2017年3月26日 伝道礼拝(詩篇37:3~6)岡田邦夫
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」詩篇37:5-6
先週、あるホームセンターに行きましたら、店内放送で、「一年生になったら、ともだち100人できるかな」の童謡が流れていました。自分は該当しないのにと抵抗を感じつつ、この年になっても、初心を忘れず、一年生になったつもりで、人生を考えようと思わされました。
昨年のシャローム・パーティ(入園、入学、進級、卒業、就職のお祝い会)の時の礼拝で、私の青年時代に気に入った言葉を贈りたいと話しました。武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の言葉で、「主にあって」をつけたいとも言いました。「この道より我を生かす道はなし、この道を行く」。この道とは道を求めて歩きつづけるという道で、自分が歩きはじめたその日から、胸を張って生きていけばよいのだというような意味だと思います。
◇したい性か主体性か
さらにお贈りしたい言葉は詩篇37篇です。この詩篇はアルファベット詩篇です。2節ごとの最初の文字がヘブライ語のアルファベット順になっています。英語でいうと、1節の頭がA、3節の頭がBと続き、最後に39節の頭がZという具合です。正しい道を歩めば祝され、悪しき道に進めば滅びるという、老いた教師が語る教訓の詩です。その中の「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」をとりあげましょう。
「あなたの道を」とあります。道は皆同じではなく、あなたの道、私の道、生き方があります。それについて、渡辺和子さんは「目に見えないけれど大切なもの」の著書でしゃれた言い方をしています。「したい性と主体性」。したい性はひらがな。あれをしたい、これをしたいという生きる欲は大事です。と言って、悪いことをしていいわけはないし、自分にとっても、周りにとっても我慢が必要なことがあります。主体性を身に着けることが必要です。主体性をもって生きる人になるには、「“今、何がしたいか”と同時に、“今、何をしなければならいか”を、併せて考えられる人になることが大切だ」。
私は就職するときは企業の研究室という、すきな道を選びました。仕事は楽しいものの、言うに言えない何かが足りないと感じていました。そんな私を友人が前にも行ったことのある教会というところに誘ってくれた時に、これだ、ここに自分が生きていく道、生き方があると感じ、神を信じました。イエス・キリストが言われた「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」の、その道を見出させていただいたのです(ヨハネ14:6)。
それから、牧師の生き方がいいなあとあこがれるようになりました。また、ある日の帰宅途中の電車に飛び込み自殺があり、自分が牧師になる迫りを感じました。時が流れ、勤めていた研究所が移転することになった時、後先考えずに、今こそ牧師になろうと思い、辞表を出してしまいました。意気揚々と牧師に報告すると、「岡田さん、牧師になる召命がないとなれませんよ。み言葉をいただかないと…」と言われました。会社は辞めて、召命もない、ショックでした。祈るしかない。家で悶々として、祈りの中にいました。一週間したときに、心の底から「わたしにつて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」とみ言葉が響いてきました(マタイ4:19)。これが召命でした。そうして、今日、皆さんの前に立っているのです。
したいことと、しなければならないことのかみ合わせが重要ですが、神が導かれる道に進むこと、わが人生に神が合わせてくだること、「神合わせ」が最重要なのです。それで私たちは「あなたの道を主にゆだねよ」なのです。
◇主体性か主導性か
もう一度、詩篇を見ましょう。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」。神にゆだねるということは自分の主体性が無くなるのでしょうか。逆です。ほんとうの主体性を持つことなのです。これを主導性と言いましょう。一つの例をもって話します。
視覚に障がいのある方がマラソンで走ることができます。見える人が一緒に伴走するからです。直接、手をつながず、1m以下のガイドロープを手でつないで走ります。もちろん、伴走者が引っ張ってはいけません。大切なことは視覚障がい者のランナーが安心して走れるように安全を確保し、周りで何が起きているか状況を説明します。またフォームや走路、ペース、タイムなどを管理もします。ようするに信頼関係が大事なのです。
神は私たちの人生マラソンの伴走者なのです。
創世記に出てくる話です。イサクには双子の息子、エサウとヤコブがいました。自分はもうすぐ死ぬとわかった父のイサクは、神の祝福を長男エサウに渡そうとした時に、たくらみがあって、次男のヤコブが横取りしてしまいました。兄が怒って、弟を殺そうとしていたので、父のすすめで、父のラバンの家に向かって旅立ちます。その旅の途中、野宿していた時、天使が夢の中に現れ、彼を祝福します。その中に次の神の約束がありました。
「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28:15)。
私たちは主体性をもってわが人生をわが人生として走っていきます。しかし、私たちの人生、ほんとうは先のことが見えません。そこで、よく見えて、わかっておられるイエス・キリストという伴走者が強引に引っ張るのでもなく、ブレーキをかけるのでもなく、私たちの歩調に合わせて、いっしょに走ってくれるのです。私たちが安心して人生を走れるように安全を確保し、周りで何が起きているか状況を教えてくれます。また人生の走り方やペース、コースやゴールを教え、いっしょに走って導いてくれます。もちろん、ゴールは天国です。永遠の命です。このようなありかたで、私たちはその神、イエス・キリストを信頼していくのがもっとも大事なのです。一つの歌をのせておきましょう。
「恐れないで - Don't Be Afraid -」作詞・作曲:前田智晶
大きな川の中を渡っていくときも
流れがあなたを押し流すことはない。
死の影の谷を一人歩いていくときも
わたしはいつでもあなたと共にいる。
恐れないで わたしはあなたの前を行く
ついてきなさい 休ませてあげよう。
恐れないで わたしはあなたの名を呼ぶ
ついてきなさい すべてをこの手に委ねて。
燃え盛る炎の中を 進んで行くときも
炎があなたに燃えつくことはない。
死の影の谷を一人歩いていくときも
わたしはいつでもあなたと共にいる。
恐れないで わたしはあなたと共に行く
闇の中でも この手を差し伸べよう。
恐れないで わたしはあなたと共にいる
傷つき倒れる あなたを背負っていこう。
恐れないで わたしはあなたの前を行く
ついてきなさい 休ませてあげよう。
恐れないで わたしはあなたの名を呼ぶ
ついてきなさい すべてをこの手に委ねて。
わたしは命の言葉
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」詩篇37:5-6
先週、あるホームセンターに行きましたら、店内放送で、「一年生になったら、ともだち100人できるかな」の童謡が流れていました。自分は該当しないのにと抵抗を感じつつ、この年になっても、初心を忘れず、一年生になったつもりで、人生を考えようと思わされました。
昨年のシャローム・パーティ(入園、入学、進級、卒業、就職のお祝い会)の時の礼拝で、私の青年時代に気に入った言葉を贈りたいと話しました。武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の言葉で、「主にあって」をつけたいとも言いました。「この道より我を生かす道はなし、この道を行く」。この道とは道を求めて歩きつづけるという道で、自分が歩きはじめたその日から、胸を張って生きていけばよいのだというような意味だと思います。
◇したい性か主体性か
さらにお贈りしたい言葉は詩篇37篇です。この詩篇はアルファベット詩篇です。2節ごとの最初の文字がヘブライ語のアルファベット順になっています。英語でいうと、1節の頭がA、3節の頭がBと続き、最後に39節の頭がZという具合です。正しい道を歩めば祝され、悪しき道に進めば滅びるという、老いた教師が語る教訓の詩です。その中の「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」をとりあげましょう。
「あなたの道を」とあります。道は皆同じではなく、あなたの道、私の道、生き方があります。それについて、渡辺和子さんは「目に見えないけれど大切なもの」の著書でしゃれた言い方をしています。「したい性と主体性」。したい性はひらがな。あれをしたい、これをしたいという生きる欲は大事です。と言って、悪いことをしていいわけはないし、自分にとっても、周りにとっても我慢が必要なことがあります。主体性を身に着けることが必要です。主体性をもって生きる人になるには、「“今、何がしたいか”と同時に、“今、何をしなければならいか”を、併せて考えられる人になることが大切だ」。
私は就職するときは企業の研究室という、すきな道を選びました。仕事は楽しいものの、言うに言えない何かが足りないと感じていました。そんな私を友人が前にも行ったことのある教会というところに誘ってくれた時に、これだ、ここに自分が生きていく道、生き方があると感じ、神を信じました。イエス・キリストが言われた「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」の、その道を見出させていただいたのです(ヨハネ14:6)。
それから、牧師の生き方がいいなあとあこがれるようになりました。また、ある日の帰宅途中の電車に飛び込み自殺があり、自分が牧師になる迫りを感じました。時が流れ、勤めていた研究所が移転することになった時、後先考えずに、今こそ牧師になろうと思い、辞表を出してしまいました。意気揚々と牧師に報告すると、「岡田さん、牧師になる召命がないとなれませんよ。み言葉をいただかないと…」と言われました。会社は辞めて、召命もない、ショックでした。祈るしかない。家で悶々として、祈りの中にいました。一週間したときに、心の底から「わたしにつて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」とみ言葉が響いてきました(マタイ4:19)。これが召命でした。そうして、今日、皆さんの前に立っているのです。
したいことと、しなければならないことのかみ合わせが重要ですが、神が導かれる道に進むこと、わが人生に神が合わせてくだること、「神合わせ」が最重要なのです。それで私たちは「あなたの道を主にゆだねよ」なのです。
◇主体性か主導性か
もう一度、詩篇を見ましょう。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」。神にゆだねるということは自分の主体性が無くなるのでしょうか。逆です。ほんとうの主体性を持つことなのです。これを主導性と言いましょう。一つの例をもって話します。
視覚に障がいのある方がマラソンで走ることができます。見える人が一緒に伴走するからです。直接、手をつながず、1m以下のガイドロープを手でつないで走ります。もちろん、伴走者が引っ張ってはいけません。大切なことは視覚障がい者のランナーが安心して走れるように安全を確保し、周りで何が起きているか状況を説明します。またフォームや走路、ペース、タイムなどを管理もします。ようするに信頼関係が大事なのです。
神は私たちの人生マラソンの伴走者なのです。
創世記に出てくる話です。イサクには双子の息子、エサウとヤコブがいました。自分はもうすぐ死ぬとわかった父のイサクは、神の祝福を長男エサウに渡そうとした時に、たくらみがあって、次男のヤコブが横取りしてしまいました。兄が怒って、弟を殺そうとしていたので、父のすすめで、父のラバンの家に向かって旅立ちます。その旅の途中、野宿していた時、天使が夢の中に現れ、彼を祝福します。その中に次の神の約束がありました。
「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28:15)。
私たちは主体性をもってわが人生をわが人生として走っていきます。しかし、私たちの人生、ほんとうは先のことが見えません。そこで、よく見えて、わかっておられるイエス・キリストという伴走者が強引に引っ張るのでもなく、ブレーキをかけるのでもなく、私たちの歩調に合わせて、いっしょに走ってくれるのです。私たちが安心して人生を走れるように安全を確保し、周りで何が起きているか状況を教えてくれます。また人生の走り方やペース、コースやゴールを教え、いっしょに走って導いてくれます。もちろん、ゴールは天国です。永遠の命です。このようなありかたで、私たちはその神、イエス・キリストを信頼していくのがもっとも大事なのです。一つの歌をのせておきましょう。
「恐れないで - Don't Be Afraid -」作詞・作曲:前田智晶
大きな川の中を渡っていくときも
流れがあなたを押し流すことはない。
死の影の谷を一人歩いていくときも
わたしはいつでもあなたと共にいる。
恐れないで わたしはあなたの前を行く
ついてきなさい 休ませてあげよう。
恐れないで わたしはあなたの名を呼ぶ
ついてきなさい すべてをこの手に委ねて。
燃え盛る炎の中を 進んで行くときも
炎があなたに燃えつくことはない。
死の影の谷を一人歩いていくときも
わたしはいつでもあなたと共にいる。
恐れないで わたしはあなたと共に行く
闇の中でも この手を差し伸べよう。
恐れないで わたしはあなたと共にいる
傷つき倒れる あなたを背負っていこう。
恐れないで わたしはあなたの前を行く
ついてきなさい 休ませてあげよう。
恐れないで わたしはあなたの名を呼ぶ
ついてきなさい すべてをこの手に委ねて。
わたしは命の言葉