オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

今日の風はなに色か

2016-09-25 14:20:18 | 礼拝説教
2016年9月25日(日)伝道礼拝(ヨハネ3:1~8、16)岡田邦夫

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。ヨハネ3:16


 中高生キャンプにスタッフとして参加した時のこと、講師の先生がこんな話を始めました。「ある人が初めて教会に行った。この人、キリスト教のキの字も知らない。宣教師が講壇から、たどたどしい日本語で話をしていた。ネコデモ救われます。ネコデモ救われますと一生懸命だ。へえ、教会というところは、「猫」でも救われるのかと彼は感心した。後でわかった。アクセントの関係でニコデモが猫でもに聞こえたのだ」。聴衆は爆笑で、その後のヨハネ3章のメッセージに引き込まれていきました。私もたいへん感動して聞いていたのですが、覚えているのは、猫でも救われます、だけとはなさけないです。

◇見えないものが分かる
 さあ、そのニコデモ、ユダヤ教の教えを守り、規律正しい生活を送っているパリサイ派の人で、しかも、ユダヤ人の指導者、今でいう国会議員です。夜、イエスのもとにやってきたのですから、何か深刻な悩み事でもあったのでしょうか。聖書はそのことは何も触れておりません。立派な先生だとほめたたえて、あいさつすると、いきなり、主イエスが「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言うではありませんか。ニコデモはとんちんかんなことを言います。この老人が母の胎に入って生まれるのですか、そんなばかなと(私の言い方ですが)。
 そこで、イエスは霊的な生まれ変わりが必要だと言われます。私の解釈を加えて申します。教えを守り、規律ある生活をしていることはいいことですが、それで救われるのではない。霊的に生まれ変わらなければ、救われ、神の国に入れない。言い換えれば、新しく生まれ変わりさえすれば、立派なパリサイ人、議員でなくても救われる。誰でも救われるのです。自分の罪を悔い改めて、十字架にかけられた人の子イエスを救い主と信じることで新しく生まれるのです。
 この霊的なことは分かるようで分からない、分からないようで分かる。それを3章8節でこう述べています。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」。
 辻井伸行さんという全盲の方がアメリカで開催されたヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝されたことがニュースになりました。生まれた時から目が見えません。生後8カ月のとき、お母さんが音に対する特別な感性があることに気付きます。CDで『英雄ポロネーズ』の音楽を聴くと、手足をバタバタさせてとても喜ぶ。毎日かけている内にCDが痛んでしまったので、同じ曲の新しいCDを買ってきかせた。しかし、機嫌が悪い。前のCDと比べたら、ピアニストが違っていたのである。同じピアニストのものを買って聞かせたら、上機嫌なのである。そうしたことから、ピアニストになっていくのである。
 といって、ピアノだけさせたのではなく、他の子と同じように、何でもやらせたそうです。小さい頃、色が見えませんから、色を理解させるために、「りんごの赤」「バナナの黄色」などと教えていた。ある時、彼が「じゃ、今日の風はなに色?」と聞いてきた。大好きな食べ物に色があるなら、同じく大好きな風に色があっても不思議はない。思えば、音色という言葉は音の色と書く。風にも色があってもいいわけ。素晴らしい豊かな感性です。(お母さんは彼の成長記を本にした時、『今日の風、なに色?』のタイトルにしたと言います。)
 イエス・キリストの救いのみ言葉をいただくことによって、風があなたのところに吹いてくるように、霊によって生まれ変わるのです。神の言葉があなたの中に受肉するのです。

◇見えない方が分かる
 このニコデモとイエスの対話の最後に信じれば永遠の命が与えられるとしめくくられて、聖書で最も有名なみ言葉がきます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3:16)。
 最近、こんなCMがありました。「いのちは大切だ。いのちを大切に。そんなことを何千回何万回いわれるより、“あなたが大切だ”誰かにそういってもらえるだけで、生きていける」。渡辺和子さんが若い時、戦後、教務のアルバイトをしながら、駐留していたアメリカ人のための夜学に通っていました。英語力のなさもあり、劣等感もありで、実に大変でした。そんなある日、アメリカ人神父が「あなたは宝石だ」といってくれたのです。イザヤ書の「私の目に貴い」をいってくれたのです。ずっと励まされ、力になっていったとのことです。
 日本に最初に宣教師が来た時、神の愛を「御大切」と訳しました。そのつもりでこの句を読んでみましょう。「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、あなたを御大切にされている。それは御子を信じるあなたが、滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。まさに、 “あなたが大切だ” と聖霊によって呼んでくださっているのは神です。御子を犠牲にしてまで大切な人だという思いで、呼んでくださっているのです。
 今日、神のふところから、あなたのところに吹いてくる風は何色でしょうか。神の愛が運ばれてきます。永遠の命が運ばれてきます。あなたの霊の手でそれを捕らえ、今日も生まれ変わりましょう。

歴史には目的がある

2016-09-18 14:59:53 | 礼拝説教
2016年9月25日(日)主日礼拝(列王記下19:14~19、32~37)於宝塚泉教会・岡田邦夫

「わたしは自分のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守って、これを救うであろう」。列王記下19:34

 人生には三つの坂があります。上り坂、下り坂、そして、まさか(坂)です。そのまさかという事態に襲われた時、どう対応したらいいのでしょうか。そんな言い回しの祝辞を耳にしたりします。そのまさかが、ユダの国に起こったのです。強大なアッシリヤ帝国によって次々と国々が征服され、遂にエルサレムも包囲され、ユダ王国は陥落するのをただ待つばかりという国家存亡の危機でした。その時、敬虔な王ヒゼキヤがこの難局にどう向き合い、どう信仰によって乗り越えたのか、その軌跡、その秘訣を今日はお話ししたいと思います。私たちもまさかの大ピンチに見舞われることがあります。また、小さなピンチの場合もあります。いずれにしても、この聖書から学ぶものは大であります。なぜなら、これが重要ゆえに列王記、歴代誌、イザヤ書の三書に詳細に記されているからです。

◇最善をつくす信仰者
 すでに、同胞の北イスラエルの町々はアッスリヤの王シャルマネセルによって、攻め取られ、最後の砦、首都サマリヤも包囲されて、3年で攻め取られていました。南ユダ王国のヒゼキヤ王在位6年の時でした。この北イスラエル滅亡の原因を聖書はこう告げています。「これは彼らがその神、主の言葉にしたがわず、その契約を破り、主のしもべモーセの命じたすべての事に耳を傾けず、また行わなかったからである」(18:12)。

○人事をつくし
 その8年後、ヒゼキヤ39歳、BC701年に「アッスリヤの王セナケリブが攻め上ってユダのすべての堅固な町々を取った」のです(18:13)。ユダは小国、蛇ににらまれた蛙のよう、なすすべがない。そこで、ヒゼキヤは最善をつくします。銀三百タラントと金三十タラント、主の宮と王の家の倉とにある銀のすべて、神殿の戸および柱から自分が着せた金をはぎ取ってまで、アッスリヤの王に渡し、流血を避け、アッスリヤの属国になります。
 しかし、反撃の機を伺っていました。アッスリアにちょっとスキが出来た時に、反アッスリヤ同盟に加わり、エジプトの援軍を頼む一方、独立ののろしをあげたのです。

○忍耐をつくし
 すると、アッスリヤの王は大軍をエルサレムに送り、ヒゼキヤ王と住民を二回にわたって脅すのですが、要約するとこうです。
 …ヒゼキヤよ、お前が頼みとする者は何か。口先だけで戦争ができることなどと考えるのか。アッスリヤの王のわたしにそむいて、エジプトに援軍を頼んだというが、助けてはくれはしない。「われわれは、われわれの神、主を頼む」と言うのか。ヒゼキヤが宗教改革だとかいって、頼むべき高き所と祭壇とを除いてしまって、何に頼むのか(誤解)。なんだったら、馬二千頭を与えようか。でも、乗りこなす兵がいないか(皮肉)。お前の言う主なる神がわたしにこの地に攻め上ってこれを滅ぼせと言われたのだ(うそ)…。
 …ユダの民よ、アッスリヤ大王のお言葉を聞け。お前たちはヒゼキヤに欺かれるな。彼はお前たちを大王の手から救いだすことはできない。ヒゼキヤが「主は必ずわれわれを救い出される。この町はアッスリヤ王の手に陥ることはない」と言っても、お前たちは主を頼みとしてはならない。その言葉を聞いてもならない。和解して、降服せよ。そうすれば、穀物とぶどう酒のある地、パンとぶどう畑のある地、オリブの木と蜜のある地に連れていく。
 ヒゼキヤが「主はわれわれを救われる」と言って、お前たちを惑わしても彼に聞いてはならない。これまで、諸国民の神々のうち、アッスリヤ大王の手から救った神々はいないではないか。同胞のサマリヤを大王の手から救い出したか。「主」とかいう神がどうしてエルサレムを大王の手から救い出すことができようか。…
 聖書はこう記しています。「しかし民は黙して、ひと言も彼に答えなかった。王が命じて『彼に答えてはならない』と言っておいたからである」(18:36)。そのような圧倒される脅しにも屈せず、忍耐をつくし、沈黙していたのです。妥協をせず、切れることなく対応していたのです。「静まって(新改訳・やめよ)、わたしこそ神であることを知れ」の詩篇の言葉を思います(46:10)。

○祈りをつくし
 ヒゼキヤ王は「きょうは悩みと、懲らしめと、はずかしめの日です。胎児がまさに生れようとして、これを産み出す力がないのです。…この残っている者のために祈をささげてください」と預言者イザヤに求めます(19:3-4)。イザヤの答えはこうです。「そしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。見よ、わたしは一つの霊を彼らのうちに送って、彼を自分の国へ帰らせて、自分の国でつるぎに倒れさせるであろう」(19:6-7)。
 なお、脅しの手紙を主の前に広げ、ヒゼキヤ自身が祈ります。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてごらんください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉をお聞きください。…主よ、どうぞ、今われわれを彼の手から救い出してください。そうすれば地の国々は皆、主であるあなただけが神でいらせられることを知るようになるでしょう」(19:15-19)。祈りをつくしたのです。
 イザヤは神の答えを告げます。一言でいえば、祈りは聞かれた。高慢なアッスリヤを引きかえらせ、ユダの家を守ると(19:20-34)。すると、み言葉通り、驚くべきことが起こりました。「その夜、主の使が出て、アッスリヤの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆、死体となっていた。アッスリヤの王セナケリブは立ち去り、帰って行ってニネベにいたが…」(19:35-36)。何という奇跡でしょうか。
 ヒゼキヤが人事をつくし、忍耐をつくし、祈りをつくした結果です。信仰者がピンチを乗り切る秘訣がここにあるようようです。

◇真実をつくす主なる神
 しかし、聖書は最後に神のみ旨はこうだと告げます。「わたしは自分のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守って、これを救うであろう」(19:34)。歴史には目的があるのです。神がご自身のために神の子らを救うのです。神のしもべダビデ、新約では神のしもべイエス・キリストのために私たちを救ってくださるのです。ですから、絶対に目的は果たされるのです。救いの歴史は確実なのです。教会の歴史も、個人の歴史も救いの目的達成に向かっているのです。
 ヒゼキヤが人事をつくし、忍耐をつくし、祈りをつくして、最善を尽くしたと話しましたが、律法の精神に「つくす」というのがありますね。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(申命記6:5=マタイ22:37)。ヒゼキヤはそれを実行したのだと私は思います。形にしたのですし、体験したのです。なぜ、心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよなのでしょうか。愛の神がそうだからです。エレミヤ書にこう告げられているではありませんか。「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(31:3)。
 とてつもない罪深い私たちを救うために、御子を犠牲にするほど、神は愛をつくされ、私たちがたとえ不真実であっても、限りなき愛をもって真実をつくしておられるのです。この圧倒的な恵みに自らすすんで答えていきたいものです。私たちは限りなき愛をもって愛されていると信じ、心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる神を愛する精神で、ヒゼキヤ・モデルに従い、どんなことがあっても、人事をつくし、忍耐をつくし、祈りをつくして、み前に歩んでまいりましょう。


歴史には原因がある

2016-09-11 14:20:29 | 礼拝説教
2016年9月11日(日)主日礼拝(2列王17:1-8)岡田邦夫

「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」2列王17:7-8

 人工0の明かりの少ないところで晴れた日、夜空を仰げば、満天の星に人はロマンを感じることでしょう。昔の人は星と星を結び、形を連想し、白鳥座などと星座の名前があります。歴史の見方にも多少そのようなところがあります。過去に無数にある出来事の中から、何かの考え(歴史観)で、重要だと思うものを取り上げてつなげていくと歴史になります。個人の歴史も、世界の歴史もそうです。聖書の歴史はどうなのでしょうか。それは私たちにどう適応されるのでしょうか。第二列王記の対照的な大きな出来事を2回にわたってお話ししたいと思います。

◇人の目から見れば…
イスラエルは北イスラエルと南ユダに分かれ、それぞれの歴史を重ねていました。ホセアが北イスラエルの王であった時代、アッシリヤ帝国が台頭し、シャルマヌエセル王は次々と小国を征服して、イスラエルの首都サマリヤにも迫ってきました。そこでホセアは一時、彼に服従して、みつぎものを納めました。ところが、ホセアはエジプトの王ソに使者たちを遣わし、アッシリヤの王には年々のみつぎものを納めなくなったのです。
そのホセアの謀反に気がついたアッシリヤの王は彼を逮捕して牢獄につなぎ、この国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲したのです。サマリヤは持ちこたえられず、ホセアの第九年、すなわちBC724年、遂に陥落。イスラエル人はアッシリヤのメディヤというの町に捕え移されたのです。祖国を失った人々の苦悩はどれほどであったでしょうか。サマリヤの町々の方はというと、アッシリヤの王がバビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町に住ませたのです。
 なお、ある事件が起こって、アッシリヤの王はサマリヤから捕え移した祭司のひとりを送り込み、どのようにして主を礼拝するかを教えさせました。しかし、それぞれの民はめいめい自分たちの神々を造り、礼拝し、それぞれの風習に従ったのです。そのような混沌とした状態になってしまったのです。
 これがサマリヤの悲劇の歴史です。パレスチナはアッシリヤ帝国がエジプト帝国に向かう通り道、征服の野望の餌食にされたのです。そして、次々に帝国が台頭しては小国が巻き込まれて、被害を受ける、そういう時代で、北イスラエルの民は滅亡していったのです。

◇神の目から見れば…
 一般の歴史からいえば、帝王の野望でイスラエルは滅亡したといえますが、聖書記者は本当の原因はイスラエル自身にあったと告げます。こうなったのは、という言い方で記すのです。「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである」(17:7-8)。
 偶像礼拝という悪事を行い、人身御供、占いまで行って、主の怒りを引き起こした。先見者が悪の道から帰れ、律法に従えと警告したのに、主に従わなかった。このイスラエルの罪が原因で、「ついに、主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、イスラエルを御前から取り除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリヤへ引いて行かれた。今日もそのままである」(17:23)。
 この悲劇の歴史は見えるところでは帝王が原因、見えないところでは王と民の不信仰が原因。そこで、メッセージがあるのです(17:35-39)。「ほかの神々を恐れてはならない。これを拝みこれに仕えてはならない。これにいけにえをささげてはならない。大きな力と、差し伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえをささげなければならない。主があなたがたのために書きしるしたおきてと、定めと、律法と、命令をいつも守り行なわなければならない。ほかの神々を恐れてはならない。わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。ほかの神々を恐れてはならない。あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される」。
 そして、救いの歴史は続きます。「しかし、彼らは聞かず、先の彼らのならわしのとおりに行なった。このようにして、これらの民は主を恐れ、同時に、彼らの刻んだ像に仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行なった。今日もそうである」(17:40-41)。主を恐れ、同時に、彼らの刻んだ像に仕えたと微妙な記述です。これがサマリヤ人です。完全に見捨てられたのではありません。イエス・キリストが現れた時、ご自身、サマリヤに伝道され、多くの人が信じました。また、真の礼拝をする時がくるのを告げました(ヨハネ4章)。復活の主は召天後に聖霊が降ったら、使徒たちはユダヤ、サマリヤの全土、地の果てまでもキリストの証人になると約束されました(使徒の働き1章)。
人は蒔いたものを刈り取ることにはなりますが、こちらが不真実でも、主は真実、選ばれた民を主は決して、見捨てないのです(ガラテヤ6:7、2テモテ2:13、ヘブル13:5)。十字架の隣の犯罪者が自分がこうなったのは当然。御国の権威をもっておいでになる時は思い出してくださいと主に願うと、「あなたは私といっしょにパラダイスにいる」と最高の約束をされました。人の社会は彼を見捨てるわけですが、本人も蒔いたものを刈り取るのですが、十字架の主イエス・キリストは彼を見捨てないばかりか、一緒にパラダイスに行こうというのです。これが神の救済史なのです。神ご自身の愛が救いの歴史の原因なのです。

ナアマンのいやしを体得せよ

2016-09-04 09:00:26 | 礼拝説教
2016年9月4日(日)主日礼拝(2列王5:8-14)岡田邦夫

「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」2列王5:10

 私のことですが、戦時中、東京の空襲を避けて、福島に疎開していた時のこと、母が私をおぶって橋を渡っていたら、何かにつまずいて、前のめりに倒れました。頭にさしていたピンで私の鼻が縦に切れて出血、母は新聞紙を切ってそこにペタッはっつけただけでした。薬がなかったからです。その傷跡は30年以上たって完全に消えました。そんな時代ですから、体中できものが出来てひどい状態にもなりました。終戦となったので、わが家は海水浴に行きました。海水につかったら、次の日からぐんぐんよくなって、すっかりきれいな肌になっていました。そんな思い出があるので、ナアマン将軍がヨルダン川の水につかって、重い皮膚病が癒されたという奇跡は、決してウソではないと私は思うのです。

◇「…ない」
 今日は、ないないづくしで、この話を進めてみましょう。北の隣国アラムとはこの時、平和条約を結んでいたらしいです。アラムの将軍が重い皮膚病(ツァラアト)に冒されていたので、イスラエルから連れてこられた召使の娘が、サマリヤの預言者なら直してくれるでしょうと進言。将軍は主君の許可を得、王の依頼の手紙をもって、イスラエル王に謁見。王は言いがかりかと誤解しますが、エリシャは安心させます。「彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」(5:8)。☆預言者は異邦人だからといって、区別はするが「差別はしない」。
 ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立つ。エリシャは使いに伝言。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」(5:10)。なんだ、それは、手をおいて祈ってくれないのか、川なら故郷にもあると怒って帰ろうとする。一緒に来た僕が引き止める。「もしも、むずかしいことを命じたとしたら、きっとなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか」。☆この癒しは「難しいことではない」ということです。
 ナアマンは神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に身を浸したのです。しかも七度でした。☆神(神の人)の「言ったとおりに信じて、するしかない」のです。すると言ったとおり、信じたとおり、「彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」のです(5:14)。癒しの奇跡です。
 エリシャのところに引き返し、持ってきた贈り物(銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着)を渡そうとすると、それは絶対受け取らないと言い張ります。☆「ご利益ではない」ということです。純粋にイスラエルに預言者がいることを知らせるためでした。弟子のゲハジは欲にかられます。ナアマンを追い、預言者の仲間が来るのでその仲間にあげたいと言って、贈り物をもらい、自分の家にしまい込んでしまう。エリシャに知れて、ゲハジは重い皮膚病になるという罰を受けてしまいます。☆大事なのは「心が欲で汚れてない」ことです。
 ナアマンは癒された後、信仰告白をしています(5:15、17)。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました」。「しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから」。ただし、主君がリモンの神殿礼拝のとき、私の腕に寄りかかるため、私は身をかがめますが、主がこのことをお許しくださいますようにと正直に言いますと、エリシャは「安心して行きなさい。」と彼に告げるのでした。☆彼がたどり着いたのは「イスラエルの神のほか、神はいない。ただ主にのみささげます。他の神々には仕えない」という信仰告白でした。

◇「…ある」
 今度はあるあるで綴ります。こうして、ナアマン将軍の癒しの奇跡を見ていきますと、聖書における癒しとは何かがよくわかってきます。「差別はない…難しいことではない…信じてするしかない…ご利益ではない…この神のほか神はいない」と。私にはこれと似た光景も浮かび上がってきます。
 ☆イエスの奇跡によく似たものがあります。「行って、シロアムの池で洗いなさい」という同じフレーズがある。私にはそう響いてきます。生まれつきの盲人がいて、弟子がこの不幸は本人のせいか、親のせいかと問いますと、イエスはそのどちらでもない、神の御業の現れるためだと告げます。差別はないと光をあてます。地面につばきをし、泥を作り、盲人の目に塗って言った言葉が「行って、シロアム(訳していえば、遣わされた者)の池で洗いなさい」でした(ヨハネ9:7)。難しいことではない、信じてするしかないのです。「そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った」のです。神の御業が現れたのです。
 近所の人に聞かれても、当人は名前だけは聞いたが、どこにいるかわからないとしか言い様がありません。これが安息日だったので、パリサイ人が聞きつけ、この癒しは不法行為だとし、癒された当人と両親を尋問。「あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはず」と証言します(ヨハネ9:33)。そのため、追い出されてしまいますが、そこにイエスが会いに来られたので「主よ、私は信じます」と面前で信仰告白をしました(9:39)。魂の目も開かれたのです。主の奇跡の目的はそこにあったのです。

 ☆「あなたのからだが元のようになってきよくなります」と同じフレーズがエレミヤ書にある。「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしはユダとイスラエルの繁栄を元どおりにし、初めのように彼らを建て直す。わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ…」(33:6-8)。これから、ユダの民はバビロンに捕らえられていくけれど、約70年後には神が民を帰し、痛んだ町と民を元通りに癒しきよめるという回復の預言です。そして、もっと先の終わりの日のことをも重ねて預言しているのです。元どおりにし、きよめると。
 ある時、教会員が心筋梗塞で倒れ入院。教会あげて、皆で祈りました。牧師にこのエレミヤの言葉、「わたしは健康といやしとをもたらして…もとのようにする」(口語訳)とのみ言葉が与えられました。医師団は脳死と判定していたのですが、一週間後、意識を回復し、やがて元の元気な体になり、仕事にも復帰したのです。その時、私はこの奇跡は「大いなる学習」だと知らされたのです。すでに救い主がすべての病を負い、癒しの御業をなしとげられたのですが、神の大御心は罪によって傷つき、病んでしまっている全人類を最終的に完全にきよめ、癒し、元のように神のかたちを回復し、神と人が共にいるというエデンの園を回復することです。それが私たちの経験で、祈って、治らない病が奇跡的に癒されたとか、あるいは、奇跡とは感じられないが病が癒えたとか、あるいは、病は治らなかったけれど、心に言いしれない平安を得たとか、心がふさいでいたけれど、祈ったら、魂が慰められ、元気になったとか、多種多様の癒しの経験は、神の大御心を知っていく「大いなる学習」なのだと思います。その経験は望遠鏡のようなものです。癒しの経験の望遠鏡から、神の大御心・人類の窮境の癒しを覗き見るのです。

 ☆読みかえもある。「イエスの血潮の川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」。「私は今、イエス・キリストのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました」。イエス・キリストは私に言った。「安心して行きなさい」。