オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

全(まつた)ききよめ

2012-06-03 00:00:00 | 礼拝説教
2012年6月3日 主日礼拝(1ヨハネ1:1-10)岡田邦夫


 「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」1ヨハネ1:7

 今から2年前の2010年6月13日夜に感動的なニュースが飛び込んできました。日本の小惑星探査機「はやぶさ」が7年ぶりに地球に帰還し、はやぶさの本体は大気圏で燃え尽きましたが、小惑星の微細物が入っている可能性のあるカプセルがオーストラリアの砂漠に無事落下したというニュースでした。3.2億キロの彼方の小惑星「イトカワ」にたどりつき、いくつかの失敗にもかかわらず、諦めないで技術の粋を尽くして60億キロの旅を終えて帰ってきたというものです。月以外のしかも最も遠い惑星に着陸し、サンプルを持ち帰ったというのは世界初の記録で、それも喜びでした。

◇主は遠い…果てまでも
 しかし、宇宙全体から見れば、ごく小さな事です。観測された最も遠い銀河まで130億光年の距離があります。そうすると、この宇宙を造られた神は宇宙の外におられるとするなら、私たち人間との距離は果てしなく、気が遠くなる程遠く、とても近づけるものではありません。神は聖なる方です。聖とは区別されたものという意味で、被造物とは区別された方という意味です。その聖なる創造者は人を神のかたちに創造されました。神と関係を持てるかたちに創造されたのです。人は神と交わることが出来る者として造られたのです。しかし、アダムが神に罪を犯し背を向け、それ以来、聖なる神に罪ある私たちは近づけなくなりました。単なる距離ではなく、罪に汚れた者が聖なる方に忌み嫌われるという距離、霊的な距離が無限に遠くなってしまったのです。
 そこで、神は神のかたちを回復し、神に近づき、神と交われるようにと、神の御子イエス・キリストを世に遣わされました。使徒ヨハネの言い方ですとこうです。第一ヨハネ1:1ー4に注を入れて見てみましょう。「(天地創造の)初めからあったもの(イエス・キリスト)、(その方が世に来られ、肉体をとられ)私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの(イエス・キリスト)、すなわち、いのちのことばについて、(伝えましょう)。――このいのち(であるイエス・キリスト)が(世に)現われ、私たち(弟子たち)はそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのち(イエス・キリスト)を伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たち(弟子たち)の見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」
 神のかたちに造られた人間が創造者なる神との交わりがなければ、何をしても、その魂は果てしなく悲しく、虚しく、不安なのです。だいぶ前のことです。ある年配のご夫妻がおられ、ご主人の方が亡くなられ、奧さんがひとりになられました。お腹にできものがあるというので、近くの新しくできた医院に行きますと通院で取り除けるというのですが、ひとり暮らしで大変だろうからと、息子さん家族と相談して、入院しました。ところが手術は簡単に終わったのですが、入院中にベッドから落ちて腰の骨を折ってしまい、寝たきりになり、寝たきりになると、あちこち体も悪くなり、認知症になり、寝たきりになり、家族が配慮して、大きな病院に転院させました。ところが本人は見捨てられたと思い違いをして、堅く口を閉ざし、しゃべることも、飲食も拒否して、亡くなられました。実に悲しい話でした。神に見捨てられ、神との交わりがないというのは、そういうような悲劇なのです。

◇主は近い…奥までも
 だからこそ、イエス・キリストが肉体をとって私たちのところに来られ、あがないをなし遂げ、神との交わりを回復してくださったということは、最高の喜びであり、充足であり、平安があるのです。まだ、言葉も充分話せないころの孫が、親から、明日は三田のおじいちゃん、おばあちゃんのところに行くよと言われて、「うれしみ」と答えたそうです。楽しみという言い方があるのですから、うれしみもあって良いかもしれません。とても会えることもできない距離にあった創造者にして父なる神にお会いでき、親しく交わることが出来ることは、まさに「うれしみ」なのです。
 この神との交わりを決定づけるのが御子イエス・キリストの犠牲の血です。バイブル・キャンプで、罪を示す言葉として「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1:8)が提示され、救いのみ言葉として「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1:9)が提示さることが多いようです。適切だと思います。また、聖会で、悔い改めた時に、きよめのみ言葉として、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」が与えられることがあります(1:6ー7)。そのように救いの信仰体験があり、きよめの信仰体験があると言われていますが、神のなることは一回限りで完全で、イエス・キリストによる罪のあがないも一回限りで完璧で、それで充分ですし、十二分と言っても良いでしょう。しかし、時間の中に生き、不完全な私たちの側の信仰体験というものは、成長を重ねていく必要があります。言い換えれば、神との交わりを深めていく必要があります。その喜びの醍醐味を味わっていくのがきよめの信仰生涯です。
 先日、クリスチャンの姉が訪ねてきました。残されたたったひとりの姉です。姉が来る前に、あちこちある部屋を片付けておこうとしたのですが、会堂の前の部分の壁を白壁に塗り、ベランダに防腐剤を塗ったくらいで、忙しさのため、それ以上できませんでした。姉も信仰者ですし、余計なことは言わない人ですので、全部の部屋を見せても良かったのですが、結局、片付いていない部屋は見せずじまいでした。クリスチャンになって、神との交わりが出来たというのは、心の部屋にイエス・キリストが入って来られたということですね。しかし、まだまだ、まだ、入って来られては都合の悪い部屋があるのではないでしょうか。なにかを恨んでいる恨みの部屋とか、だれかを赦せない非情の部屋とか、神の導きを感じるのに従えない不従順の部屋とか、お任せできない固執の部屋、自我を通したい頑固の部屋、やめようと思うけどしてしまう常習の罪の部屋、人を愛そうと思うけれど、愛せない無慈悲の部屋…けっこう開かずの間があるのではないでしょうか。それをかたずけてから、きれいにしてから、きよめてから、イエス・キリストに入っていただこうと思ってもそれはいつまでたっても、どんなに修行してもできそうにありません。主はそれを要求はされません。お入りくださいと受け入れれば、そのままの部屋に入って来てくださいますし、その時こそ、「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。きよめてくださるのはイエス・キリストです。御子イエスの犠牲のあがないの血なのです。それを手渡し、うなずかせ、確信を与えるのは聖霊という親切なお方です。
 汚い部屋ですが、お入りくださいというのが、罪の告白です。「私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。そうすると、神との交わりに、嘘がなく、平安で、満ち足りて、静かな深い、霊の交わりが体験の上でおとずれるのです。日々のディボーション、信仰生活において、主の日の礼拝や祈祷会、聖書を読む会において、このきよめの生活は積み重ね、神との交わりを深めていくものです。それと同時に、きよめられたような、そうでないようなはっきりしないと感じられるところを、きっちりとどこかで、それが聖会の場とか、危機的状況に立たされた場だとか、何か特別な導きを感じるデボーションの場とかなどで、御子の十字架の血できよめられましたという明確な信仰の告白を聖霊によってさせていただき、はっきりさせる瞬間を得ることが出来ます。そういう「私たちの喜びが全きものとなる」信仰体験、そういう「うれしみ」と言える信仰体験が得られる人は幸いです。それは永遠の命の交わりだからです。
 ナルドの会「女性のための聖書を読む会」の第一回はイエスに高価な香油を注いだマリヤについて学びました。「家は香油のかおりでいっぱいになった」とのみ言葉が印象的でした(ヨハネ12:3)。そこから連想します。あなたの心のどこかの鼻持ちならない部屋も、御子がお入りなられたら、その御子の血すわち犠牲的な愛の、その香りでいっぱいになるのではないでしょうか。どうぞ、奥の部屋まで入っていただこうではありませんか。