勧めます。精神が自由になるには強い人も弱い人もどちらも真の弱さを認めることだと言います。そして、本当に強いのはこれだと聖書の言葉で締めくくります。「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(12:9-10)。

◇強い神、弱い人…真理
 ◎パラダイス(楽園)
 本当の強さは自分の弱さを認識し、神の強さによって強くなることなのですが、もう少し話を先に進めたいと思います。パウロは強い人でした。今風にいうなら、ガマリエル大学を卒業し、律法(聖書)に精通する神学者、それを厳格に守るパリサイ派(道徳家)、ローマの市民権を持つ国際派、ユダヤ教徒のエリート青年でした。その彼が復活のキリストの顕現にふれ、回心し、召命を受けてキリスト教徒となり、異邦人宣教のための「使徒」となりました。ユダヤ教徒の時も、キリスト教徒になってからも、宗教家として最前線を走っている「強い人」でした。「私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです」(12:12)。
 そして、誇るべき神秘経験を持っていました。「主の幻と啓示」です(12:1-7)。ひとりの人とは自分のことです。14年前、ルステラで石打にされた時、臨死体験をしたかどうかはわかりませんが(使徒14:9)、とにかく、第三の天、すなわち、パラダイス(楽園の意味)に引き上げられたというのです。口に出すことのできないことばを聞いたというのですから、驚きです。その啓示はあまりにもすばらしいものでした。宗教家が到達したい頂点の神秘経験です。限られた人にしか遭遇できない特殊な経験です。実に誇るべきものでした。

◎パラドックス(逆説)
 しかし、「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」(12:7)。肉体に一つのとげとは片頭痛か、眼病か、てんかんか、マラリヤか、何かわかりませんが、周期的に起こってくる肉体の苦痛だったようです。それは神がサタンの働きを許可したのでしょう。「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」(12:8)。ここで大変な葛藤があったでしょう。使徒として、奇蹟と不思議と力あるわざを行っていたのに、自分のこの肉体の苦痛は祈ってもいやされない。宣教の妨げになるからこれを取り除いてほしいと理屈に合った祈りをしているのに、祈りが聞かれない。肉体のとげ、これさえなければ言うことないのにと祈るのに、空を打つようでした。
 しかし、答えが主から来ました。パラドックス、逆説の答え、主の御声でした。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(12:9)。魂の十分体験をしたのです。水は低いところに低いところに流れるのです。霊的葛藤の中で、魂が低くされたところ、そこに流れてきたのです。恵みは高いところではなく、低いところにあったのです。ダマスコの途上で目からうろこの経験をしましたが、ここで更なる目からうろこの経験でした。しかも、信じる者はだれでもこの恵みに与れるということです。世界中のどの時代のクリスチャンもこの恵みに浴せるのです。「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言えるのです(12:9)。

◎パラクレシース(慰め、励まし)
 この第2コリントの手紙の書きだしに「慈愛の父、慰めの神…神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます…」です(1:3-4抜粋)。この慰めが原語でパラクレシース。傍らで呼ぶという意味です。主は上から傍観してはいないのです。人生の苦しみのただ中にある私のところに来られ、傍らで優しく、力強い言葉を投げかけてくれるのです。第3の天にまで引き上げられたパウロの神秘経験は特別ですが、黙想のうちに私たちクリスチャンが霊的に引き上げられることを主は願っておられるでしょう。「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(1テモテ4:7・文語訳「自ら敬虔を修行せよ」)とありますから。敬虔の修養のため、以下が参考になります。
 中世のカトリックで始まり、今日も行われている「霊的な読書」という4つステップをふむ黙想法があります。まず、静まりの時間を持つ中で、1.読む(聖書の選んだ箇所を読む)、2.黙想する(読んだところから、瞑想していく)、3.祈る(黙想したことから祈りへと進む)、4.観想する(言葉を突き抜け、臨在のイエスと交わる)。
 宗教改革者ルターはカトリック教会が重んじたこの「観想」を「試練」と置き換えました。静的な生活から動的な生活として信仰生活を捕え、そこでこそ、み言葉が生きて働き、勝利することを強調しました。パウロは肉体のとげの苦しみという試練の中でこそ、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」とのみ言葉をいただき、慰められ、神の力が与えられ、神の臨在にふれました。肉体のとげはそのままですが、魂は勝利でした。祈りが聞かれたという恵みにまさる、祈りが聞かれないという答えがあるのです。やせ我慢ではないのです。「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と正直に言えるものなのです。
瞬きの詩人、水野源三さんの詩を載せましょう。
「感覚」
脳性マヒで 自由を失った
私の体にも 感覚は残っている
春の暖かさも
夏の暑さも
秋の爽やかさも
冬の寒さも 感じる
神様の 限りない恵みを 強く強く感じる


キリストの愛迫れり

2017-03-12 00:00:00 | 礼拝説教
2017年3月12日 主日礼拝(2コリント5:14~19)岡田邦夫

 「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」。「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」。2コリント5:14(新改訳、口語訳、共同訳)

 こんな自己啓発書を読みました。著者は一流企業に就職したのですが、病気をしたため、同期の人からは出遅れてしまい、考え付いたのが、人生25ヵ年計画でした。人との競争ではなく、仕事や勉強や家庭など、自分の人生計画を立て、一歩一歩確実に、途中、計画の修正しながら歩んでいくというものです。私もどこか、でおくれたところがあったので参考にしたことがあります。

◇でおくれたパウロ…
 パウロという人は使徒としては出遅れた人です。最初に「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから」とあいさつし(1:1)、さらに、その資格は神からのもので、推薦状はあなたがただ(3:2、3:5)、土の器としてこの務めに任じられている(4:1、7)、そして、和解の使者として説得している(5:11、20)と、使徒であることを主張しなければならなかったのです。
というのはイエスが使徒としたのは12弟子でしたが、パウロは生前のイエスには出会っていなかったし、弟子ではなかったので、使徒としては認められないはずでした。ところが、教会ができてから、しばらくして、キリスト教徒を迫害していたパウロに、復活のキリストが現れます。彼は回心し、救われ、同時に異邦人使徒(宣教師)に召されます。使徒としては「月足らずで生まれた者」(未熟児)だ、使徒の中では最も小さい者だと自分で告白しています(1コリント15:8-9)。12使徒が出そろっていて、使徒になるはずのなかった者があとから使徒に選ばれたのです。
一足遅れた人間だから、パウロは大胆に恵みのメッセージを語るのです。「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」(1コリント1: 28-29口語訳)。無きに等しい者はパウロ自身なのです。その無きに等しい者を世界宣教のためにあえて選ばれたのだと熱く語っているように思えます。その辺のところは次にお話ししましょう。

◇しんがりのパウロ…
 要するに、パウロはキリスト教の確立のために「しんがり」を務めたのです。しんがりというのは合戦で劣勢に立たされ退却を余儀なくされたときに、漢字で「殿」と書き、後退する部隊の中で最後尾を担当し、追ってくる敵を迎え撃つ部隊のことです。後備え(あとぞなえ)、殿軍(でんぐん)ともいいます。いちばん難しい役割です。敵をしっかり迎え撃ちながら、味方の犠牲を最小限にし、自分も生きて帰らなければなりません。勇気と共に大変な知略を必要としていますから、優秀な人物でなければなりません。今でいうなら、登山のパーティ、最後尾を務める人がしんがりで、経験と判断力と体力に最も秀でた人がその任につきます。しんがりが一番手。先頭は二番手です。ペテロ、ヨハネ、ヤコブは先立ちとなり、パウロは最後尾をゆくしんがりとして召されたのです。
 旧約の捕囚からの解放の預言にこうあります(イザヤ52:12)。「あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」。そのような神の計らいでパウロは召されたのです。
 と言って、ダマスコの途上で復活の主に出会って、神の召しをいただいて、すぐ世界に出ていったかというとそうではありません(使徒9章)。すぐ身近なところから伝道を始めたのですが、これまでキリスト教反対者が寝返ったのですから、ユダヤ人たちはパウロを亡き者にしようと殺害計画を立て、いたるところで見張っているのです。そこで、弟子たちに助けられて、夜中、ダマスコを抜け出し、エルサレム教会に行きます。バルナバのとりなしで、弟子の仲間に加えられます。その間に弟子たちから付近の何であるかを吸収します。
 それだけではありません。アラビヤに行っての3年の沈黙期間がありました。イエスの使徒たちから受けた「イエス・キリストの福音」とは何なのか、聖書(旧約)をあらためて学びながら、世界に広げていくための啓示を神から受けるのです。しばしば、「奥義」というのが出てきますが、それなのです。それは直弟子たちから受けた福音を豊かにするもので、決して、違うものではありません。出遅れたことにも意味のあることです。キリスト教を完成させる「しんがり」を担うためでした。
 ですから、パウロは一所懸命でした。「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです」(5:13)。熱心なあまり、パウロは気が狂っている言われることもあったようです。熱心のあまり、世界宣教に出ていきましたし、手紙を書きました。聖書に残されているだけでも13通、聖書の半分です。それこそ、しんがりのなせる業です。
なぜでしょうか。「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(5:14a)。口語訳「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」。共同訳は「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」。迫害者だったのに救われ、仲間に加えられ、しかも、使徒にまでしていただいた。キリストの愛がそうさせたとしか言いようがありません。実に恵みです。自分にさえそうなのだから、あなた方もそうですよといっているのでしょう。キリストの愛が私たちを取り囲み、愛がわたしたちに強く迫っていて、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているのです。
その愛を受けた者の使命、命の使い道はこうです。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(5:15)。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました」(5:17-18)。
 キリストのうちにあることです。そうすると私のために十字架で命をささげ、神に背くような罪を贖い、赦していただき、神の子にしていただいたことをますます知るのです。その愛を聖霊によって感じるのです。わかるのです。するとこの方のために生きようという思いが与えられるのです。それが新しく造られることです。出遅れたパウロにも恵みがあり、使命があったのです。私たちも出遅れても大丈夫、パウロがそういうのですから。牧師も落ち込むことがあります。よく考えると、自分中心にしか考えていないことに気付くとかえって楽になります。私はマザーテレサの言葉に励まされました。
「主よ、私をお使いください。主よ、今日一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日、私のこの手をお使いください」。そして、続きます。手のところが足、声、心と返られて、祈りは続きます。最後に、「主よ、今日一日、人は人であるという理由だけで、どんな人でも愛するために、私の心をお望みでしたら、今日、私のこの心をお貸しいたします」。主は何か一つでも主のお役に立てばと思う心を求めておられるのだなあと思うと心はなごむのです。他者のために行きたいと思うと逆にキリストの愛に取り囲まれていることを知るからでしょう。また、このようなテレサの短い言葉もあります。
 「我われは人生で偉大なことを成し遂げることはできないが、偉大な愛で些細なことを成し遂げることはできる」。
 私たちをつき動かすのは偉大な愛です。出遅れた者がその勤めを成し遂げられるのも、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」。「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」。

この宝を土の器の中に

2017-03-05 00:00:00 | 礼拝説教
2017年3月5日 主日礼拝(2コリント4:7~11)岡田邦夫


 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」2コリント4:7

 私の若い日、柴又教会のクリスマス礼拝の時、受洗しました。その夜の祝会の出し物で青年会の寸劇「美しの門」がありました。足の不自由な物乞いの役の人が上野動物園の飼育員で仕事が入って来られなくなったので、急きょ、私がその役をやることになりました。子供のころ、上野公園を歩くと戦地から帰還しけれど、手や足を失ったり、失明したりして、働き口がない傷痍(い)軍人の人たちが道の両側で物乞いをしていました。今では考えられない光景でした。それを思い出して、思い切りあわれに演じ、最後はナザレのイエスの名によって歩きなさいと言われて歩き出すという場面も、自分の受洗した喜びを思い入れて、飛び跳ねました。おとなしめな青年が思い切りやったので、その意外性に集まっていた方々は大爆笑、大いに受けました。私の人生でこのようなことは後にも先にもありませんでした。

◇脇役あっての主役…「土器性」
役者は役を演じる者ですが、牧師や神父のことを、教えを伝える役目の者と書いて、教役者(きょうえきしゃ)ということがあります。その教役者の代表が12使徒と使徒パウロです。使徒は神から出た教えを伝える「神の使い」といってよいでしょう。ですから、「私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」と言うのです(4:1-2)。使徒としての役割を担い、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです」(4:5)。言い換えれば、パウロはあくまでも主役ではなく、脇役なのだというのです。名脇役というのは自分の個性を発揮しながら、主役の演技をいっそう際立たせるものです。神のドラマの主役はイエス・キリスト、私たちは脇役です。イエス・キリストのせりふ、立ち居振る舞い、臨場感を引き立たせるのです。脇役といっても、その他大勢ではありません。それぞれの持ち味を生かして、神のドラマを引き立たせるのです。
 主役と脇役、別な言い方をすれば、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(4:7)。「宝」は神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光、キリストの御顔にある神の栄光です。何にもまさるさん然と輝く宝ものです。パウロも私たちもその宝を入れている土の器、素焼きの土器です。
三田開拓当初、必要だろうと色々な器をいただきました。中にはどこかのお店で使っていたもので、使えないものもありましたが、重宝して使っている器もあります。神は使い勝手がいいと、あなたという器を選んで、神の宝を入れておられるだと思います。選びの土の器なのです。土の器だと謙虚な自覚を持つとともに、福音の宝を入れているという誇りを持ちましょう。
三浦綾子著「この土の器をも」は綾子さんが光世さんと結婚し、「氷点」が新聞の懸賞小説に入選するまでのことが書かれています。その最後のページに、そのタイトルの由来が載っています。その氷点が一位に入選したという知らせが入った日の夕方、光世さんは綾子さんにこう話しました。「綾子、神は、わたしたちが偉いから使ってくださるのではないのだよ。聖書にあるとおり、吾々は土から作られた、土の器にすぎない。この土の器をも、神が用いようとし給う時は、必ず用いてくださる。自分が土の器であることを、今後決して忘れないように」。

◇主役あっての脇役…「至宝性」
 「宝」はキリストの御顔にある神の栄光を知る知識であるとともに、神のものである「測り知れない力」です。全知全能の神からくる知識と力です。イエスをよみがえらせた神から来る復活の力です。パウロが経験したことから、こう大胆に告げます。その宝があるので、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(4:8-9)。さらに、イエスが死んでも復活したように、パウロも死ぬような苦しみの中で、なおイエスのいのちによって生かされていると信仰の実体験を語ります。
 「宝」は永遠の命です。永遠への可能性があるので、患難がきても「私たちは勇気を失いません」。苦難で「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされて」いくのです(4:16)。私たちが重い苦しみと見えても、永遠の命をいただいているので、ほんとうは軽い患難なのです。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(4:17)。神は軽い患難に引き換えて重い永遠の栄光をもたらしてくれるのです。永遠の命の宝は見えないからこそ無限の価値があるのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(4:18)。

 「瞬きの詩人」と言われた水野源三さんの詩をご紹介しましょう。彼は9歳の時に赤痢の高熱によって重度の脳性麻痺を起こし、一切の自由を奪われて話すこともできなくなりました。そこで母親が五十音を書いた文字板を指で示し、彼の唯一残った瞬きをとおして意思疎通を図っていました。12歳の頃から聖書を読み始め、毎日欠かさずに訪ねてくれた牧師の愛によりクリスチャンになりました。今申し上げた方法で透き通るような詩を作りました。その一つが「生きる」です。
神様の 大きな御手の中で
かたつむりは かたつむりらしく歩み
蛍草は 蛍草らしく咲き
雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
神様の 大きな御手の中で
私は 私らしく 生きる
体を動かすことも、話すともできない、しかし、瞬きができる、それが持ち味、それで詩を作る、それで十分、それが「神様の大きな御手の中で、私は私らしく生きる」ということでした。最初に出した詩集のタイトルが「わが恵み汝に足れり」で、彼の心からの思いでした。まさに「この宝(恵み)を、土の器の中に入れている」でした。
 「宝」は神の御霊と言えますから、やがての時、私たち、土の器そのものが変えられて、栄光の宝になるのです。神の歴史の舞台の最終幕では、私たちはもはや脇役ではなく、みな、主役になるのです。聖書は大胆にもこう告げています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」(3:18)。主と同じかたちに姿を変えられて行くのです。