オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

十字架にこそ愛が

2010-03-28 00:00:00 | 礼拝説教
2010年3月28日 主日礼拝(ヨハネ福音書19:23~30)岡田邦夫


 「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」ヨハネ福音書19:30

 98才で現役の医師、日野原重明さんが全国の小学校でいのちの授業をしておられ、こう話されています。「いのちは見えないし、さわれないし、感じられません。子どもたちに『時間は見える?』って聞くんです。『昨日も今日も見えないけれど、寝たり、勉強したり、遊んだりするのは、きみたちの持っている時間を使っているんだよ。時間を使っていることが、きみが生きている証拠。時間の中にいのちがあるんだよ』。…『大きくなったら、きみの持っている時間を人のいのちのために尽くしてはどうか』」。
 たいへん良い授業だと思います。命には始めがあり、終わりがあり、今がある、命を時間だと意識することは重要なことだ思います。今は卒業式のシーズン。卒業は業を卒(お)えると書きます。それは人生の節目です。しかし、人生には卒業というものはないと思います。一生、学びです。その意味で、教会では卒業式はありません。死ぬまで、新しく聖書を学び、新しく神の国を学び、新しく信仰を学び、新しく生きることを学び、教会と生涯かかわるものです。卒去(そっきょ)の時が卒業なのです。
 その意味で、命は終わっていくものですが、また、人生は終わらせるものです。更に言うなら、「終わってほしくないもの」と「終わらせたいもの」とがあるということです。
 そこで、今日はイエスという方の逝去(せいきよ)をとおして、人生の終わり方、人生の過ごし方を考えていきたいと思います。イエスは十字架にはりつけにされ、亡くなっていくわけですが、その十字架上での最後の言葉には、愛と救いの言葉であります。

◇終わってほしくないもの
 人はどんなに一生懸命生きていたとしても、死んで終わりだと思うと、たいへん虚しくなります。夢に向かって生きると言われても、死という終局しかないのだと思うと実に淋しいものです。しかし、聖書は人が死んで終わりではない、復活があると伝えています。十字架上で「イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』。こう言ってついに息を引きとられた。」のです(ルカ福音書23:46)。「頭を垂れて、霊をお渡しになった。」のです(ヨハネ19:30)。死んで終わりではないのですから、父である神に霊をゆだねられたのです。ゆだねられたイエスの霊は三日後に、復活のからだが与えられ、天に昇って行かれました。
 信じる人たちも復活の希望があるのです。死は終わりではないのです。私という人格は終わってしまわない、消え去ってしまわない、神のみ手の中に残るのです。キリスト者の死の時は自分の霊を父である神に委ねる時なのです。ゆだねる時、労した一生も無駄にはならないのです。復活がある「わけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない。」と聖書が明言しているからです(1コリント15:58新共同訳)。

◇終わらせたいもの
 しかし、嫌なことや過ちなどがたくさんあって、人生を終わらせたいという面もあります。いけないことを言ったり、やったりして、良心が痛む、でもそれが消えない、メールのように消去したくても、消去できないということがあります。私ごとですが、学生の時におもしろ半分で何回か不正乗車をしたことがあります。チラシをもらって教会へ行くようになって、良心が痛むようになり止めました。しかし、自動改札などない時代、駅員に切符を渡して出るわけですが、正しく切符を買って出たのに、「もしもし、お客さん!」と背中越しに呼び止められると、それが他の客なのに、私はどきっとしてしまって、冷や汗をかき、振り返ってしまうのです。良心の呵責(かしやく)というもの、消せないものです。過ぎてしまったからと、終わらせられないのです。
 それを終わらせるために、イエス・キリストは地上の生涯を始められ、救い主として、十字架にかかり、生涯を終えられたのです。十字架のもう一つの言葉は「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」です( ヨハネ福音書19:30口語訳)。罪は必ず罰せられなければなりません。私たちの犯した罪は神のみ前に罰せられるのです。ですから、警鐘として私たちの心の「良心」が痛むのです。旧約聖書では、イスラエル民族は羊ややぎを犠牲にささげて、その罪の償いとしてきました。しかし、神は全ての民族を完全な救いに導くために、イエスを十字架という祭壇の上に「神の子羊」として犠牲とされ、私たちのすべての罪の償いとしました。私たちにはとうてい償いきれないものを償ってくださったのです。その償いの業の「すべてが終った」と宣言されたのです。
 私たちは自分の罪を悔い改め、イエス・キリストによって償われたと信じるなら、救われるのです。人生において、真に終わらせたいものを終わらせることができるのです。私も神のみ前で償われ、終わらせたいものを終わらせることができました。人には出来ないことですが、愛の神には出来るのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10新共同訳)。

◇ほんとうに終わらせるもの
 160年の歴史をもつスイスのオメガ社の時計は今も人気があります。そのオメガ“Ω”というのはギリシャ文字の最終の文字で「これ以上の到達は不可能、最高の、完成した」という意味で使っているようです。もっとも、約2000年前にギリシャ語で書かれた新約聖書にオメガは出てきます。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示録22:13)。イエス・キリストのことです。「すべてが終った」は「完了した。」「成し遂げられた。」とも訳されています(新改訳、新共同訳)。神の救いのみ業は成し遂げられ、完了したということです。あなたがイエス・キリストを信じ、その方と共に生きるなら、生涯を終える時に、このイエスの「すべてが終った」の言葉があなたの上に、成就し、神の救いのみ業は成し遂げられ、完了したと言えるのです。未完の完です。シューベルトの交響曲第7番・「未完成交響曲」のようなものです。言葉を変えれば、これが神に与えられた永遠の命というものです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
 その神に愛されて生きるひとりの人の証しを載せておきましょう。

大男の涙……(ベドウ福沢路得子:ゴスペルシンガー。CD「いえすのまなざし」「イエスのなみだ」、著書に「やさしの喝采」がある)
 私の夫は、青い目をした身長190センチ、体重100キロもある大男です。日本の小さな家屋では、まるで檻(おり)に入れられた熊のように身動きがとれません。頭をぶつけないように、物を壊さないように、ゆっくりゆっくり歩きます。いまだに日本の速いペースにはついてゆけず、ライフスタイルもゆっくりのんびり……。
 でも、一日に何度もひざまずいて祈る夫の姿があります。聖書はいつも持ち歩いて、時間さえあると開き読むのです。
 大男は7時になると、駅へ行って叫びます。“Good Morning! God loves you!”
 初めは「変な外国人」としか見ていなかった人たちも、じだいに声をかけてくれるようになります。大男の言うことはいつも同じ“God loves you!” この一言でなぜかたくさんの友達ができ、わが家には「あの大男の笑顔をもう一度見たい」と言って、いろいろな人が立ち寄ってくださるのです。ホームレスの人に出会うと、今買ったばかりの食べ物を渡し、道でゴミを拾い、ひとりぼっちでフラフラと歩いているおじさんに声をかけます。「もっと速く、もっと強く、もっと上手に」というこの世の中で、夫の姿を見ると、なぜかほっとし、心が温かくなるのです。
 夫の人生は、激しい戦いの連続でした。苦しみ、嘆き、死さえ覚悟しました。誠実すぎる夫は、上からは使うだけ使われ、その後踏みつぶされ、「友」と呼んでいた人に裏切られ、ぶざまさをさらけ出した歩みだったのです。大男の青い瞳(ひとみ)からは、とどまることなく涙の粒が流れ落ちました。
 それでも耐えた理由はただ一つ。聖書に記されている愛の神さまを知っていたからです。「いのちがけで私を愛してくださっている真の神さまがいる」。目を上げると、必ずそこに神さまの大きな愛の手があったのです。だから、自尊心だけでなく自分自身さえも失うほどの激しい人間関係の戦いの中にいても、大男が叫び続けたのは“God loves you!”だったのです。
 こんな詩が私の机の前に貼ってあります。「柔道の基本は受け身/受け身とは投げ飛ばされる練習/人の前で叩(たた)きつけられる練習/人の前でころぶ練習/人の前で負ける練習です/つまり人の前で失敗したり/恥をさらす練習です/自分のカッコの悪さを/多くの人の前でぶざまにさらけ出す練習/それが受け身です/長い人生には/カッコよく勝つよりも/ぶざまに負けたり/だらしなく恥をさらすことのほうがはるかに多いからです/そして負け方や受け身の本当に身についた人間が/人の悲しみや苦しみに耐えて/他人の胸の痛みを/心の底から理解できる/やさしくあたたかい人間になれるんです」
 毎日の生活の中で驚くほど自然に、あれほどまで優しくなれるのは、大男の大きな身体に、心に、たくさんの深い傷跡が残っているからでしょう。
 さらに大男は叫びます。「本物の愛は必ず勝つ!」と。どんなに激しい戦いの中でも、目を上げ、差し伸べられてるその神さまの愛の手を握り続ける人々には、最後に必ず金メダルが待っているのです。
 「神は愛です」(聖書・ヨハネの手紙第1、4章16節)

ポンテオ・ピラトのもとで

2010-03-20 00:00:00 | 礼拝説教
2010年3月21日 主日礼拝(ヨハネ18:28~19:16)岡田邦夫

 「万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。」1テモテ6:13

 先週、イエスが逮捕された話をしましたが、続いて、今日は総督ピラトの前で裁判がなされる話です。ここにいたるのには一つのシナリオがありました。

◇一つのシナリオ:殺害
 イエス・キリストが「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」ていました(マタイ9:35)。ところが、祭司長、律法学者、パリサイ人らは安息日違反、瀆神(とくしん)罪の危険人物として「イエスを殺そうとするようになった」のです。そして、それが、その殺意がふくらんでいくことが繰り返し、述べられていきます。
 ヨハネ福音書5:18→7:1、19、20、25→8:37、40、44と続き、ついに「彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」また、「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。」というところまで来ていました(11:53、12:10)。その計画は実行されます。イエスを逮捕し、ユダヤの最高法院で有罪にしますが、ローマの属国なので、ユダヤ人では死刑にはできません。そこで、策略をめぐらします。
 明け方、総督官邸に連れて行き、イエスを引き渡し、そこで、審問させるようにことを運びます。ユダヤの法では瀆神(とくしん)罪は死刑ですが、ローマの法ではそれは該当しないわけです。「そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。『あなたは、ユダヤ人の王ですか。……あなたは何をしたのですか。』」と問います(18:33、35)。それに対してのイエスの答は、ご自分のまことの証しとメッセージでした。そこで、ピラトは審問の結果、ユダヤ人に「私は、あの人には罪を認めません。しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」と提言します(18:39)。
 すかさず、ユダヤ人らは次の手に出ます。シュプレヒコールです。「この人ではない。バラバだ」。バラバは強盗。
 そこで、ピラトはイエスをむち打ちにし、兵士たちがいばらで冠を頭にかぶらせ、紫色の着物を着せ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、顔を平手で打ちました。こうすれば、イエスには罪がないことがわかるだろうと、ピラトがいばらで冠、紫色の着物のイエスを外に立たせ、「さあ、この人です」と言います。しかし、祭司長たちや役人たちが、激しく叫びます。「十字架につけろ。十字架につけろ」のシュプレヒコール。
 ピラトが罪を認めないと言っも、神の子と自称する者だから死罪だと言いはります。再度、ピラトは審問しますが、イエスの答は、ご自分の証しとメッセージをされます。ユダヤ人たちは一歩もゆずらず、激しく叫びます。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザル(皇帝)の味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです」。
 そこで、過越しの準備日の正午、ガバタ(敷石)と呼ばれる場所で、ピラトは、裁判の席に着きました。ここで、ユダヤ人は同じこと起こします。
 ピラト:「さあ、あなたがたの王です」。
 彼ら:「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」(激しく叫んだ)。
 ピラト:「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか」。
 祭司長たち:「カイザルのほかには、私たちに王はありません」。
 そこでピラトは、ついに、イエスを十字架につけるため、彼らに引き渡すことになりました。ユダヤ当局のシナリオ通りになったのです。以前、彼らはイエスを、石を取り上げ、自分たちの手で打ち殺そうとしたのですが、実行できなかったということもありました(10:31)。しかし、ここに至り、自分たちの手を下すこともなく、また、身を汚すこともなく(18:28)、ナザレのイエスを抹殺できることになったわけです。
 シナリオ通りになったようですが、しかし、もう一つの別な、それ以上のシナリオがあって、その通りになっていった以下の事実に私たちは驚かされるのです。

◇別のシナリオ:救済
 イエス・キリストの場合は、人知を越えたシナリオでした。イエス抹殺の陰謀というどす黒い絵の刺繍を織っていったところが、ひっくり返して見たところ、神のみこころという輝く美しい刺繍(ししゆう)が見えてきたというような不思議なことです。
 信仰告白した弟子たちに言われたのは「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」という、復活まで書かれたシナリオでした(マルコ10:33ー34)。
 それは旧約時代、すでに、神がイザヤに預言させた「しもべの歌」というのシナリオがありました(イザヤ53:3-5)。そのシナリオ通り、イエス・キリストにおいて完璧(かんぺき)に実行されました。
 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
 …まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 (1ペテロ2:23では「正しくさばかれる方にお任せになりました」。)
 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のた
 めに砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷に
 よって、私たちはいやされた」。
 ピラトの裁判はおよそ裁判といえるものではありませんでした。罪のない御子を人が裁けるはずがないのです。神の裁きを受けられたのです。ガバタ(裁判の席)には神がおられたのです。神の裁きは完全。イエス・キリストは私たちのそむきの罪を担われて、正しくさばかれる方にお任せし、その方に打たれ、その傷によって、私たちはいやされ、救われたのです。そこまで、神の完璧なシナリオがあったのです。
 このような神のみこころというシナリオどおり、なされていることを主イエスはこの大事な場で、あかしをなさいました。
 「事実、わたしの国はこの世のものではありません。…わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」(18:36ー37)。
 このピラトの面前でのイエス・キリストの証しは、神がすべてのものにいのちを与えるほど、重要なことなのです。「すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。」とありますように(1テモテ6:13)、命の創造者である神とピラトの前の証詞者イエスを並べて述べているからです。罪と世から自由を得させるという真理、父なる神のみもとに行くことができる道としての真理を証しされました。私たちが自由になるシナリオ、私たちが父のみもとに行くシナリオをご自分の命をもって、書き上げてくださったのです。そのシナリオ通りになるように、私たちが聞き従って、真理に属する者となるように、正しくさばかれる方にお任せになったのです。

イエス逮捕の真相は

2010-03-14 00:00:00 | 礼拝説教
2010年3月14日 主日礼拝(ヨハネ福音書18:1~27)岡田邦夫


 「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」 ヨハネ福音書18:11

 人は謎解きが好きなようです。サスペンス劇など、犯人は誰だろう、その動機は何なのだろうと、どきどきしながら見てしまいます。それはフィクションの話ですが、実際に何か事件があると、その事実の報道だけでなく、犯人は誰か、動機は何かと謎解きが始まります。同じようなことが起こらないための防止策のために必要でしょうが、しばしば、興味本位に走ってしまうこともあります。

◇イエスの逮捕事件
 今日の聖書も一つの事件です。ナザレのイエスの逮捕事件です。最後の晩餐の後、その夜、イエスは弟子たちといっしょに、ケデロンの川筋の向こう側にある園にはいられました。するとイスカリオテ・ユダがローマ軍の一隊の兵士と千人隊長と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこにやって来ました。すると、イエスは「だれを捜すのか。」と言われ、ご自分から名のり出、ただし、いっしょの者たちを去らせるように申します。しかし、ペテロが、持っていた剣を抜き、大祭司のしもべマルコスの右耳を切り落としてしまいます。イエスはペテロに「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」と言って、止めました(18:11)。
 そこで、イエスは捕えられ、縛られ、大祭司カヤパのしゅうとのアンナスのところに連れて行かれました。イエスが、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問されますとこう答えらます。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています」。すると、言い方が悪いと言って、役人が平手でイエスを打ちました。しかし、イエスは彼に答えます。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか」。そこで、アンナスはイエスを縛ったままで、大祭司カヤパのところに送りました。
 一方、ペテロとヨハネ(もうひとりの弟子)はイエスについて行き、ヨハネが大祭司の知り合いなので、大祭司の中庭にまではいって行きました。イエスが尋問されている時、ペテロも問い詰められるのです。
 門番のはしため:「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」。
 ペテロ:「そんな者ではない」。
 暖をとる僕や役人たち:「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」。
 ペテロ:「そんな者ではない。」と否定。
 マルコスの親類:「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」。ペテロはもう一度否定。
 するとすぐ鶏が鳴いたのです。夜明けです。

◇イエスの逮捕事件の謎
 このような出来事でした。福音書では、ユダがなぜ裏切ったのかとか、イエスも弟子たちもそれをなぜとめられなかったのか、というようなことを追求していません。ユダのように裏切るなとか、ペテロのように否認するなということを教訓として述べてはいません(教訓にすることは良いことですが)。聖書は、ただひとつ、「イエス・キリストの福音」に絞って記しているのです。「福音」という史観をもって、イエスの歴史を述べているのです。
 最後の晩餐で、イエスは「わたしがしていることは、今はわからないが、あとでわかるようになります。」と言われました(ヨハネ12:7)。また、「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。…助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」とも言われました(ヨハネ14:16,26)。イエスに関する事件の経過、歴史の経過だけ見ていてはわからないのです。しかし、聖霊によって、目が開かれた時に、神の意図、神のみこころがひもとけ、謎が解明されるのです。

◇イエスの逮捕事件の真相
 さて、解明されたこととは何でしょう。それは預言の成就であり、神のみこころだったということです。ユダの裏切りについては…「聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』(詩篇41:9)と書いてあることは成就するのです。わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです」(13:19)。
 逮捕の時に、ご自分だけ捕まえさせ、弟子たちをまきぞえにしませんでした。その理由もイエスが啓示されたことの成就です。「『あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。』とイエスが言われたことばが実現するためであった」(17:12→18:8)。ペテロがマルコスの右耳を切り落とした時、イエスは「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」と言われました(18:11)。これも「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と、イエスの預言の言葉のとうりに、ペテロは三度、イエスを知らないと言い張ってしまいました(13:38→18:27)。
 そうして、私たちの罪のために十字架にかかり、贖いをなしとげられた時、「イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」のです(19:28)。弟子がイエスを裏切ろうと、弟子がイエスを否認しようと、時の権力者がイエスを抹殺しようと、人類を罪と死と滅びから救うという神のみこころ、預言は成し遂げられたのだということです。裏切り、否認し、抹殺するというような罪人のために、それが「原因」でイエスが殉教されたようで、そうではなく、それらの罪人である私たちを救う「目的」で、贖い死されたのです。十字架は悲惨な死のようで、栄光の死だったのです。

◇イエスの逮捕事件の進展
 ですから、逮捕時において、主イエス・キリストはこのようにふるまわれました。「イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、『だれを捜すのか。』と彼らに言われた。彼らは、『ナザレ人イエスを。』と答えた。イエスは彼らに『それはわたしです。』と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。」のです(18:4 ,6)。
 『それはわたしです。』は、「神がモーセに仰せられた『わたしはある』という者である」を言われたのでしょう(出エジプト3:14)。その権威ある言葉に圧倒されて、彼らがあとずさりし、そして地に倒れたのでしょう。一瞬お見せになられた神の権威です。
 『わたしはある』というお方が、エジプトに下り、奴隷イスラエルを救い、解放されたように、『それはわたしです。』というイエス・キリストが世に下り、囚人にまでなられ、罪の囚人となっている私たちを、十字架において、ご自分の命の代価を払い、解放してくださったのです。罪人たちの前に意図的に圧倒されたイエスは、何者をも圧倒してしまう『それはわたしです。』というお方なのでした。だからこそ、そのお方による解放、その福音による救いが確かなものなのです。天地の創造者、それはわたしです、人類の救い主、それはわたしです、と宣言されておられるイエス・キリストをあなたは信じますか。

洗足の作法

2010-03-07 00:00:00 | 礼拝説教
2010年3月7日 主日礼拝(ヨハネ福音書13:1~15) 岡田邦夫


 「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」ヨハネ福音書13:14


 食事のマナーも民族や国によって違ってきます。主イエスの最後の晩餐の始まる時に足を洗うという意外な光景に私たちは出会います。「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(3:4ー5)。
 当時、そのような特別な食事の場合、ユダヤ人はギリシャ人やローマ人の習慣に習い、寝そべり、左肘をついて、右手で食事しました。足が他の人の顔に近づくわけですから、奴隷に足を洗ってもらって、席に着くというのがマナーでした。しかし、この夕食の席で、師である方が弟子の足を洗ったというのですから、何とも意外なパフォーマンスです。そして、主イエスはなお、こう命じられました。「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」(13:14ー15)。

◇主‘が’求める洗足の道
 最後の晩餐で、主イエスは弟子たる者の「道」を示したのです。キリスト者は「この道に従う者」であり(使徒9:2)、そのあり方は互いに足を洗うということです。
 話は少し違いますが、書道にしろ、剣道にしろ、伝統的な「~道(どう)」というのは、かならず、その道(みち)の作法、また、人としての作法というものがあります。茶道では、千利休(せんのりきゆう)がよく知られています。利休の師は紹鴎(じようおう)、紹鴎(じようおう)の心の師というのは侘(わ)び茶の祖、珠光(じゆこう)。珠光(じゆこう)は人間としての成長を茶の湯の目的とし、茶会の儀式的な形よりも、茶と向き合う者の精神を重視しました。利休はその精神を深めたのだと思います。利休百首にこのような句があります。
  その道に入らむと思ふ心こそ 我が身ながらの師匠なりけれ
  習ひつつ見てこそ習へ習はずに よしあしいふは愚かなりけり
 茶の道と「キリストの道」とはある面、似ているところがあります。主であり師であるイエスが、あなたがたの足を洗って、模範を示したのだから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきですと、弟子としての道を教えられたところがそうです。キリスト者は弟子として生きるのが、正道です。主であり師であるこのイエスの生きた模範に習った生き方をしていくのです。身をかがめ、足を洗う姿はしもべの姿であり、仕える姿であり、最も謙遜な姿です。それがキリスト道です。
 主イエスは求めてきた盲人に「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ね、「主よ。目が見えるようになることです。」の求めに答えられました(ルカ18:41)。その主イエスは山の上で教えられました。「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」(マタイ7:12口語訳)。「足を洗う」というのは、そのように、相手のしてほしいことに、ひざまずき、向き合うことです。とても高い倫理観です。私たち、キリスト者は、黒人霊歌(Negro Spiritual、新聖歌404)にあるような、切なる祈りが必要です。「心の底より、弟子となし給(たま)え、わが主よ、~心の底より、主をば倣(なら)いたし、わが主よ」。しかし、主イエスはできないことを命じられたわけではありません。

◇主‘を’求める洗足の道
 足もきれいになり、夕食が始まると、主イエスはまた、足の話をされました。「聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』(詩篇41:9)と書いてあることは成就するのです」。かかとを上げるというのは裏切りを意味します。そして、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」と、ことの事実を告げました(13:18、21)。イスカリオテ・ユダの心に、悪魔がイエスを売ろうという思いを入れていたからです。ユダは悪魔に魂を売り渡してしまって、引き返せないところまで来てしまっていました。その席上で、イエスはパン切れを浸し、ユダに渡し、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と告げますと、ユダはパン切れを受けとり、すぐ外に出て行きました。
 この時、主イエスはおごそかに言われたのですが、「その心が騒」いでおられたのです(13:21口語訳)。三年間も心血注いで育てた弟子から、裏切られ、敵の手に渡されようとしているのです。どんなにか、心騒ぐことでしょうか。無念さがつのるばかりでしょう。しかし、それ以上に新改訳聖書では「霊の激動を感じ」られたと述べています。この晩餐の以前に、ギリシャ人がイエスに会いに来た時のこと、主イエスは十字架での死の苦しみを受ける時がついに来たのだということを知って、「心が騒いでいる」と言われました(12:27)。その時から続いているのです。ユダの裏切りが明確になり、「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られ」て、心が騒いだのです(13:1)。父のみもとに行くと言いましても、弟子に捨てられ、父なる神に捨てられるという事態を迎えなければなりません。並大抵の心の騒ぎではなかったでしょう。
 しかし、そのような状況の中で、イエスは心から、弟子たちの歩んできた人生の旅の汚れた足を、一人一人洗われたのです。私たちの無関心と不信仰という頑固な罪に汚れた足、反逆と敵対の罪の悪臭に満ちた足を、十字架において全身全霊で、きよめられたのです。顔を背けてしまうような、私たちの腐りきった原罪の汚れの染みついた足を、ご自分の命の血を注ぎだして、全く洗いきよめられたのです。とんちんかなペテロに「今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と言われたのはそのことです(13:7)。裏切られ、捨てられて、心がどんなに騒いでも、主イエスは、愛の道を貫き、徹せられ、私たちをみ国の宴会に出られるように、私たちの足を洗ってくだったのです。
 「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」のです。「彼らを最後まで愛し通され」、「この上なく愛し抜かれた。」のです(口語訳、新共同訳)。私たちを愛し抜かれた、救い主の洗足をもっともっと、知らなければなりません。求めていけば、あとでもっとよくわかるようになるでしょう。利休は「その道に入らむと思ふ心こそ 我が身ながらの師匠なりけれ」という茶の道をしめしましたが、私たちキリスト者はキリストの道の求道者です。主キリストの究極の愛を知り、信仰によって、それにあずかることを求めていくという、一生の求道者です。

◇主を求め、主が求める洗足の道
 「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(13:14)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)。そう命じられましても、救い主がされたことと同じことを私たちにはできません。しかし、真似ることができます。相似形のように、同じようなことができるのです。主の愛が大きくて、私たちの愛が小さくても、似ている道を行けばいいのです。「習ひつつ見てこそ習へ習はずに よしあしいふは愚かなりけり」をキリストの道にあてはめたいものです。イエス・キリストの洗足の愛を習いつつ見てこそ習えの道をいくのです。それが洗足の生き方の作法です。
 弟子となしたまえの1節の前に、こう歌いたいと思います。
  0 足を洗われた わが主よ わが主よ
   足を洗われた わが主よ
   心の底より 感謝いたします わが主よ
  4 主をば倣いたし わが主よ わが主よ
   主をば倣いたし わが主よ
   心の底より 主をば倣いたし わが主よ