オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

クリスマスの前ぶれ・信じる人の幸い

2010-11-28 00:00:00 | 礼拝説教
2010年11月28日 第一アドベント主日礼拝(ルカ福音書1:5~25・57~80)岡田邦夫

 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ福音書1:45

 今、NHK大河ドラマ・龍馬伝は「龍馬、暗殺まで、あと何日」と予告しながら、毎回話が進み、いよいよ最終回を迎えようとしています。教会ではそれ以上の「クリスマス」という大河ドラマが今日から始まります。キリスト降誕まで、あと何日というのがアドベント(待降節)です。2000年前の降誕の歴史に目を向けることによって、今の私たちの人生・生活に結びつけようとするものです。

◇不幸の中の幸福
 クリスマス劇場の幕が開くと最初に登場するのが、ザカリヤという祭司とその妻エリサベツ(英語だとエリザベス)です。彼らは古い時代の終わりを告げ、新しい時代がもたらされるという、大きな歴史の転換の、その瞬間に関わった人たちです。と言っても、彼らは特別な人たちであったわけではありません。ザカリヤはユダヤによくいる祭司であり、まじめに生き、聖書によれば正しい人だったと評される人でした。しかし、この夫婦は幸福とは言えませんでした。子供が与えられず、周囲からは何か呪われているのではないかと言われることもあったでしょうし、年を重ね、寂しい思いの中で暮らしていたことでしょう。祭司の家系に生まれたことは幸運だったでしょうが、子供が与えられないという不運もありました。幸福の中に不幸があり、不幸の中に幸福があるという、もしかしたら、私たちとそう遠くはない人生を送っていたのでしょう。
 人生には思いがけないことがやってくるものです。祭司の勤めは当番制、この日は自分の所属するアビア組です。その中で神殿に入って香をたく勤めはくじで決めます。祭司の数も多いので、くじに当たって、その勤めが出来るかどうかは一生に一度あるかないかの確率です。ところが、彼は偶然くじに当たり、神殿での香たきの勤めをすることになったのです。祭司としては幸運でした。彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていたのです(1:10)。ユダヤ共同体の重要な働きをさせてもらい、祭司冥利につきると感じていたことでしょう。

◇幸福の中の幸福
 しかし、この時、いきなり天の使いが彼の人生に介入してきたのです。主の使いが彼に現われて、香壇の右に立ったのです。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われました。御使いは神からのメッセージを伝えます。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます」。実に嬉しい御告げです。妻は不妊症、しかも、高齢で出産はほとんど不可能ですが、あなたの願いは聞かれたというのですから、嬉しい話。私、岡田邦夫は母45才(父55才)の高齢出産でしたが、それまでに4人生まれていて、5人目ですから、ありえる話です。しかし、このザカリヤへのみ告げがその通りになれば奇跡です。
 私たちがクリスチャンになるとか、祈りに答えられるとかいう経験は、私の人生に神が介入してくださっているということなのです。全能の神が、聖なる神が、無力の汚れた者の歴史に介入され、救いに導かれるのですから、それがほんとうの奇跡なのです。神の跡、「神跡」といえるかも知れません。ザカリヤが祭司の家系に生まれたことも、子供が出来なかったことも、神殿において香をたく勤めのくじに当たったことも、すべては運命でも偶然でもなく、神の摂理でした。そして、神のみ告げを受けたのは、合理的には説明できない「神の選び」があったのです。私の場合も、高校に通学していた時に、錦糸町の駅前で都電に乗り換えるのですが、そこで配られている、江東楽天地の営業のチラシは絶対取りませんでした。しかし、ある日、ブルーのチケットのようなチラシを差し出された時、感じがいいので受け取って、都電に乗りました。キリスト教の音楽と講演という案内で、あんなにたくさん配っていたのにクラスでは私と私の親友だけがそれを手にしていました。興味本位でそれに行ったのですが、それがきっかけで2人ともクリスチャンになりました。自分が選んだように見えますが、後から思うと神に選ばれて、救われたとしか、言いようがないのです。
 ザカリヤですが、その生まれてくる子はエリヤのような偉大な預言者となり、救い主の現れの前ぶれをし、人々を神に立ち戻らせ、整えられた民とするという使命をもっているというのです(1:15-17)。神は遠大なご計画の中で、古い契約の時代を終わらせ、新しい契約の時代をもたらそうとしておられるのです。救いの仕組みを変えるという神による維新です。律法による救い、イスラエルを通しての世界の救いという仕組みから、福音による救い、神の御子=イエス・キリストを通しての世界の救いという大きな歴史の転換をなさろうとしていました。その前ぶれの役割を担うのがこの夫妻から生まれてくる預言者ヨハネなのです。ザカリヤとエリサベツはその神の歴史の担い手として選ばれたのです。
 聖書でいう救いというのは、この私の追い切れない罪の重荷や苦難の重荷をイエス・キリストが担ってくださって救われるというものですが、また、神が世界の人々を救おうとされている救いの歴史に、この私が参与し、救いの担い手となることなのです。真の救いというものは安心立命だけでなく、使命達成まで含まれるのです。「使命」という字は命の使い道だとある方が言いましたが、なるほどそうなのです。

◇幸福を越えた幸福
 聞いた話は素晴らしいことなのですが、ザカリヤはそれをそのまま受けとめられたのでしょうか。この先行きを見てみましょう。ザカリヤ:「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」。御使い:「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します」((1:18ー20)。
 そのことば通りになります。彼は口がきけなくなります。しかし、エリサベツは身ごもり、男子を産みます。八日目の割礼の時に命名をしますが、その時、御使いに告げられた「ヨハネ」という名をザカリヤが板に書くと、彼の口が解けました。後に、彼はその子について預言します。「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」と(1:76-77)。その通り、ヨハネは救い主イエス・キリストの御前に先だって、道備えをしていきます。
 一時、話が出来なくなったのはザカリヤに限ったことかも知れませんが、信じる事の大切さを教えられます。何を信じるのか、神のことばです。神のことばは時が来れば実現すると信じるのです。多くの人は自己実現を幸福だとしているかも知れません。しかし、ほんとうの幸いは神の救いのことばが私の人生の中に実現していくことです。神の救いのことばが私の人生を通して実現していくことです。エリサベツがマリヤに言ったことばがそれを良く伝えています。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(1:45)。「信じた」と訳すところを新改訳聖書はわざわざ「信じきった」と訳しています。私は恩師から「岡田さん、信じるか、信じないか、信仰というのは紙一重なのよ。その一歩を踏み出すだけなのよ。」と言われたことがあります。その紙一重のところに折り紙付きの幸い、祝福があるのです。もう一度言います。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」。

大声で神をほめたたえ

2010-11-21 00:00:00 | 礼拝説教
2010年11月21日 主日礼拝(ルカ福音書17:11~19)岡田邦夫(於・宝塚泉教会)

 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」詩篇136:1

 「ワサビと唐辛子」という面白いタイトルの本がありまが、それは香辛料の好みから書き始める、呉(お)善花(そんふぁ)著のユニークな日韓文化比較論です。日本人は人間の内面の弱さを肯定し、それを抱え込んで生きようとする「もののあわれ」の情緒を持っている。対照的に韓国人の情緒は「恨(はん)」である。恨(はん)はうらみというものではなく、達成に向かう内面的な力である。達成できないならある種のくやしさを発する。具体的な対象があればうらみ、なければ嘆き、それを越えるには恨(はん)を溶かしていくのだ。…と著者は言っています。そうした情緒というものは民族によって大きな違いがあるようです。しかし、今日の聖書にでてくる十人の重い皮膚病にかかった人が叫んだ「イエスさま、わたしたちをあわれんでください。」は民族を越えた、魂の深い所からの叫びだと思います(17:13)。
 韓国から日本に来られた宣教師に連れられて、私たち夫婦は韓国ホーリネス教団のある牧師を訪ねていきました。地下鉄に乗りましら、ひとりの男性が車両の端から端まで、大声で叫びながら、通り過ぎていくのです。宣教師に尋ねると「ダビデの子、イエスよ、あわれんでください」と言っているとのこと。病いのせいか、証詞なのか、私にはよく分かりませんが、訴えている口調が強く、私の心に突きささってくるように感じられました。そのように日韓の情緒の違いはあるとしても、その叫ばれていた言葉そのものは神を求める魂の叫びだと私は思います。
 東京聖書学院の学生だった時、伝道部の部屋に古いレコード盤を見つけました。プレーヤにかけてみると、男性の良く通る声で聖歌540番の賛美が聞こえてきました(新聖歌では283)。「主よわがそばをば過ぎゆかず、汝(な)が目をばわれに向け給(たま)え。主よ、主よ、聞き給え、切に呼びまつるわが声に」。その響きに私の心が震え、その切に神を呼ぶ歌声に私の魂は共鳴し、涙が出てきました。この聖歌の題名の下に記された聖句は、今日の「君イエスよ我らをあわれみたまえ」です(ルカ17:13)。

◇求めの声を…
 ところで、サマリヤとガリラヤの境・辺境の地に人たちがいたと記されています。新改訳ではヘブル語の原語のままに「ツァラアト」に冒された人と訳。現代医学でのハンセン病など、一つの病名に限定できないからです。表面の観察で分けているので、日本語には重い皮膚病と訳すしかないのですが、それですから、誤った推測や独断的な偏見をさけなければなりません。ただ、重い皮膚病にかかった人(ツァラアトに冒された人)がそうとう辛い目にあっていたことが見うけられます。レビ記にこう記されています。「重い皮膚病の患者は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない」(13:45ー46)。その通りに適応されていたとすれば、当人は病いそのものがたいへん辛いものなのに、社会から疎外され、宗教的に汚れの烙印(らくいん)をおされて、その辛さはどれ程のものだったでしょうか。想像を絶するものがあります。
 そのような極限状況から、叫びました。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」。それはまた、人間のあるいは信仰者の根源的な祈りです。詩篇にも「主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。われらに侮り(あなどり)が満ちあふれています。」(123:3)など、この祈りが多く出てきます。また、伝統的な教会の礼拝で、重要な祈りとして「キリエ・エレイソン」(主よ、あわれんでください)と歌われてきました。重い皮膚病にかかった人のように、自分の運命を呪いたくなるような時に、たまらなく人生の虚無を思わされる時に、これほどまでに自分が罪深く汚れきっているのかと思い悩む時に、主よ、あわれんでくださいと祈るほかありません。何事もない、特に問題もなく、生活が穏やかで、幸せさえ感じる、しかし、ふとそれは一時のことで、激しい試練がやってくるのではないかと不安を感じる時に、年令を重ねて、いい人に囲まれて充実しているはずなのに、死を予感するのか、たまらなく寂しくなる時に、「主よ、あわれんでください。」と祈りたいものです。

◇感謝の声を…
 「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」。十人のツァラアトに冒された人の遠くからの叫びが虚しく地に落ちはしませんでした。イエスから「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい。」との言葉が返ってきました。手をおいて祈ってくれるのではなく、あるいは、そうしてあげよう、きよくなれ、といやしの言葉を直接告げてくれるのではなかったのです。しかも、来なさい、私に見せなさいではなく、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい。」なのです。しかし、奇跡が起こりました。彼らは祭司の所に行く途中でいやされたのです(17:14)。祭司は治っているかどうかを観察し、治っていれば、きよいものとし社会復帰を認定します。ツァラアトの人たちのいやしは健康の回復だけでなく、人間の回復だと言ってよいでしょう。ですから、いやされたこの十人の人たちはどんなに嬉しかったでしょうか。しかも、十人いっしょなのですから、共に喜び合ったことでしょう。信仰者の生涯では「行きなさい。そして、~に見せなさい。」というような主イエス・キリストの言葉にいやされることがあるのではないでしょうか。
 そのうちのひとりはサマリヤ人で、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝したのです。そこでイエスは言われたのです。「イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」(17:17ー18)。いただいた恵みに感謝が必要です。良くしてくれた人にありがとうを言うように、主に対して心から感謝するのは当然のことなのに、それを忘れてはいないでしょうか。聖書にはくり返し出てくるのが「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」です(詩篇136:1)。キリスト者よ、共に御名をあがめようではありませんか。

◇宣言の声が…
 祭司がなおりましたよ、きよくなりましたよと認定するより、さらに決定的な認定を主イエス・キリストがその人になさいました。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」(17:19)。主の告げられる言葉は呪文ではありませんし、主のなされることは魔術ではありません。一方的ではありません。主の恵みの言葉を受け、主の救いのみ業を受ける私たちに対して、主はそれを信じること、主への信仰を求められます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」(ヘブル11:6)。主よ、信じますという言葉がどれほど重要でしょうか。主の救いを信じますという言葉をどれほど強く、神は受けとめてくれるでしょうか。
 信仰が与えられるよう、求め祈りましょう。「祈れ御業(みわざ)は必ず成ると信じて感謝をなし得(う)るまでは、祈れよし道は暗くあるとも祈れ全てを主の手に委(ゆだ)ねて」(新聖歌186)。そして、主は喜んで宣言してくださるのです。「あなたの信仰が、あなたを直したのです」(新改訳)。信仰は信頼というニュアンスもあります。主イエス・キリストご自身を信頼することが、罪深い私たちの根本を直してくださるのです。汚れた罪人と烙印を押された私たちですが、主が十字架にかかり、私たちの罪汚れをすべて引き受け、その血によって、全くきよめてくださいました。そして、十字架においてあなたの罪汚れはきよめられた、だから神の恵みの世界に「行きなさい」と言われるイエス・キリストに、私たちは信頼しましょう。そして、「あなたの信頼が、あなたを直したのです。」という宣言をストレートに受けとめ、おおいに感謝して、キリストの御名をほめたたえましょう。

ラザロと金持ち

2010-11-14 00:00:00 | 礼拝説教
2010年11月14日 主日礼拝(ルカ福音書16:19~31)岡田邦夫

 「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」ヤコブの手紙1:21

 保険のCMで、安心保険~死亡保障というようなフレーズのものがあります。単刀直入で良いかもしれませんが、私だけでしょうか、一瞬ドキッとします。だれでも必ず死ぬわけで、私も死亡は保障されているなあと思ってしまうわけです。死亡の時にお金が出る保障で安心ということは分かっているのですが…。世の中、お金があれば安心。しかし、私たちは小さいころ、日本昔話のこぶとり爺さんやしたきり雀など、欲張るとろくな事はなく、無欲に生きれば良いことあると聞かされてきています。大人はその辺、本音と建前が違うようです。ところで、欲張りのパリサイ人というのが実際にイエスの前に現れます。彼らに対して、イエス・キリストはどう言われたか、興味のあるところです。

◇ふところには…安心1
金の好きなパリサイ人たちがイエスの話を聞いて、イエスをあざ笑っていたので(16:14)、主イエスはたとえで話されました。まず、生きている時の話。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた」。たとえ話ですけれど、世の中あるいは人生、金が物を言うという現実にある話です。地球規模でも、金持ちの国があれば、飢餓(きが)に苦しむ人たちがいます。何とかしなければならないことです。ここで問題なのはイエスをあざ笑う、金の好きな(金に執着する、金銭欲のはっている、欲の深い)パリサイ人たちです。
 ラザロは「神が助け」という意味なので、金持ちは「金が助け」で生きていたと言えます。さらにイエスが「主は救い」の意味なので、ラザロとダブらせているともとれます。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」とありますから(2コリント8:9)、貧しい者の背後におられるイエスをあざ笑う金持ちの様子が浮かんできます。

◇ふところには…安心2
 次の逆転劇の場面に移ります。「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデス(よみ)で苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」(16:22ー26)。
 死後の世界があることは教えていますが、アブラハムのふところとあるだけで、最も大事な「神」が出てきませんので、地獄の温度や天国の内容を述べているものではないでしょう。主がザアカイに「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」と言われていますから、救いと関連していると思います(ルカ19:9)。そして、生前、金持ちは贅沢な食卓を満喫していたが、死後、ラザロは天国の宴席でアブラハムのふところ(となり)の上席にいるという逆転劇が述べられています。生前、ラザロはできものを犬がなめていましたが、元金持ちはゲヘナで水一滴もなめることができないという有様です。金が助けとして生きた人間と、神が助けとして生きた人間のその末路は明らかです。
 貧しくて、病いがあっても、信仰の保険に入っていれば、死後、アブラハムのふところが保障されているのです。「信仰は望んでいる事柄を保障し、見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)。

◇ふところには…安心3
 イエスのたとえ話のクライマックスはこの次です。「彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(16:27ー31)。
 モーセと預言者=聖書の教えに耳を傾けないのなら、生前の生き方が死後の場所をきめるという死者からのメッセージも人々は聞き入れはしないのだと、私たちに迫ってきます。金の好きなパリサイ人のようにあざ笑ってはいけません。聖書は内容が幼稚だとか、非科学的だとか、時代遅れだとか、そんな目で軽く見ていないでしょうか。自分を良く見せる道具として聖書を使ってはいないでしょうか。そのように、聖書を前にして、傲慢さや、偽善さに気付かなければなりません。イエスは言われます。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます」(16:15)。聖書を傍観者や利用者のように目を向けるのではなく、聖書を神の言葉として、幼子やしもべのように謙虚に、素直に「耳を傾ける」のです。少年サムエルのように「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と耳を傾ける時に、不思議と見えないものが、神の国が見えてくるのです。
 さらに主はこう言われます。「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです」(16:16ー17)。聖書に聞くというのはやさしいことではありません。罪が示されるからです。偽善が示されるからです。愛のなさを示されるからです。それは洗礼者ヨハネまでです。イエス・キリストは神の国の福音を伝えられます。聖書に聞くことが嬉しくなります。イエスによる罪の赦しの福音が聞こえてくるからです。キリストの真実と命と愛の響きが私を変えるからです。人はバーゲンの情報に耳を傾け、殺到します。しかし、キリスト者は神の国のグッドニュース=福音に心を傾け、殺到しましょう。
 神の国に入るのは死後ではなく、今です。イエス・キリストの来臨によって「神の国があなたがたに近づいた」のです(10:9)。「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(17:21)。やがての日、アブラハムのふところに行くのではなく、聖書を開き、耳を開き、律法として、預言として、そして、福音として聞いて、今、父なる神のふところという神の国に飛び込むのです。そして、神の恵みの支配のもとに生きるのです。
 1995年3月20日、地下鉄サリン事件の起きた所から遠くない、東京・深川の自宅で、晴美師の父・田辺三郎兄の洗礼式が行われていました。高齢となり、難しい目の手術などあって、それを契機に晴美師が個人伝道し、主を受け入れておりました。私が司式をしたのですが、信仰告白のところで、「あなたはイエス・キリストを信じ、天国に行けるという確信がありますか?」の問いに、すぐ答が返ってきません。洗礼を拒否されるのかと案じたのですが、「ただし、今じゃなきゃダメだ」と言ったのです。「そうです。今、神の国に入るのです」と言うとうなずき、納得されたので、父と子と聖霊の名によって、授洗いたしました。それから、病で倒れ、25日後の4月13日、88才で天父のもとに召されて行きました。実に名言です。信仰は「今じゃなきゃダメだ」なのです。

放蕩息子の父

2010-11-07 00:00:00 | 礼拝説教
2010年11月7日 主日礼拝(ルカ福音書15:11~32)岡田邦夫

 「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」ルカ福音書15:24

 「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られました。私たちの心はあなたのうちに憩うまで安きを得ないのです。」はアウグスティヌスの「告白」に述べられている有名な言葉です。明治から大正にかけての有名なキリスト教著作家が「放蕩無頼(ほうとうぶらい)の徒アウグスチン、神の恩寵(おんちよう)にふれるや、一転して聖者となる」と記しています。彼の回心前はたいへん放蕩しており、母モニカの涙の祈りがあって、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったローマ人への手紙13:13-14を読んで回心したと言われています。彼の実生活の放蕩ぶりというのがどれ程のものであったか、研究者によって違いますが、原罪を認識して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と彼自身が告白しているのは確かです。霊的な意味で、放蕩息子アウグスティヌスの父なる神への帰還の証詞だと思います。今日はイエスがたとえで話された放蕩息子の帰還の恩寵(おんちよう)に迫ってみたいと思います。

◇資格はありません。…弟の目線
 父親から、生きているうちに、兄も弟も財産を譲り受け、兄は残り、弟は家を出て、遠い国に行きます。弟は放蕩に身をもちくずし、財産を使い果たし、悪いことにききんが襲ったので、ある人のもとに身を寄せたところ、ユダヤ人には汚れた最悪の仕事、豚の世話をすることになります。しかも、豚の食べるいなご豆でお腹を満たしたいほどに空腹、しかし、だれひとり彼に与えようとはしなかったのです 。とてもみじめでたまりません。そこで彼は我に返ってこう決意します。
 「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』」(15:17-19)。
 父親の所に帰って行くと、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」のです(15:20)。息子は決意したとおり、父親の前で悔い改めます。あなたの子と呼ばれる資格はありませんと言うのですが、父親は最上の着物、指輪を着けさせ、子牛をほふり、「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と言って盛大な祝宴をしたのです。放蕩息子はイエスの所に寄ってきた取税人、罪人であり、広くは私たちです。社会的に放蕩しているとしても、まっとうな道を生きているとしても、神の前には誰もが父なる神から遠く離れてしまった放蕩息子なのです。いえ、息子ではないのです。息子と呼ばれる資格はないのです。
 アウグスティヌスのように、み言葉の光に照らされる時に、神の前に立つ資格のないものであることを知らされるのです。彼へのみ言葉の光は「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」でした(ローマ13:13ー14)。そして、彼のように原罪に引っ張られていく心を180度回して、回心し、神に引っ張られるようにして、父なる神のふところに向かうのです。もう資格などないのに父は無条件で迎えてくれるのです。息子と呼んでくれるのです。歓迎してくれるのです。祝ってくれるのです。息子は父の愛の中に抱えられるのです。レンブラントの「放蕩息子の帰還」は実にそれをよく描いています。
 私は20才の時に回心しました。本心に返らせたのは「人をさばくな。自分がさばかれないためです。…」の山上の垂訓でした(マタイ7:7口語訳)。信仰というのはやってみなければわからないから、飛び込んでみなさいという伝道説教にうながされて、「神を信じられないけれど、信じさせてください。」と、父なる神のふところに飛び込みました。神を信じない罪を悔い改め、十字架の救いを信じました。そして「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」が開かれ(ヨハネ1:12)、それから、牧師夫人に「岡田さん、神の子になったんでしょ」と言われた時に私に感動がきました。私はクリスチャンになれる資格はないと思っていたのに、事実「神の子」にされたのだ、そう思うと、天にも昇る喜びがあふれました。父なる神の子と呼ばれるようになったことは、何にもまして、嬉しいことなのです。

◇資格はありません。しかし…兄の目線
 こうして、弟息子が帰ってきたことで祝宴がなされています。それを知った兄息子はおこります。長い間、お父さんに仕え、戒めも破らず、楽しめと子山羊一匹下さったこともなかったのに、放蕩に身をもちくずして帰ってきた弟に肥えた子牛をほふって祝うとは何事ですかと…。兄の言い分はわかりますでしょう。そんな弟を許しちゃいけない、厳しい罰を与えるとか、勘当するするとか、しなくちゃいけない、せめて雇い人として迎える位にしなくちゃいけない、無条件で迎えて祝宴までするとは正気の沙汰ではないと思うのが普通でしょう。こんな公平に欠く父親なんぞ、父親の資格はないと断言しそうな兄息子です。弟息子のような取税人、罪人を迎えるイエスに対して、批判するパリサイ人、律法学者はこの兄息子のようだと、このたとえは逆批判し、迫ってくるものです。
 父は答えます。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(15:31-32)。父なる神と共存、共有して生きていけることがどんなに祝福にあふれたものであるかを告げています。放蕩息子・弟の帰還は財産の問題ではない、理屈ではない、命の帰還、存在の回復なのだから、父が喜ぶのは「当然」なのです。弟を批判したり、父に苦情を言う兄はしばしば、私たちです。しかし、私たちには他者を批判したり、神に苦情を言う資格はあるのでしょうか。そんな資格はないのです。

◇しかし、資格はあります…父の目線
 もう一度言いますが、私たちから見れば、父親が放蕩息子を喜び迎えることは当然のことではないのです。15章20節の「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い」の岩波翻訳委員会訳(1995)は「彼の父親は彼を見て、断腸の想いに駆られ」となっています。断腸の想いに駆られとは思い切った訳です。
これと関連した以下の聖句を見てみましょう。
 「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。――主の御告げ――」(エレミヤ書31:20)。「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか」(イザヤ書63:15 )。
 この「はらわたはわななき」と「たぎる思い」は原語では同じで、その心的表現から「神の痛みに基礎づけられた愛」だと日本の神学者・北森嘉蔵師が述べています(神の痛みの神学)。帰ってくる放蕩息子を迎えるには、父の葛藤があります。とうてい赦すことはできない思いが強くある、しかし、受け入れようという思いはなお強くある、赦せないものを赦すということはそこに神の痛みが生じます。その激しさは「たぎる思い」や「はらわたはわななき(痛み)」や「断腸の想い」(上記岩波訳)というみ言葉に表現されています。たとえには十字架がでてきませんが、くみ取りたいものです。私たち、罪深い放蕩息子が神に赦されるわけはないのですが、その赦せない者を赦し、父のふところに迎え入れられには、思いはたぎり、はらわたは痛みわななき、断腸の想いをなさっていることを忘れてはなりません。
 そして、その激しさの極限を過ぎて、愛は「当然さ」に進むのです。「弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と言われるのです。たとえには復活がでてきませんが、くみ取りたいものです。回復の預言にも、主ご自身が喜ばれる様子が描写されています。「あなたはもう、『見捨てられている。』と言われず…。かえって、あなたは『わたしの喜びは、彼女にある。』と呼ばれ…、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」(イザヤ書62:4ー5)。そこには全く赦してしまって、何のわだかまりもなく、当然のこととして、楽しみ喜んで迎えてくださる、計り知れない神の愛があるのです。
 どうか、私たちがこの「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」と祈ります(エペソ3:19)。