2014年8月31日 主日礼拝(マルコ福音書14:32―42)岡田邦夫
「また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』」マルコ14:23-24
先週、気に入った言葉を見つけました。それは「一生を棒にふるような仕事がしたい」です。「新聞広告クリエーティブコンテスト」でコピー賞を受賞された吉岡龍昭さんの作品です(2011年度)。世の大人物の多くは仕事に熱中しすぎて、もしかしたらそのせいで人生を棒にふってしまった人たちなのではないか。もっと違った人生を歩めたかもしれないしけれど、ただ、歴史に名を残すような人たちはみな何かと引き換えにして大きなことをやってきたのでしょう。という意味で生まれたのがこのコピー。「一生を棒にふるような仕事がしたい」。
◇ベタニヤにて
主イエスがエルサレムに入城された時には、人々から、「ホザナ、ホザナ」と賛美のもとに迎えられました。しかし、裏では祭司長、律法学者たちがどうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるかとけんめいな話し合いをしているという険悪な状況になっていました(マルコ14:1)。そのような中で、一生を棒にふるような事をした女性が現れます。主イエスはベタニヤ村のシモンの家で食卓に着いた時のことです。ひとりの女性が客人をもてなすユダヤの風習を行いました(14:3-)。純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだのです。香油の香りが部屋いっぱいに広がりました。その香りは家中の人を心地よくしたのでしょうが、何人かが怒り、女性を責めるのです。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」。
しかし、主イエスは女性の行為を弁護します。この純粋な女性の行いを困らせるものではない。貧しい人はいつもいるし、あなたたちがいつでも援助できる。しかし、わたしはあなたたちにともういっしょにはいられない。そして、この人の行為を絶賛します。「この女は、自分にできること(口語訳・できる限りの事)をしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」(14:8-9)。
一日の給料が一デナリですから、三百デナリのものが一瞬に空間に消えていくのです。彼女にとって、これは一生を棒にふるような事だったかもしれません。しかし、主イエスによれば、全人類を救うというみ業に、彼女は参与したのだから、立派だというのです。私は牧師として、今、心にあるみ言葉は「この女はできる限りの事をしたのだ。」です。人にどう評価されるか、主イエスにどう言われるか、それは脇に置いておいて、とにかく、今できる限りの事をするようにと示されています。
◇ゴルゴダにて
時は過越の祭りです。過越の食事をするのがならわし。弟子が聞きます。どこへ行って用意をしましょうかと。主イエスは先見者として、振る舞います。都に入りなさい。すると男に出会うからその家までついて行き、主人に会うように。そこで『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言えば、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれる。「弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした」のです(14:16)。ここに「用意」という言葉がくり返されています。香油のところでは埋葬の用意、ここでは「過越の食事の用意」。
もし、イエス・キリストを世界偉人伝のひとりとしてみるならば、世界に最も影響を与えたキリスト教の教祖で、33才の若さで命を捧げ、冒頭の言葉をかりれば、「一生を棒にふるような仕事」を成し遂げた人物と言えましょう。しかし、主イエスは過越の食事の用意をし、埋葬の用意をし、自ら、行くべき道に進まれたのです。過越の祭りには人の罪の身代わりとして羊が犠牲としてほふられます。そのようなゴルゴダというほふり場を主は用意されていて、そのステージに向かってゆかれたのです。逆にこれをしなければ一生を棒にふってしまうのです。
◇ゲッセマネにて
しかし、その道はあまりにも苦しいものでした(14:34-36)。ゲッセマネの園に主イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子だけ連れいき、祈ります。それは壮絶でした。「イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい』」。弟子にこのように言うのはここだけかも知れません。「それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください』」。
こうして、三度祈られて、この「苦い杯」を飲む決意がかたまります。「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」(14:41-42)。罪人の贖いという人類の最大のチャンスが用意された、その時が来たのだと宣言されたのです。もし、人がえん罪でリンチにあい、なぶり殺しにされるとしたら、どんなにか悔しいか、痛みも倍加するでしょう。しかし、主イエスは無罪でありながら、これほど理不尽なことはないと思われる扱いを受け、呪われ処刑されていきました。それは神のなさることで、私たち、罪人の代わりに神が罰せられたのです。ですから、苦悩の言葉はでても、人を恨む言葉も、呪う言葉も出てきませんでした。むしろ、執り成しの祈りがありました。完全に苦難という「苦い杯」をのみほされたのです。
◇アパ・ルームにて
ですから、私たちは主を信じて、その苦い杯を飲むことはないのです。贖われた者が飲む杯は甘いのです。最後の晩餐と呼ばれている過越の食事の時に、与えられた杯です(マルコ14:22-25)。主イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えられました。そして、「杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
この杯は聖餐の杯です。罪の赦しの杯です。永遠の命の杯です。霊的祝福の杯です。神の子にしていただいたという喜びの杯です。主と共に生きられ
る幸せの杯です。苦しみにあい、辛いことにあう時の慰めの杯です。主を信じ、主に従いますと言わしめる聖霊の促しの杯です。天国に行けるという乾杯の杯です。その杯は恵みにあふれています(詩篇23:5)。ですから、主に従う生涯は一生を棒にふるような事ではないのです。その労苦は無駄にはならないとパウロは言います(1コリント15:58)。体のよみがえりがあるからです。イエス・キリストによって、復活が用意されているからです。
「また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』」マルコ14:23-24
先週、気に入った言葉を見つけました。それは「一生を棒にふるような仕事がしたい」です。「新聞広告クリエーティブコンテスト」でコピー賞を受賞された吉岡龍昭さんの作品です(2011年度)。世の大人物の多くは仕事に熱中しすぎて、もしかしたらそのせいで人生を棒にふってしまった人たちなのではないか。もっと違った人生を歩めたかもしれないしけれど、ただ、歴史に名を残すような人たちはみな何かと引き換えにして大きなことをやってきたのでしょう。という意味で生まれたのがこのコピー。「一生を棒にふるような仕事がしたい」。
◇ベタニヤにて
主イエスがエルサレムに入城された時には、人々から、「ホザナ、ホザナ」と賛美のもとに迎えられました。しかし、裏では祭司長、律法学者たちがどうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるかとけんめいな話し合いをしているという険悪な状況になっていました(マルコ14:1)。そのような中で、一生を棒にふるような事をした女性が現れます。主イエスはベタニヤ村のシモンの家で食卓に着いた時のことです。ひとりの女性が客人をもてなすユダヤの風習を行いました(14:3-)。純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだのです。香油の香りが部屋いっぱいに広がりました。その香りは家中の人を心地よくしたのでしょうが、何人かが怒り、女性を責めるのです。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」。
しかし、主イエスは女性の行為を弁護します。この純粋な女性の行いを困らせるものではない。貧しい人はいつもいるし、あなたたちがいつでも援助できる。しかし、わたしはあなたたちにともういっしょにはいられない。そして、この人の行為を絶賛します。「この女は、自分にできること(口語訳・できる限りの事)をしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」(14:8-9)。
一日の給料が一デナリですから、三百デナリのものが一瞬に空間に消えていくのです。彼女にとって、これは一生を棒にふるような事だったかもしれません。しかし、主イエスによれば、全人類を救うというみ業に、彼女は参与したのだから、立派だというのです。私は牧師として、今、心にあるみ言葉は「この女はできる限りの事をしたのだ。」です。人にどう評価されるか、主イエスにどう言われるか、それは脇に置いておいて、とにかく、今できる限りの事をするようにと示されています。
◇ゴルゴダにて
時は過越の祭りです。過越の食事をするのがならわし。弟子が聞きます。どこへ行って用意をしましょうかと。主イエスは先見者として、振る舞います。都に入りなさい。すると男に出会うからその家までついて行き、主人に会うように。そこで『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言えば、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれる。「弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした」のです(14:16)。ここに「用意」という言葉がくり返されています。香油のところでは埋葬の用意、ここでは「過越の食事の用意」。
もし、イエス・キリストを世界偉人伝のひとりとしてみるならば、世界に最も影響を与えたキリスト教の教祖で、33才の若さで命を捧げ、冒頭の言葉をかりれば、「一生を棒にふるような仕事」を成し遂げた人物と言えましょう。しかし、主イエスは過越の食事の用意をし、埋葬の用意をし、自ら、行くべき道に進まれたのです。過越の祭りには人の罪の身代わりとして羊が犠牲としてほふられます。そのようなゴルゴダというほふり場を主は用意されていて、そのステージに向かってゆかれたのです。逆にこれをしなければ一生を棒にふってしまうのです。
◇ゲッセマネにて
しかし、その道はあまりにも苦しいものでした(14:34-36)。ゲッセマネの園に主イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子だけ連れいき、祈ります。それは壮絶でした。「イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい』」。弟子にこのように言うのはここだけかも知れません。「それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください』」。
こうして、三度祈られて、この「苦い杯」を飲む決意がかたまります。「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」(14:41-42)。罪人の贖いという人類の最大のチャンスが用意された、その時が来たのだと宣言されたのです。もし、人がえん罪でリンチにあい、なぶり殺しにされるとしたら、どんなにか悔しいか、痛みも倍加するでしょう。しかし、主イエスは無罪でありながら、これほど理不尽なことはないと思われる扱いを受け、呪われ処刑されていきました。それは神のなさることで、私たち、罪人の代わりに神が罰せられたのです。ですから、苦悩の言葉はでても、人を恨む言葉も、呪う言葉も出てきませんでした。むしろ、執り成しの祈りがありました。完全に苦難という「苦い杯」をのみほされたのです。
◇アパ・ルームにて
ですから、私たちは主を信じて、その苦い杯を飲むことはないのです。贖われた者が飲む杯は甘いのです。最後の晩餐と呼ばれている過越の食事の時に、与えられた杯です(マルコ14:22-25)。主イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えられました。そして、「杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
この杯は聖餐の杯です。罪の赦しの杯です。永遠の命の杯です。霊的祝福の杯です。神の子にしていただいたという喜びの杯です。主と共に生きられ
る幸せの杯です。苦しみにあい、辛いことにあう時の慰めの杯です。主を信じ、主に従いますと言わしめる聖霊の促しの杯です。天国に行けるという乾杯の杯です。その杯は恵みにあふれています(詩篇23:5)。ですから、主に従う生涯は一生を棒にふるような事ではないのです。その労苦は無駄にはならないとパウロは言います(1コリント15:58)。体のよみがえりがあるからです。イエス・キリストによって、復活が用意されているからです。