オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

一粒の麦が地に落ち

2009-09-27 00:00:00 | 礼拝説教
2009年9月27日 主日礼拝(ヨハネ福音書12:24)岡田邦夫


 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ福音書12:24

 今、この辺りでは米の収穫の時期ですので、私たちには麦より、米の方が身近に感じます。「米」という字は「八十八」と書くのだとか、八十八の手間がかかることを意味しているとか、言われています。一粒の米が、芽を出し、実を結ぶまで人力以上に、自然界の多くの恩恵を受けていきます。私たちの人生においても、さまざまな恩恵を受けながら、人生の実りを得ようと生きています。それぞれが何らかの実をあらわしたいという自己実現を願って生きています。最近使われる言葉では夢の実現でしょうか。

◇それは逆です:愛の逆説
 それが人生というものかも知れませんが、主イエスはさらにまさる実を結ぶ人生を教えられました。それは逆説的です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(12:24)。一粒の麦は主イエスのことで、私たち、人類を罪と死と滅びから救うために、十字架にかかり、身代わりに死のうとしているということです。もし死ななければ何も起こりません。しかし、もし死んだなら、救いの実を豊かに結ぶのです。事実、イエス・キリストは私たちを救うために、自ら進んで、命を捨てられたのです。
 そのような自己犠牲というのは愛からしか生まれません。この言葉に重ねられる次の言葉があります。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。愛は見返りを求めず、惜しみなく、犠牲を払います。自分のことしか考えないエゴイストの、私やあなたのために、主イエスは一粒の麦となり、死んでくださったのです。神に造られた人間が神を思わず傲慢で、神の造られた自然を破壊し、種を絶滅させ、神のかたちに造られたはずの人間同士で争い、殺し合い、弱者を虐げ、性の暴力をふるい、神に断罪されても仕方のない悲惨な状況です。しかし、そんなどうしようもないほど罪に陥った私たちを救うために、神はイエス・キリストを地に遣わし、身代わりとして御子を十字架で裁きなさったのです。イエスは私たちへの神の怒りを引き受けて、苦しみに苦しみを重ねて、一粒の麦となり、死んでくださったのです。そのイエスの愛を信じ受け入れ、悔い改めるなら、その罪が赦され、私やあなたの中に永遠の命の実が結ばれるのです。
 それはこの赦されがたく、滅び去ろうとしている私が、神に赦され、永遠の神と永遠に愛の交わりができるという「神の愛の結実」の奇跡が起こるということです。今、言いましたように、イエスが一粒の麦となって地に落ちて死ぬのはたいへんな苦しみを担うことでした。しかし、それには豊かな実りがありました。イザヤの預言がここに成就したのです。「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(イザヤ53:11新共同訳)。それは自己実現ではなく、み旨実現と言えます。私たちも救われて、そのイエス・キリストの満足に与るのです。それは自己満足でなく、主との共有満足なのです。ですから、神に愛された者の笑顔が生じるのです。

◇それは真っ直ぐです:愛の連鎖
 話はこれで終わりではありません。一粒の麦となるのは、私やあなたです。イエス・キリストを信じて神の子にされた者が、一粒の麦となって死ななければ、何も起こりませんし、その一生が無意味になってしまいます。しかし、、一粒の麦となって死に、神と他者のための愛に生きるなら、多くの実を結ぶものなのです。
 聖路加国際病院理事長・同名誉院長の日野原重明さんは98才でも現役で元気に働いておられます。牧師の子として生まれ、神戸教会(現・神戸栄光教会)にいました時、小学2年生で洗礼を受けました。その受洗した日のクリスマス祝会で聖書の暗唱をしました。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(1コリント13:13口語訳)。そして、この聖句は今も一番心に響いていると言われます。
 彼は医師となり、1970年3月、福岡での学会に出席するために羽田から飛行機「よど号」に乗った時に事件が起こりました。赤軍9人により、ハイジャックされたのです。福岡空港で子供と65才以上の老人をおろして、北朝鮮のピョンヤンに向かいました。赤軍は成功したと思いこみ、人質の乗客に読書を勧めましたので、日野原さんはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」文庫本4冊を借り受けました。一冊目の扉に、今日お話ししている聖句が載っていました。
 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)。
 飛行機はピョンヤンではなく、韓国の金浦空港に着陸しました。韓国当局と赤軍の激しいやり取り、一歩間違えれば、彼らのポケットに入っているダイナマイトが使われるかもしれないというので、機内は恐怖に包まれていました。そんな中、彼はこの小説を読んで気を落ち着けていました。4日目、山村代議士がよど号に乗り込み、100名の乗客は解放され、帰国できました。
 日野原さんが帰宅すると、見舞いの花でいっぱい。その配慮に対して、礼状を書きました。「許された第二の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと、願ってやみません。皆さまから受けたお見舞いに対するお礼を、私たちはいつの日か、いずれかの場所で、いずれかの人にお返ししたいと思います」。この事件に出会い、この聖句に出会い、自分はここで一度死んだ、残りの人生は人のために生きようと、180度生き方が変わりました。59才の時でした。…「私を替えた聖書の言葉」(日本キリスト教団出版局)より。彼は今も与えられた命だから、できるだけ、何かのために奉仕しようという気持ちで生きている、理事長もボランティアだと言います。彼のボランティアの生き方は多くの人が知るところです。

 復活された主イエス・キリストが十字架にはりつけにされた時の手の傷跡を見せ、脇腹のヤリで刺された傷跡を見せ、あなたのために、地に落ちて死んだ「一粒の麦」は私ですよと、立っておられます。そして、語りかけています。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)。
 また、復活された主イエス・キリストは背中を見せて、言われます。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」(ヨハネ12:26)。一粒の麦が地に落ちて死んだ私のように、あなたという一粒の麦も地に落ちて死んで、神と他者のために生きなさいとイエスの背中が語っています。イエスの背を見て生きるなら、あなたも多くの実を結び、その実はいつまでも残るのです。まことに報われる人生になるのです。

一歩を踏み出す勇気

2009-09-20 00:00:00 | 礼拝説教
2009年9月20日 主日礼拝(ヨシュア記1:1~9)岡田邦夫・宝塚泉教会にて



 「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」ヨシュア1:9

 「人間の小さな一歩だが、人類にとって大いなる飛躍だ」と言ったのは、月面に降り立ったアームストロング船長の言葉です。アポロ11号で人類が初めて月面に足跡を残した時のこと、当時は多くの人がテレビを見て感動したものです。さらに、宇宙計画で命を失った5人の宇宙飛行士のための記念碑が、月面に置かれました。「地球から来た人類がここに初めて足跡をしるす。西暦1969年7月。すべての人類のため、われわれは平和のうちに来た」と刻まれているそうです。人跡未踏※の地球外惑星に踏みいれた瞬間でした(※人の跡、未だ踏んでいない)。

◇足に備えを…信仰
 エジプトを出て、荒野を40年さまよってきたイスラエル人にとって、まだ、踏みいったことのないカナンの地に踏み込んでいく瞬間がやってきました。主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヨシュアに告げました。「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」(1:2ー3)。さらに、そのカナンの領土の広さも示されます。約束の地、カナンは足の裏で踏んでいって、手にすることができるというのです。
 私たちにとってのカナンは「約束されている御国」です(ヤコブ2:5)。ですから、私たちは新聖歌516にあるような御国を慕う歌を歌います。
  ヨルダンの彼方に 広がれるは げにわが譲りの カナンの地なり
  心は躍るよ 心は躍るよ カナンの地思うだに わが胸躍るよ
 そして、遙かなる御国を望みながら、目の前にある、まだ踏み入っていない信仰の領域に踏み出していくのです。「善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられること(喜ばれること)である。 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(1ペテロ2:20-21口語訳)。善を行って苦しみを受け、御足の跡を踏み従う道に進むのです。
また、遙かなる御国を望みながら、目の前にある、まだ踏み入っていない宣教の領域に踏み出していくのです。「私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から」というパウロの言葉にみられるように(使徒20:18)、私たちは「未だ見ぬ地 開く使命 尽きぬ感謝 ささげ奉り 信仰抱き進まん…宣(のべ)べ伝えよや 全(まつた)き福音」と歌いつつ(新聖歌436)、未伝の地に踏み込んでいきたいと思います。
 そうして、約束されている信仰の領域や宣教の領域を、実際に祈って、足の裏で踏んで行く時に、主は約束したとおり、私たちに与えてくださいます。そのような足の裏で踏む経験をしていくと、約束されている遙かなる御国は身近な御国に見えてきます。そして、死という川、歴史末という川を渡れば、そこに輝かしい御国があるのです。十字架において救いのみ業を成し遂げ、死の川を渡り、復活し、昇天されて、御国への道を開いてくださったイエス・キリストが私たちを御国へ導いてくださるのです。
 私たちは頭の頂に信仰の知識を積み重ねるだけでなく、足の裏で踏み進んで行く信仰の実践をなしていきましょう。「このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」(1:2ー3)。

◇心に備えを…勇気
 ところで皆さんは新聖歌398の歌詞のように「新しき地に 踏み出だす 心に備え ありや見よ」と確信を持って言えますか。踏み出せるという心の備えがありますか。大丈夫です。ヨシュアに対して、主が備えてくださいましたように、私たちにも、主が揺るぎない「勇気」を与えられのです。
「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ」(1:5ー6)。
 「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである」(1:7)。
 「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」(1:9)
 「強くあれ。雄々しくあれ。」は決して、単なるかけ声ではありません。この勇気を出せと言われるのには、根拠が過去にあるからです。「主がモーセとともにおられ」たので、大いなる奇跡によってエジプトを脱出し、二つに分かれた紅海の乾いた地を渡り、荒野で水がわき出、天からのマナがふり、救われました。また、律法や幕屋が与えられ、祝され、民が神に背いても、とりなしの祈りで滅びませんでした。過去の恵みの経験がベースにあって、新しい踏み出しに際して、勇気を出させるのです。未来の保障もあります。迷うことのないように、神の栄えを現し、滅びない生き方を示す「律法」(聖書)があります。それに従えば、祝福されるのです。こうして、過去の根拠から、未来の保障に真っ直ぐつながる水平線の筋道が見えるので、信仰者は心おきなく、新しい地に踏み出す勇気が持てるのです。
 そして、天と地を結ぶ神の臨在の垂直線が見えれば、揺るぎない勇気をもって踏み出せるのです。モーセがホレブの山で、最初に聞いたメッセージはこうでした。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、…彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、…乳と蜜の流れる地、カナン人…のいる所に、彼らを上らせるためだ」(出エジプト3:7-8)。天の神が地で悩む民のところに降りてこられたのです。
 今ここで恐れている私たちに「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」と間近で暖かく、真実に語りかけ、勇気を与えてくださいます。イエス・キリストは恐れおののく私たちのところに降りて来られ、私たちの悩みを見、叫びを聞き、痛みを知り、そこから救い出し、乳と蜜の流れる地に、一緒に足の裏で踏んで、渡って行かせてくださるのです。私たちはかたわらでささやく、「強くあれ。雄々しくあれ。…あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにいる。」という主の慰めと励ましのみ声を聞き、勇気をもちましょう。

向かう先には何がある

2009-09-13 00:00:00 | 礼拝説教
2009年9月13日 主日礼拝(民数記14:1~10)岡田邦夫


 「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。」民数記14:8

 目の前にチャンスがありながら、ためらっために、遠回りしなければならなかったということは、皆さんの人生の中でありませんでしたか。そのようなことがイスラエルの民が約束の地を目の前にして、いよいよこれからという時、起きたのです。カデシュ・バルネアでの歴史的事件です。
 右手でチョキを出して見てください。握っているところが紅海で、中指の方と人差し指の方に入り組んでいます。中指の左に広がるエジプトから、奴隷だったイスラエルが脱出してきたのです。中指の先あたりの海を渡り、指の間の三角のシナイ半島を進み、指の付け根の尖(とが)ったところにあるシナイ山で、神からの十戒が与えられました。人差し指の内側に沿って、指先の上に広がるパランの荒野を進み、カデシュ・バルネアというところまで来ました。このまま、北北東に進んでいけば、約束の地、カナンがそこにあるのです。

◇約束の地に向かって
 そこで、主はモーセに命じました。わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を12部族の族長を遣わして探らせなさい。そこの住民は強いか、弱いか、土地は良いか、悪いか、町は宿営か、城壁か、土は肥えているか、やせているかを調べてきなさい。…というものでした(民数記13:1-20要約)。この12人の偵察隊はカナン地方を40日かけて探って帰って来ました。ぶどうのふさの着いた枝を2人でかつぎ、ざくろやいちじくもたずさえてきたのを見せ、モーセとアロンとイスラエル全会衆の前で報告の時が設けられました(13:26)。
 ここで、どう報告されるかで、これからの方針が決まります。運命の分かれ道。12人はそろって、「そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」と言います(13:27、14:8)。乳と蜜が流れる地、豊(ほう)潤(じゆん)の地であると主が言われていたことを自分たちの目で見て、確信したのです。
 その後、10人は「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫等々…を見ました。…私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。…私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちには自分がいなごのように見えたし、…」とたいへん消極的で否定的な報告をしました(13:28-33)。
 これを聞いた全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしました。モーセとアロンにつぶやきました。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか」(14:2-3)。エジプトに帰ろうとも言い出すのです。
 他の2人、ヨシュアとカレブは「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。…私たちは上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と信仰にもとずいて主張をします(14:8,9,13:30)。しかし、全会衆は耳を傾けず、2人を石で打ち殺そうとする始末です。

◇荒野に向きを変えて
 状況を侮って、やみくもに突き進んでいくというような無謀な行為は良くありません。しかし、神の約束を信じて進もうとしているので、決して無謀ではありません。逆に10人の族長と全会衆の方は、自分で判断していることが無謀でしょう。神の救いの恵みを忘れ、神の約束を信じないのです。神を侮っているのです。主はモーセに告げます。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。 わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう」(14:11-12)。
 滅ぼされてはたまらない、モーセは必死になって民のためにとりなしをし、「あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」と嘆願します(14:19)。主はそのとりなしの祈りに答えます。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう」(14:20)。実に寛大であります。しかし、処罰がなされました。「その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。」と記録されています(14:37ー38)。
 まっすぐに、向かっていったら、どんなに困難でも、道が開け、乳と密の流れる地を得ることができたかも知れないのです。しかし、神を侮り、神の声に従がわない結果、神の導きが大きく変わりました。「低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ」(14:25)。向きを変えて、荒野に逆戻りです。大きく迂(う)回(かい)して、回り道して行けと言うのです。
 罪(つみ)咎(とが)の刈り取りの処罰はこうです。探索が40日だったので、1日を1年と数え、40年の間、背信の罪を負い、荒野をさまよい、荒野で死にたえ、約束の地には入れないというものです。旧約ですから、厳しいです。ただし、荒野で生まれた子供たちとヨシュアとカレブはカナンの地に入れるという希望は残されました。

◇御顔をまっすぐ向けられ
 私たちはイスラエルの侮りを非難できるでしょうか。神の御心にそって、困難があり、苦難があり、大山があっても、まっすぐ、信仰に突き進んで行けるでしょうか。向きを変えて、大回りする可能性がないと言えるでしょうか。しかし、旅の同伴者でいますイエス・キリストがおられます。ルカ福音書には「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」たと記されています(9:51)。
 主は私たちの罪を贖うために、多くの苦しみを受け、十字架にかかり、私たちの罪を赦すために、エルサレムに向かわれました。死んで葬られ、よみがえり、天に上げられ、救いを成しとげるために、エルサレムに向かわれました。イエスは父の御心にそって、ひたすら、エルサレムに向かって旅をしました。「御顔をまっすぐ向けられ」ていました。神にまったく従順で、まっすぐ向いて進んで行きました。そして、天に上げられ、私たちが天という約束の地に行ける道を開いてくださいました。その方は今、私たちの旅の同伴者です。天のエルサレムに行こうと御顔をまっすぐ向けられ、私たちの荒野の旅に同伴していてくださいます。あなたが向きを変えることのないように付いていてくださるではありませんか。

わたしはあなたがたの主:十戒

2009-09-06 08:15:01 | 礼拝説教
2009年9月6日 主日礼拝(出エジプト記19:1~17)岡田邦夫 



 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」出エジプト20:2-3

 ある人がこれを聞いてくださいと難波紘一さんの講演会のテープを貸してくれました。彼は30を過ぎてから、転びやすくなり、検査の結果、進行性筋(きん)萎(い)縮(しゆく)症(しよう)(筋ジストロフィー)と診断されました。手足の筋肉が徐々に萎縮し、最後には内臓の筋肉が萎縮して、死に至るという難病です。それを知らされた時はショックで、夫妻とも受け入れがたいことでした。紘一さんは、夫婦と子供で教会に行き、一生懸命主に仕えているのに、どうしてこのような難病になるのか、「現代のヨブや」と嘆きます。奥さんも将来を考えると眠れないのです。友人のすすめで一口、アルコールを口にすると眠れました。
 そうしているうちに、台所で一升(しよう)瓶(びん)を抱え、コップに注いで飲む光景が見られるようになり、紘一さんはこれではいけない、巡礼の旅に出ようと言いだし、あらゆる、キリスト教の修養会、聖会にでました。頭では神にゆだねることは分かるのですが心はゆだねられないでいました。奥さんの友人が陸奥(みちのく)の教会でご奉仕をしているというので、尋ねました。アルコールなしに眠れない事情を話すと、友人はこう言いました。
 「それだけは止めなさい。枕に顔を埋めて、泣いて祈りなさい。」と戒められました。その懸命な言葉を聞いた時、奥さんは今まで心のつかえん棒になっていたものが外れたのでしょうか、どーっと泣き出したのです。泣き明かした後に「あなたの荷を先だって担われた方がいるでしょう。」と言われた瞬間、すべてゆだねきれて、魂は軽く、晴れやかになり、希望もわいてきました。紘一さんも同時体験をされました。それからは全国、命の続く限り、証詞をして回りました。

◇止めなさい、それだけは
「それだけは止めなさい。」という「戒め」が二人を変えたのです。シナイ山のふもとで、イスラエルの民に十戒という戒めが与えられましたが、ほんとうの戒めというのはそのような人を生かすものではないでしょうか。
 十戒の告知の前に、まず、エジプトから主が救い出してくださった出来事がたいへん恵みに満ちたものであり、大いなる奇跡であったことが告げられています。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た」(19:4)。その救いの神がその民をどのようになさろうとしているか、そのみ旨を示します。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(19:5-6)。何という主の思い入れの強さでしょうか。
 そして、十戒の「契約」が啓示されたのですが、それは何とも荘厳な出来事でした。神がシナイ山に降りて来られるというので、二日の間に民が聖別し着物を洗って、待っていました。「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった」のです(19:16)。モーセは神を迎えるために、民を宿営から連れ出し、山のふもとに立たせました。シナイ山は全山が煙っており、その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えました。
 「角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。」と記されています(19:19)。私たちにはとても想像できないような光景です。そして、モーセは山の頂で受けた啓示の言葉を民に告げました。それが十戒です。全体を把握しやすいように、長い部分を省略してたものを新共同訳でお読みします。アーメンを加えます。
 十戒………………………………………………………………………………
 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
 (1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
 (2)あなたはいかなる像(ぞう)も造ってはならない。
 (3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
 (4)安息日(び)を心に留(と)め、これを聖別せよ。
 (5)あなたの父母を敬え。
 (6)殺してはならない。
 (7)姦淫してはならない。
 (8)盗んではならない。
 (9)隣(りん)人(じん)に関して偽証してはならない。
 (10)隣(りん)人(じん)の家(いえ)を欲(ほつ)してはならない。 アーメン

◇信じなさい、それだけは
 神と民とは「わたしとあなた」という固有で親密な関係です。その神は奴隷の家から導き出してくださった神ですから、民には、この神以外を神とすることはありえないのです(1)。そして、虚しい偶像がこの生ける神に取って代わることもありえないことです(2)。そして、主の名をみだりに唱えて、人が神を用いるような傲慢な生き方はあってはならないことです(3)。
 私たちはこの戒めの言葉を聞く時に、自分があってはならない不真実、不信仰、不敬虔な者であることに気付かされ、打ちのめされます。しかし、十戒の言葉を初めから聞き直すと、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という救い主に出会います。そして、ねたむ神、言い換えれば「熱愛する神」(20:5、岩波訳)を知り、贖われたことを確信し、さらに、主の名を賛美し、生ける神にのみ信頼し、三位一体の神を敬う者になるのです。

 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という霊的な聖別された民の生き方は、時間を聖別して、主なる神を礼拝します。(4)「安息日(び)を心に留(と)め、これを聖別せよ。」です。その日、神の民は創造のときに神が七日目休まれた、その神の安息に与るのです。また、関係を聖別して、神を敬う生き方を投影して、(5)「あなたの父母を敬え。」の戒めに生きます。それは後に与えられる相続地での命が約束されています(20:12)。
 ここでもまた、この二つの戒めの前に立つと、形はできていても、心には留めていない、不誠実さに気付き、果てしない虚しさにおそわれます。再び、聞き直す時には、時間の中に生き、関係の中に生きる小さな者をも、永遠の神、無限の神が心を留められていることを悟ります。イエス・キリストの血によって、不誠実な罪人はきよめられ、私たちは時間を聖別し、関係を聖別し、聖霊の満たしの中に生きるようになります。

 さらに、民のところに降りて来られ、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」と顕現された神は、私たちを「熱愛する神」です。神に熱愛された民が隣人を愛さないではおられないはずです。五つの戒めが続きます。(6)殺してはならない。(7)姦淫してはならない。(8)盗んではならない。(9)隣(りん)人(じん)に関して偽証してはならない。(10)隣(りん)人(じん)の家(いえ)を欲(ほつ)してはならない。
 しかし、すべて兄弟を憎む者は人殺しであるというヨハネの教え(1ヨハネ3:15)や、兄弟に向かって腹を立てる者、「能なし」とか「ばか者」と言うような者は第六戒に反し、裁かれるという山の上の教え(マタイ5:22)の光に照らされれば、この五つの戒めの違反者だと認めざるを得なくなります。イエスのたとえ話に出てくる取税人のように「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈らざるを得ません(ルカ18:13)。そして、十字架にかけられたイエスを見上げるのです。
 イエスの受難を思い起こします。イエスを十字架にかけた人たちはイエスに対して、この五つの戒めを全部、破っていました。聖書を見れば明らかです。さらに前半の五つの戒めを破っていることもイエスに指摘されました。他人ごとではありません。私たちもまた、十戒の違反者です。
 しかし、そんな違反者のために、その裁きをイエス・キリストが代わって受けて下さり、私たち、信じる者を義としてくださったのです。「さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです」(ローマ5:16)。シナイ山に降りてこられた「熱愛する神」はまた、カルバリ山の十字架にまで降りてきて下さって、新しい契約を立てられたのです。
 あらためて、私たちはカルバリ山のふもとで、十戒の言葉をききましょう。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。……。」