オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

火をもって答える神こそ

2016-07-31 09:07:05 | 礼拝説教
2016年7月31日(日)主日礼拝(1列王記18:24、36-39)岡田邦夫

「あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」1列王記18:24

 今年2月、宇宙から届く「重力波」をアメリカの研究チームが世界で初めて検出し、アインシュタインが一般相対性理論で示した予言が100年ぶりに証明された。世紀の発見だというニュースがありました。改めて、彼の偉大さを知らされたのでした。1931年のこと、喜劇王チャップリンがアインシュタインと会った時に、こんな言葉を投げかけました。「私に人気があるのは、誰でも私を理解できるからです。ところが、アインシュタインさん。あなたに人気があるのは、誰もが、あなたを理解できないからです」。
 私の感想ですが、旧約聖書で人気のあるのはダビデ。人間味もあってわかりやすい。もう一人はエリヤでしょうか。偉大すぎるすごい人。先日もエリヤを賛美の「暗闇に光」に重ねてお話ししたように、実に闇に輝く神の器でした。本日は1列王記18章から、結べないものを結んでいく奇跡の人、エリヤをお話ししたいと思っています。

◇結ぶ…神言と御業
 昔は宗教と政治と生活は密接につながっていたので、イスラエルの王に主(ヤーウェ)への信仰があるか、ないかで、民全体に影響してしまうのでした。アハブ王は主に対してひどい背信者、妻にしたフェニキアのシドン人の王女が偶像宗教を持ちこみ、イスラエル宗教を根絶しようとしていたのです。その偶像とはバアル、農業、生産の神、本質は欲望の化身です。王妃イゼベルが主の預言者の集団を次々に殺していった時、王の側近のオバデヤが主を恐れ、密かに100人の主の預言者を救い出し、洞穴にかくまったのです(18:4)。それを知らないアハブ王はオバデヤに対し、二手に分かれて探しに行こうというのです。バレないかと不安なオバデヤは途中でエリヤに出くわします。エリヤは自分がここにいるから、王に来るように伝えてほしいと頼みます。すると、王は赴いて来たのです。
 それは「主の言葉」がすでにエリヤにあったからです。「それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。『アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう』」(18:1)。三年前にさかのぼると、主の言葉があって、この二、三年は雨が降らないとアハブに告げて、その通りになりました。主の言葉があって、ケリテ川でカラスに養われ、やもめの所で養われると約束されたので、エリヤがその通りにすると事実、養われました。
 主の言葉が告げられる時、それが現実的に見えなかったとしても、エリヤは預言者、信じて従ったのです。するとその通りの事実となり、見える形の驚くべき神の御業が表されたのです。神の言葉イコール神の御業と言えます。そのイコールの所に預言者エリヤはいたのです。ほんとうにすごい預言者でした。

◇結ぶ…天上と地上
 さあ、ここで一世一代の対決が始まります。カルメル山にイゼベル雇用の四百五十人のバアルの預言者(四百人のアシェラの預言者)を集め、エリヤ一人が挑戦するので。エリヤは民に問います。主(ヤーウェ)に従うか、バアルに従うか。民は答えません。そこで、エリヤはこう申し出ます。雄牛と雄牛、一頭ずつをたきぎの上に載せ、火をつけないでおくように言い、「『あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。』民はみな答えて、『それが良い。』と言った」(18:24)。
 先にバアルの預言者が朝から昼まで、バアルの名を呼ぶが、答えはない。今度は踊りまわる。答えはない。エリヤはおたくの神は旅に出ているか、寝ているかして、答えられないのだよと皮肉を言う。彼らはますます大声になり、剣や槍で体を傷つけ、熱狂的になるが、何も起こりませんでした。今度はエリヤの番です。
 イスラエルの部族数に従い、12個の石で祭壇を築き、周りに15リットル入るような溝を掘る。祭壇の上にたきぎをならべ、雄牛をさいて乗せ、その上から、4つのかめから3度も水をかけさせた。溝がいっぱいになるほど、水びだしになったのです。そして、預言者エリヤは祈ります。
 「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください」(18:36-37)。命を懸けた、真実の祈りです。
 驚くべき、主の答えが即、きました。「すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です。』と言った」(18:38-39)。そして、バアルの預言者たちは処分されます。天にある「主の火」が降って来て、すべてを焼き尽くしたのです。天が地にクサビのように打ち込まれたのです。天と地が結びついた厳粛な一瞬でした。神の人エリヤはまれに見るその立会人でした。その後、主の言葉のように、大雨が降ったことを加えておきましょう(18:45)。

◇結ぶ…旧約と新約
 そのようにして、エリヤは内側から崩壊しようとするイスラエルの危機を救ったのです。この超人的ともいえる存在なのですが、新約においては「同じ人間だ」と言います(ヤコブの手紙5:16-18)。それを聖歌253番4節ではこう歌っています。「火を呼びくだし、雨を降らしし、エリヤもわれと同じ人なり。昔も今も変わりなき主は、わが祈りにも必ず答えん」。
 ペンテコステの時に祈っていた使徒たちの上に天から、炎のようなものが分かれて、一人一人に降り、聖霊に満たされました(使徒2:1-4)。私たちの信仰の先輩たちがそれをエリヤの設けた祭壇に天から降った火を使徒たちに降った聖霊とを結びつけました。霊的解釈をし、身近な信仰経験に適用しました。新聖歌410番によく言い表されています。4節「エリヤの祈りにこたえし神は、今なおささぐるいけにえよみし。火をもてまことの神なることを、疑う世びとに現したまわん。エリヤのみ神は今なお生くれば、祈りにこたえて火を降したまわん」。
 エリヤの物語は新約に生きる私たちを霊的経験へと誘い出してくれます。十字架の祭壇にバアルのような貪欲という偶像信仰、真の神への背信、すべての罪を持っていきましょう。地上のどんなものによっても焼却できませんが、天からの聖霊の火が瞬く間にそれら一切の罪をイエス・キリストのいけにえと共に完全に焼き尽くしてしまうのです。それで、自分がなくなってしまうのではなく、人として「神のかたち」が本来的に純化されるのです。その上、聖霊の火は冷えた心を温かな主の愛に満たし、奉仕や宣教への情熱を熱くし、再び、主イエスがこの地に来られる敬虔な思いに胸を熱くするのです。私たちのすることは祈り信じることです。すると、経験させてもらえるのです。ある時は激しく、ある時は物静かに聖霊が望んでくださいます。エリヤの御神は今なお生くれば、祈りに応えて(聖霊の)火を降し給わん。そして、「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)。

イエスは神であるのに

2016-07-24 19:12:18 | 礼拝説教
2016年7月24日(日)伝道礼拝(ヘブル2:17-18)岡田邦夫

「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」ヘブル2:17-18

 この頃、ペットの猫愛好者が増えているとか。夏目漱石の「吾輩は猫である」は猫が主人を語るユーモア小説です。ユーモアは人が生きていくために、特に辛い逆境にある時、何かギクシャクしている時に必要だと思います。英語ではhumor(ヒューマー)で、ヒューマン(人間の、人間らしい…)と関連があります。ユーモアによって人間らしさを表現したり、また、人間らしくしていくもののようです。客観的に人間を観察するなどしないで、猫目線で書いているから、よけいに人間味が出てくるのですね。

◇神が人を思い…同化された
 今日は冒頭の聖書から、イエスがすべての点で兄弟たち(私たち)と同じようになられた。人間になられた。人間らしくなられたことをお話ししたいと思います。
 話はかわりますが、だいぶ前の話です。インドのカルカッタの南西50キロのジャングルで、オオカミのような二人の少女が発見されました。孤児院をしている牧師が引き取ってみました。どうも、生活に困った母親がジャングルに置き去りしたらしく、それをオオカミが育てたのです。ですから、オオカミのように四つん這いで走るし、口で生肉を食べ、オオカミのようにウォーとなき、遠吠えもします。まったくオオカミになっていたのでした。施設において二本足で歩かせたり、手を使って普通の食事をさせたり、服を着させたり、言葉を覚えさせたり、と訓練しましたが、それは実に大変でした。結局、下の子はすぐ亡くなり、上の子は50語を覚え、10年だけ生きたとのことでした。もし、人間らしく育ち、生きられたら、もっと楽しい経験をし、長く生きられたでしょうに…。
 よいたとえでないかも知れませんが、イエス・キリストは天地創造の全能の神であるのに、私たちと同じ弱い人間、有限の者となられたのです。マリヤから生まれ、育てられ、すっかり、人間になられたのです。無限の方が有限な中に押し込められるとはどれほど窮屈なことか、聖なる方が罪深い人間の中で生きるのはどれほど耐え難いことか、想像を超えたものです。
 例えば、川の激流に人が溺れて流されているのを岸辺でもう一人が見ていたとします。激流すぎる。助けられない。せめてガンバレというしかない。しかし、その人は飛び込んだ。彼を捕まえて必死に岸にたどり着き、岸に上げ、彼は助かった。しかし、助けた人は力尽き、激流に飲まれていってしまった。
 私たち人間は神の前に罪を犯し、滅びの激流に流され、滅びようとしている。あるいは、苦しみや悩みに流されている。この世の流れの中に、天の岸から、イエス・キリストは飛び込んでこられ、人となられ、溺れている、弱っている、助けを求めている私たちを抱きかかえ、苦しみ悶えながら、救いの岸に押し上げてくださり、ご自身は命を落としてしまわれたのです。それが十字架の犠牲の死です。父なる神は使命をはたしたイエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、天に引き上げられました。
 その救い主イエス・キリストに人生をゆだねて生きる時、本当の人間らしい生き方ができるのです。神の手の中で育ち、神の言葉に育まれていくなら、人間本来の生き方ができるのです。ある方がこんな造語を作りました。ユーモアは“You More”あなたをもっと大切にという意味だとか。あなたをもっとも大切に思うから、「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブル2:18)。そのイエスの愛を受けた者は人にも“You More”で優しく生きようとします。すると、人を和ますユーモアが生まれるかも知れません。

◇人が神を思い…同感する
 神が私たちの苦しみや辛さを感じられて、み手を差し伸べられました。私たちも祈りの手をあげ、神の威厳と優しさを感じていきたいものです。ひとつのことをお話ししたいと思います。神が人となられたという「物語」を想像するのです。使徒信条という信仰告白も真ん中の大部分はイエス・キリストの物語ともいえます。私がイエス・キリストを身近に感じる聖歌があります。前の教会にいた時に、聖歌隊の指導をしてほしいと他の教会員の男性に頼みました。その方は初期の新幹線の設計をされた方で、定年後、自宅に人が乗れるミニ機関車など作り、子供たちを喜ばせていました。教会ではピアノの奏楽の奉仕をされていました。専門に音楽を学ばれたわけではないのですが、子供のころから教会で育ったものですから、感性で身についたと言います。結婚された息子さんがガンで若くして亡くなられ、痛みを抱えられた方でしたが、ユーモアのある方でした。お見舞いで淀川キリスト教病院に行きましたら、彼に会いました。車いすのメンテナンスやシーツの交換などのボランティアをしていると笑顔で言っておられました。
 その方がコーラスで選んだ聖歌です。
「イエスは神であるのに」聖歌総合版 198番

イエスは神であるのに、人の子として生まれ
若き日をば大工で過ごしました
(オリカエシ)
このけだかい救い主が
今も生きてわれらを救うのです
イエスのなめた人生、人が思う以上の
貧と汗と涙の つづきでした
(オリカエシ)
罪があれば愛もて、赦し咎めだてせず
病あれば手をつけ癒しました
(オリカエシ)
ユダはいつか悪魔の 弟子と変わり師を売り
へびのような祭司に渡しました
(オリカエシ)
ローマの兵はイエスをば 縄で縛り鞭打ち
衣服はいで木にかけ 殺しました
(オリカエシ)

 私は彼のことを思い浮かべ、イエスのご生涯を思い浮かべ、その人間性に心うたれ、励まされるのです。皆さんはいかがでしょうか。

エリヤの神は生きておられる

2016-07-17 16:03:34 | 礼拝説教
2016年7月17日(日)主日礼拝(1列王記17:17~24)岡田邦夫

「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」1列王記17:24

 今日の聖書個所から伝わってくるものが、プレイズ&ワーシップ126の「暗闇に光」の歌詞とたいへん良く符合しているように私は思えてならないのです。
  暗闇に光、輝き上る そのきよい光、神の栄光
  暗闇を照らす真の光 真理のみ言葉、神の栄光
  主はここにおられる 今、ここに、おられる

◇暗闇に光
 日本の江戸時代、相撲の番付をまねて、おいしいお店とか、温泉とか、様々なもののランキングが記された番付表がありました。列王記の中の王も良い王と悪い王といろいろあって、悪い王のランキングをあげるとすれば、第一位がアハブ王です。ソロモン王亡き後、国は北イスラエル、南ユダに分裂。北の王はヤロベアム。偶像を持ち込み、民に罪を犯させた悪しき王でした。政権が代わり7人目の王がオムリ、彼はヤロブアムの道に歩み、「主の目の前に悪を行い、彼以前のだれよりも悪いことをした」と悪評でした(16:25)。
 その「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。彼にとっては…ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」とあるように、ひどかったのです(16:30-31)。シドン人の王女イゼベルを妻にしたため、忌むべき偶像バアル崇拝に陥り、アシュラ像を建て、国を乱れさせ、神の怒りをかうような、最低の状態になっていました。実に暗い時代でした。
 この時、すい星のように登場したのが預言者「エリヤ」です。アハブ王に挑戦します。王に「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう」と対決します(17:1)。エリヤは行動で示す行動預言者です。悪王を困らせようというわけです。それはまるで、モーセがパロ王に立ち向かい、自然界を動かし、エジプトを困惑させたかのようです。その時は神がイスラエルを出エジプトに向かわせたのですが…。エリヤは「暗闇に光、輝き上る。そのきよい光、神の栄光」を表す存在でした。
 新約においてはイエス・キリストご自身こそ輝けるお方です。広い意味で主に従うキリスト者も「曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」のです(ピリピ2:15-16口語訳)。

◇真理のみことば
 「主のことばがあった」(17:2)。ケリテ川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲め、烏にあなたを養うように命じた。エリヤはその主のことばに従うとそのとおり、数羽のカラスが朝と夕の二回、パンと肉とを運んで来たので、それを食べ、川の水が枯れるまで飲むことができ、飢えることはなかったのです。まるで荒野時代のイスラエルのようでした。
 「主のことばがあった」(17:8)。ツァレファテに行き、住め。やもめにあなたを養うように命じた。エリヤがそこに行くと、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいました。彼女に「ほんの少しの水と一口のパンも持って来てください。」と頼みます。彼女は「あなたの神、主は生きておられます。パンはなく、ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。二、三本のたきぎをもち帰り、私と私の息子のためにそれを調理し食べて、死のうとしているのです。」という悲壮な言葉が返ってきます。
 エリヤは言います。「恐れてはいけません」。言ったようにするように。しかし、まず、私のためにパン菓子を作り、それから後に、あなたたちのために作るように勧めます。主がこう仰せられるからだと言います。「主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」。そのとおりにすると、「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」のです(17:16)。
 黒豆を植えたころは天候不順で発芽率が悪く、せっかく芽が出ても鳩が来て、食べていきました。人間様には悔しい限りです。その時、空の鳥を見よ。天の父が養っているが思い出されました。鳩は天の父が養っているのだ、私ごときが文句は言えない。主は私たちに必要なパンを与え、養ってくださるのだ。さらに、神の口から出る一つ一つの言葉によって、永遠の命が養われているのだと思わされたのです。
 暗闇を照らす真の光、真理のみ言葉、神の栄光。

◇主はここにおられる
 なお、悲劇に襲われます。主婦の息子が病のため、息を引き取ってしまったのです。彼女はエリヤに向かって、神の人よ、息子を死なせるために来たのかと嘆き訴えます。そこで、エリヤは死んだ息子を抱えて屋上の部屋に行き、自分の寝台の上に横たえ、主に祈りました。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか」。そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈りました。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください」(17:20-21)。
 主はエリヤの願いを聞かれ、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返ったのです。エリヤはその子を抱いて、降りて来て、「ご覧、あなたの息子は生きている。」と言って、母親に渡しました。何という奇跡、何という憐みでしょうか。彼女はこう信仰告白をします。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました」(17:24)。今、知ったのです。神から遣わされたエリヤの「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」の信仰が解ったのです。
 わが師を亡くし、心は真っ暗闇に置かれた二人の弟子がエマオに向かって歩いていました。ひとりの人が加わってきました。二人がイエスの墓に女性たちが行くと墓は空で、み使いが幻で「イエスは生きておられる」と言ったというのだと話していると、その人が聖書から解き明かしていくうちに、彼らの目が開かれて、その人がキリストであることが分り、心が燃やされたのです(ルカ24章)。栄光の体によみがえられたイエス・キリストは私たちの人生の途上のただ中に、今も生きておられるのです。
 主はここにおられる。今ここにおられる。


 このワーシップ・ソングに手少し手を加え、エリヤのこの時の状況を思い浮かべながら歌いたいと私は思いました。
  暗闇に光、輝き上る そのきよい光、神の栄光
  暗闇を照らす真の光 真理のみ言葉、神の栄光
  エリヤの主はキリスト 今、ここに、おられる


一つの国が分断してしまうが…

2016-07-10 22:27:20 | 礼拝説教
2016年7月10日(日)主日礼拝(1列王記12:1~5、12~16)岡田邦夫

「彼の息子には一部族を与え、わたしの名を置くためにわたしが選んだ都エルサレムで、わが僕ダビデのともし火がわたしの前に絶えず燃え続けるようにする。」1列王記11:36共同訳

 大河ドラマが好きな人と嫌いな人がいます。史実を重んじる人は脚色が多くて、気に食わないでしょうし、ドラマ性を楽しみたい人はその脚色にワクワクするでしょう。大河というのは歴史を大きな河の流れという感覚で捕えているわけです。以前、時は流れない、積み重さなるということをお話ししましたが、私たちは歴史を時の流れと感じ、出来事を因果関係で綴っていくという面もありますので、今日はその線でお話ししたいと思います。

◇止められない濁流
 わが青春の感性は世の中の濁流に飲まれたくない、ピュアでありたいでした。それで、欧米のクラシック音楽や文学やそういうようなものになぜかあこがれがありました。相当勉強したというわけではないけれど、それを求めた先に聖書があり、キリスト教があり、キリスト信徒になったのだと思います。
 その中の一冊にアンドレ・ジッド「田園交響曲」がありました。題がきれいですし、書き出しがピュアな感じなので読み始めました。(少し省略)「あの敬虔な魂の形式と発展の跡を、残らずこの手帳に書き止めておきたいのだ。私があの魂を闇の中から救い出したのは、神への讃美と愛とのため、ほかならなかったように思われる。この仕事を託し給える主は讃むべきかな」。
 しかし、中身は決して清らかなものではなく、愕然としました。長くなるのでネットのものを載せます。「身寄りもなく、無知で盲目だったジェルトリュードを牧師は純粋な慈悲の心から引き取ったつもりだったが、やがて牧師と牧師の妻と息子、ジェルトリュードを巡って愛憎劇が展開される。数年後、彼女は『真実を知りたい』という切な願いを牧師に訴えて視力回復手術を受けたが、視力を得た彼女は現実を見てしまった。ジェルトリュードは『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう』(ヨハネによる福音書9:41)というイエスの言葉をかみしめる」。彼女の自殺で終わります。人の内面に濁流が流れているのだと私は気付かされたのでした。

 聖書を読む者は良い話で満ちていてほしいところですが、けっこう旧約では悪い話が出てきます。ソロモン王は与えられた知恵によって、イスラエル国に著しい繁栄をもたらすという歴史の流れを作り出しました。しかし、その流れの中で、もう一つの流れが起ころうとしていました。その主人公はエフライム人ヤロブアムです。
 彼はソロモンの若い有能な官吏として、エルサレムの要塞ミロの建設(破れをふさぐなど)のため、強制労働の監督をしていました(11:27-28)。彼は「手腕家であった。ソロモンはこの若者の働きぶりを見て、ヨセフの家のすべての役務を管理させた」程でした。しかし、彼は人々に同情的であったようで、ソロモンはその彼を殺そうとします。そこで、彼はエジプトに逃れ、シシャク王のもとにソロモンが死ぬまでいることになります(11:40)。
 ソロモンの子レハブアムが代わって王となりました(11:43)。この時、ソロモンの圧政に不満だった人々が使いをやって、ヤロブアムを呼び戻します。シシャク王は侵略政策をとっていたので、ヤロブアムを帰します。イスラエル国を分裂させ、弱体化させる目論見があったからです。そして、彼はイスラエルの全集団とともにやって来て、レハブアム王に言ったのです。「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう」(12:4)。ここにダビデ王朝に対立する人々の抗しがたい流れが巻き起っていたのです。
 王は三日したら答えると言って帰させます。王はソロモンに仕えた長老たちと竹馬の友の二者に相談して、答えを用意します。謙虚になって、彼らに仕え、親切な言葉をかけてあげれば、彼らはしもべになってくれるでしょうとの長老の助言を退けました。三日目、人々が集まってきた時、レハブアムは空威厳を示し、若者の言葉をそのまま言ってしまうのです。「私の父はおまえたちのくびきを重くしたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう」(12:11、14)。
 王が耳を貸さないと全会衆は見て取り、王には従わないと決断します。それは決定的でした。さらに、南北に分かれ、戦争になるところでしたが、かろうじて、それは避けられました。しかし、何ということでしょう。南北に分断してしまったのです。ヤコブの12人の子が12部族となり、同じ主を信じる部族連合として、長いエジプト在住の時も、出エジプトの激動の時も、荒野の危機においても、カナン入国の戦いにおいても、王国体制の転換の時も、ずっと12部族は一つで綿綿とやってきたのでした。それが北の10部族(イスラエル王国)と南の2部族(ユダ王国)に分裂してしまったのです。
 手腕家ヤロブアムと無能家レハブアムによって、綿綿と続いた一つの流れを二つに分けてしまう悲劇が起こったのです。しかし、その主原因はソロモンにあったと聖書は言います。「彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。…その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。…主の目の前に悪を行ない…主に従い通さなかった。…主は二度も彼に現われ、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかった」のです。
 それゆえ、神は怒り、裁きを告げます。「わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。…あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、…、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。」と。悪の源流はソロモンの神への反逆だったのです(1列王11:1-13)。その裁きの担い手の家来というのが、これまで述べたヤロブアムなのでした(11:26)。

◇止められない清流
 しかし、このような歴史の転換点で重要な働きをするのが預言者です。預言者には権力はないけれど、権威(神の)がありました。別れたばかりの北と南が戦闘態勢にあった時、それを止めたのは神の人シェマヤ。その神の言葉です。「主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエル人と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたのだから」(12:24)。そこで、彼らは主のことばに聞き従い、そのとおりに帰って行ったのです。
 さかのぼって、ソロモンの在世中、預言者アヒヤが野原でヤロブアムに会い、こう告げていました。主はこのように言われる。『ソロモンの不従順(反逆)のゆえ王国全部を滅ぼすところ。しかし、王国を引き裂き、十部族はヤロブアム、あなたに与える。わたしが選んだダビデとエルサレムに免じて、ソロモンの子には一部族だけ残す。“それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。”そして、あなたが主に従えば、あなたの王朝は長く続く』(1列王11:29-39要約)。
 小国であるにも関わらず、それが二つに分かれ、この先どうなるかわからない暗い時代を迎えてしまったのです。しかし、預言者は光を投げかけます。ソロモンに言った言葉ですが、「彼の息子には一部族を与え、わたしの名を置くためにわたしが選んだ都エルサレムで、わが僕ダビデのともし火がわたしの前に絶えず燃え続けるようにする」(11:36共同訳)。ともし火が絶えず燃え続けるようにすると言うではありませんか。
 かつて、イスラエルが無政府状態のような混乱期に、「神のともしびは、まだ消えず」と聖書は述べ(1サムエル3:3)、少年サムエルが神のみ声を聴き、その聴いたみ言葉によって、国を治め、危機から救い出しました。
 分裂王国のその後ですが、罪を重ね、神に背く北イスラエルは大国の襲撃を受け滅亡。南ユダも風前の灯火。そこに登場したのが預言者。「彼はいたんだ足を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」と希望の預言をします(イザヤ42:3)。その彼とは神のしもべ、救い主です。ひとりのみどりごが私たちのため生まれる。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照る(9:2,6)。イエス・キリストにおいて成就したのです。私たちの罪を十字架において贖い、そのキリストに免じて、私たちは赦されるという光を見るのです。
 どんなに悪がはびこり、神に人々が反逆しようとも、神の歴史の清流は面々と流れ続けるのです。ともしびは消えず、延々と燃え続けるのです。