オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神の素晴らしさを味わう

2014-05-25 13:06:40 | 礼拝説教
2014年5月25日 伝道礼拝(詩篇34:8)岡田邦夫


 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」詩篇34:8

 この頃、朝起きる時に、腰が痛い、動き出してしまえば、治ってしまう。歳を感じます。そこで、私、朝のドラマ(朝ドラ)を考えました。お聞きください。
 口が口出す。腰に変わって言う。「あ痛たた!」
 耳が耳を傾けてくれる。「歳だからなあ」
 目が目を掛ける。「痛いところこそ大事だ」
 手が手助けをする。どこかにつかまって支える。
 再び、口が全身に号令をかける。「どっこいしょ!」
 足は足元を固め、踏ん張って支える。
 腹は腹をくくり、言う。「今日も一日、生きていこう。」
 最後に鼻が祈る。「はなはだ良い一日でありますように。」

 創世記は初めに神が天と地を造られたと書き出します。そして、六日(六つの期間)で世界を造られ、その期間ごとに「夕となり、朝となった。」と言ってはきれいな表現で締めくくります。そのうち、第三日からの地球の創造に関しては「神は見て、よしとされた。」という賛辞が延べられます。最後は「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」と絶賛しているのです(創世記1:31口語訳)。そして、第七日目は休まれたのです。人は頭の中で想像してしまいます。神がお疲れになることは無いでしょうが、神は天地宇宙、この世界を造られるのに全力でなさったので、その後は休まれたのではないかと…。あるいは、じっくりとご自分の作品を鑑賞されるために休まれたのではないかと…。そんな風に勝手に人が想像しても、怒られはしないと思います。
 そして、人間は創造者なる神を知り、愛を深めるために造られたのに、唯一の禁止命令を破り、誘惑に負け、神のようになろうとしたのです。アダムとエバの罪の話です。しかし、人ごとではなく、私たちも同罪なのです。特に旧約聖書を見ると、神の恵みと祝福と救いを受けながら、神に反逆し、神の前に罪に罪を重ねた歴史が記されています。続く、近代化した現代でもそうです。神の目からご覧になると、はなはだ悪かったという状況です。しかし、神はこの傲慢不遜の罪人たちを救おうとされ、気にくわないからと私たちを抹殺してしまうのではなく、ご愛をすべて注いで、神の御子をお遣わしになり、十字架にかけ、私たちの罪の身代わりとして、怒りを集中させ、抹殺し、義を通されました。ですから、この十字架の贖いを信じ、悔い改めるなら、その人は良い作品として新しく造られるのです(エペソ2:10、2コリント5:17参照)。信じる者たちをイエス・キリストの色眼鏡で見ていただいて、「はなはだ良かった」と思っていてくださるに違いありません。

 第二次世界大戦敗戦後の困難な時代を実話に基づいて描いた日本映画で「名もなく貧しく美しく」というのがありました(1961年公開)。主人公は視覚障害者、様々な困難を乗り越え、題名のように生きていくという映画です。貧すれば鈍するですが、そこに流れているのは「清貧の思想」です。名もなく貧しく美しくです。今日においても、この「美しく生きる」と言うのが日本人の生き方の伝統なのではないでしょうか。ただ、市民としてワーキングプアなど経済格差など取り組む課題はあります。かつて武士は武士として美しく生きる、農民、職人、商人も同様でした。今日においても日本人として美しく生きたいものです。
 話は聖書にもどしましょう。世界の人々も日本の私たちも創造者を知らなければなりません。伝道者の書が告げます。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に」(12:1)。この書の結論はこうです。「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(12:13口語訳)。それが人の美しい生き方です。
 それは以下のように、神のなさることは美しいからです。3章を読んでみましょう(一部書略)。
1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
12私は知った。…13人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のですから、自分の人生のおいてもそうなのです。幼児の時の美しさ(若葉)、青春の時の美しさ(新緑)、中年の時の美しさ(深緑)、老年の美しさ(紅葉)と時の美しさを生きるのです。そこで重要なのは神のなさることは美しいという信仰です。あなたの美しい生き方は神のなさることなのです。冒頭の詩篇の言葉はなおそれを歌っています。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は」(詩篇34:8)。美術館に行かなくても、主を信じるあなたの人生が神の美術、あまたを取り巻くすべてが神の美術、イエス・キリスト美術館なのです。「主のすばらしさを味わい、これを見つめ」信仰による鑑賞をしましょう。

 N兄のことは忘れられません。彼はかつて捕鯨船に乗り、コック長をされていました。しかし、奥さんが病気のため、陸に上がり洗濯場で働いていました。そのような時にキリスト教と出会い、洗礼を受けました。奥さんは亡くなられ、後日、再婚。そういうところを通りながら、教会には忠実に通っておられました。穏やかで実に人のいい方でした。ある時、急に入院することになり、ガンであることが告げられました。私や家内が見舞いに行き、お祈りすると、必ず、彼も牧師と教会のために祈ってくれました。退院してしばらくは元気で、礼拝にでておられたのですが、再入院となりました。ベッドから落ちて骨折。寝たきりになり、認知症の症状が出てきました。一つは何かを恐れているようでした。私が祈った後、良く聞き取れなかったのですが、心にかかっていた何かを悔い改めたようです。病室が窓側に変わった時、道路を隔てた向こう側のマンションのベランダに「十字架」が掛けられていたのです。熱心なクリスチャンなのでしょう。彼はそれを見た時に罪赦され、天国に行けると確信したのでしょう。心は平安になりました。もう一つは脳の回転の問題。家内が良くかんで食べること、手に小石を持って指を動かすこと、紙に書いた聖書の言葉を声を出して読むことを提案。そのようにされるて、みるみる元気になりました。しかし、ガンは進行していて、その病院で実に穏やかに天に召されて行きました。その臨終の時、奥さんと看護師がおられました。そして、看護師が奥さんにこう言いました。愛称で「なるちゃんは最後まで紳士でしたね」。これを見ていた奥さんは後に教会に来られるようになり、洗礼を受けました。彼は人生の時々を美しく生きたのだと思います。主にあるなら、人それぞれの美しき人生があるのではないでしょうか。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は」。

恐れないで、ただ信じなさい

2014-05-18 13:12:00 | 礼拝説教
2014年5月18日 主日礼拝(マルコ福音書5:35-43)岡田邦夫


  イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。マルコ福音書5:36

 家内の親戚のある夫婦が突然、教会で洗礼を受けるのだと言い出しました。現在、教会に行っている訳ではないのですが、そのように心に決めているようです。それが現実となるよう祈っています。クリスチャンにとって、親族や教会に来ている求道者が洗礼を受けるというのはこの上ない喜び、グッド・ニュースです。イエスが伝えられた「福音」こそ、最大のグッド・ニュースです。イエスは言われました。「時が満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)。たとえば、おぼれかけている私たちを神さまがぐっと手を差し出して、引き上げ、助け出してくださるようなものです。そのような話が4つの福音書には一杯出てきます。今日は4つのグッド・ニュースをまとめてしましょう。

 いつものように、イエスのまわりにはたくさんの人が話を聞きにガリラヤ湖の岸辺に集まってきました。舟を浮かべ、舟の上から、イエスは話をされていました。話が終わると夕方になっていました。「それでは解散しましょう。気をつけてお帰りなさい」。「わかりました。さようなら」。「さようなら」。…。「ペテロさん、ヨハネさん、お弟子の皆さん」。「はい、イエスさま」。「向こう岸へ渡りましょう」。イエスをお乗せして、船をこぎ出しました。ぎこぎこ。ガリラヤ湖では時々あるのですが、山から激しい風がビューと吹き下ろしてきたのです。波がザブーンとおそいかかる。水が舟に一杯入ってくる。「桶でかきだせ」。「よいしょ」。ザブーン。
 弟子たちは大騒ぎ。それなのにイエスは舟のとものほうで、枕してスヤスヤと寝ておられる。「先生、起きてください」。「なんだい、騒々しい。、よく寝た」。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか」。イエスはきりっと起き上がったのです。「黙れ、静まれ!」と風と湖をしかったのです。するとどうでしょう。風はやみ、湖は穏やかになったのです。シーンとなりました。びっくりして、弟子たちもつばをごくりとのんでシーンとなりました。聖書にはこう書いてあります。イエスは彼らに言われた。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。今風に言ったら、「うそでしょ。信じられない。アンビリーバブル。この人いったい誰なの」。こうして、死にかけた弟子たちは助けられたのです。

 こうして、穏やかなガリラヤ湖を渡りきり、ゲラサ人の住む着きました。イエスが舟から上がるとすぐ、一人の人が墓場からやってきて迎えたのです。いったいこれから何が起こるのでしょう。この人は墓場や山でワーワー叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのです。何があったのでしょうね。悪霊に取りつかれていたからです。だれも治して上げる事も出来ない、かわいそうな人でした。嵐のガリラヤ湖のように、心の中が嵐になっていたのですね。そこで、イエスは風や海に命じたように、命令をしました。「汚れた霊よ、この人から出て行け」。悪霊が言います。「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。「お前の名前は何の言うのか」。「おおぜいおりますのでレギオンといいます。出て行けとおおせでしたら、豚の中に入らせください」。「では、許そう」。するどうでしょう。2000匹の豚の中に入り込み、豚は駆け出し、海の中になだれ込んでいったのです。
 そうして、この人は心のガリラヤ湖は静まり、正気になり、ちゃんと服を着ていたので、周囲の人はびっくり。イエスは暖かく言われました。「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。

 話は続きます。イエスの評判は広がり、その海辺に大勢の人が集まってきました。そこへ会堂を管理するヤイロという人がイエスの足下にひれ伏しました。一所懸命お願いするのです。「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。この人も心配で心配で、心の中が嵐でした。「では、参りましょう」。いっしょに家に向かいました。大勢の人がいっしょについて来るではありませんか。ワイワイ、ガヤガヤしています。
 ところが、イエスは急に立ち止まりました。「わたしの着物にさわったのはだれか」。「こんなにたくさんの人が押し合いへし合いなのに、色んな結構、服には触れているのに、変なことをいうな」。実はイエスは自分の中から力が出ていくのをはっきり感じたので、そう言われたのです。すると、一人の女性が進み出て、ひれ伏し、ありのまま話したのです。「実はわたくし、12年も血が止まらない婦人病でした。色んな医者にかかりました。治ると言われて、お金を払いましたが、治りません。お金は使い果たすし、体のしんどいし周囲からは汚れた人と言われて、とても孤独でした。見捨てられたような気持ちでした。人生の嵐に飲み込まれていました。でも、イエスさまの服でもさわれば、なしていただけると思ってさわりました。そしたら、とたんに、血が止まって治っていたのです」。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

 会堂管理者の家から、人が来て「あなたの娘はなくなりました。もう先生に来てただなくてもいいでしょう」と報告。ここは大事なところ、イエスはヤイロにしっかりと言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ福音書5:36)。家に着くと人々がオイオイ、ガヤガヤ。「娘は死んだのではない。眠っているだけだ」。「そんな馬鹿な」。「みんな、出て行きなさい。お父さんとお母さん、ペテロ、ヨハネ、ヤコブだけ、子供にいる部屋に入りなさい」。中はシーンと静まります。イエスは子供の手を取ります。「少女よ、さあ、起きなさい。タリタ、クミ」。死人を呼び戻す声です。するとすぐ、12才の少女は起き上がったのです。「何か、食べさせなさい」。少女は生き返ったのです。死の嵐から、生還したのです。両親も心配の嵐は吹き飛んだのです。

 新聖歌543「ガリラヤ湖の岸にて」にはこういう言葉があります。「心のガリラヤ湖に嵐はすさめど、主イエスの一言葉は平和をもたらす。…力のある言葉に助け出されぬ。…延べたもう手にすがれ、なれも安きうけん。とこしえまで君をなれは神とせん」。あなたはどのような嵐に見舞われていますか。グッド・ニュースをくださるイエスは優しく、はっきりといわれます。「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5:36)。

神の国の奥義

2014-05-11 23:42:28 | 礼拝説教
2014年5月11日 主日礼拝(マルコ福音書4:1-9)岡田邦夫


 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」マルコ福音書4:20

 愛媛におりました時に、ある牧師が四国八十八箇所について私にこう言っていました。これらの寺というのがたいてい山にある。参加する人たちは都会の雑踏やぎすぎすした「日常」から離れて、緑豊かな自然にふれ、それだけでもいやされるのではないだろうか。そして、宗教施設で非日常の「神秘的な」雰囲気に心安らぐにではないか。教会もそんな風に山の中にあっても良いのではないか。その時、私も教会に温泉があったら、礼拝後、温泉に入り、身も心も清められ、いやされて、また、裸のつきあいもできて、良いのでは…と言ったと思います。35年以上前の話でした。

◇神の国は近くなった
 イエス・キリストが伝えられたは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」です(マルコ1:15)。実に神秘的な話、いや、神秘のメッセージです。人生哲学でも、生活の知恵でもなく、「神の国の到来」の知らせです。神の国は近くなったと言っても、この目では見えないわけですから、そのしるしとして奇跡をなさいました。それは「神の国の恵み」の現れでした。そのメッセージはマルコ4章に出てくるような、「たとえ」で話されました。「神の国は、人が地に種をまくようなもので」と語り出します。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです」(4:27-29)」。イエスが地に来られて、見えないけれども神の国は近づき、始まったのであるというメッセージです。似たようなたとえが続きます。神の国はからし種のようなもの、最も小さい種だが蒔かれると鳥が巣をかけるほど大きくなる、神の国は生命的に成長しているというメッセージです(4:30-32)。
 イエス・キリストの語られた神の国のたとえ話は寓話のような神秘性はありません。また、いわゆるファンタジーではありません。その時代のものですが、ごく日常の生活や人間模様です。それでいて、このようなたとえ話というのは、後にも先にも、また、その時代の文献にもでてこない、極めてユニークなものでした。ということは、そのようなユニークな方がおられたという証拠だとある神学者は述べています。更に言うなら、神の国の奥義(5:11)をよく知っている、熟知しているお方でなくては出来ないことなのです。

 神の国はイエス・キリストが地上に来られたクリスマスに、十字架にかかられ、死んでよみがえられたイースターに、始まっているのです。種は蒔かれたのです。見えない所で神が成長させているのです。そして、実りの時が来るというのです。イエス・キリストの再臨の時に神の国は完成するのです。4章の始めのたとえ話にもどってみましょう。
 この時代のこの辺では種を蒔いてから、耕しますので、このような話になります(4:4-9)。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
 「神の国は」と言わなければ、ごく普通の話です。ですから、日常生活からかけ離れてはおらず、神の国をイメージすることができるということです。神の国とは神の恵みの支配とも言えます。たとえ話は最後に強調点があります。神の恵みの支配は広がっていくと言うことです。すでに福音の種は蒔かれました。道ばたに落ちて鳥に食べられるとか、岩地に落ちて枯れるとか、いばらの地に落ちて、ふさがれるという困難があっても、必ず、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶというように、豊かな結果になるのだということです。
 見える日常から、見えない神秘の神の国へ飛躍させるのです。イエス・キリストの福音のメッセージとして聞き、聖霊が働いてくだされば、みことばの戸が開かれて、神の恵みの世界へと導かれていくのです。イエス・キリストが十字架にかけられ、この地に蒔かれた福音の種は、様々な困難や妨害や迫害があっても、必ず、世界に広がり、終わりの時には計り知れない豊かな収穫となるという希望のメッセージです。そのような意味で、イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われたのです。

◇福音を信じなさい
 そして、イエスのたとえ話というのは、私たちに考えさせたり、衝撃を与えるものでもあります。悔い改めて、福音を信じるように話されているのです(4:12)。このたとえ話はイエスの解説付きです。
 「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
 福音のみことばはどんなに豊かで祝福に満ちていても、聞く側の心が良い土地でないと、実を結ばないという悲しい結果になってしまいます。良い地は悔い改めて、みことばを聞ける素直な心、幼子のような心です。耕された、砕かれた魂であることが求められます。パウロのような心持ちです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです(1テモテ1:15)。迫害者だったパウロでさえ、主に出会い、魂が砕かれてから、実に豊かに伝道の実を結びました(1コリノト15:10)。だとすれば、みことばを聞いて受け入れたあなたは、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちに違いないのです。どのような実であるかはそれぞれであり、すべて主がご存じです。

師弟と兄弟姉妹

2014-05-04 00:00:00 | 礼拝説教
2014年5月4日 主日礼拝(マルコ福音書3:31-35)岡田邦夫


 「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」3:34-35
 三田市内の武庫川沿いに桜の名所を訪ねる「武庫川さくら回廊ウォーク」が今年もありました。波田橋のあたりの桜の木に俳句や川柳などの短冊が掛かっていて、その中にこのような作品がありました。「葉桜になってもわたしは桜なの」(宝塚市の方の作)。私、年齢も年齢なので、それは我が身の心境とも言えます。何かを頼まれた時に、「お声がかかるうちが花」という言い方もあります。葉桜でも…。

◇弟子と呼ぶ
 さて、イエス・キリストが伝道生涯に入る時に、まず、なされたことは弟子を集めるために、お声をかけることでした。ガリラヤ湖のほとりを歩いておられると、網を打っていた漁師のシモンとアンデレをご覧になり、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とお声をかけました。網を繕っていたヤコブとヨハネも、イエスがお呼びになりました。この人たちは網を捨て置いて従っていきました(マルコ1:16-20)。また、後日、イエスが湖のほとりに出て行かれ、道を通りながら、収税所に座っているレビをご覧になりました。お声をかけられました。「わたしについてきなさい」。彼も立ち上がって従っていったのです(同2:13-14)。

 ここで、旧約聖書にさかのぼってみましょう。創世記には「光があれ」と言われると光が存在するようになったように、この世に存在するものは神がお呼びになったものなのだと記されています。人についてもそうです。あなたは両親から生まれてきたのですが、しかし、神が「生きよ」と仰せられて、あなたを命あるものに呼び出されたのです。生きる価値のあるものとして、呼び出されたのです。
 それなのに、人は神に反逆して、神の前に罪を犯し、エデンの園を出されてしまいました。そこで、神は一人の人にお声をかけました。アブラハムにあなたを祝福し、あなたを通して多くの人が祝福されると言われたのです。それは救いと使命への呼び出しでした。そして、その子孫はイスラエル12部族になっていきます。この12部族は祝福されますが、神の御心にそわない歴史をたどり、その使命をはたせなかったのです。その長い歴史の後に、時が満ち、神の子イエス・キリストが世に遣わされ、そのお方が12人にお声をかけたのです。それがマルコ福音書3:13-19に記されています。「イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(3:13ー15)。
 この人たちは祭司でも、律法学者でもなく、無名の人たちでした。「そして、シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモンイスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである」(3:16-19)。ユダの裏切りは説明しがたいことですが、その場面の時にお話しすることにします。この12人が新しいイスラエルの代表として選ばれ、世界の祝福の基と主イエス・キリストが立てられたのです。直弟子として、目撃証人者として、特別に立てられた「使徒」でした(マタイ10:2)。
 私たちはその霊的な新しいイスラエルの子孫です。私たちもイエス・キリストの身近に置くために、この世から呼び出されたのです。福音に生き、使命に生きるようにと召されたのです。まさに主に「お声がかかるうちが花」です。あなたは生きる価値があるから、「生きよ」とこの世界に呼び出されたのです。あなたは「福音に生きよ」と罪と死と滅びになかから、神の国、恵みの世界に呼び出されたのです。あなたは神の祝福の基となるようにと「使命に生きよ」と召し出され、遣わされているのです。分に応じて人生を楽しむようにとこの世に呼び出されたのです。天国に行けるのだ、神と共に安心して生きられるのだとイエスのみもとに呼び出されたのです。神のため人のために役立って、生きがいがあるようにとキリストの近くに呼び出されたのです。

◇兄弟姉妹と呼ぶ
 この逆なエピソードが出てきます(マルコ3:31-35)。「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせ。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、『ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたを訪ねています。』と言った」のです。ナザレで共に過ごした身内ですから、イエスを呼び出そうとしたのは当然です。ところが思いもかけない答えが返ってきたのです。
 「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『わたしの母とは誰の事ですか。又、兄弟たちとは誰の事ですか。』そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。」のです。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです』」。イエスと弟子、それは師弟関係です。それも創造者の神と被造物の人間の間なのに、師弟関係にしていただけることさえ、驚くべきことですのに、イエス・キリストが「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです」と言ってくださるのです。わたしの家族だ、神の家族だ、身内だと言ってくださるのですから、なお、驚きです。アメイジングです。
 注解書にはこう述べられています。「肉親のきずなよりも親密な交わりが、信仰によって成り立つ。神のみこころを行なう人、すなわち、神の家族の一員とされた者は、肉親以上の交わりをイエスと持つようになる。信仰によるイエス・キリストとの交わりは、血縁関係に優先する」。クリスチャン同志を兄弟姉妹、ブラザー・アンド・シスターと言いますが、ここでは「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだということです。
 そう言えるのはイエス・キリストが十字架の苦しみを受けられたからです。ヘブル人への手紙2:9-12を開いてみましょう。「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう』」。
 主は私のために十字架の苦しみをを通して救いを全うされたというみこころ信じ、従う者をわたしの兄弟と呼ぶことを恥としないというのです。何という恵み、圧倒される恩寵であります。