オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

主の恵みは大きい

2013-12-29 00:00:00 | 礼拝説教
2013年12月29日 年末感謝礼拝(詩篇103篇)岡田邦夫


 「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。」詩篇103:15-17抜粋

 年の暮れを年の瀬ともいいます。かつては、年が明けると皆、一つずつ年をとるという数え歳でした。庶民にとっての年越しは、生きるか死ぬかほどの重大事でした。ためたツケは返さなければならない。けれど、マキ代がなければ凍え死に、米代がなければ飢えて死ぬという危機迫った状況をその大変さを表わすのに、急流・激流を意味する「瀬」の字で表わしたのが「年の瀬」です。一年ごとにけりをつける、そういう文化というのは、人生もやがてけりをつけなければならないという事を考える上でも大切な事だと思います。
 この103篇は突き抜けた詩篇です。苦難や試練、問題はあったけれど、これを超えて、神賛美にたどりついたのです。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」と。「主の良くしてくださったこと」を思い起こせるのです。どうして、こうも辛いことが続くのですか、主よ、というような嘆きから抜け出ているのです。そのような嘆きの時は自分はチャンとしているのに、主はどうして私をこんな大変な目にあわせるのかという風に、信仰的にいうと、神を小さく見ており、自分を大きく見てしまっているのです。この詩篇の作者がこの詩のようにほめたたえるようになったのは、その逆で、目を開いて神を大きく見たので、自分が小さく見えてきたのです。そうして、自分を小さく見ると、ますます、神が大いなる方である事が解ってきたのです。

◇過小の自分
 14~16節「私たちがちりにすぎない。…人の日(「生涯」共同訳)は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない」。分数で表すなら、分母は「私」、分子は「神」、値は「賛美」となるでしょう。分母が同じでも、分子が大きくなれば、値は大きくなり、分子が同じでも、分母が小さくなればなるほど、値は大きくなります。神を大きく見積もると賛美が大きくなり、私が小さくなると、賛美が大きくなります。賛美とは仮分数です。イメージでいうなら、「過分数」といった方が良いでしょう。
 ヤコブもモーセもイザヤもエレミヤもヨブもペテロもパウロも、魂は砕かれ、小さくされ、自分がちりに過ぎないことを知らされた人たちです。そこで、大いなる神と出会ったのです。そして、神をたたえ、神を証ししたのです。私の人生の中で神は「過分」な方、そこに賛美が生まれるのです。

◇過大の神
 9~11節に過分なる神が存分にたたえられています。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい」。
 その大きい神、「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられるのです」(103:14)。その「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」のです(103:13)。その憐れみで、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」のです(103:12)。「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある」のです(詩篇103:15-17抜粋)。
 ですから、突き抜けた作者は神の過分の過分を得て、賛美にあふれます(103:20~22)。
 主をほめたたえよ。御使いたちよ。
 みことばの声に聞き従い、
 みことばを行なう力ある勇士たちよ。
 主をほめたたえよ。
 主のすべての軍勢よ。
 みこころを行ない、主に仕える者たちよ。
 主をほめたたえよ。
 すべて造られたものたちよ。
 主の治められるすべての所で。
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 今年の重大ニュースの一つはみのお泉教会の竹田信廣兄の召天でした。私が1981年、四国の壬生川教会から、豊中泉教会に転任になり、赴任する前にあいさつに行きました。役員たちが待っていて、歓迎してくれました。特にそこにいた、竹田信廣兄弟の両手を差し出し、握手して迎えてくれた、そのぬくもりは忘れる事が出来ません。赴任後、ビジョン役員会を開き、語り合い、教会のビジョンを掲げました。そうして、今日のような協力し合う、4つの泉教会となったのです。それを最も喜んでおられた方の一人が故竹田信廣兄でした。そもそも、源流となった豊中使徒教会創立の時に、受洗された第一号が彼だったからです。この教会の歴史と共に歩んだ方だったとも言えます。
 二人の息子さんがおられましたが、次男の方がバイクで走っていましたところ、夜のこと、駐車していたトラックがよく見えず、突っ込んでしまいました。状況からいうと即死でおかしくなかったのですが、奇跡が起こりました。搬送された病院ではまだ、意識があったのです。信廣兄は個人伝道をしました。正夫君は悔い改め、十字架の贖いを信じ、平安のうちに、天国に召されていきました。葬儀の時に、彼は泣いてあいさつをしました。皆さんもイエスさまを信じて天国に行ってくださいと訴えました。それを聞いた長男の方は信仰を明確にし、やがて、献身して、ホーリネス教団の牧師として、主に仕えておられます。
 忠実に主に仕えてきたのに、どうして、最愛の息子を取り上げるのですかと嘆かれたと思います。魂は砕かれたことと思います。しかし、信仰に立ち続けました。人類のためにひとり子を十字架で犠牲にされた父なる神の愛をきっと、誰よりも、彼は知ったことでしょう。愛の広さ、長さ、高さ、深さを身にしみて感じたことでしょう。そこから出てくる、彼の優しい祈りと暖かい握手はそれに触れる者をいやし、救いに導きました。葬儀の時の証しや説教の印刷したものをお渡ししますので、ぜひ、お読みください。
 詩篇のはじめの部分にもどりましょう。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる」(103:2~5)。

光は片隅から

2013-12-22 00:00:00 | 礼拝説教
2013年12月22日 クリスマス礼拝(ルカ2:1-7)岡田邦夫


 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」
ヨハネ1:9-10

 姉妹教会である豊中泉教会は今は蛍池に新会堂が建ち、引っ越しましたが、以前は、阪急岡町駅をおり、商店街をぬけて8分ぐらいのところにありました。その商店街の並びに岡田ビルという小さなビルがあり、その一階に「かたすみ」という小さな喫茶店がありました。間口の狭い、奥に長い珈琲店、私はこの店の名前が気に入っていて覚えています。しかし、今の時代、そのような店名では続かないのでは思っていましたら、最近、テレビで紹介されていたようです。今から38年前、喫茶店が好きで入り浸って、大学受験を失敗した息子に、母親が店舗を見つけてきて、町の片隅で喫茶店をやらせたのが始まりだとか。「かたすみ」は今は三店舗になっているといいます。
 庭の片隅によくはえる野草で、カタバミという、葉はクローバーによく似てはいますが全く別の種類のものです。雑草として引いてしまうのですが、小さくて、きれいな黄色や紫色の花を咲かせるので、私は好きです。カタバミの花言葉は「輝く心」「心の輝き」です。古代の女性が真鍮の鏡をカタバミの葉で磨いたことからつけられているそうです。
 人が片隅に生きている、しかし、心の輝きがあるなら、素敵な人生だと思います。

 クリスマスは世界的に祝われています。しかし、元はといえば、世界の片隅に起こったイエスという方の誕生が始まりです。歴史の表舞台ではローマ皇帝アウグスト(BC31-14)が税金を集めるために住民登録をさせようと勅令をだしたところです。皇帝の一言で、住民は先祖の町に帰って、登録をしたのです。そのようなローマ帝国の片隅にユダヤという属国があり、その中でも、パンの家の意味をもつベツレヘムという小さな町に、名もない二人が来ていました。それはヨセフとマリヤ。登録のために帰ってきている人たちで、宿屋は満席。泊まれません。しかし、マリヤは月が満ちて、赤児が生まれてしまいます。家畜小屋でした。優しく布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。実に片隅での出来事でした。
 しかし、ヨセフにも、マリヤにも、神からのみ告げを受けていました。この子が聖霊によって生まれてくる。その子の名を「主は救い」という意味のイエスと名付けなさい。その方はイスラエルを治め、世界の救い主、メシヤとなるというものでした。この救い主誕生は世界を揺るがす大事件なのですが、表向きは実に片隅の出来事でした。この救い主誕生の知らせを地の民を言われていた社会の底辺に生きていた羊飼いたちでした。羊の夜番をしていると、み使いが現れ、主の栄光が周りを照らし、告げます。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」(ルカ福音書2:10-12)。み使いといっしょに天の軍勢が賛美します。
 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
 羊飼いたちはベツレヘムに行き、飼い葉桶に寝かせてあるみどり子を探し当て、賛美しながら帰って行きました。見た目は飼い葉桶のみどり子です。何の輝きもありません。家畜の臭い、わらの臭いの立ちこめる、人間の居場所とも思えない場所です。身の置き所もないような片隅です。しかし、羊飼いたちは天の栄光を見ました。その輝く所から、自分たちのような、家畜やわらの臭いにまみれた世界に、神の御子、救い主がくださったのだと知ったのです。それで嬉しくなって賛美したのです。
 ヨハネという使徒はこれをこう言いました。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」(ヨハネ1:9ー10口語訳)。
 そうして、救い主イエス・キリストはユダヤでは辺境の地、ガリラヤのナザレ村で育ち、三〇になってから、ガリラヤを中心に伝道を始めら
れ、首都エルサレムに向かいます。多くの人を救いに導きますが、祭司長、律法学者、パリサイ人の妬みや反感を買い、ついにエルサレムの片隅のゴルゴダの処刑場で十字架にかけられ、殺されていきます。しかし、復活されて、天に帰られます。一人の熱心な宗教家が海の藻屑と消えていったようですが、そうではありませんでした。人類を救うために、私たちの罪、神に対して、人に対して、自分に対しての罪をあがない、赦すために、十字架で身代わりとなられたのです。これを信じるだけで救われる道が開かれたのです。
 これを福音と言います。それから、世界の片隅で始まった福音の光は世界の広がっていったのです。この福音の光は、神の愛の光は世界のどの片隅にも届くのです。

救い主をたずねて

2013-12-15 00:00:00 | 礼拝説教
2013年12月15日 主日礼拝(ルカ福音書2:1-7)岡田邦夫


 「そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた」。ルカ福音書2:16ー17

 2012年、イギリス映画協会が世界の映画監督358人が投票を行い、「映画監督が選ぶ世界の映画」の結果が、同映画協会発行のサイト・アンド・サウンド誌に載りました。その歴代名作1位に選ばれのが、小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)でした。日本人の作品で初です。小津監督」の作品は戦争や大恋愛などはなく、ほとんど、日常の家族の風景です。その人生の場面ごとにきわめて丁寧に描き、やがて人は死んでいくという現実に向き合わせる芸術性が評価されています。
 ところで、聖書の知恵文学・伝道者の書にこうあります。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。…」と続き、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言います(3:1-2、11)。私たちは一度限りの人生、その時々を、一場面一場面を大事にしていきたいと思います。さらに、この書は言います。「 神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(3:11)。人生は日常に起こる事を超えた永遠なるものを探していく旅でもあります。

 救い主誕生を知らされるのはヨセフとマリヤ以外に、羊飼いたちと博士たちが登場します。羊飼いはユダヤ人ですが、当時、地の民(アムハアレツ)と呼ばるれる社会から軽視された地位の低い人たちでした。東方の博士というのは王の地位にいた人たちでしたが、当時は軽視された異邦人でした。そのような人たちが救い主誕生の知らせを聞き、証人となるべく、神に選ばれたのでした。神の役に立つという意味の「役者」でした。
 彼らはロボットや人形のように動いたのでもなく、コンピューターのように入力、出力をしたのではなかったのです。神の器としての役者だったのです。両者は主体性をもって永遠を「探していた、捜していた」のです。まず、博士は星を観察し、天を仰いでいました。また書物を調べていました。そこに西方に特別輝く星を見いだし、書物(たぶん預言書)と突き合わせ、ユダヤ人の王(救い主)誕生を知らせと受け止めました。最高の贈り物、黄金、乳香、没薬をたずさえ、ユダヤに向かいました。ヘロデ王に謁見し、ベツレヘムに向かいます。
 「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して」礼拝し、贈り物をささげたのです(マタイ2:10-11)。
 博士たちは探し求める思いがあって、星を通しての神の導きがあって、それが合致して、降誕の救い主イエス・キリストに出会えたのです。そのときの喜びようは言いようのない天的な喜びだったでしょう。

 一方、羊飼いたちも羊の夜番をし、羊を見守りながら、星空を見ておりました。夜、星空を眺めるのは、永遠を思うときです。アブラハムも無数に輝く星空を見ていたときに、あなたを祝福し、あの星の数のように子孫を祝福するという神の約束の言葉をいただきました。羊飼いに求める思い、祈りがなければ、ただの星空だったでしょう。生活の厳しさを思い煩い、虚しさを増す星空だったでしょう。しかし、神からくるみ告げという電波をとらえる信仰のアンテナを備えていました。旧約の預言者が示す理想の指導者、王は「羊飼い」、羊を愛し、守り、導くような、牧する王でした。羊飼いは牧する心を持っていました。羊飼いのような救い主・メシヤを求めていました。天の軍勢・天使が現れ、福音のメッセージを聞きます。
 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」(2:10-12)。天使聖歌隊の賛美を聞いて、すぐ、急いで出かけます。マリヤとヨセフと飼葉おけに寝ておられるみどりご・救い主を「捜し当て」ました。この幼子について告げられたことをヨセフとマリヤに伝えます。一同、驚きに包まれます。羊飼いたちは見聞きしたことが全部み使いの告げたとおりだっだので、神をあがめ、賛美しながら帰って行
ったのです。

 ここで、博士にしろ、羊飼いにしろ、普段の淡々とした生活に戻っていったでしょう。この両者、永遠への思いをもっていたからこそ、それを探し当て当てたのです。神もまた、そのような神の役者を求めていたからこそ、それに合致し、このような神の啓示の出来事になったのです。普通に続く日常の中に、永遠が介入してきたのです。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある、瞬時のときなのですが、永遠者が介入すると、それは永遠につながるのです。救い主を信じて、悔い改めるという信仰経験はひとときかも知れないのですが、それは永遠者が介入された永遠につながるのです。
 私たちは博士たちのように、羊飼いたちのように、永遠を探し、救い主を捜す人生としましょう。そして、主と出会い続け、礼拝し、賛美しながら、天のふるさとに向かって、旅をしていきましょう。そうすれば、イエス・キリスト監督の名作として、天国で評価されるでしょう。

マリアに現れたみ使い

2013-12-08 00:00:00 | 礼拝説教
2013年12月8日 主日礼拝(ルカ福音書1:26-38)岡田邦夫


 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(ルカ1:35)

 この季節、クリスマス商戦たけなわで、店にはキリスト降誕をよそにツリーやリース、イルミネーションで華やかに飾られています。明治の初期、キリシタン禁制が解かれ、クリスマスも徐々に祝われるようになっていくのですが、明治後半には西欧の習慣を取り入れる風潮の中で、一般に普及していきます。輸入高級食材の販売の明治屋が東京の銀座でクリスマス・セールを開催し、明治37(1904)年、イルミネーションを点灯、それが普及していきます。不二家のクリスマスケーキは明治43年。西欧文化の「かたち」が取り込まれてきたわけです。

◇喧噪の中…地の喜び
 それでも、クリスマスの何かしれないワクワクする気分というものは良いかも知れません。クリスマス・カードが店に並べられています。イエス・キリストの降誕の絵はなく、サンタか雪だるま、幼稚園や施設での祝会もサンタがあらわれ、メリークリスマス、家庭でも居酒屋でもメリークリスマス。クリスチャンであれば、そのような何となくの喜びではなく、本当のクリスマスの喜びを知ってほしいと思っているものです。
 祭りというのはたいてい元になる物語があります。クリスマスの祭りには降誕物語があります。ヨセフとマリヤ、羊飼い、博士など、そして、天使が登場します。子供には絵本があり、音楽ではクリスマス・オラトリオがあります。メルヘンがあります。それは心の世界を広げます。非日常的世界へと導きます。み使いガブリエルがおとめマリヤに現れ、救い主イエスの降誕を告げます。普段の生活ではありえない光景です。ヨセフには夢のみ告げ、羊飼いには天の軍勢の賛美とみ告げ、博士には星の導きがあり、私たちを不思議な世界へと引き込んでいきます。私たちは1+1=2という合理的な考えや生活の中に生きています。最近、ライフノートというのが売られたりして、自分の死にそなえていこうという動きがあります。生きてきた事の記録、葬儀の仕方を記すのも良いですが、しかし、肝心な魂の死後の備えが必要です。といいましても、人はなかなか、説破積まなければ考えないものです。といって、やみくもに霊の世界に足を踏み入れては危険です。
 そういうためにも、聖書が必要です。聖書は普通に記された歴史の文献であり、と同時に神が現れて人に語るという物語です。ものを語るという意味では、架空ではない神話と言ってよいでしょう。御使いがはいって来てマリヤに「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言った時、「マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込」みました。これはいったい何なのかと考えを深めるのです。私たちはクリスマスの不思議な物語に、歴史には違いないが、歴史を超えた何かがある、それはいったい何なのかと考えを深めていきたいと思います。
 クリスマスで一緒に騒いで楽しむのも良いでしょう。しかし、その中で、み使いやヨセフとマリヤ、羊飼いと博士に思いをはせ、幼子イエス・キリストに深く思いをはせ、物語の中に入り込んでいきましょう。

◇静寂の中-天の喜び
 人には静まるときが必要です。静寂が大事です。日本の庭園や茶室も静寂を求めています。ところが、この静寂というのは恐怖なのです。無音室というのがあります。外部からの音は聞こえず、自分の声も壁に吸収されてしまうとう部屋です。そこにひとり入れらるとします。すぐ絶えられなくなります。無音地獄です。そのままいたら、精神が破壊してしまうそうです。宇宙空間に一人投げ出され、地球とも、誰とも連絡がとれなくなったら、なお恐怖でしょう。雑踏から離れて、一人静かに思うのは大事なことです。いい知れない恐れに見舞われることが、見えないけれど確かにおられる神を思い、神を求め、そして、神との交わり、神との平和につながっていくからです。
 アブラハムも、モーセも、イザヤも恐れました。ですから、神は「恐れるな」と告げられ、彼らは恐れから救われ、神のみ言葉を聞き、啓示を受けたのです。神と出会ったのです。
 御使いのあいさつ「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」に、この状況にたいへんな恐れを感じました。考え込みました。すると御使いが言ったのです。「こわがることはない」。実に預言者たちが聞いた救いの言葉を聞いたのです。神の言葉が人を恐怖から救うのです。死を前にした人間が恐れるのは聖なる神の前に立つ恐れとつながっているのです。たとい死の影の谷をゆくとも恐れません。主が共におられるからですという詩篇23篇の言葉もそれです。「恐れるな」と導かれる主が共におられるので、死に行く人の慰めと安心の言葉となるのです。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」(1:30 ー1:31 )。
 救い主の立場と使命が告げられ、どうしてかと問うと、答えがあります。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません」(1:35ー38)。
 はたして、このみ告げがはいそうですかと受け入れられるでしょうか。後にエリサベツと会ったときに、賛美の詩をうたっています(マリヤの賛歌)。それは旧約聖書の言葉に親しみ、にれはみ、自分のものにしていたからこそ、そう賛美できたのだと思います。霊の世界にみ言葉をとおして思いをはせていたからこそ、このメッセージを聞けたのです。神は押しつけたのではないのです。対話ができたのです。マリヤは信仰によってこの使命を受け止めるのです。
 マリヤは言いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(1:38)。

 きょう、マリヤになったつもりで、思いをはせてみましょう。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
あなたはどう答えましょう。
こわがることはない。(あなたの名。)あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたのところにイエスがこられます。
その方はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。
あなたはどう答えましょう。
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、

あなたの中におられる方は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
神にとって不可能なことは一つもありません。
あなたはどう答えましょう。こう答えたいです。
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。

「救いの御子の降誕を」瞬きの詩人・水野源三

一度も高らかに
クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない
一度も声を出して
クリスマスを祝うあいさつをしたことがない
一度もカードに
メリークリスマスと書いたことがない
だけどだけど
雪と風がたたく部屋で
心の中で歌い
自分自身にあいさつをし
まぶたのうらに書き
救いの御子の降誕を
御神に感謝し喜び祝う