オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

全ての人にとっての福音

2016-01-31 16:39:46 | 礼拝説教
2016年1月31日 主日礼拝(ローマ人への手紙1:1~7、16~17)岡田邦夫

 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ローマ人への手紙1:16

 人は誇りをもって生きることが大切です。大人だけではない、小さい子供にも誇りをもたせ、年老いても誇りを失わせてはならないと思います。パウロという人はたいへんな誇りをもって生きていた人です。血筋も良く、熱心なユダヤ教徒で律法学者、律法の義につては落ち度のない者、要するに、エリートで模範生だという誇りをもって、その生き方を貫いていました(ピリピ3:4-6)。ですから、キリスト教は邪教だと思い、その撲滅活動に邁進していたのでが、ダマスコに行く途上で、復活されたイエスが現れ、目が開かれ、回心して、イエス・キリストの福音を信じて救われます(使徒9:1-19)。これまでの誇りが打ち砕かれて、はるかに勝る誇るべきものをいただいたのです。
 「私は福音を恥とは思いません。」は否定的な言い方をして、より強調する表現で、私は福音を大変、たいへん誇りに思っているということです。自分は逆見本だと言っているのです。「私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこのうえない寛容をしめしてくださったからです」(1テモテ1:15-17)。回心後はそういう生き方を貫いていきました。
◇貫かれているもの…謙虚
 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」は今申しましたように、逆説で貫かれています。こんな神に敵対し、キリスト者を迫害していた者が十字架の贖いによって赦されて、救われたのだから、宗教界のユダヤ人でも知識界のギリシャ人でも、世界の誰でも救われるはずだという逆説です。それは分数のようなもの、分母が自分、分子は恵み、分母が小さければ小さいほど、値は大きくなります。自分を過大評価し、恵みを過小評価すれば、値は小数点。自分を正しく過小評価し、恵みを正しく過大評価すれば過分数になるのです。過分なる恵み、過分なる福音が証しできるのです。
 パウロはこの福音は最もたいせつなことで、自分がはじめではなく、イエスの直弟子、使徒たちから「受けた」ものだと言います(1コリント15:3)。イエス・キリストが福音を宣べ伝え、神の国を教え、しるしとしてのいやしをなさったように、弟子たちも、宣べ伝え、教え、いやし、同じことを聖霊によって致しました。後から使徒になったパウロはペテロがしたように、聖霊によって宣べ伝え、教え、いやし、同じことを継承して、福音を信じ、福音に生き、福音を伝えました。イエス・キリストの福音、イエス・キリストからの福音を純粋に継承しようとしました。
 大いなる福音の流れを世界に向けて流していく、通りの良い「管」として使徒の役目を担ったのです。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」、しもべとして一貫していました。ある人たちはパウロがいなかったらキリスト教は確立していなかったろうと言います。宗教学的にはそう言えなくもないですが、信仰的にはパウロはあくまでも、イエス・キリストが源流で、その直弟子=使徒はパイプ役であり、パウロはそれに続くパイプ役でした。そのように貫かれていたのです。
 私たちも二千年継承されてきた福音の流れを詰まらせないように異物(違った教えなど)を取り除き、取り良き管として整えていきましょう。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と信じてまいりましょう。

◇貫かれているもの…超越
 マルティン・ルターはローマ人への手紙を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべきもの」と激賞しています。この書簡を通して、福音の再発見をし、宗教改革を進めたからです。二つの聖句を見てみましょう。
 「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」(1:17)。
 「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」(1:2-4)。
 旧約とのつながりが貫かれています。救い主はダビデの子孫から生まれるという約束が果たされて、「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」たと言います(イザヤ9:6-7,11:1-2)。また、パウロは福音をテーマに書くにあたり、旧約聖書をテキストにして、始めます。『義人は信仰によって生きる。』は預言書ハバクク書の言葉です(ハバクク2:4)。旧約も新約も一貫しているのです。終始一貫、神のみ旨が貫かれているのです。
 神のみ旨が歴史の中に貫かれているのです。そして、私という人生の歴史の中にも、神が臨んだ時を結ぶと、神のみ旨が貫かれているのです。

 福音は「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリスト」ご自身なのです。神の聖なる領域と罪ある私たちの俗なる領域の間には、コンクリートよりも、鋼鉄よりも、ダイヤモンドよりも固い壁があって、断絶しているのですが、御子はその壁を破って、俗なる領域に来られ、贖いを成し遂げ、また、その壁を打ち破って、昇天され、聖なる領域に行かれました。イエス・キリストの贖いの福音を信じて救われた者は、その敗れたところ、狭き門より、聖なる領域に行けるのです。義人は信仰によって(聖なる領域に)生きることができると「啓示」されたのです。
 「義」というのは「真っすぐ」という意味です。神との間が真っすぐということです。真っすぐな道が通っている、貫かれているのです。道というのは踏まれてできるのですが、イエスが罵倒され、ないがしろにされ、釘付けにされ、処刑され、のろわれて、私を含む人類の罪によって踏みつけにされ、神に通じる「道」となってくださいました。真っすぐなハイウェイで貫かれているのです。アバ父よと呼べば、一瞬で届くのです。み言葉をください、聖霊をくださいと求めれば、すぐに届けられるのです。信じますと言えば、主ご自身がすぐそばに来てくださるのです。傲慢とか、不信仰の大石が道を妨げていたら、悔い改めて求めれば、御子の血によって、きれいに取り除いていただけます。天の神に真っすぐに貫かれた生き方ができる。これこそが福音です。
 私たちはこの小さい者、罪人が、計り知れない大きな恵みの福音をいただいているのだと、謙虚に生き、地に足をつけ天を手につかむような福音に与
って大胆に生きてまいりましょう。福音を信じ、福音に生き、福音を伝えてまいりましょう。

大逆転劇

2016-01-24 16:39:22 | 礼拝説教
2016年1月24日 主日礼拝(マタイ9:9~13)岡田邦夫

 「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」ルカ福音書9:21

 かつて、親は我が子に「人様に笑われるような人間になるな」と言い聞かせました。ところが、芸人さんとなると違います。人様に笑われて、なんぼかの仕事、笑われなきゃ話にならないというものです。しかし、笑うというのは神がくださった人生の潤滑油です。困った時、苦しい時、笑えるユーモアがあれば幸いです。

◇最後尾
 今日はマタイという取税人の話です。当時はユダヤはローマ帝国の支配下にあり、税金をローマに納めなければなりませんでした。その取り立てをしていたのが同じユダヤ人でしたので、同胞には恨みをかい、売国奴と烙印を押されていました。社会の仕組みでは必要で、お金になる仕事でしたでしょうが、肩身が狭く、差別を受けるものでした。そこに、イエスという方が現れたのです。「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った」(9:9)。その眼差しはあざ笑うものではなく、透き通るようにきよく、暖かく包み込むものでした。いろいろ話したのでしょうが、聖書は「わたしについて来なさい」だけが、記されています。帝国に従うのではなく、金に従うのでもなく、神に、救い主に従いなさいと聞いたのでしょう。弟子になりました。
 その後もユダヤの社会では絶対考えられないようなことが行われました。「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた」のです(9:10)。罪人というのは犯罪者というのではなく、貧しいなどの理由で、厳格なユダヤ教の戒律を守れないところの人たちで、今日の目で見れば悪い人たちではなかったようです。その社会では汚れたものとして、さげすまれ、差別されていましたが、イエスは決して偏見の目でご覧にはなりませんでした。ユダヤ教では汚れたものに触れれば汚れるとして、そのような人と決して食事などしませんでした。
 しかし、イエスはいっしょに食事をしました。しかも、大勢集まってきて、食事をしました。食卓といっても、身分差のある食卓と身分差のない食卓があります。主は後者をなさり、一人一人を大切な人として接せられ、一緒に食卓に着き、同じものを食べ、話を盛り上げらことでしょう。団欒(だんらん)が大いにあったでしょう。楽しかったでしょう。身分など関係ないのですから、解放感や開放感があったでしょう。笑いがあったでしょう。祈りと賛美があったでしょう。幸せなひと時だったでしょう。
 すると、厳格に戒律を守り、人にもそれを求めるパリサイ人が突っ込みます。イエスの弟子たちに追求します。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」、汚れるじゃありませんか、いったいどういうつもりですかと。
 そこで、イエスはみごとに返します。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(9:12-13)。自分は魂が病んでいる、罪があると自覚し、神に助けを求め、赦しを求める人を救うためにイエス・キリストは来られたのです。その人のところに来たのです。そして、あなたの人生の食卓につかれるのです。一緒に食事をし、団欒し、悲しみも苦しみもユーモアをもって笑えるようにされるのです。

◇最先端
 昨年、話題になったラグビーのワールドカップ予選で、日本代表が優勝候補の南アフリカのチームと対戦したニュースです。南アフリカは優勝候補の最強のチーム、それに対して、日本はワールドカップで勝ったことがない。かなう相手ではないのに劇的に勝ってしまったのです。世紀の番狂わせと評され、ワールドカップ全6大会の内で、「最高の瞬間」に選ばれた試合でした。体力で劣る日本人が勝つために、世界一の過酷な練習、また、対策がありました。自信をもって望んでもいいはずでしたが、試合の前日、過去にない緊張感が高まり、不安に飲み込まれていました。すると、ミーティングの時にかつてはチームのキャプテンだったのに、今回は出場から外されていた選手が一本のビデオ・テープを流しました。応援メッセージでした。社会人チーム選手たち、スタッフたち、総勢700人を超える人たちの応援、そして、物まねや面白映像でした。「緊張していたから、ラグビーを忘れて、純粋に笑ったり、最高だなという時間を作れたら、すごい、リフレッシュできると思ったから」だと。実際、みんなが爆笑して「やってやるんだ」という熱い気持ちになったといいます。結果はのびのびと戦い、最後まであきらめず、ロスタイムで大逆転劇をなしたのです。

 マタイは周りから売国奴と後ろ指をさされて、辛く、むなしい人生をたどっていました。そこに主イエス・キリストが一人の人間として、一人の求道者として、面と向かわれて、彼を救われました。偏見から、差別から、そして自らの罪から解放されました。イエスとともに団欒する開放、リフレッシュが与えられました。こんどはローマの手先ではなく、主の12弟子(使徒)の一人にしていただきます。売国奴と言われていたものが神の国のしもべとなります。主イエス・キリストが昇天され、聖霊が降って後、彼は福音書を書きます。旧約聖書との懸け橋になる福音書で、新約聖書の筆頭に置かれます。ユダヤの社会では最後尾であつかわれたのですが、新約聖書では最先端に置かれたのです。ここに大逆転劇があるのです。
 ルカ福音書に逆転の教えがあります(6:20-21)。
 「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから』」。

永遠の腕が下に

2016-01-17 16:37:59 | 礼拝説教
2016年1月17日 主日礼拝(申命記33:26~29)岡田邦夫


 「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。」申命記33:27(口語訳)

 私はかねがね思っていることがあります。子供のころや若いころに持っていた自分の気持や感性を思い出し、その頃の私と今の私とが共感したいと思っているのです。変でしょうかね。最近、猫背になり、物忘れが多くなってきた配偶者(自分もそうなのだが)を見たり、幼い子を見たりしていると「愛(いと)おしい」という気持ちになるのです。若い時になかった感情、自分がこの先そんなに長くはないと自覚してきたからでしょうか。老いてきたから持てる感性かと私は思っているのです。
 モーセは80歳にしてイスラエルの民をエジプトから導き出し、荒野で40年の指導をし、今120歳、死を前にしています。神に示され、約束の地カナンでどうあるべきかを告げていながら、自分はそこに入れないことも示されています。最後の仕事は一二部族を祝福することです。それが申命記33章。ルベン、ユダ、レビ、ベニヤミン、ヨセフ(エフライムとマナセ)、ゼブルン、イッサカル、ガド、ダン、ナフタリ、アシェルを祝福します。はたして、モーセは民を愛おしいと思っていたのでしょうか。

◇天から御翼を
 最後に「エシュルン」と聖書には4回しかない言葉が出てきます(申命記32:15,33:5,26,イザヤ44:2)。イスラエルの詩的な名称です。正しい者という意味です。この祝福は詩なのです。淡々とした散文ではなく、思いが込められた詩文なのです。モーセは万感の思いを込めて、祝福したに違いありません。この詩文の最後は約束の地に向かう民の勝どきの歌です。この時、民はどれほど勇気と希望が与えられたことでしょうか。
 聖書を理解する上でこのようなたとえがあります。ある人が暗い林の中をさまよっていると、何か明るいものが見えてきた。その方向に行ってみると、池だった。その池に満月がきらきらと映っていたのだ。その人はずっと池の月を見ているだろうか。必ず上を見上げて本物の月を見るだろう。聖書は池の月、おぼろに神を知るでしょうが、そこから目を転じて、それを映し出している生けるキリストご自身に出会うものなのです。
 この祝福の詩文に神のみ思いが映し出されています。モーセの思いを超えて、神のみ思いが感じられるのです。名前の意味からしてそうです。押しのけるヤコブ、神と争うイスラエルを、正しい者エシュルンと呼んでくださるのです。
 「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。」と「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。」は対になっています。並ぶものなき神に見いだされ、助けられ、救われたイスラエル、それは他に類を見ない実に幸せ者であるというのです。あなたがもし山で遭難したとします。すると救助ヘリが空を飛び回り、救助に向かいます。そのように神が助けるのに決して片手間ではない。天を駆け巡って、救助されるのです。天を動かし、天を動員して助けてくださるのです。「神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる」。そのような神に並ぶものはないのです。その救助を得た私たちに並ぶものはないのです。「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける」。

◇地から御腕を
 その救いは一時の、一時しのぎの救いではなく、永遠の救いです。人でもなく、民族でもなく、国でもない、真の敵、空中の権をもつサタンとの戦いです。傲慢にさせたり、意気消沈させたり、惑わしたりするサタンとの戦いです。人は太刀打ちできませんが、死人の中から復活され、昇天され、勝利された方が味方なのです。十字架にかけられた御傷の跡のある御手こそ、「永遠の腕」なのです。
 若い時に聞いたメッセージでこのようなのがありました。今頃の若いクリスチャンはすぐ、落ち込んだと平気で言う。救われたクリスチャンが落ち込むなど恥ずかしくないのかと。そんなガンバリはいらないでしょう。どんなに落ち込んでも大丈夫です。「下には永遠の腕がある」のです(33:27口語訳)。そこは安住のすみかであり、恵みの泉、祝福の糧が絶えないというのです。
 天を駆け巡る神は下にセーフティーネットを張っておられるのです。イエス・キリストが下に救いの手を差し出されました。当時、三大悪とされ疎外されていた、取税人、遊女、罪びと(貧しくて戒律を守れない)たちのセーフティーネットとなられました。汚れたものとして社会から隔離されていたツァラアト(ハンセン病を含む思い皮膚病)を清められ、セーフティーネットとなられました。姦淫の現場で捕まえられた女性、12年も長血で苦しんでいた女性、悪霊に取りつかれ厄介者にされてていた男性、38年もの間病んでいた男性、視覚障碍者、聴覚障碍者、それぞれ、疎外された人たちですが、主はセーフティーネットとなられました。主が十字架にかけられたとき、隣の受刑者が「御国の権威をもっておいでになるときは私を思い出してください」と求めました。犯罪を犯し、処刑されていく、どん底まで落ち込んだ人生でしたが、イエス・キリストはその下に永遠の御手を差し入れてくださいました。「あなたは今日私といっしょにパラダイス・楽園にいる」と宣言されました。罪びとを救うため、主は黄泉にまでくだり、永遠の御腕となってくださったのです。
 気分が落ち込んでも、失敗して落ち込んでも大丈夫です。罪を犯し、神に見捨てられるのではないかと落ち込んでも大丈夫です。「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある」。何かわからないが絶望してしまっても、死の恐怖が襲ってきて、どうにもならないところまで落ち込んでも、下には永遠の腕があるのです。黄泉にまで下り、そこから、復活され、昇天され、神の右にあげられた方が、永遠の腕を差し出し、引き上げて、霊的には天の所にまで引き上げてくださるのです(エペソ2:6)。
 この詩文を私への神の言葉として、聞いてみましょう。

 エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。
 神はあなたを助けるため天に乗り、
 威光のうちに雲に乗られる。
 昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。
 あなたの前から敵を追い払い、
 『根絶やしにせよ。』と命じた。
 こうして、イスラエルは安らかに住まい、
 ヤコブの泉は、
 穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。
 天もまた、露をしたたらす。
 しあわせなイスラエルよ。
 だれがあなたのようであろう。
 主に救われた民。
 主はあなたを助ける盾、
 あなたの勝利の剣。
 あなたの敵はあなたにへつらい、
 あなたは彼らの背を踏みつける。」

命の道

2016-01-10 16:36:51 | 礼拝説教
2016年1月10日 主日礼拝(申命記30:11~20)岡田邦夫


 「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」申命記30:14

 早朝、東の空を見ると、うっとりするほど美しい朝焼けの時もあれば、どんよりとしてうす黒い雲で覆われている時もあり、神が毎日違う空を見せてくれます。一日一日が違うのです。昨日を悔やみ、明日を思い煩いやすいのですが、晴れの日も曇りの日も雨の日も、いつも太陽は東から昇ってきているように、神がおられるのですから、今日は今日として、生きることが大切だと思います。聖書の申命記はこう告げます。「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。」(30:15-16)。その「きょう」はモーセの語ったその日ですが、私たちの毎日のきょうです。祝福に向かうきょうです。

◇先の先までも
 イスラエルがカナンの地に入って、主の御声に聞き従うなら、祝福され、従わないならのろわれると告げられました(28~29章)。その後のイスラエルの歴史において、もし、ほんとうに従わないなら、祖国が失われ、根絶やしにされ、異国の地に捕囚されていくと警告されています。その後の歴史において、現実にそうなってしまいます。しかし、主なる神は先を見通して、立ち返る道を用意しておられます。
 「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたの繁栄を元通りにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める」(30:1-3)。イスラエル~ユダの歴史において、現実にそうなっていきました。
 主なる神は立ち返る道、回復する道、そして、それ以上の祝福の道まで(30:5)考え、準備されておられるのです。イエス・キリストは私たちの信仰がなくならないように祈っておられるのです。どんなになっても、どんな状態でも、「きょう」御前にあること、きょう御声に従うことです。立ち返ること、回復すること、栄えることを何よりも主が喜んでおられるのです(30:9)。

◇奥の奥までも
 繰り返されているのは「心を尽くし、精神を尽くして御声に従うなら」(30:1)とあるように、形式的な行為ではなく、心、精神が大事なのです。ですから、心さえあれば、「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない」のです(3011)。「私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである」(30:16)とあるように、愛があるなら、「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる」のです(30:14)。
 神との関係は人格関係、愛のつながりです。その愛は自由意志によるものです。エデンの園で園にあるどの実を食べても自由でした。しかし、園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならないと言われました。アダムは人格が与えられたので、それを食べる自由もあるけれど、食べない自由もある、その自由さの中で食べないことを選んでほしかったのです。しかし、サタンの誘惑に負け、食べてしまったというのが私たち人間です。
 ここで同じようなことが提示されます。主は私たちを尊重し、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」と問いかけます(30:19)。御声が魂の奥深くまで臨むためです。「あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ」(30:20a)。私がイエス・キリストを救い主と受け入れ、受洗してから、牧師に尋ねたことがあります。「先生、信仰ってなんですか?」すると師は、信じること、信頼すること、頼ること、すがること…と言葉を並べるだけでしたが、私はその時、「すがること」の言葉で納得しました。弱さを知った私たちは神にすがること、それを主は求めておられるのです。「すがれイエスにイエスの愛に、こころは平和と喜びに満ちん」(新聖歌175)。
好きなアイドルでさえ、「…いのち」と言います。まして、私を愛し、ご自身の命まで犠牲にし、罪を赦し、永遠の命をくださり、神の子にしてくださったイエス・キリストこそ、言えるのです。「主は命」。「確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む」(3020b)。
 み言葉を身近なものとしましょう。愛をもって御声に従いましょう。主は命、わが人生を託し、すがっていきましょう。

主の御声に聞き従うなら

2016-01-03 16:35:58 | 礼拝説教
2016年1月3日 年頭礼拝(申命記28:1~14)岡田邦夫

 「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」申命記28:2

 新しい年を迎え、どういう年になるか、人は占いたくなるものです。しかし、それは賢い頭で考えることで、どういう年にしたいか、その心持の方が重要ではないかと私は思います。
 豊中泉教会にいました時、駅前の商店街の人がやってきて、クリスマスで商店街を盛り上げたいので、アーケードの中でクリスマスの歌を歌ってほしいと頼んできました。その理由というのがお宅も原田神社の氏子なのでやってほしいというのです。お祭りの寄付もしていないし、こちらはキリスト教なのにです。こちらは願ってもない機会なので、すぐOKをし、さっそく、神社の入り口のアーケードでも堂々とキャロリングをさせてもらいました。代々長くその土地に住んでいるので氏子という発想が生まれてくるのでしょう。

◇旧契約
 しかし、申命記においては、イスラエルの民はヨルダン川の西側の土地はまだ、神から与えられていません。神が与えるとイスラエルに契約され、その与え主の条件がこの章に記されていることです。「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である」(29:1)。二度目の契約ということです。先祖アブラハムに土地を与え、民族を祝福すると神が契約されたので、5百年ほど時が流れても、契約、約束をはたされ、エジプトの奴隷の地から解放され、今やカナンの自由の地が与えられられようとしています。当然、条件があります。
 「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される」(28:1-2)。反対に「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる」(28:15)。御声に聞き従うか、聞き従わないか、二者択一です。結果は祝福か、のろいかです。読めばわかりますように、祝福はありとあらゆるものに及び、敵から守られると。反対に、のろいもありとあらゆるものに及び敵にやられ、しいたげられ、根絶やしにされ、ひどい時には、籠城し、食料がつき、子どもを煮て食べるようなことが起きるとまで述べられています。なんともひどいものです。祝福の文の4倍が呪いの文です。

 後にイスラエルの歴史を記す歴史家はこの申命記をものさしにして、記しています(それを申命記的歴史観という人がいます)。神に従い祝された王とか、主に従わないで偶像信仰をもちこみ、のろわれた王という風にです。そして、神に従わない頑なな民は上記のような、アッシリヤ帝国による北イスラエル国の滅亡、南ユダ国のバビロン帝国による敗北と捕囚という悲惨な結果となっていきました。上記のような赤子が犠牲になることもありました(哀歌2:20,4:10)。しかし、そのようなうなじのこわい民ですが、神は回復の約束をされ、バビロンの奴隷の地から、エルサレムの自由の地に事実帰えしていただき、祝福されます。

◇新契約
 そして、神は新しい契約を提示されました。イエス・キリストの血による贖いの契約です。どのように罪深くても、どの民族でも、だれでも信じるなら罪赦され、神の子にされ、天のみ国に入れるという契約です。神の声に聴き従うなら、祝され、従わないならのろわれるという条件は変わりませんが、約束されているのは神の国、永遠に神と共にいられるみ国だということです。さらに従えるようにと御子が遣わされ、御声が聞けるようにと聖霊が下っているということです。
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものです」とあります(マタイ5:3)。幸いは祝福の意味です。心がうえ乾いて求めるという条件です。「柔和なものは幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」と地上での祝福も約束されています(5:5)。
 一言添えておきましょう。逆は真ではないということです。災いにあったとか、病気になったとか、ことが失敗したとか、マイナスに見えることがあると、その原因は自分にある、罪に対する神ののろいだと、思っても、考えてもならないのです。そういう因果関係はないのです。イエスによれば神の御業の現れるためと、目的を告げられました(ヨハネ9:3)。
 聖霊によって、神に従う霊も与えられているのです。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(8:14ー17 )。
 奴隷的な従い方ではないのです。子としての従い方です。親子の愛の中での従い方です(※次ページ)。お父さんを喜ばせたいという従い方です。愛するお父さんだから、その御声は真実に愛に満ちたお声として聴けるのです。従えるのです。従えそうになければお願いすればいいのです。その契約は素晴らしいものです。天国の相続権がキリストの贖いの代価で与えられているのです。アバ父よと呼ぶ霊が与えられてるのですから、天の嗣業について、イエス・キリストとの共同相続人なのです。

 「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」はイエス・キリストの血の契約により目覚ましい更新がなされたのです。

※親孝行の話:主の愛に迫られて(青野雪江著)より
小学三年生の時の秋の運動会。目をタオルでぎゅうぎゅうとかたく縛り、、向こう側に綿を巻いたボールが置いてあってそれを拾ってくる目隠し競争があった。わたしは、大太古の合図で走った。勢いよくゴールインすると審判員の先生がわたしをぽんとはねのけた。受け持ちの先生が走ってきて、「青野さん、どうしたんですか!」と言った。わたしは「見て走ったと言うんです」。「うちの子はそんな子ではないです。一等にしてください」と言ってくれた。先生たちが集まって議論がはじまった。結果、もう一度やり直すことに決まった。
 受け持ちの先生から、ポンと背をたたかれ、「こんど負けたら見て走ったことになるからしっかり走りなさいよ!」と言われ、「はい!わかっています。頑張ります」と答えた。失格させた先生が目が痛くなるほど、ぎゅうっとタオルを締め付けた。「よし、こんどはもっと早く、目を開いて走るより早く走ってやろう。怪我をしても死ぬわけではないし…」。わたしは無我夢中で走った。運動会は町の人々の楽しみの場、弁当やお酒を持って集まっていた。
 大太鼓はドンドン、ドンドン鳴り響く、会衆の声がわあわあ聞こえる。「あっ!あの子はどこの子や、小さいくせにやる奴だ!偉いやっちゃ!」「めかくしせんだって、あんなに早い子はないぞ!」「ほんとに、早い子だ」。
 わたしがゴールインするとわっと歓声があがった。目からタオルをとると、みんな集まって胴上げをしてくれた。こうして、わたしは一等賞を二回取った。わたしは賞がほしくて走ったのではない。親を喜ばせるために真剣に走った。わたしは母に孝行してきたことについて悔いがない。

 私が愛媛の壬生川教会に遣わされていた時に、何度もその証しを聞かせていただきました。師は「魂の親である神様を知らんかった」と回心し、召されてからは天のお父さんを喜ばせたいと伝道され、いくつもの教会をたてあげました。

どれだけ信頼するのか

2016-01-01 16:33:35 | 礼拝説教
2016年1月1日 元旦礼拝(イザヤ書7:1~9、30:15)岡田邦夫


 主なる神は言われた、「あなたがたは穏やかにして信頼しているならば力を得る」イザヤ書30:15抜粋

 新年おめでとうございます。昔風に言いますなら、私、数えで73歳になりました。体力、知力、気力の衰えを感じる年ごろ、そんな中で、新年を迎えようとしている折、クリスマス前から年末にかけて、このみ言葉が繰り返し、私の中をさわやかな風のように吹いてきたのです。経験というのは素晴らしい財産です。しかし、足を引っ張るものでもあります。物忘れはする、あちらが痛い、こちらが動かない、若い時はこんなではなかったという風にやれてきたという経験が頼りにならないわけです。では、何により頼んでいくのか、その時、ささやかれたのが「あなたがたは穏やかにして信頼しているならば力を得る」のみ言葉でした。

◇真実
 1947年の春、二人のヨルダンのベドウィン(遊牧民)の羊飼いの少年が、迷った黒い山羊をさがして、死海のほとりのクムランの修道院の跡までやってきました。一木一草もない不気味の広がった荒れ地の断崖に、彼らは一つの洞窟がぽっかりと口を開けてるを見つけました。ひょっとするとあそこにに迷い込んでいるかもしれない、そう思った少年は、その洞窟まで這い上がり中に石を投げてみました。山羊はいませんでしたが、石はコチンという音を立ててはね返りました。そこには古いかなり大きな壺があったのでした。宝物でもはいっているかと、期待に胸を膨らませながらその壺のふたを開けてみた少年はがっかりしました。中には宝物ではなく、古ぼけた皮の巻物が入っていたのです。
 少年はその中の比較的きれいなものを骨董屋に売りつけました。後にエルサレム教会の大主教の手にわたり、この断片を見て、驚きました。世紀の大発見です。7メートルもある巻物は、実に紀元前100年に書き写された(写本)ヘブル語のイザヤ書でした。他に聖書の写本が続々と出てきました。これまで古いものでも10世紀でしたので、1000年もさかのぼるものでした。それまでの聖書写本と死海写本とがほとんど相違がないので、聖書が正確に書き写されてきたことを証明するものでした。
 正確な伝承へのこだわり、それは神の言葉への徹底したこだわりなのです。祖国が失われても、何が失われても、より頼むことのできるのは神の言葉、聖書だということなのです。特に預言者はそうでした。神の言葉を聞き、預かり、メッセージしました。その中でも特にイザヤ書はスケールも大きく、内容も深いものがあります。
 時は動乱期でした。中東における勢力拡大の激しい時代でした。アッシリヤ帝国が台頭してきて、パレスチナ(カナン)地方を通り抜け、エジプトに迫ろうという軍事的勢いです。迫りくるアッシリヤ軍に小国は戦々恐々としていました。そこで、エフライム(北イスラエル王国)とアラム(シリヤ王国)が、南ユダ王国に対して、同盟を結んで、一緒にアッシリヤと戦おうと話をもちっけたのですが、ユダの王アハズはそれを拒んだため、エフライム、アラム連合軍がユダを攻めてきたのです。それを聞いた王も民も大変動揺しました。
 「『エフライムにアラムがとどまった。』という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」(7:2)。
 風林火山では静かなること林のごとしですが、ここでは林の木々が風で揺らぐように動揺したのです。そこで預言者イザヤは神からのメッセージを告げます。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません」(7:4)。預言のように結果、ユダ国は守られます。
 次にエジプトという大国に頼ろうとする動きに対して、また、イザヤはみ言葉を告げます。それが30章15節、「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。』」。エジプトというこの世の勢力に頼るのではなく、天の勢力、神に信頼するのだというのです。
 私たちはことがあれば動揺します。遠藤周作さんが99パーセントの疑いと1パーセントの希望、それが信仰だと言っています。私たちの状況からすればそうでしょう。あらかた、疑ったり、動揺したりしていて、時に信仰に突き抜けたり、み言葉がひらめいたりします。ずーと通して、疑わないとか、動揺しないとかはないようです。しかし、時に信仰に突き抜けたり、み言葉がひらめくことが極めて、重要なのです。神はそれを認めておられると思います。大事なのはその神の語りかけを受け止めることです。
 主なる神は言われた、「あなたがたは穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ書30:15抜粋)。

◇信実
 信頼というのをもう少し考えてみましょう。赤星進という心理学の先生の話を聞いたことがあります。基本的信頼ということを話されました。赤ちゃんがお腹がすいたら泣きます。お母さんは抱っこして、おっぱいをあげます。眠い時、ぐずります。抱っこして寝かせます。そういことが人への信頼を養っていきます。もし、それに答えてくれないと信頼感が失われます。目を覚ました時、もし、そこに誰もいなかったら、見捨てられた感を覚え、時には不信感が芽生えてしまいます。これを基本的信頼といい、人はそんなに完璧ではないですから、60%あればいいと言っておられました。それ以下だと精神的な病になりやすいとも言っていました。要するに半分より少しあれば大丈夫なのでしょう。
 一方、渡辺和子さんは人との関係でこう言っておられます。人を信頼するのに、100%では裏切られたときに混乱する。だから、98%信頼しなさい、もし裏切られたときに許すために2%残しておきなさいと。それは人との向き合い方の心得です。人は完璧ではないから、この姿勢は相手に対する優しさですね。

 イエス・キリストはお祈りされる時に、「アバ父よ」と呼びました。父を呼ぶ幼児語です。父と子は一つであると言われてもいます。そこには100%の信頼があります。絶対的信頼があります。ところが私たち、罪びとを救うために、身代わりに罪を負い、神の怒りを受けなければなりません。父のみこころです。神の怒り、裁きを受けるということは、神に見捨てられることです。絶対的に信頼している父なる神から見捨てられる、信頼が裏切られるようなことです。それはとても飲めない苦い杯でした。その十字架を前にして、ゲッセマネで血の汗を流し、苦闘の祈りをされました。三度。つきぬけて、御心に従う決意が固まりました。事実、十字架上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。それにより、神と裏切り者の私たちとの間に、まことの信頼の関係が生まれたのです。信じる者に「アバ父よ」と呼ぶ霊が与えられたのです(ローマ8:15)。この与えられた命の霊が神への100%の信頼をもたらすのです。
 状況では1パーセントの信頼ですが、その1%を神は聖霊において100%の信頼と見ていてくださるのです。「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」のです。