オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

勇気を出しなさい

2018-02-25 00:00:00 | 礼拝説教
2018年2月25日(日)伝道礼拝(ヨハネ16:25~33)岡田邦夫

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

 冬季オリンピックが終わろうとしています。選手たちの活躍がテレビなどを通して伝わってきて、一喜一憂していた方々もおられると思います。選手の力量や技術が上だったから勝ったのだとか、風や相手の影響とか、心理的な原因で負けたのだとか、クールに見たりする見方があります。一方、とにかく、選手がメダルを取ったのが自分のことのように嬉しいとか、取れなくて残念とか、ホットに見る見方があります。それこそ、一喜一憂です。競技が終わって、勝者も敗者も握手したり、抱き合ったりして、相手の健闘をたたえ、リスペクト(敬意)する姿に感動します。また、メダルが取れようが取れまいが、ハードな練習を重ねてきた選手にエールを送りたくなります。
 どうして、スポーツに興奮するのでしょうか。人それぞれでしょうが、多くは自分の人生に重ね合わせて見ているからではないでしょうか。人生は戦いです。どう勝つかが重要なことです。

◇ホットな意味で「勇気を出しなさい」
 イエス・キリストが私たちを滅びから救うため、身代わりになって十字架にかかって死にに行くのですが、その最後の別れの時、すなわち、過ぎ越しの祭りという祭りの夕食の時のことです。最後のメッセージを弟子たちに語り、その最後の最後の言葉が、これです。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」。別な訳では「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
 人生には大なり小なり、患難があり、その患難に悩まされるのが常です。人となられた神の御子が。あなたがたはこの世ではなやみがあると言われるのです。人生とはそういうものなのだと、覚めて言われるのではありません。ご自身が人と同じ姿になられ、同じ経験をし、理解がある、気持ちがわかるという、私たちと同一線上で、お気持ちを込めて言われるのです。
 私、東京聖書学院を卒業し、東京である教会の副牧師をしていました。結婚もし、子どもも与えられたのですが、副牧師で仕えなければならない立場で、悩んでいました。ある時、三多摩のある教会の集会に行くことになり、家内は主任牧師の世話もあるので、子どもを連れていきました。するとその牧師が「ああ、岡田先生!」と迎えてくれたのです。その「ああ」の中に、私達夫婦の大変なのはわかっているという響きに聞こえたのです。励ましを得たのです。後に、その牧師は教団委員長になられました。そして、会いますと、変わらず、「ああ、岡田先生!」なのです。立場をこえて、牧師同士、検討し合っていることにリスペクトしている、敬意を表している様に私は聞こえて、また、励まされるのでした。
 主イエス・キリストはあなたが患難にあい、悩んでいる時、神の御子ですから、敬意ではなく、親心のような思いで、暖かく思っていてくださるに違いありません。主は悩みに勝たせたいのです。

◇クールな意味で「勇気を出しなさい」
 ある、アスリートが優勝した瞬間、「勝った」と叫んだそうです。しかし、それは相手に勝ったのではなく、自分に勝ったという意味だったと言っていました。オリンピックともなればなかなか平常心ではいられない、相当のプレッシャー、精神的重圧がかかります。委縮したり、押しつぶされそうになります。それをはねのけ、勝ったというのですから、大変な精神力です。
 人生で何に勝つかが問題です。イエスは世に勝つことを言われました。単なる世界とか、世間とかいうのではなく、サタン、悪の霊の支配する世です。神に対して、人に対して、悪い思いを起こさせたり、罪を犯させたり、不信仰に落ちいらせたりするのです。しかし、悪いことをすれば気持ちの良いものではありません。良心が痛みます。それは神のささやきです。警告です。神のところに帰ってくるようにとの神の声です。
 いったん犯した罪は消えるものではありません。過去を思い出して、心が痛むのです。それは神の招きです。それは神によって赦される道があるからです。私も若い時、真面目で通っていました。通知表にはそう書かれていました。ところがこれからの人生、どう生きたらいいか、悩んでいた時に、教会に行きました。すると、私の中に、世界の終わる時になされる神の審判で、自分は神の前に立てるかどうか、心配になりました。その後、青春を謳歌していたのですが、一人になると、神の前に立てるかどうか、気になってきて、たまらない虚しさに襲われたのです。
 そんな時に、また、教会に行きました。イエス・キリストがその私の罪を身代わりに背負って、十字架で死んでくださった。悔い改めて信じれば赦されるというメッセージを聞いて、そのまま、信じたのです。そうして、最後の審判の時、キリストにある私は大丈夫なのだと確信したのです。人生には青春の悩み、老後の悩み、色々ありますが、主イエス・キリストはご存じです。しかし、神は私たちの魂の悩み、心の良心の痛みから解放されて、神のみ前に歩むように願っています。
 罪は罰せられなければなりません。罰せられれば解決です。しかし、人が罰せられては滅んでしまいますから、身代わりのいけにえが必要でした。イエス・キリストは私たちの身代わりのいけにえになったのが十字架の死です。ですから、そのことを信じるだけで、赦しをいただき、救われるのです。世に勝ったのですとはそのことです。
 そうして、根本的なことが解決すれば、本当の勇気をいただけるのです。背伸びをしなくても勇敢に生きられるのです。

試みに合われた大祭司

2018-02-11 00:00:00 | 礼拝説教
2018年2月11日(日)主日礼拝(ヘブル4:14~5:10)岡田邦夫


「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」(ヘブル4:14)

 アメリカに行くのを渡米、外国から来た人を渡来人、渡ると書きます。海を渡るからです。イスラエル人の別名「ヘブル人」は「(ユーフラテス)川の向こうからきた者」を意味します。川を渡ってきた遊牧民ということです。きょうお話しするヘブル人への手紙のヘブル人はユダヤ人を読者に想定していると思われます。手紙の趣旨はユダヤ教に比べてキリスト教がはるかに優れているということです。
 「我、太平洋の橋とならん」は新渡戸稲造の使命でした。それにしても太平洋は広く、当時は船での渡米は遠かったです。その架け橋になるなどとは大胆な志でした。しかし、もっと、遥かに遠いのが天の神に対する地の人です。その架け橋となるのが「祭司」です。旧約聖書ではその祭司たちの代表が大祭司です。それに対して、イエス・キリストは完全な「大祭司」だとこの書は主張しているのです。

◇御子の接近
 御子イエス・キリストはいかに優れた方であるかを書き進めていきます。 まず、御子によって世界は造られたのであり、御子は神の本質の完全な現れであり、御子の言葉が万物を保っているのであり、御子は罪のきよめを成し遂げ、「すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれ」たのです(ヘブル1:2-3)。
 天には御使いたちがいますが、御子は御使いより遥かにまさる方です(1:4)。御子は万物をしたがわせ、み使いにも仕えさせる方ですが、「み使いよりも、しばらくの間、低くされた」のです(2:9)。そして、御子イエスは私たちを救うために、死なれたのです。しかも死の苦しみをすべての人のために味あわれ、その苦しみを全うされたのです。神が多くの子たちを栄光に導くためでした。それゆえに、御子は栄光と誉れの冠をお受けになったのです(2:9-10要約)。そうして、「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と言うのですから、それはそれは圧倒的な恵みです(2:11)。天の神と地の人に架け橋ができたのです。
 重ねて告げます。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(2:17-18)。
 私たちにこう命じます。「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(3:1)。「考えなさい」は口語訳は「思いみるべきである」。原語の意味合いでは両方あるようです。このような「大祭司」のことを頭でしっかり考え、心で深く思いみることです。
 牧師や神父は聖餐の時にガウンを着ます。中には派手なものもあります。宗教的心理から、そうしているのかも知れませんが、このヘブル書から言えるのは福音書を読むとイエスは派手なことが一つもないのです。ユダヤ教の大祭司のような祭服も着ていないのです。ガウンは見せるものではなく、身を隠すものです。牧師の人間的な姿を隠し、大祭司を思いみるようにするためです。

◇聖徒の接近
大祭司、イエス・キリストのことを頭でしっかり考え、心で深く思いみるだけでなく、「近づこうではありませんか」と勧めます。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(4:15-16)。考えて、思いみて、素晴らしい恵みと分かるだけでなく、事実、今、なんのためらいもなく、自分のダメさ加減もわかっていながら、大胆に恵みの御座に近づけるとは何ともありがたい、嬉しい、安心できるものです。
それは大祭司ご自身が罪のために、ささげ物としていけにえになられたからですし。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです」(5:1-2)。私のどんなことでも、何でもかんでも思いやってくださる。ああ、何という愛でしょうか。
まだ、あります。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」(5:7-10)。メルキゼデクはアブラハムのところに出てくる祭司で、永遠の祭司という意味で使われています。
最も低い私たちに近づかれた大祭司は、最も高い神の右におられるのです。イエス・キリストが十字架につけられた時に隣の犯罪人が求めると「あなたはきょう、パラダイスにいます」と引き上げられました。大祭司は最も低いところから最も高い所までひきあげる架け橋になられたのです。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(4:15-16)。

大能の力によって

2018-02-04 00:00:00 | 礼拝説教
2018年2月4日(日)二か所礼拝(エペソ6:10~20)岡田邦夫


「邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:13)

 最近、外国人が日本に来て、他の国に比べて日本人の規律のよさに感心する様です。明治時代、同じような質問をされて、書かれたのが新渡戸稲造の「武士道」。旧5000円札の人。彼は「少年よ、大志を抱け」で有名な札幌農学校を出た人でクリスチャン、留学中に出会ったメアリーと結婚します。その奥さんや周りの人から「日本は宗教教育がないのに道徳観念を持っているのはなぜか?」と聞かれ、即答できず、書き上げたのが英文の“BUSHIDO”(武士道)。翻訳されて今なお読まれている日本人論です。武士はいなくなったけれど、その精神性というのは規律の良さなど、今も広く私たちに引き継がれている様です。
 今日は日本人論を述べようとしているのではなく、その中の一点だけを参考にしようというものです。源頼朝が鎌倉幕府を開いた時より、武士が世の中の中心に躍り出ます。武士は戦う事が専門、しかし、世の中の中心に立って勝手しては社会が成り立ちません。そこで確立されていったのが、今でいうフェア・プレイの精神、武士道という道徳律です。そもそも、武士は戦うものであり、守るものであることが前提です。そのように私たち、クリスチャンも神の国の中心に躍り出たものです。

◇守るべきもの
 では、私たちは何を守り、何と戦うのか、エペソ人への手紙から学びたいと思います。私たちは世の造られる前から神に選ばれており、イエス・キリストの贖いにより救われ、神との和解がなされ、神の国を継ぐものとなりました。神のご目的はそれらの者たちが一つになることです。ですから、教会はイエス・キリストにあって一つのからだであり、それゆえ、一致を目指さなければなりません。多様性を持ちつつの一致です。そうさせない、私たちの罪深さがあります。そうさせてくる元凶、すなわち、私たちのほんとうの敵を知ってこそ、守れるというものです。

◇戦うべきもの
サタンです。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(6:10-12)。エデンの園で「これを食べると神のようになるぞ」というサタンに誘惑にエバとアダムは負けました。初代イスラエルの王サウルは神の声に従わずサタンの声に従い、敗北しますが、その逆が次期王ダビデでした。イエスの弟子、イスカリオテのユダはサタンに魂を売り渡し、主を裏切ってしまいます。他の弟子たちは揺れ動くものの、守られて、主の御声に従っていき、使徒の働きをしていきます。
敵は隣にいるのでも、前にいるのでもなく、上にいるのです。天にいるもろもろの悪霊です。それを意識すべきです。バニヤンの「天路歴程」はクリスチャンという名の者が様々な誘惑をくぐり抜けて天国に行くという寓話です。信仰者の人生はサタンの策略を見抜いていく、賢く生きていくものではないでしょうか。

 パウロはサタンに弱い私たちに策を教えます。「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」(6:13)。御国の「武士」としての最強の武具が神から提供されます(6:14-17)。「では、しっかりと立ちなさい。
 腰には真理の帯を締め、
胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、
信仰の大盾を取りなさい。…悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また
御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
これが武装したキリストの武士です。
この中で、サタンは神の言葉を最も恐れます。イエスが公生涯に入られるときに40日断食した後、サタンの試みに合われます。その時、主は御言葉を突き付けました。3つの誘惑にそれぞれ「~と書いてある」と言って勝利しました。サタンは私たちを傲慢にさせるか、落胆させるか、生ぬるくさせるか、あの手この手です。ですから、聖書を愛読し、その中のみ言葉を信じ、覚えるとよいでしょう。み言葉によって、傲慢が謙遜に、落胆が確信に、生ぬるさが熱心に変えられるでしょう。

 弱い私たちはとにかく何つけても、祈ることです(6:18)。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」。パウロは自分も祈ってほしいと書いています。私たちは祈ってもらうことも必要不可欠です。
「邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」(6:13)。