2016年7月31日(日)主日礼拝(1列王記18:24、36-39)岡田邦夫
「あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」1列王記18:24
今年2月、宇宙から届く「重力波」をアメリカの研究チームが世界で初めて検出し、アインシュタインが一般相対性理論で示した予言が100年ぶりに証明された。世紀の発見だというニュースがありました。改めて、彼の偉大さを知らされたのでした。1931年のこと、喜劇王チャップリンがアインシュタインと会った時に、こんな言葉を投げかけました。「私に人気があるのは、誰でも私を理解できるからです。ところが、アインシュタインさん。あなたに人気があるのは、誰もが、あなたを理解できないからです」。
私の感想ですが、旧約聖書で人気のあるのはダビデ。人間味もあってわかりやすい。もう一人はエリヤでしょうか。偉大すぎるすごい人。先日もエリヤを賛美の「暗闇に光」に重ねてお話ししたように、実に闇に輝く神の器でした。本日は1列王記18章から、結べないものを結んでいく奇跡の人、エリヤをお話ししたいと思っています。
◇結ぶ…神言と御業
昔は宗教と政治と生活は密接につながっていたので、イスラエルの王に主(ヤーウェ)への信仰があるか、ないかで、民全体に影響してしまうのでした。アハブ王は主に対してひどい背信者、妻にしたフェニキアのシドン人の王女が偶像宗教を持ちこみ、イスラエル宗教を根絶しようとしていたのです。その偶像とはバアル、農業、生産の神、本質は欲望の化身です。王妃イゼベルが主の預言者の集団を次々に殺していった時、王の側近のオバデヤが主を恐れ、密かに100人の主の預言者を救い出し、洞穴にかくまったのです(18:4)。それを知らないアハブ王はオバデヤに対し、二手に分かれて探しに行こうというのです。バレないかと不安なオバデヤは途中でエリヤに出くわします。エリヤは自分がここにいるから、王に来るように伝えてほしいと頼みます。すると、王は赴いて来たのです。
それは「主の言葉」がすでにエリヤにあったからです。「それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。『アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう』」(18:1)。三年前にさかのぼると、主の言葉があって、この二、三年は雨が降らないとアハブに告げて、その通りになりました。主の言葉があって、ケリテ川でカラスに養われ、やもめの所で養われると約束されたので、エリヤがその通りにすると事実、養われました。
主の言葉が告げられる時、それが現実的に見えなかったとしても、エリヤは預言者、信じて従ったのです。するとその通りの事実となり、見える形の驚くべき神の御業が表されたのです。神の言葉イコール神の御業と言えます。そのイコールの所に預言者エリヤはいたのです。ほんとうにすごい預言者でした。
◇結ぶ…天上と地上
さあ、ここで一世一代の対決が始まります。カルメル山にイゼベル雇用の四百五十人のバアルの預言者(四百人のアシェラの預言者)を集め、エリヤ一人が挑戦するので。エリヤは民に問います。主(ヤーウェ)に従うか、バアルに従うか。民は答えません。そこで、エリヤはこう申し出ます。雄牛と雄牛、一頭ずつをたきぎの上に載せ、火をつけないでおくように言い、「『あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。』民はみな答えて、『それが良い。』と言った」(18:24)。
先にバアルの預言者が朝から昼まで、バアルの名を呼ぶが、答えはない。今度は踊りまわる。答えはない。エリヤはおたくの神は旅に出ているか、寝ているかして、答えられないのだよと皮肉を言う。彼らはますます大声になり、剣や槍で体を傷つけ、熱狂的になるが、何も起こりませんでした。今度はエリヤの番です。
イスラエルの部族数に従い、12個の石で祭壇を築き、周りに15リットル入るような溝を掘る。祭壇の上にたきぎをならべ、雄牛をさいて乗せ、その上から、4つのかめから3度も水をかけさせた。溝がいっぱいになるほど、水びだしになったのです。そして、預言者エリヤは祈ります。
「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください」(18:36-37)。命を懸けた、真実の祈りです。
驚くべき、主の答えが即、きました。「すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です。』と言った」(18:38-39)。そして、バアルの預言者たちは処分されます。天にある「主の火」が降って来て、すべてを焼き尽くしたのです。天が地にクサビのように打ち込まれたのです。天と地が結びついた厳粛な一瞬でした。神の人エリヤはまれに見るその立会人でした。その後、主の言葉のように、大雨が降ったことを加えておきましょう(18:45)。
◇結ぶ…旧約と新約
そのようにして、エリヤは内側から崩壊しようとするイスラエルの危機を救ったのです。この超人的ともいえる存在なのですが、新約においては「同じ人間だ」と言います(ヤコブの手紙5:16-18)。それを聖歌253番4節ではこう歌っています。「火を呼びくだし、雨を降らしし、エリヤもわれと同じ人なり。昔も今も変わりなき主は、わが祈りにも必ず答えん」。
ペンテコステの時に祈っていた使徒たちの上に天から、炎のようなものが分かれて、一人一人に降り、聖霊に満たされました(使徒2:1-4)。私たちの信仰の先輩たちがそれをエリヤの設けた祭壇に天から降った火を使徒たちに降った聖霊とを結びつけました。霊的解釈をし、身近な信仰経験に適用しました。新聖歌410番によく言い表されています。4節「エリヤの祈りにこたえし神は、今なおささぐるいけにえよみし。火をもてまことの神なることを、疑う世びとに現したまわん。エリヤのみ神は今なお生くれば、祈りにこたえて火を降したまわん」。
エリヤの物語は新約に生きる私たちを霊的経験へと誘い出してくれます。十字架の祭壇にバアルのような貪欲という偶像信仰、真の神への背信、すべての罪を持っていきましょう。地上のどんなものによっても焼却できませんが、天からの聖霊の火が瞬く間にそれら一切の罪をイエス・キリストのいけにえと共に完全に焼き尽くしてしまうのです。それで、自分がなくなってしまうのではなく、人として「神のかたち」が本来的に純化されるのです。その上、聖霊の火は冷えた心を温かな主の愛に満たし、奉仕や宣教への情熱を熱くし、再び、主イエスがこの地に来られる敬虔な思いに胸を熱くするのです。私たちのすることは祈り信じることです。すると、経験させてもらえるのです。ある時は激しく、ある時は物静かに聖霊が望んでくださいます。エリヤの御神は今なお生くれば、祈りに応えて(聖霊の)火を降し給わん。そして、「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)。
「あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」1列王記18:24
今年2月、宇宙から届く「重力波」をアメリカの研究チームが世界で初めて検出し、アインシュタインが一般相対性理論で示した予言が100年ぶりに証明された。世紀の発見だというニュースがありました。改めて、彼の偉大さを知らされたのでした。1931年のこと、喜劇王チャップリンがアインシュタインと会った時に、こんな言葉を投げかけました。「私に人気があるのは、誰でも私を理解できるからです。ところが、アインシュタインさん。あなたに人気があるのは、誰もが、あなたを理解できないからです」。
私の感想ですが、旧約聖書で人気のあるのはダビデ。人間味もあってわかりやすい。もう一人はエリヤでしょうか。偉大すぎるすごい人。先日もエリヤを賛美の「暗闇に光」に重ねてお話ししたように、実に闇に輝く神の器でした。本日は1列王記18章から、結べないものを結んでいく奇跡の人、エリヤをお話ししたいと思っています。
◇結ぶ…神言と御業
昔は宗教と政治と生活は密接につながっていたので、イスラエルの王に主(ヤーウェ)への信仰があるか、ないかで、民全体に影響してしまうのでした。アハブ王は主に対してひどい背信者、妻にしたフェニキアのシドン人の王女が偶像宗教を持ちこみ、イスラエル宗教を根絶しようとしていたのです。その偶像とはバアル、農業、生産の神、本質は欲望の化身です。王妃イゼベルが主の預言者の集団を次々に殺していった時、王の側近のオバデヤが主を恐れ、密かに100人の主の預言者を救い出し、洞穴にかくまったのです(18:4)。それを知らないアハブ王はオバデヤに対し、二手に分かれて探しに行こうというのです。バレないかと不安なオバデヤは途中でエリヤに出くわします。エリヤは自分がここにいるから、王に来るように伝えてほしいと頼みます。すると、王は赴いて来たのです。
それは「主の言葉」がすでにエリヤにあったからです。「それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。『アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう』」(18:1)。三年前にさかのぼると、主の言葉があって、この二、三年は雨が降らないとアハブに告げて、その通りになりました。主の言葉があって、ケリテ川でカラスに養われ、やもめの所で養われると約束されたので、エリヤがその通りにすると事実、養われました。
主の言葉が告げられる時、それが現実的に見えなかったとしても、エリヤは預言者、信じて従ったのです。するとその通りの事実となり、見える形の驚くべき神の御業が表されたのです。神の言葉イコール神の御業と言えます。そのイコールの所に預言者エリヤはいたのです。ほんとうにすごい預言者でした。
◇結ぶ…天上と地上
さあ、ここで一世一代の対決が始まります。カルメル山にイゼベル雇用の四百五十人のバアルの預言者(四百人のアシェラの預言者)を集め、エリヤ一人が挑戦するので。エリヤは民に問います。主(ヤーウェ)に従うか、バアルに従うか。民は答えません。そこで、エリヤはこう申し出ます。雄牛と雄牛、一頭ずつをたきぎの上に載せ、火をつけないでおくように言い、「『あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。』民はみな答えて、『それが良い。』と言った」(18:24)。
先にバアルの預言者が朝から昼まで、バアルの名を呼ぶが、答えはない。今度は踊りまわる。答えはない。エリヤはおたくの神は旅に出ているか、寝ているかして、答えられないのだよと皮肉を言う。彼らはますます大声になり、剣や槍で体を傷つけ、熱狂的になるが、何も起こりませんでした。今度はエリヤの番です。
イスラエルの部族数に従い、12個の石で祭壇を築き、周りに15リットル入るような溝を掘る。祭壇の上にたきぎをならべ、雄牛をさいて乗せ、その上から、4つのかめから3度も水をかけさせた。溝がいっぱいになるほど、水びだしになったのです。そして、預言者エリヤは祈ります。
「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください」(18:36-37)。命を懸けた、真実の祈りです。
驚くべき、主の答えが即、きました。「すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です。』と言った」(18:38-39)。そして、バアルの預言者たちは処分されます。天にある「主の火」が降って来て、すべてを焼き尽くしたのです。天が地にクサビのように打ち込まれたのです。天と地が結びついた厳粛な一瞬でした。神の人エリヤはまれに見るその立会人でした。その後、主の言葉のように、大雨が降ったことを加えておきましょう(18:45)。
◇結ぶ…旧約と新約
そのようにして、エリヤは内側から崩壊しようとするイスラエルの危機を救ったのです。この超人的ともいえる存在なのですが、新約においては「同じ人間だ」と言います(ヤコブの手紙5:16-18)。それを聖歌253番4節ではこう歌っています。「火を呼びくだし、雨を降らしし、エリヤもわれと同じ人なり。昔も今も変わりなき主は、わが祈りにも必ず答えん」。
ペンテコステの時に祈っていた使徒たちの上に天から、炎のようなものが分かれて、一人一人に降り、聖霊に満たされました(使徒2:1-4)。私たちの信仰の先輩たちがそれをエリヤの設けた祭壇に天から降った火を使徒たちに降った聖霊とを結びつけました。霊的解釈をし、身近な信仰経験に適用しました。新聖歌410番によく言い表されています。4節「エリヤの祈りにこたえし神は、今なおささぐるいけにえよみし。火をもてまことの神なることを、疑う世びとに現したまわん。エリヤのみ神は今なお生くれば、祈りにこたえて火を降したまわん」。
エリヤの物語は新約に生きる私たちを霊的経験へと誘い出してくれます。十字架の祭壇にバアルのような貪欲という偶像信仰、真の神への背信、すべての罪を持っていきましょう。地上のどんなものによっても焼却できませんが、天からの聖霊の火が瞬く間にそれら一切の罪をイエス・キリストのいけにえと共に完全に焼き尽くしてしまうのです。それで、自分がなくなってしまうのではなく、人として「神のかたち」が本来的に純化されるのです。その上、聖霊の火は冷えた心を温かな主の愛に満たし、奉仕や宣教への情熱を熱くし、再び、主イエスがこの地に来られる敬虔な思いに胸を熱くするのです。私たちのすることは祈り信じることです。すると、経験させてもらえるのです。ある時は激しく、ある時は物静かに聖霊が望んでくださいます。エリヤの御神は今なお生くれば、祈りに応えて(聖霊の)火を降し給わん。そして、「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)。