オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神の消しゴム

2013-07-28 00:00:00 | 礼拝説教
2013年7月28日 伝道礼拝(イザヤ44:21-23)岡田邦夫


 「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」。イザヤ43:25

 三島由紀夫やトルストイは自分が生まれた時の光景を克明に覚えていると述べています。幼稚園の年少組に聞くと胎児の時や産道を出てくる時の感覚を話す子どもがいます。小学生になるとほとんど忘れてしまうと言います。それはその様な記憶を消してしまう脳の機能があるようです。前に進んで生きていくために、神がその記憶を消されるのではないかと思います。
 百歳の詩人といわれた柴田トヨさんの詩集「くじけないで」に“ことば”という詩があります。
 「何気なく/言ったことばが/人をどれほど/傷つけていたか/後になって/気がつくことがある/そんな時/私はいそいで/その人の/心のなかを尋ね/ごめんなさい/と言いながら/消しゴムと/エンピツで/ことばを修正してゆく」。
 あの時、ああすれば良かった、こうすれば良かった、選択を間違えた、失敗だった…など、後悔するような過去の記憶。人からあんな辛い思いをさせられた、状況から苦しい思いをさせられたなど…、悔しい思いが残る過去の記憶。それは消したくてもなかなか消すことの出来ないものです。しかし、意を決して、その過去の記憶を解釈し直して、人のせいにも、自分のせいにもせず、私の人生、これでしかなかったし、これで良かったと、人生ノートを消しゴムとエンピツで修正することは可能でしょう。
 しかし、どうしても消すことの出来ない記憶があります。それは何かいけないことを言ってしまった、やってしまった、思ってしまったという良心の呵責、罪責感のともなう罪跡です。それはきっと神が消さないからでしょう。それでは人は救われないので、イエスが遣されて、十字架において私たちに代わって、罪の責め、神の裁きをすべて受けてくださり、贖いをなし遂げてくださいました。そのことを信じて、悔い改めるなら、その罪跡は消しゴムで消すように神が消してくださるのです。
 神ご自身が「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」(イザヤ43:25)。それが神の国に入れる「記録」となるのです。
(日本ホーリネス教団伝道新聞「きぼう」に掲載)

キリストの再臨

2013-07-21 00:00:00 | 礼拝説教
2013年7月21日 主日礼拝(使徒の働き1:6-11)岡田邦夫


 「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」使徒の働き1:11

 人生、死ぬ前に何を食べたいかという「最後の晩餐」というテレビ番組がありました。イエスが十字架にかけられる前夜に、十二弟子と共にとった夕食を最後の晩餐(The Last Supper)と言われていますから、キリスト者としてはあまり使ってほしくないタイトルでした。

◇最後なのか
 ただ、最後の晩餐というのはダビンチの絵画など知られているのですが、聖書には最後だとは記してなく、復活されてからもイエスは弟子たちと食事をしています(ルカ24:43、ヨハネ20:9-14)。むしろ、聖餐を制定された大事な時なので、「主の晩餐」と言います。その中でこれはわたしのからだ、これはわたしの血であると言われた後、こう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マルコ14:25)。神の国で新しく飲む日があることをはっきり示しています。
 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」というイザヤの預言の中にこういう光景が描かれています。「彼らは…ぶどう畑を作って、その実を食べる。…彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ」(65:17、21、22)。「さらに、狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」という絶対平和の世界です(65:25)。
 空腹の五千人の人たちをイエスが五つのパンと二匹の魚を祝福して、満腹させた奇跡は神の国の盛大な宴会を意味していました。これをメシヤの饗宴(救い主の宴会)と言います。十字架にかかり、復活され、昇天されたイエス・キリストによって、霊的にはふるまわれているのですが、やがて現れる新天地において、まったきふるまい、メシヤの饗宴がなされるのです。

◇再来なのか
 主の晩餐の時にこうも言われました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。…あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14:2-3)。昇天され、「また来て」あなたがたを迎える(再臨)と約束されました。人生において「また来る」というのは救いの言葉です。孫が来るのは祖父母には楽しみです。来て嬉しい、帰って嬉しいわけですが、「また来るね」という言葉に癒されます。病気に方を見舞います。キリスト者が別れる時に、「またね」とお別れする言葉は救いです。生きていれば地上でまた会いましょうで、もし召されても天国でまた会いましょうなのですから…。それが主イエス・キリストが言われるのですから、「また来る」は決定的な救いの言葉です。
 復活された主は40日弟子たちに現れ、聖霊が使徒たち(教会)の上に降り、地の果てまで証人になることを約束され、天に上げられて行きました。昇天です。その時に御使いが窮めて重要なことを告げました。使徒の働きにこう記録されています(1:9ー11)。「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」。またおいでになります、また来ると約束されたのです。「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ」るというダニエル書の預言と符合します(7:13)。イエスもそれを言っておられました。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです」(マルコ14:62)。

◇襲来なのか
 ところが、来て嬉しい、帰って嬉しいではなく、イエス・キリストの再臨の場合は「来て怖ろしい、来て嬉しい」なのです。
 その怖さは人間の罪がもたらすものです。イエスはこう終末について正しく述べられました(マルコ13:4-37)。再臨の前の前兆の第一は偽キリストの出現、第二は戦争や戦争のうわさ、第三は地震やききん、第四は迫害、第五は荒らす憎むべきものであると主は予告され、目を覚ましているようにと勧めました。再臨のしるしとして、天変地異があり、「人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来る」のです。そして、選ばれた民=主を信じた者たちが集められます。「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです」。
 そこで、最後の審判がなされるのです。大審判と言った方が良いでしょう。権威をもって来られた人のこの前で、国家も、民族も、個人も裁かれます。裁きは神の家からという原則でなされます。そこで、明白なのはちょうど出エジプトの時に羊の血が門口にぬられた家は「過ぎ越して」神の裁きをまぬかれたように、イエス・キリストの血によって贖われた者たちは裁きをまぬかれ、新天地に移されるのです。人間の罪によって混乱し、腐敗し、悲惨な状態になっていた、理不尽な状況に、イエス・キリストが決着をつける日なのです。その向こうから、新しい天と地がやって来るのです。

◇再臨である
 そこは神が人と共にあり、人が神と共にあり、それを妨げるなにもない、サタンは砕かれてしまい、病いも、死もない、命にあふれ、喜びと平安にみち、争いはなく、絶対平和な世界で、神だけが崇められ、賛美され、豊かな礼拝がなされるのです。「未来」・未だ来ないことですが、「将来」・将(まさ)に来ること、将来することなのです。時計が刻む延長線上ではなく、未来がこっちにやって来るという逆時計で再臨があるのです。ガンなどで死を宣告された人は死の時から逆算して生きるように、終末を意識した生き方、目を覚ました生き方をお互いにしてまいりましょう。来られて怖いけど、来られて嬉しいと思って、信仰に生きましょう。
 「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」。ガリラヤのところを教
会などの言葉に入れ替えて、み言葉を聞いてみましょう。そして、メシヤの饗宴に招かれていることに、胸ふくらませ、その先取りとしての共同体の聖餐の恵みに感謝し、その先取りとしての個人的な日ごとのみ言葉の糧に満ち足りていきましょう。

キリストの復活

2013-07-14 00:00:00 | 礼拝説教
2013年7月14日 主日礼拝(ヨハネ福音書20:24-29)岡田邦夫


 「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのです」(1コリント15:20口語訳)。

 先週の礼拝は四泉教会合同で私が説教、このような機会はそうないと思い、凝った構成で御用をさせていただきました。私の苦手とするところですが、いくつかのキーワードを織りなしながら、話を進めていくという、バイブル・リーディングというものに挑戦してみたわけです。その時の中心のキーワードは「つながらないものをつなぐ」でしたが、今日お話しする復活についても、それがあてはまります。
 人は死んで終わり、その後がない、その後は想像の世界、というのが一般的通念でしょう。「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」と伝道者は言い、だから、若い日に創造者を覚えよとメッセージがなされています(3:19ー3:20)。試練の中のヨブは嘆きます(14:7、14:14)。「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない」。「人が死ぬと、生き返るでしょうか」。しかし、試練のどん底から、その向こうに復活の光を見るのです。復活の預言です。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」(19:25)。
 旧約においては死後の復活はおぼろげであったのですが、イエス・キリストはこれを真昼のように明らかにされたのです。復活を説き、指し示しただけではなく、私たちに先立ち、ご自身が初穂として復活されたのです(1コリント15:20)。

◇復活の事実
 十字架からおろされたイエスのご遺体はアリマタヤのヨセフの墓に葬られました。金曜の午後だったので、その日没から安息日になるため、亜麻布をまくだけで、香油をぬるなど、葬りの用意を出来ず仕舞いでした。日曜日、すなわち安息日あけの朝、イエスに従う女性たちが香油をもって、墓に行く。大きな墓石がころがしてあり、墓は亜麻布だけで、イエスのご遺体がない。そこで、御使いも現れますが、復活されたイエス・キリストがマグダラのマリヤに現れます(マルコ16:9、ヨハネ20:14)。その驚きようは大変なものでした。それが最初です。他の記録ですと、女性たちが復活のイエスに出会ったとあります(マタイ28:10)。それは弟子たちに伝達するためでもありました。エマオ村に向かって道行く二人の弟子にも現れました。初めは普通の旅人にしか見えなかったのですが、聖書が解き明かされ、二人の心が燃やされ、宿について、パンをさかれるのを見て、目が開かれて、イエスだとわかったという感動の出会いでした(ルカ24:13-34)。二人はもどって、仲間の弟子たちにこのことを伝えます。
 復活の主に最初にであった、これらの人たち、最初はわからないのですが、目が開かれてわかります。死んだはずのイエスがここにいて生きている、生前のイエスである、それこそ、つながらないのにつながっている。専門用語で言うなら「非連続の連続」なのです。生前のイエスと死後のイエスと全く変わらず、同じ方でつながっている。しかし、死ぬべき体は栄光の体によみがって、全く違うものになっている。非連続なのです。
 そして、集まってる弟子たちに現れました。聖書をそのまま読みましょう。「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。』それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった」(ルカ24:36-43 )。
 「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのです」(1コリント15:20口語訳)。

◇信仰の事実
 まだ、復活の主に出会った弟子がいます。それがトマスです。先ほどの弟子たちに主が現れた時にいなかったのがトマス。出会ってないからこう言うのです。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネ20:25)。その続きは聖書を読みましょう。「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた。それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」(ヨハネ20:26ー29)。
 疑い深いトマスだとか、不信仰のトマスだとか、レッテルが貼られていますが、それではトマスに失礼です。疑い深く、不信仰だったのはトマスに限らず、弟子たちはみなそうだったのです。聖書に書いてあります。むしろ、トマスは復活の主としっかり向き合い、信じる者になりなさいと言われ、しっかりと信じたので、わざわざ、ヨハネは記事にしたのです。「私の主。私の神。」と信仰告白をしたではありませんか。最高の応答をしたのです。ですから、ヨハネはこう文章をつなげます。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(20:31)。
 イエス・キリストが事実、復活されたとしても、信じなければ、意味がなく、空しいだけです。トマスは使徒ですから、見て信じたのですが、私たちはそれらのキリスト復活の証人たちがいて、証言があって、見ないで信じるのです。ペンテコステの日に降った聖霊がそうさせてくれるのです。信じる者には永遠の命は与えられ、キリスト再臨の時に、主と同じ栄光の体によみがえるのです。聖なるイエスに罪深い人間がつながるはずはないのですけれど、主が十字架において、罪の赦し、贖いをなし遂げられて、主を信じるものとの間の壁が取り払われ、親密につながりを持つようになったのです。
 そればかりではなく、「私の主。私の神。」と信じるということはキリストと共に死にキリストと共に生きるということです。イエス・キリストと私とが合体することなのです。イエスの生涯と私の生涯の合体なのです。結びつかないものを結びつけるのが聖霊です。死は死でも復活に向かう死なのです。これこそが最も大事な福音なのです(1コリント15:3)。わが復活を信じましょう。「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのです」(1コリント15:20口語訳)。

「召命、証明、照明」

2013-07-07 00:00:00 | 礼拝説教
2013年7月7日 四泉合同礼拝(ルカ福音書5:1-11)岡田邦夫


 すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。(ルカ福音書5:11)

 先月のこと、教団の牧師の機関誌「牧ナビ」(牧会ナビゲーションの略)から原稿依頼がありました。「寅さんに学ぶ伝道」というテーマです。48作も続いた映画「男はつらいよ」のその寅さんとキリスト教というのはおおよそつながりはないのですが、それを書いてくれという注文です。私はそれをおもしろく書いて6月末には原稿を送りました。こういう「つながらないものをつなぐ」というのは自分に向いているのかも知れない。牧師になる前は化学会社の研究室の助手をしていた。Aという化学物質とBという化学物質、そのまま混ぜても加熱しても、何しても反応しない。ある触媒を入れると途端に反応して、Cという化学物質になる。そういう感覚です。日常で「つながらないものをつなぐ」というのをやってるのが、シャレです。今日の説教題もそれです。「召命、証明、照明」。意味は全然つながってはいないが、音が同じで愉快だというものです。
 ところで、「つながらないものをつなぐ」というのは信仰の世界ではたいへん重要なことなのです。イエスという方はその名人だったと言っても良いでしょう。今日はその話をしましょう。

 ガリラヤ地方にあるゲネサレ湖という湖で漁をするシモンとその仲間の漁師がいた。これで生計を立てている。めぼしいポイントで、夜通し、網を打っては引き上げ、打っては引き上げするが魚がいっこうにかからない。不漁だった。しかたなく舟を岸に上げた。大きな失望感の中で、岸辺で汚れた網を洗っていた。私たちの人生においてもそういう時があります。何をしてもうまくいかない。精一杯努力しても成果があがらない。仕事や勉強においても、あるいは人生そのものがもうお手上げ、失望感でいっぱいということがあるかも知れません。
 そこに、何やら群衆が現れた。神の言葉を聞かせてとせがんでいる。そこに立っていたのはナザレのイエス。その方が何と岸に寄せてあったシモンの舟に乗り込んだのである。そして、少しこぎ出してくれというので、シモンは岸から離れた。イエスは坐って群衆の方を見られた。湖の囲りはすり鉢状なので、ちょうど円形劇場のようだ。イエスの澄んだ声は岸辺の聴衆に届く。心の中に届く。イエスは神の国について教えた。山上の説教といのがあるから、これは船上の説教と言える。しかし、どんな話をされたかという内容は聖書には書いてないので、聖書が重要視しているのはイエスが舟に乗り込まれたということでしょう。人生という舟にイエスの方から乗り込んで下さるということです。夜通し働いて何の成果も出ず、意気消沈しているこの私の人生の小舟に乗り込んで下さるのです。イエスはわが人生の乗船者なのです。乗りかかった舟だ、最後まで面倒を見ようとおっしゃるに違いないです。
 説教が終わると、イエスはシモンに顔を向け「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。唐突に何を言うのだろう。元は大工だとか、漁師でもないのに何がわかると言うのだ。立派な教えは説けても、こっちのほうが海のことも魚のことも知り尽くしてる。今の今まで捕れなかったのだ、駄目なもは駄目なんじゃないか。そう、シモンの頭の中を駆け巡ったかも知れない。しかし、舟の上で間近に聞いた説教からすると、この方はただ者ではないと思ったのだろう。こう答えた。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。お言葉通り、沖に出て網を打ってみる。引き上げてみる。手応えあり。重いのなんの、魚がいっぱい。網が破れそうだ。もう一そうの舟にいた仲間に、加勢を頼んだ。二そうの舟は大漁で舟が沈みそうになった。
 先ほど、群衆と私、シモンが聞いた教えは、いつでもどこでも誰にで語られる普遍的な優れた「教え」でした。しかし、「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われたお言葉は、今、ここで、この私への生きた「神の言葉」でした。被造物を知り尽くされ、被造物を支配される方の言葉、神の言葉が今、この人生のただ中に、天から降ったのです。イエスは天の言葉を地につながれたのです。天と地、絶対につながらない世界、イエス・キリストはつながらないものをつなげたのです。神の国を近づけたのです。そこに神のみ業、奇跡が起こったのです。お言葉をいただくとか、お言葉経験というはこのように、私の人生の中で天が地につながってくる、つながらないものがつながってくる信仰経験なのです。絶対的に価値のある経験です。
イエスが私の人生に乗り込んだからには、この貴重な経験をさせようと私に対して入れ込んで下さっているのです。
 このような厳粛な出来事を見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。人生の教師なんかじゃない、天地の主、人生の「主」だと思ったのです。聖臨在の前に自分の罪深さを思い知らされたのです。

 こうして、シモンの仲間であったヤコブとヨハネも驚いていると、イエスがシモンに言われたのである。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。イエスの弟子(使徒)の召し、召命です。
 魚を捕るのが漁師、伝道するのが伝道師、これが結びつかない。イエスは結びつけるのです。「人間をとる漁師になるのだ」。私は今、畑を借りて作物を育てています。もし、その時、イエスが召されるなら、人間を育てる農夫になるのだと言われるかも知れません。主はその人の個性や特性をなくしてしまう方ではありません。それを生かしながら、その人を用いて、それ以上のことをなさるです。人間をとる、神にしかできないことです。人を罪の世から神の御許に引き上げて救うということです。
 それから3年が経過したある時、弟子たちにイエスが尋ねます。「あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えます。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。その時にイエスはとても信じられない、考えられないことを言われました(マタイ16:17-19)。「バルヨナ・シモン、…あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。…あなたはペテロ(岩)である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
 これは神だけが出来、神だけがすることで、人には出来ないし、することではありません。しかし、天国のかぎを授けるというのです。シモン・ペテロを信頼してくれたのです。イエス・キリストだけが天地をつなげられたのですが、キリストの使徒としてシモンをその神の働きに抱き込まれたのです。主は私の人生の舟に乗り込み、入れ込み、抱き込まれるのです。乗りかけた舟だから、とことん関わって下さるのです。
 天国の鍵は特別、使徒に与えられたものです。そして、使徒の跡を継ぐ牧師、伝道者にも、天国のスペア・キーが授けられています。そして、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と信仰告白する全てのクリスチャンに、ここにおられる教会員、一人一人に天国のスペア・キーが授けられているのです。あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるのです。
 沈んでいたシモンの魂に「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」というイエスの言葉が、聖霊の働きで明るく照らす(照明)光となり、生ける神の言葉だと悟りました。そのお言葉に従うと大漁という結果となり、お言葉が真実であるということを聖霊が「証明」してくれました。そして、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」というお声を神の召し、「召命」の言葉だと聖霊の促しによって受けとめ、舟を捨てて従いました。ペンテコステの日には、イエス・キリストの福音の言葉が聖霊によって明らかにされ、事実、「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるのです」という説教をしたのです。その天地をつなぐメッセージを聞いて、罪と滅びの中から多くの人が救われ、バプテスマを受けたのが3000人でした。魚でいうなら大漁でした。3000人の魂を天につないだのです。
 きょう、あなたにもイエス・キリストが告げておられるのです。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。聖霊が信じて従い結果を出してくれると促しておられるのです。