2010年3月28日 主日礼拝(ヨハネ福音書19:23~30)岡田邦夫
「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」ヨハネ福音書19:30
98才で現役の医師、日野原重明さんが全国の小学校でいのちの授業をしておられ、こう話されています。「いのちは見えないし、さわれないし、感じられません。子どもたちに『時間は見える?』って聞くんです。『昨日も今日も見えないけれど、寝たり、勉強したり、遊んだりするのは、きみたちの持っている時間を使っているんだよ。時間を使っていることが、きみが生きている証拠。時間の中にいのちがあるんだよ』。…『大きくなったら、きみの持っている時間を人のいのちのために尽くしてはどうか』」。
たいへん良い授業だと思います。命には始めがあり、終わりがあり、今がある、命を時間だと意識することは重要なことだ思います。今は卒業式のシーズン。卒業は業を卒(お)えると書きます。それは人生の節目です。しかし、人生には卒業というものはないと思います。一生、学びです。その意味で、教会では卒業式はありません。死ぬまで、新しく聖書を学び、新しく神の国を学び、新しく信仰を学び、新しく生きることを学び、教会と生涯かかわるものです。卒去(そっきょ)の時が卒業なのです。
その意味で、命は終わっていくものですが、また、人生は終わらせるものです。更に言うなら、「終わってほしくないもの」と「終わらせたいもの」とがあるということです。
そこで、今日はイエスという方の逝去(せいきよ)をとおして、人生の終わり方、人生の過ごし方を考えていきたいと思います。イエスは十字架にはりつけにされ、亡くなっていくわけですが、その十字架上での最後の言葉には、愛と救いの言葉であります。
◇終わってほしくないもの
人はどんなに一生懸命生きていたとしても、死んで終わりだと思うと、たいへん虚しくなります。夢に向かって生きると言われても、死という終局しかないのだと思うと実に淋しいものです。しかし、聖書は人が死んで終わりではない、復活があると伝えています。十字架上で「イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』。こう言ってついに息を引きとられた。」のです(ルカ福音書23:46)。「頭を垂れて、霊をお渡しになった。」のです(ヨハネ19:30)。死んで終わりではないのですから、父である神に霊をゆだねられたのです。ゆだねられたイエスの霊は三日後に、復活のからだが与えられ、天に昇って行かれました。
信じる人たちも復活の希望があるのです。死は終わりではないのです。私という人格は終わってしまわない、消え去ってしまわない、神のみ手の中に残るのです。キリスト者の死の時は自分の霊を父である神に委ねる時なのです。ゆだねる時、労した一生も無駄にはならないのです。復活がある「わけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない。」と聖書が明言しているからです(1コリント15:58新共同訳)。
◇終わらせたいもの
しかし、嫌なことや過ちなどがたくさんあって、人生を終わらせたいという面もあります。いけないことを言ったり、やったりして、良心が痛む、でもそれが消えない、メールのように消去したくても、消去できないということがあります。私ごとですが、学生の時におもしろ半分で何回か不正乗車をしたことがあります。チラシをもらって教会へ行くようになって、良心が痛むようになり止めました。しかし、自動改札などない時代、駅員に切符を渡して出るわけですが、正しく切符を買って出たのに、「もしもし、お客さん!」と背中越しに呼び止められると、それが他の客なのに、私はどきっとしてしまって、冷や汗をかき、振り返ってしまうのです。良心の呵責(かしやく)というもの、消せないものです。過ぎてしまったからと、終わらせられないのです。
それを終わらせるために、イエス・キリストは地上の生涯を始められ、救い主として、十字架にかかり、生涯を終えられたのです。十字架のもう一つの言葉は「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」です( ヨハネ福音書19:30口語訳)。罪は必ず罰せられなければなりません。私たちの犯した罪は神のみ前に罰せられるのです。ですから、警鐘として私たちの心の「良心」が痛むのです。旧約聖書では、イスラエル民族は羊ややぎを犠牲にささげて、その罪の償いとしてきました。しかし、神は全ての民族を完全な救いに導くために、イエスを十字架という祭壇の上に「神の子羊」として犠牲とされ、私たちのすべての罪の償いとしました。私たちにはとうてい償いきれないものを償ってくださったのです。その償いの業の「すべてが終った」と宣言されたのです。
私たちは自分の罪を悔い改め、イエス・キリストによって償われたと信じるなら、救われるのです。人生において、真に終わらせたいものを終わらせることができるのです。私も神のみ前で償われ、終わらせたいものを終わらせることができました。人には出来ないことですが、愛の神には出来るのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10新共同訳)。
◇ほんとうに終わらせるもの
160年の歴史をもつスイスのオメガ社の時計は今も人気があります。そのオメガ“Ω”というのはギリシャ文字の最終の文字で「これ以上の到達は不可能、最高の、完成した」という意味で使っているようです。もっとも、約2000年前にギリシャ語で書かれた新約聖書にオメガは出てきます。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示録22:13)。イエス・キリストのことです。「すべてが終った」は「完了した。」「成し遂げられた。」とも訳されています(新改訳、新共同訳)。神の救いのみ業は成し遂げられ、完了したということです。あなたがイエス・キリストを信じ、その方と共に生きるなら、生涯を終える時に、このイエスの「すべてが終った」の言葉があなたの上に、成就し、神の救いのみ業は成し遂げられ、完了したと言えるのです。未完の完です。シューベルトの交響曲第7番・「未完成交響曲」のようなものです。言葉を変えれば、これが神に与えられた永遠の命というものです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
その神に愛されて生きるひとりの人の証しを載せておきましょう。
大男の涙……(ベドウ福沢路得子:ゴスペルシンガー。CD「いえすのまなざし」「イエスのなみだ」、著書に「やさしの喝采」がある)
私の夫は、青い目をした身長190センチ、体重100キロもある大男です。日本の小さな家屋では、まるで檻(おり)に入れられた熊のように身動きがとれません。頭をぶつけないように、物を壊さないように、ゆっくりゆっくり歩きます。いまだに日本の速いペースにはついてゆけず、ライフスタイルもゆっくりのんびり……。
でも、一日に何度もひざまずいて祈る夫の姿があります。聖書はいつも持ち歩いて、時間さえあると開き読むのです。
大男は7時になると、駅へ行って叫びます。“Good Morning! God loves you!”
初めは「変な外国人」としか見ていなかった人たちも、じだいに声をかけてくれるようになります。大男の言うことはいつも同じ“God loves you!” この一言でなぜかたくさんの友達ができ、わが家には「あの大男の笑顔をもう一度見たい」と言って、いろいろな人が立ち寄ってくださるのです。ホームレスの人に出会うと、今買ったばかりの食べ物を渡し、道でゴミを拾い、ひとりぼっちでフラフラと歩いているおじさんに声をかけます。「もっと速く、もっと強く、もっと上手に」というこの世の中で、夫の姿を見ると、なぜかほっとし、心が温かくなるのです。
夫の人生は、激しい戦いの連続でした。苦しみ、嘆き、死さえ覚悟しました。誠実すぎる夫は、上からは使うだけ使われ、その後踏みつぶされ、「友」と呼んでいた人に裏切られ、ぶざまさをさらけ出した歩みだったのです。大男の青い瞳(ひとみ)からは、とどまることなく涙の粒が流れ落ちました。
それでも耐えた理由はただ一つ。聖書に記されている愛の神さまを知っていたからです。「いのちがけで私を愛してくださっている真の神さまがいる」。目を上げると、必ずそこに神さまの大きな愛の手があったのです。だから、自尊心だけでなく自分自身さえも失うほどの激しい人間関係の戦いの中にいても、大男が叫び続けたのは“God loves you!”だったのです。
こんな詩が私の机の前に貼ってあります。「柔道の基本は受け身/受け身とは投げ飛ばされる練習/人の前で叩(たた)きつけられる練習/人の前でころぶ練習/人の前で負ける練習です/つまり人の前で失敗したり/恥をさらす練習です/自分のカッコの悪さを/多くの人の前でぶざまにさらけ出す練習/それが受け身です/長い人生には/カッコよく勝つよりも/ぶざまに負けたり/だらしなく恥をさらすことのほうがはるかに多いからです/そして負け方や受け身の本当に身についた人間が/人の悲しみや苦しみに耐えて/他人の胸の痛みを/心の底から理解できる/やさしくあたたかい人間になれるんです」
毎日の生活の中で驚くほど自然に、あれほどまで優しくなれるのは、大男の大きな身体に、心に、たくさんの深い傷跡が残っているからでしょう。
さらに大男は叫びます。「本物の愛は必ず勝つ!」と。どんなに激しい戦いの中でも、目を上げ、差し伸べられてるその神さまの愛の手を握り続ける人々には、最後に必ず金メダルが待っているのです。
「神は愛です」(聖書・ヨハネの手紙第1、4章16節)
「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」ヨハネ福音書19:30
98才で現役の医師、日野原重明さんが全国の小学校でいのちの授業をしておられ、こう話されています。「いのちは見えないし、さわれないし、感じられません。子どもたちに『時間は見える?』って聞くんです。『昨日も今日も見えないけれど、寝たり、勉強したり、遊んだりするのは、きみたちの持っている時間を使っているんだよ。時間を使っていることが、きみが生きている証拠。時間の中にいのちがあるんだよ』。…『大きくなったら、きみの持っている時間を人のいのちのために尽くしてはどうか』」。
たいへん良い授業だと思います。命には始めがあり、終わりがあり、今がある、命を時間だと意識することは重要なことだ思います。今は卒業式のシーズン。卒業は業を卒(お)えると書きます。それは人生の節目です。しかし、人生には卒業というものはないと思います。一生、学びです。その意味で、教会では卒業式はありません。死ぬまで、新しく聖書を学び、新しく神の国を学び、新しく信仰を学び、新しく生きることを学び、教会と生涯かかわるものです。卒去(そっきょ)の時が卒業なのです。
その意味で、命は終わっていくものですが、また、人生は終わらせるものです。更に言うなら、「終わってほしくないもの」と「終わらせたいもの」とがあるということです。
そこで、今日はイエスという方の逝去(せいきよ)をとおして、人生の終わり方、人生の過ごし方を考えていきたいと思います。イエスは十字架にはりつけにされ、亡くなっていくわけですが、その十字架上での最後の言葉には、愛と救いの言葉であります。
◇終わってほしくないもの
人はどんなに一生懸命生きていたとしても、死んで終わりだと思うと、たいへん虚しくなります。夢に向かって生きると言われても、死という終局しかないのだと思うと実に淋しいものです。しかし、聖書は人が死んで終わりではない、復活があると伝えています。十字架上で「イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』。こう言ってついに息を引きとられた。」のです(ルカ福音書23:46)。「頭を垂れて、霊をお渡しになった。」のです(ヨハネ19:30)。死んで終わりではないのですから、父である神に霊をゆだねられたのです。ゆだねられたイエスの霊は三日後に、復活のからだが与えられ、天に昇って行かれました。
信じる人たちも復活の希望があるのです。死は終わりではないのです。私という人格は終わってしまわない、消え去ってしまわない、神のみ手の中に残るのです。キリスト者の死の時は自分の霊を父である神に委ねる時なのです。ゆだねる時、労した一生も無駄にはならないのです。復活がある「わけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない。」と聖書が明言しているからです(1コリント15:58新共同訳)。
◇終わらせたいもの
しかし、嫌なことや過ちなどがたくさんあって、人生を終わらせたいという面もあります。いけないことを言ったり、やったりして、良心が痛む、でもそれが消えない、メールのように消去したくても、消去できないということがあります。私ごとですが、学生の時におもしろ半分で何回か不正乗車をしたことがあります。チラシをもらって教会へ行くようになって、良心が痛むようになり止めました。しかし、自動改札などない時代、駅員に切符を渡して出るわけですが、正しく切符を買って出たのに、「もしもし、お客さん!」と背中越しに呼び止められると、それが他の客なのに、私はどきっとしてしまって、冷や汗をかき、振り返ってしまうのです。良心の呵責(かしやく)というもの、消せないものです。過ぎてしまったからと、終わらせられないのです。
それを終わらせるために、イエス・キリストは地上の生涯を始められ、救い主として、十字架にかかり、生涯を終えられたのです。十字架のもう一つの言葉は「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」です( ヨハネ福音書19:30口語訳)。罪は必ず罰せられなければなりません。私たちの犯した罪は神のみ前に罰せられるのです。ですから、警鐘として私たちの心の「良心」が痛むのです。旧約聖書では、イスラエル民族は羊ややぎを犠牲にささげて、その罪の償いとしてきました。しかし、神は全ての民族を完全な救いに導くために、イエスを十字架という祭壇の上に「神の子羊」として犠牲とされ、私たちのすべての罪の償いとしました。私たちにはとうてい償いきれないものを償ってくださったのです。その償いの業の「すべてが終った」と宣言されたのです。
私たちは自分の罪を悔い改め、イエス・キリストによって償われたと信じるなら、救われるのです。人生において、真に終わらせたいものを終わらせることができるのです。私も神のみ前で償われ、終わらせたいものを終わらせることができました。人には出来ないことですが、愛の神には出来るのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10新共同訳)。
◇ほんとうに終わらせるもの
160年の歴史をもつスイスのオメガ社の時計は今も人気があります。そのオメガ“Ω”というのはギリシャ文字の最終の文字で「これ以上の到達は不可能、最高の、完成した」という意味で使っているようです。もっとも、約2000年前にギリシャ語で書かれた新約聖書にオメガは出てきます。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示録22:13)。イエス・キリストのことです。「すべてが終った」は「完了した。」「成し遂げられた。」とも訳されています(新改訳、新共同訳)。神の救いのみ業は成し遂げられ、完了したということです。あなたがイエス・キリストを信じ、その方と共に生きるなら、生涯を終える時に、このイエスの「すべてが終った」の言葉があなたの上に、成就し、神の救いのみ業は成し遂げられ、完了したと言えるのです。未完の完です。シューベルトの交響曲第7番・「未完成交響曲」のようなものです。言葉を変えれば、これが神に与えられた永遠の命というものです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
その神に愛されて生きるひとりの人の証しを載せておきましょう。
大男の涙……(ベドウ福沢路得子:ゴスペルシンガー。CD「いえすのまなざし」「イエスのなみだ」、著書に「やさしの喝采」がある)
私の夫は、青い目をした身長190センチ、体重100キロもある大男です。日本の小さな家屋では、まるで檻(おり)に入れられた熊のように身動きがとれません。頭をぶつけないように、物を壊さないように、ゆっくりゆっくり歩きます。いまだに日本の速いペースにはついてゆけず、ライフスタイルもゆっくりのんびり……。
でも、一日に何度もひざまずいて祈る夫の姿があります。聖書はいつも持ち歩いて、時間さえあると開き読むのです。
大男は7時になると、駅へ行って叫びます。“Good Morning! God loves you!”
初めは「変な外国人」としか見ていなかった人たちも、じだいに声をかけてくれるようになります。大男の言うことはいつも同じ“God loves you!” この一言でなぜかたくさんの友達ができ、わが家には「あの大男の笑顔をもう一度見たい」と言って、いろいろな人が立ち寄ってくださるのです。ホームレスの人に出会うと、今買ったばかりの食べ物を渡し、道でゴミを拾い、ひとりぼっちでフラフラと歩いているおじさんに声をかけます。「もっと速く、もっと強く、もっと上手に」というこの世の中で、夫の姿を見ると、なぜかほっとし、心が温かくなるのです。
夫の人生は、激しい戦いの連続でした。苦しみ、嘆き、死さえ覚悟しました。誠実すぎる夫は、上からは使うだけ使われ、その後踏みつぶされ、「友」と呼んでいた人に裏切られ、ぶざまさをさらけ出した歩みだったのです。大男の青い瞳(ひとみ)からは、とどまることなく涙の粒が流れ落ちました。
それでも耐えた理由はただ一つ。聖書に記されている愛の神さまを知っていたからです。「いのちがけで私を愛してくださっている真の神さまがいる」。目を上げると、必ずそこに神さまの大きな愛の手があったのです。だから、自尊心だけでなく自分自身さえも失うほどの激しい人間関係の戦いの中にいても、大男が叫び続けたのは“God loves you!”だったのです。
こんな詩が私の机の前に貼ってあります。「柔道の基本は受け身/受け身とは投げ飛ばされる練習/人の前で叩(たた)きつけられる練習/人の前でころぶ練習/人の前で負ける練習です/つまり人の前で失敗したり/恥をさらす練習です/自分のカッコの悪さを/多くの人の前でぶざまにさらけ出す練習/それが受け身です/長い人生には/カッコよく勝つよりも/ぶざまに負けたり/だらしなく恥をさらすことのほうがはるかに多いからです/そして負け方や受け身の本当に身についた人間が/人の悲しみや苦しみに耐えて/他人の胸の痛みを/心の底から理解できる/やさしくあたたかい人間になれるんです」
毎日の生活の中で驚くほど自然に、あれほどまで優しくなれるのは、大男の大きな身体に、心に、たくさんの深い傷跡が残っているからでしょう。
さらに大男は叫びます。「本物の愛は必ず勝つ!」と。どんなに激しい戦いの中でも、目を上げ、差し伸べられてるその神さまの愛の手を握り続ける人々には、最後に必ず金メダルが待っているのです。
「神は愛です」(聖書・ヨハネの手紙第1、4章16節)