オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

甘い杯、苦い杯

2014-08-31 00:00:00 | 礼拝説教
2014年8月31日 主日礼拝(マルコ福音書14:32―42)岡田邦夫

 「また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』」マルコ14:23-24

 先週、気に入った言葉を見つけました。それは「一生を棒にふるような仕事がしたい」です。「新聞広告クリエーティブコンテスト」でコピー賞を受賞された吉岡龍昭さんの作品です(2011年度)。世の大人物の多くは仕事に熱中しすぎて、もしかしたらそのせいで人生を棒にふってしまった人たちなのではないか。もっと違った人生を歩めたかもしれないしけれど、ただ、歴史に名を残すような人たちはみな何かと引き換えにして大きなことをやってきたのでしょう。という意味で生まれたのがこのコピー。「一生を棒にふるような仕事がしたい」。

◇ベタニヤにて
 主イエスがエルサレムに入城された時には、人々から、「ホザナ、ホザナ」と賛美のもとに迎えられました。しかし、裏では祭司長、律法学者たちがどうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるかとけんめいな話し合いをしているという険悪な状況になっていました(マルコ14:1)。そのような中で、一生を棒にふるような事をした女性が現れます。主イエスはベタニヤ村のシモンの家で食卓に着いた時のことです。ひとりの女性が客人をもてなすユダヤの風習を行いました(14:3-)。純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだのです。香油の香りが部屋いっぱいに広がりました。その香りは家中の人を心地よくしたのでしょうが、何人かが怒り、女性を責めるのです。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」。
 しかし、主イエスは女性の行為を弁護します。この純粋な女性の行いを困らせるものではない。貧しい人はいつもいるし、あなたたちがいつでも援助できる。しかし、わたしはあなたたちにともういっしょにはいられない。そして、この人の行為を絶賛します。「この女は、自分にできること(口語訳・できる限りの事)をしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」(14:8-9)。
一日の給料が一デナリですから、三百デナリのものが一瞬に空間に消えていくのです。彼女にとって、これは一生を棒にふるような事だったかもしれません。しかし、主イエスによれば、全人類を救うというみ業に、彼女は参与したのだから、立派だというのです。私は牧師として、今、心にあるみ言葉は「この女はできる限りの事をしたのだ。」です。人にどう評価されるか、主イエスにどう言われるか、それは脇に置いておいて、とにかく、今できる限りの事をするようにと示されています。

◇ゴルゴダにて
 時は過越の祭りです。過越の食事をするのがならわし。弟子が聞きます。どこへ行って用意をしましょうかと。主イエスは先見者として、振る舞います。都に入りなさい。すると男に出会うからその家までついて行き、主人に会うように。そこで『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言えば、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれる。「弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした」のです(14:16)。ここに「用意」という言葉がくり返されています。香油のところでは埋葬の用意、ここでは「過越の食事の用意」。
 もし、イエス・キリストを世界偉人伝のひとりとしてみるならば、世界に最も影響を与えたキリスト教の教祖で、33才の若さで命を捧げ、冒頭の言葉をかりれば、「一生を棒にふるような仕事」を成し遂げた人物と言えましょう。しかし、主イエスは過越の食事の用意をし、埋葬の用意をし、自ら、行くべき道に進まれたのです。過越の祭りには人の罪の身代わりとして羊が犠牲としてほふられます。そのようなゴルゴダというほふり場を主は用意されていて、そのステージに向かってゆかれたのです。逆にこれをしなければ一生を棒にふってしまうのです。

◇ゲッセマネにて
 しかし、その道はあまりにも苦しいものでした(14:34-36)。ゲッセマネの園に主イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子だけ連れいき、祈ります。それは壮絶でした。「イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい』」。弟子にこのように言うのはここだけかも知れません。「それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください』」。
 こうして、三度祈られて、この「苦い杯」を飲む決意がかたまります。「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」(14:41-42)。罪人の贖いという人類の最大のチャンスが用意された、その時が来たのだと宣言されたのです。もし、人がえん罪でリンチにあい、なぶり殺しにされるとしたら、どんなにか悔しいか、痛みも倍加するでしょう。しかし、主イエスは無罪でありながら、これほど理不尽なことはないと思われる扱いを受け、呪われ処刑されていきました。それは神のなさることで、私たち、罪人の代わりに神が罰せられたのです。ですから、苦悩の言葉はでても、人を恨む言葉も、呪う言葉も出てきませんでした。むしろ、執り成しの祈りがありました。完全に苦難という「苦い杯」をのみほされたのです。

◇アパ・ルームにて
 ですから、私たちは主を信じて、その苦い杯を飲むことはないのです。贖われた者が飲む杯は甘いのです。最後の晩餐と呼ばれている過越の食事の時に、与えられた杯です(マルコ14:22-25)。主イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えられました。そして、「杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
 この杯は聖餐の杯です。罪の赦しの杯です。永遠の命の杯です。霊的祝福の杯です。神の子にしていただいたという喜びの杯です。主と共に生きられ
る幸せの杯です。苦しみにあい、辛いことにあう時の慰めの杯です。主を信じ、主に従いますと言わしめる聖霊の促しの杯です。天国に行けるという乾杯の杯です。その杯は恵みにあふれています(詩篇23:5)。ですから、主に従う生涯は一生を棒にふるような事ではないのです。その労苦は無駄にはならないとパウロは言います(1コリント15:58)。体のよみがえりがあるからです。イエス・キリストによって、復活が用意されているからです。

ありのままのあなた

2014-08-24 00:00:00 | 礼拝説教
2014年8月24日 伝道礼拝(イザヤ43:1-4)岡田邦夫

 「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなた形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなた名を呼んだ。あなたはわたしのもの。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:1、4a

 ディズニー映画「アナと雪の女王」がヒットし、テーマソング「Let It Go」が25カ国語で歌われ、話題となっています。日本語訳での特に響いてくるフレーズが「ありのままの姿見せるのよ/ありのままの自分になるの」です。聖書を見てみましょう。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなを愛している。」(43:4)。神はありのままのあなたを、高価で尊い、愛してると言ってくださるのです。勉強とか、スポーツとか、仕事とかが出来ても、来なくても、高価で尊い、愛していると言ってくださるのです。人からいい人だとか、出来る人だとか、言われるようが言われまいが、そのままのあなたを神は高価で尊いと思い、優しく愛しておらるのです。
 前に紹介しましたものをもう一度読んで見ましょう。「ある日の新聞に載っていた投稿です。『わたしは体の弱い十六歳の女の子です。学校でクラブに入っていますが、先輩たちが聞こえよがしに“の弱いやつは、いるだけで迷惑だ”といいます。でも私はおもうんです。人間、価値があるからきているじゃなくて、生きているから価値があるんだと』」(渡辺和子著「面倒だから、しよう」)。体が弱いから、役に立たない、クラブにいる価値がないというのではないのです。神はそのありのままのその女の子を高価で尊い、生きているだけで価値があるんだよと言っていてくださるのです。

 人はなぜ、悪ぶるんでしょうね。私は高校生の時は結構、悪ぶりましたね。時間外飲食(授業中)、器物破損、不正乗車、進路妨害等々。その時はそんなに悪いとは思っていませんでしたが、クリスチャンになってから、悔い改めました。カーネギーの「人を動かす」に書いてあります。人はどうして悪ぶるのか、それは自己の重要感を満たしたいからだと。そう見せて、自分が重要な存在だと思いたいのです。いい人であろうとする、しっかりした人であろうとする、正義の人であろうとする、知識人であろうとする。それは良いことです。ところが、「ぶる」がつくと自然ではないことがあります。いい人ぶる、しっかりした人ぶる、正義の人ぶる、知識人ぶる、それはカーネギーによると自己の重要感を満たしたいからだ、その欲求を満たしてあげることが人を動かす秘訣だというのです。
 しかし、神の御前で、人は「ぶる」必要はないのです。天地を造られ、あなたを創造された神が、高価で尊いと思っていてくださるのです。かけがいのない存在として、愛しておられるのです。

 さて、この聖書のみことばは1節の呼びかけからで始まります。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなた形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなた名を呼んだ。あなたはわたしのもの』」。
ヤコブもイスラエルも同じ人です。ヤコブという名前の由来はこうです。ヤコブは双子で、生まれる時、兄さんのかかとをつかんで出てきたという人。それで押しのける者という意味のヤコブと名付けられました。家を継ぐのは長男エサウにきまってる。お腹をすかして帰ってきたエサウにおいしい煮豆で誘惑して、家を継ぐ大事な権利と交換させしまう。父イサクが死ぬ間際、神の祝福を渡すが、その前にシカの肉を食べたいと長男エサウに言いつける。それを知った弟ヤコブ、山羊の肉を煮て、腕に毛皮を着けて、エサウになりすまし、父イサクから、祝福を受けてしまう。要するにだまして、奪ったのです。兄は帰ってきて、激怒。殺れるかも知れないと叔父ラバンの所に逃げていく。そこで好きになったリベカと結婚したいめに、七年働く。ところが姉のレアと結婚させられる。今度はだまされたのだ。でももう七年働て、好きな人と結婚。もう少し働いて、巧みに財産を得て、故郷に帰っていった。そうして、人をおしのけてきたヤコブ、神はその「ヤコブよ、恐れるな。」と言われるのです。
 続きがあります。イスラエルという名前の由来です。逃げてラバンの所に行く途中、石を枕にして野宿をした時、み使いがはしごを上り下りする素晴らしい夢を見た。ひとり荒野で神に出会ったのです。今度は帰り。自分を恨んでいて殺すかも知れない兄エサウに会うはめになる。心配でたまらない。

目をさましていなさい

2014-08-17 00:00:00 | 礼拝説教
2014年8月17日 主日礼拝(マルコ福音書13章)岡田邦夫


 「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。」マルコ13:35ー36

 昨日、バルナバの会でソロモンのところを学びあいました。そこで、ソロモンの書いた「伝道者の書」の3章の「すべての営みには時がある。…神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」。そのところが愛唱箇所だという方がおられ、お互い、共感したことでした。今日、お話ししたいことはその次の文です。「しかし、ひとは、神が行われるみわざを、始めから終わりまでみきわめることができない」。この「始めから終わりまで」、すなわち、「時」というのは人間にとって、みきわめることができない難問だということです。アウグスティヌスの有名な言葉があります。「時とは何か。だれも尋ねないときには、私は知っている。しかし尋ねられて説明しようと思うと、私は知らない」(告白)。身近なものですから、時というものを知っているようですが、あらためて考え出すとわからなくなってきます。時の流れを止められないし、時だけを取り出せない。あらゆることが時に関係しているが、正体を簡単にはつかめない。時というのは神秘に包まれています。ですから、宗教、哲学、科学、芸術、それぞれの分野で深く探求されてきたのです。
 しかし、聖書は啓示の書、神とのの関わりの中で、時が述べられています。聖書の冒頭は「初めに、神が天と地を創造した」、神が時を初めたのです(創世記1:1)。そして、聖書の終わりの黙示録には「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」と預言されています。(22:12-13)。イエス・キリストの再臨とともに終わりが来るのです。そして、聖書全体が救いの言葉です。「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マルコ13:31)。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます」(1ヨハネ2:17)。

◇終わりの前兆・歴史
 弟子の一人がエルサレム神殿の石がみごとだと言いますと、主イエスはこの神殿の石も崩される時がくると言われ、その後に弟子たちが質問します。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう」と(13:4)。地震でもその予知というのは今のところきわめて難しい問題です。ましてや、世の終わりの前兆は人はわかりません。しかし、主イエス・キリストはこう答えられました(13:5-23)。
 前兆の第一は偽キリストの出現。
 第二は戦争のことや戦争のうわさを聞くこと。
 第三は地震やききんが起こること。
 第四は弟子たちに対する迫害。
 第五は荒らす憎むべきものが、自分の立ってはならない所に立つのを見る。
 これらはイエス・キリストの近未来の預言でした。歴史上、起こりました。紀元70年、ユダヤ人の徹底抗戦に対して、ローマ軍(荒らす憎むべきもの)が容赦なく、エルサレムを崩壊させました。ユダヤ人らの依って立つ神殿も崩されました。実際にこのメッセージを知っていたユダヤ人が山に逃げて生き延びられた人たちもいました。また、この日はユダヤ人が世帯中に離散した日でもありました。しかし、これらはもっと先の世の終わりの前兆を示しているものです。

◇終わりの前兆・終末
 イエス・キリストが口を開いた最初の言葉は「人に惑わされないように気をつけなさい」ということでした。そのためには、落ち着いて聖書の真理と取り組み、臨在の神の前に祈ることです。
 迫害があっても、福音はあらゆる民族に宣べ伝えられるのが神のみこころであり、言うべきその証しは聖霊がしてくださるのだ言われます。そして、最後まで耐え忍ぶ人は救われると保証されます。
 おどすわけではないですが、「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日」、艱難時代が来ると言います。それは新しい世が現れる、新天新地が現れる、その産みの苦しみなのです。苦しいから、偽キリストが現れ、惑わされるのです。私たちはその先のことを知っていれば、気をつけていられるのです。
 その先とは「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」(13:25-27)。私たちの罪を贖い、永遠の命を与えるために、十字架にかかり、死んでよみがえり、神の右に座しておられるイエス・キリストが、偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのです。世を裁き、新天地をもたらし、救われたものたちは、神のもとに集められるのです。そこには民族と民族の争いはなく、絶対平和が訪れます。そして、死も涙もない世界です。復活した栄光のからだをもつ者たちが小羊イエス・キリストを賛美し、礼拝するのです。神が人と共にあり、人が神と共にあるのです。神との全き平和の世が永遠に続くのです。
 今生きる私たちは最も確かなもの、イエス・キリストの言葉、神の言葉をしっかり受け止め、思索し、祈り、信じていくことが大切です。しかし、時はわからないのです。終わりを来たらせるのは絶対的に神だからです。人の関与するところではないのです。私たちのすることは気をつけていることです。イエス・キリストはくり返して言います。「目を覚ましていなさい」と(13:33,35,37)。信仰の目を覚まし、いつ、主が来られても良いように信仰の備えをしておきましょう。魂の点検をし、いつまでも存続する「信仰と希望と愛」を備えておきましょう(1コリント13章)。

キリスト者の二重の生き方

2014-08-10 21:38:20 | 礼拝説教
2014年8月10日 主日礼拝(マルコ福音書12:13-17)岡田邦夫


 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。マルコ福音書12:17(口語訳)。

 書店にはたいてい「生き方」の本が並んでいます。キリスト者では日野原重明、曾野綾子、渡辺和子さん等の執筆のものが目につきます。短い言葉で端的に教えてくれるので、私も家内もつい買ってしまいます。聖書名句、名言というのもあります。そこで出てきそうなのが、この句です。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(12:17口語訳)。

 この発端というのは、ユダヤの指導者である、祭司長、律法学者、長老たちにとって、イエスという人物はいてはこまる存在、抹殺したいので、人を差し向け、わなに陥れようとしてこう言わせたのです。先生、真実な方で人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えていますと心にもないことを言って、難問を突きつけます。ローマ皇帝カイザルへの納税は律法にかなっているか、いないか…。イエス、ノー、どちらを答えても突っ込める、逮捕できるという言葉のわなです。カイザルの肖像のデナリ銀貨を見せ、この言葉でみごとに切り替えされたのです。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。これは私たちの今日の生き方を示しています。
 主イエスは神の国は近づいたと告げられました。言い換えれば、人の国の中に神の国が来た、人の支配する世界に神の恵みのご支配が始まったというのです。その神の国は主が再び来られる時には完全に神の支配される新天地になるということです。それまでは人の支配する国と神の支配される国という二重構造の世界に私たちは生きているということです。ですから、キリスト者は賢く生きるのです。カイザルのものはカイザルに、納税義務ははたします。人の国を良くしようと努めます。時には普通の人として生き、時には弱い者に手を差し伸べ、強い者と戦います。良きサマリヤ人となることを理想としたりします。どういう生き方をすべきの判断は、どれがより良いかという相対的なものです。しかし、キリスト者は絶対的な基準の中で生きます。「神のものは神に」です。神に栄光を帰していきるのです。神の恵みを受け、それに答えて生きようとするのです。それは礼拝であり、奉仕であり、伝道です。世の光、地の塩として、世に存在しているのです。そういう生き方が出来るようにと、父である神が聖霊を私たちに送られたのです。真のキリスト者というのは創造者がくださった知恵と、贖罪者がくださった聖霊の知恵をもって、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返すという、二つのものをこなしていく賢者なのです。

 これがわかれば、次の質問がいかにくだらないかがわかるのです。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』という法律があります。7人の兄弟がいて、兄が結婚したが子が生まれず死に、その妻が弟と再婚、またまた、子が生まれず死ぬという風にして、7人が死に、妻も死んだ。ひとりも生まれなかった。復活の際は、この女性は誰の妻なのかという質問です。
 子孫を残す救済処置の法律です。ユダヤというこの世の法律です。しかし、復活というのはかの世のことです。天使のように完全な体に復活し、完全な新天地にいれられるのですから、この世の結婚制度を超えているのです。この世の物差しでかの世のことをはかるなということです。かの世のこと、復活のことは、論じるものでなく、信じるものなのです。主イエスのお答えは明確です。「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」(12:26-27)。パスカルの言葉を思い起こします。私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、生ける神、イエス・キリストの神に回心する。

 生ける神の支配に生きなければならない律法学者が人の世をわがもの顔で生きいるのを痛烈に批判します(12:38-40)。
 しかし、聖書の命令(律法)の中で最も重要な精神は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」だと言われた主イエスの言葉にこう答えた人がいます(1228-34)。その「ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」。そう賢い返事をした律法学者を主イエスは。「あなたは神の国から遠くない。」とお褒めになりました。神の国に生きる生き方の急所をつかんでいるからです。神のものを神に返す生きるのは、儀式的なこと、形式的なことではなく、神を愛し、隣人を愛して生きようとする精神が重要なのです。
 そのモデルがやもめの献金です(12:41-44)。金持ちがこれ見よがしに大金を献金箱に入れる。そんな中、貧しいやもめがレプタ銅貨二つを投げ入れた。1コドラントに相当する。通常、一日に賃金が1デナリ。その64分の1が1コドラント。実にわずかです。しかし、主イエスは見逃さない。絶賛します。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」。人に賞賛されなくてもいい、人の世で貧しくても、神を第一にし、神をひたすら愛して生きている姿がそこにあります。神に栄光を帰して生きているのです。もしかしたら、見栄をはった金持ちよりも謙虚な貧しいやもめの方が精神的に充実していたかも知れないと私は想像してしまいます。

 最後に、キリスト=救い主=メシヤはダビデの子かという議論のところにいきましょう(12:35-37)。ダビデは王、支配者です。ダビデの子孫から、やがて現れる神の国の支配者がでるという預言がありました。主イエスはその神の国の恵みの支配者なのです。人となられ、人類の罪を贖うために十字架にかかり、死んでよみがえられた、そのイエス・キリストが支配者なのです。このところではそれをご自分だと宣言していませんが、このみ言葉の預言のように、復活され、昇天されたのです。ペンテコステの時に、弟子たちがこのみ言葉をもって証言します。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい」』(詩篇110:1)。
 人の国では罪と死を克服できません。しかし、神の国では、イエス・キリストが十字架にかかり、よみがえり、昇天されたからこそ、信じる者が罪と死を克服できるのです。ですから、キリスト者はカイザルの銀貨を見ながら、人に国のために生き、私たちを愛し、恵み、祝福されるイエス・キリストのお姿を見ながら、神の国のために生きるのです。その二重に生きる奇跡の人なのです。

神の逆転

2014-08-03 00:00:00 | 礼拝説教
2014年8月3日 主日礼拝(マルコ福音書11:1-11)岡田邦夫


 「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」マルコ12:10

 先々週の金曜に会議で猛暑の中、東京に日帰りで行ってきました。この会議がまたしんどい会議だったので、疲れ果てました。しかし、日曜はそーめん流しの楽しいイベントでホッとしました。続いて、先週の水、木、金と奥琵琶湖キャンプ場での小学生キャンプに参加。、最後の集会のメッセージをさせてもらいました。子どもは好きですが、一日中、子どもの甲高い声とスタッフの指示や注意の声につきあうのはさすがに相当疲れた。年のせい。でも良い疲れでした。
 今日の聖書箇所はイエス・キリストがエルサレムに入場し、受難の一週間の始まるところです。その一週間、疲れ果てるまで、すべてを注ぎ込んで、神の救いのみ業を成し遂げられたのです。

 「ルーズヴェルト・ゲーム」という小説がありますが、その言葉の由来ははこうです。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領がこのようなことを言った。「終盤、4-7から逆転して決着がつくゲームが一番面白い」。彼の言葉から「8-7」で逆転する野球の試合のことをルーズヴェルト・ゲームというようになったということです。神の救いのみ業ということからすると、逆転の逆転の展開をなしていくのがイエス・キリストの受難の出来事です。
 イエスはご自分が救い主であることを人々にはあからさまには言わず、わかる人にはわかる「人の子」という言葉を使われました。ダニエル書にある「人の子が雲に乗ってくる」の人の子です。しかし、時が熟したので、行動で示し始めます。それがエルサレム入場です。ゼカリヤ書に救い主・メシヤはオリーブ山に現れるとの預言があり、「彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出」すのです(11:1)。イエスは弟子に向こうの村で乗ったことないろばの子を調達して来るように、なぜときかれたら、「主がお入り用なのです。」すぐ返すからと言うようにも指示します。その通り、ろばの子を連れてくると、弟子は上着を掛け、イエスはそれに乗られたのです。
 こうして、イエス・キリストは軍馬に乗ってではなく、ろばの子に乗って平和の君としてエルサレムに登場されたのです。多くの人が上着をぬいで道に敷く。ほかの人は野原から木の枝を切ってきて、それを道に敷く。その上をろばに乗ったイエスは進み行く。前に行く人も後からついて行く人もどうぞ救ってください=ホサナと叫んだ(11:10)。
 「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来
た、われらの父ダビデの国(=メシヤ王国)に。ホサナ。いと高き所に。」
 この光景はあきらかにゼカリヤ書9:9の預言の成就です。
 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜(たま)わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」。
 しかし、この「ホサナ」と叫びイエスを歓迎した人々が、数日後には「十字架にかけろ」と叫ぶようになるのです(15:13-14)。人というのは何とも罪深い者なのだろうか。
 おとなしく入城された主イエスですが、エルサレム神殿に入られた時は激怒します。「イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった」(11:16)。そして、メッセージします。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです」(11:17、イザヤ56:7)。実に厳しいお言葉です。今日の私たちにあてはめ、教会は祈りの家だということを心したいと思います。
 こうして、真実を告げ、みこころを行う主イエスを良くは思わない、神殿側の人たちがいます。「祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである」と。主イエスは祭司長、律法学者たちの反発、殺意、計画を想定しての行動でした。それを受けて立つ決意はゲッセマネで固まっていたからです。
 このような神殿や宗教家、民衆の信仰的腐敗を嘆き、その象徴として実のならないいちじくの木をのろい、枯らしたのです(11:12-16,21)。しかし、弟子たちには前向きなメッセージをされました(11:22-25)。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」。先ほどの神殿浄化の時も祈りの重要さを告げられましたが、ここでも、祈りの力、その素晴らしさを教えています。
 そして、祈っているとこのことに突き当たります。赦しです。赦すということは山を動かすほど大変なことです。そうではありませんか。主イエスはこう告げます。「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」。祈りは山を動かすのです。この祈りが紛争の絶えない今日の世界に広がってほしいものです。また、私たちは身近な所から小山を動かしていきたいですね。

 陰でイエスを殺そうかと相談していた連中、祭司長、律法学者、長老たち(宗教家のトップであり国会議員)が主イエスに何の権威によって、神殿浄化をしたのかと尋問します。逮捕して死刑にでもしようかとのもくろみです。しかし、主イエスの見事な切り返しで、つけいる隙がありませんでした(11:27-33)。今は負けるわけにはいかないからです。
 しかし、これから起ころうとしていること、それは人間のどろどろした悪意と行動、それさえも足がかりに神の救いの業が展開されていくことを預言的たとえで主イエスは話されました(12:1-12)。ある人は神、ぶどう園はイスラエル、農夫は宗教的指導者、愛する息子はイエス・キリスト。彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去ったのです。そのたとえとは、
 「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はず
かしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、
殺したりした。その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』(詩篇118:22)」。
 十字架に大逆転があるのです。私たちのユダヤ人と同罪です。十字架にかけよと言って、愛する御子を殺してしまったのです。しかし、その見捨てた石が建築でいう礎石、土台になったのです。主イエスこそ恨みをはらそうとはしませんでした。赦したのです。殺害計画を不当な裁判を起こし、まんまと実行した祭司長、律法学者、長老たち、ホザナと言った口が「十字架につけろ」と叫んだ群衆、のろいを浴びせる群衆ととなりの強盗、刑を執行した総督、実行した兵士たち、ただただ、恐れて遠巻きにしていた弟子たち、それらの人たちを赦し、父よ、彼らをお赦しくださいと取りなされたのです。私たちもそこにいたのです。私たちがイエス・キリストを見捨て、殺したのです。イエス・キリストは私たち罪人を恨んでも恨んでも、永遠に恨み続けられるはずなのに、その大山を海に捨てたのです。父なる神の御前に自分を犠牲にして赦したのです。捨てられたように見えて、私たちの永遠の救いの土台となられたのです。実に不思議千万です。