2009年7月26日 伝道礼拝(ルカ福音書19:1-10)岡田邦夫
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:9-10
以前に、保育所をされている方にこのような話を聞きました。両親が働かなければならないので、3才位の男の子を預けにきました。ところがその子はすぐ「おしっこ」と言いだし、トイレに連れて行くのですが出ないのです。5分ぐらいするとまた、おしっこと言いますが、トイレで出ないか、出てもちょっぴり、それが一日中続いたというのです。保育士さんは母親に見捨てられたと思ったのかも知れない、家で愛情をかけるようにと、その子を返したそうです。
子供は親の愛情を受けて育ちます。そのように、すべての人は、天地を造られ、人を造られた神の愛のもとにあってこそ、生き生きと人の本来的な生き方ができるのです。しかし、すべての人はその神から離れてしまい、勝手な生き方をしてしまっていますので、いつも何か欠けたものを感じ、どんなに金や地位や名誉があっても、いい知れない虚しさが根底にあるのです。それを聖書では「失われたもの」と言います。
◇降りて、尋ね出さなければならない人間
イエス・キリストはその失われた者を救うために来られたのです。ザアカイという、日本名なら清(きよし)という人がいました。税務署の署長で金持ち。地位もあり、セレブ、今の日本なら、うらやましいのですが、当時のユダヤという国では、その正反対でした。ユダヤはローマ帝国の支配下にあって、税金をローマ政府に納めなくてはなりませんが、それを集めるのが取税人。ユダヤ人の間では「売国奴」と言って、三大悪業の一つに数えられていたほど、嫌われていました。差別されていました。
お金があっても、全然幸せではない、虚しくなって、救いを求めていました。そこに、うわさで救い主だろうというイエスとその弟子の一行が来るのを知りました。すでに人垣ができていて、ザアカイには見ることができません。取税人なので差別されて、じゃまされたのでしょうし、彼はまた背が低かったので、なおさら見ることができません。そこで、一行が通る道をちょっと先回りして、葉の茂ったいちじく桑の木に登り、葉に身を隠し、葉の陰から見ていると、イエスが真下まで来られました。
救い主を上から見下ろすとは何と失礼なことでしょうか。最近の言葉で、あの人は「上から目線でもの言うから嫌いだ」とか、上から目線という言い方があります。ザアカイは上から目線で主イエスを見下ろしたのです。上から目線の極みは人類をさかのぼるるとアダムとエバにありました。サタンがエデンの園でこれだけは食べてはならないという禁断の実がありました。サタンが誘惑しました。これを食べたら、神のようになりますよと。二人は誘惑に負け、食べてしまいました。神に造られた人間が神のようになろうとして、創造の神、愛の神を無視し、傲慢になり、神を上から目線で見るようになりました。それが人間の最大の罪なのです。
木から見下ろすザアカイは上から目線の傲慢な人間の象徴かも知れません。しかし、それをとりまく、周りの人たちはどうだったでしょう。彼らも、こいつは本当に神の子なのか、本当に救い主なのか、本当に救ってくれるのか、と内側では上から目線で主イエスを見ていたのではないでしょうか。私は教会に行き始めた時、聖書に「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」という言葉に心がずきっとしました(マタイ7:1ー:2)。自分がこうなのは親が悪い、会社が悪い、社会が悪いと、人を裁いている自分の傲慢な罪に気付かされたからです。聖書やキリスト教が正しいのか、正しくないのか、上から目線で見ていました。それに気付いたのがクリスチャンになる私の第一歩でした。
◇降りて、尋ね出されるイエス・キリスト
イエス・キリストは決して、ザアカイをしかったり、裁いたりしませんでした。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と優しく言われたのです(19:5)。周囲からはまともな人間ではないとされ、きっと名前で呼ばれることはなかったでしょう。しかし、かけがえのない大切なひとりの人格として、主はザアカイと呼ばれたのです。汚れた者だから、だれも泊まりなど来なっかたでしょう。しかし、主はザアカイ(清いのもの)だから、泊まると言ってくださったのです。
ザアカイは急いで降りて、大喜びでイエスを迎えました。家に招いたところで、ザアカイは立って、へりくだって申し上げます。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(19:8)。これがザアカイの回心です。イエス・キリストの愛が飛び込んできて、180度変わったのです。
そこで、イエス・キリストはこう言われたのです。。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子(=救われた神の家族)なのですから。人の子(=イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです」(19:9-10)。誰もがだめな人間、悪い人間と軽蔑し、侮辱し、差別し、社会ののけもににしていた者でも、いえ、のけ者だったからこそ、主イエス・キリストは神の家族に迎えたのです。そのように、今日もイエス・キリストは誰も決して差別することなく、どんな人でも、自分が神の前に失われた者だと気付いた人を迎えてくださるのです。そして、神の子供として、生き生きと生きさせてくれるのです。
そして、人は何かを失った時に、自分が失われた人であることに気付くのです。北海道東部の酪農地帯の別海町(べつかいちよう)に九里(くのり)謙一という人がいます。彼は大動物の臨床獣医師として、この仕事が好きで働いていました。自然と人間が一体となって四季おりおりの美しさ、厳しさを体感し、病む患畜の前に立つ緊迫感と酪農家の心優しさにふれ、生活は充実していました。メノナイトの別海キリスト教会に通い、家族にも恵まれていました。
ところが、1984年2月、先の目に眼底出血をおこし視力を失いました。その年の夏、猛烈な頭痛と左目の眼球の痛みに転がり込むように入院。そして、右眼の視力を守るための予防的治療を受けていたのですが、この「糖尿病性網膜症」の病の勢いはとどまらず、右眼の視力も失ってしまいました。48才の時でした。見える世界がすべて遮断。大変なショックでした。
退院で、病院の玄関に奥さんの肩につかまりながら立ったとき、その一歩先にあるはずの石段が深い暗闇の淵ででもあるような恐怖感にとらえられ立ちすくんでしまいました。奥さんの運転で90キロの雪道を帰ったのですが、外気の痛さは感じても、雪景色は想像するしかありませんでした。
年末で、大学生の三人と高校生の二人の子供たちが迎えてくれ、気が紛れていたのですが、新学期が始まると、奥さんと二人きり、玄関を一歩出るにも奥さんの介助なしでは動けないので、ほとんど家に閉じこもるようになりました。今まで当たり前にできていたことが、何一つできないのです。とてもつらく悲しくて、「見えるようになりたい」「本を読みたい。また自動車に乗れるようになりたい」などと言って奥さんを困惑させてしまいました。
もっと苦しく心に問いかけ続けたのは「なぜ神さまはボクをこのように打ち倒されたのか」という問いでした。うめくような祈りが続きました。
彼は1936年、神戸のある教会の牧師の家庭に生まれ、母方の祖父も牧師でした。6才の時に父親が天に召され、引退牧師であった祖父が、父親がわりになってくれました。空襲警報が鳴り、防空壕に避難すると、祖父は大声で「あめつちこぞりて…」と賛美歌を歌うのでした。子供心にも祖父が祈るそのすぐ近くに本当に神さまがおられのだと実感できたのです。
母親はクリスチャン実業家と再婚しますが、すぐなじみました。やがて思春期から青年期。牧師の子、牧師の孫、「おりこうさん」であれという重圧から解放されたいと、北海道の大学に進学し、自分で自分の信仰に立ち、札幌の教会で洗礼を受けました。卒業後、別海町の獣医師として赴任され、その時に開拓伝道を始めたメノナイトの別海キリスト教会に所属し、前述のような充実した生活になっていったのです。
しかし、突然の試練。「なぜ神さまはボクをこのように打ち倒されたのか」と問い、苦しみ呻くような日々の中で、幼いころに暗唱した聖書の断片を思い出したり、イエスと人々が出会った聖書の中の情景を思い起こしては、信仰に立っていったのです。ある日、書斎の座椅子に腰をおろして、ザアカイと主イエスとの出会いのシーンを思い浮かべていると、何度も読んだり、聞いたりしていた言葉が衝撃的に自分に語りかけてきました。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5新共同訳)。
主イエスと彼の新しい出会いになりました。いちじく桑の木の深い茂みに身を隠してでもいるような自分に向かって、主イエスは近付き、足を止め、自分を指差しながら名指しして呼んでおられる…彼は目が醒(さ)める思いがしたのです。急いで降りていくつもりで、座椅子から立ち上がりました。その後も、いろいろなことに挑戦したり、挫折もしたりする中で、「今日はぜひおまえと共にいたい」と告げてくださる主イエスのみ声を聴きながら、今日までやってくることができました。今は別海の地で鍼(はり)・灸(きゆう)・按摩(あんま)の仕事をしています。…「私を変えたせい聖書の言葉」(日本キリスト教団出版局)より抜粋。
主イエス・キリストはあなたの名を呼んで、「○○よ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と語りかけています。今すぐ心の戸を開いて、お迎えましょう。
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:9-10
以前に、保育所をされている方にこのような話を聞きました。両親が働かなければならないので、3才位の男の子を預けにきました。ところがその子はすぐ「おしっこ」と言いだし、トイレに連れて行くのですが出ないのです。5分ぐらいするとまた、おしっこと言いますが、トイレで出ないか、出てもちょっぴり、それが一日中続いたというのです。保育士さんは母親に見捨てられたと思ったのかも知れない、家で愛情をかけるようにと、その子を返したそうです。
子供は親の愛情を受けて育ちます。そのように、すべての人は、天地を造られ、人を造られた神の愛のもとにあってこそ、生き生きと人の本来的な生き方ができるのです。しかし、すべての人はその神から離れてしまい、勝手な生き方をしてしまっていますので、いつも何か欠けたものを感じ、どんなに金や地位や名誉があっても、いい知れない虚しさが根底にあるのです。それを聖書では「失われたもの」と言います。
◇降りて、尋ね出さなければならない人間
イエス・キリストはその失われた者を救うために来られたのです。ザアカイという、日本名なら清(きよし)という人がいました。税務署の署長で金持ち。地位もあり、セレブ、今の日本なら、うらやましいのですが、当時のユダヤという国では、その正反対でした。ユダヤはローマ帝国の支配下にあって、税金をローマ政府に納めなくてはなりませんが、それを集めるのが取税人。ユダヤ人の間では「売国奴」と言って、三大悪業の一つに数えられていたほど、嫌われていました。差別されていました。
お金があっても、全然幸せではない、虚しくなって、救いを求めていました。そこに、うわさで救い主だろうというイエスとその弟子の一行が来るのを知りました。すでに人垣ができていて、ザアカイには見ることができません。取税人なので差別されて、じゃまされたのでしょうし、彼はまた背が低かったので、なおさら見ることができません。そこで、一行が通る道をちょっと先回りして、葉の茂ったいちじく桑の木に登り、葉に身を隠し、葉の陰から見ていると、イエスが真下まで来られました。
救い主を上から見下ろすとは何と失礼なことでしょうか。最近の言葉で、あの人は「上から目線でもの言うから嫌いだ」とか、上から目線という言い方があります。ザアカイは上から目線で主イエスを見下ろしたのです。上から目線の極みは人類をさかのぼるるとアダムとエバにありました。サタンがエデンの園でこれだけは食べてはならないという禁断の実がありました。サタンが誘惑しました。これを食べたら、神のようになりますよと。二人は誘惑に負け、食べてしまいました。神に造られた人間が神のようになろうとして、創造の神、愛の神を無視し、傲慢になり、神を上から目線で見るようになりました。それが人間の最大の罪なのです。
木から見下ろすザアカイは上から目線の傲慢な人間の象徴かも知れません。しかし、それをとりまく、周りの人たちはどうだったでしょう。彼らも、こいつは本当に神の子なのか、本当に救い主なのか、本当に救ってくれるのか、と内側では上から目線で主イエスを見ていたのではないでしょうか。私は教会に行き始めた時、聖書に「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」という言葉に心がずきっとしました(マタイ7:1ー:2)。自分がこうなのは親が悪い、会社が悪い、社会が悪いと、人を裁いている自分の傲慢な罪に気付かされたからです。聖書やキリスト教が正しいのか、正しくないのか、上から目線で見ていました。それに気付いたのがクリスチャンになる私の第一歩でした。
◇降りて、尋ね出されるイエス・キリスト
イエス・キリストは決して、ザアカイをしかったり、裁いたりしませんでした。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と優しく言われたのです(19:5)。周囲からはまともな人間ではないとされ、きっと名前で呼ばれることはなかったでしょう。しかし、かけがえのない大切なひとりの人格として、主はザアカイと呼ばれたのです。汚れた者だから、だれも泊まりなど来なっかたでしょう。しかし、主はザアカイ(清いのもの)だから、泊まると言ってくださったのです。
ザアカイは急いで降りて、大喜びでイエスを迎えました。家に招いたところで、ザアカイは立って、へりくだって申し上げます。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(19:8)。これがザアカイの回心です。イエス・キリストの愛が飛び込んできて、180度変わったのです。
そこで、イエス・キリストはこう言われたのです。。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子(=救われた神の家族)なのですから。人の子(=イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです」(19:9-10)。誰もがだめな人間、悪い人間と軽蔑し、侮辱し、差別し、社会ののけもににしていた者でも、いえ、のけ者だったからこそ、主イエス・キリストは神の家族に迎えたのです。そのように、今日もイエス・キリストは誰も決して差別することなく、どんな人でも、自分が神の前に失われた者だと気付いた人を迎えてくださるのです。そして、神の子供として、生き生きと生きさせてくれるのです。
そして、人は何かを失った時に、自分が失われた人であることに気付くのです。北海道東部の酪農地帯の別海町(べつかいちよう)に九里(くのり)謙一という人がいます。彼は大動物の臨床獣医師として、この仕事が好きで働いていました。自然と人間が一体となって四季おりおりの美しさ、厳しさを体感し、病む患畜の前に立つ緊迫感と酪農家の心優しさにふれ、生活は充実していました。メノナイトの別海キリスト教会に通い、家族にも恵まれていました。
ところが、1984年2月、先の目に眼底出血をおこし視力を失いました。その年の夏、猛烈な頭痛と左目の眼球の痛みに転がり込むように入院。そして、右眼の視力を守るための予防的治療を受けていたのですが、この「糖尿病性網膜症」の病の勢いはとどまらず、右眼の視力も失ってしまいました。48才の時でした。見える世界がすべて遮断。大変なショックでした。
退院で、病院の玄関に奥さんの肩につかまりながら立ったとき、その一歩先にあるはずの石段が深い暗闇の淵ででもあるような恐怖感にとらえられ立ちすくんでしまいました。奥さんの運転で90キロの雪道を帰ったのですが、外気の痛さは感じても、雪景色は想像するしかありませんでした。
年末で、大学生の三人と高校生の二人の子供たちが迎えてくれ、気が紛れていたのですが、新学期が始まると、奥さんと二人きり、玄関を一歩出るにも奥さんの介助なしでは動けないので、ほとんど家に閉じこもるようになりました。今まで当たり前にできていたことが、何一つできないのです。とてもつらく悲しくて、「見えるようになりたい」「本を読みたい。また自動車に乗れるようになりたい」などと言って奥さんを困惑させてしまいました。
もっと苦しく心に問いかけ続けたのは「なぜ神さまはボクをこのように打ち倒されたのか」という問いでした。うめくような祈りが続きました。
彼は1936年、神戸のある教会の牧師の家庭に生まれ、母方の祖父も牧師でした。6才の時に父親が天に召され、引退牧師であった祖父が、父親がわりになってくれました。空襲警報が鳴り、防空壕に避難すると、祖父は大声で「あめつちこぞりて…」と賛美歌を歌うのでした。子供心にも祖父が祈るそのすぐ近くに本当に神さまがおられのだと実感できたのです。
母親はクリスチャン実業家と再婚しますが、すぐなじみました。やがて思春期から青年期。牧師の子、牧師の孫、「おりこうさん」であれという重圧から解放されたいと、北海道の大学に進学し、自分で自分の信仰に立ち、札幌の教会で洗礼を受けました。卒業後、別海町の獣医師として赴任され、その時に開拓伝道を始めたメノナイトの別海キリスト教会に所属し、前述のような充実した生活になっていったのです。
しかし、突然の試練。「なぜ神さまはボクをこのように打ち倒されたのか」と問い、苦しみ呻くような日々の中で、幼いころに暗唱した聖書の断片を思い出したり、イエスと人々が出会った聖書の中の情景を思い起こしては、信仰に立っていったのです。ある日、書斎の座椅子に腰をおろして、ザアカイと主イエスとの出会いのシーンを思い浮かべていると、何度も読んだり、聞いたりしていた言葉が衝撃的に自分に語りかけてきました。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5新共同訳)。
主イエスと彼の新しい出会いになりました。いちじく桑の木の深い茂みに身を隠してでもいるような自分に向かって、主イエスは近付き、足を止め、自分を指差しながら名指しして呼んでおられる…彼は目が醒(さ)める思いがしたのです。急いで降りていくつもりで、座椅子から立ち上がりました。その後も、いろいろなことに挑戦したり、挫折もしたりする中で、「今日はぜひおまえと共にいたい」と告げてくださる主イエスのみ声を聴きながら、今日までやってくることができました。今は別海の地で鍼(はり)・灸(きゆう)・按摩(あんま)の仕事をしています。…「私を変えたせい聖書の言葉」(日本キリスト教団出版局)より抜粋。
主イエス・キリストはあなたの名を呼んで、「○○よ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と語りかけています。今すぐ心の戸を開いて、お迎えましょう。