2016年1月31日 主日礼拝(ローマ人への手紙1:1~7、16~17)岡田邦夫
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ローマ人への手紙1:16
人は誇りをもって生きることが大切です。大人だけではない、小さい子供にも誇りをもたせ、年老いても誇りを失わせてはならないと思います。パウロという人はたいへんな誇りをもって生きていた人です。血筋も良く、熱心なユダヤ教徒で律法学者、律法の義につては落ち度のない者、要するに、エリートで模範生だという誇りをもって、その生き方を貫いていました(ピリピ3:4-6)。ですから、キリスト教は邪教だと思い、その撲滅活動に邁進していたのでが、ダマスコに行く途上で、復活されたイエスが現れ、目が開かれ、回心して、イエス・キリストの福音を信じて救われます(使徒9:1-19)。これまでの誇りが打ち砕かれて、はるかに勝る誇るべきものをいただいたのです。
「私は福音を恥とは思いません。」は否定的な言い方をして、より強調する表現で、私は福音を大変、たいへん誇りに思っているということです。自分は逆見本だと言っているのです。「私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこのうえない寛容をしめしてくださったからです」(1テモテ1:15-17)。回心後はそういう生き方を貫いていきました。
◇貫かれているもの…謙虚
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」は今申しましたように、逆説で貫かれています。こんな神に敵対し、キリスト者を迫害していた者が十字架の贖いによって赦されて、救われたのだから、宗教界のユダヤ人でも知識界のギリシャ人でも、世界の誰でも救われるはずだという逆説です。それは分数のようなもの、分母が自分、分子は恵み、分母が小さければ小さいほど、値は大きくなります。自分を過大評価し、恵みを過小評価すれば、値は小数点。自分を正しく過小評価し、恵みを正しく過大評価すれば過分数になるのです。過分なる恵み、過分なる福音が証しできるのです。
パウロはこの福音は最もたいせつなことで、自分がはじめではなく、イエスの直弟子、使徒たちから「受けた」ものだと言います(1コリント15:3)。イエス・キリストが福音を宣べ伝え、神の国を教え、しるしとしてのいやしをなさったように、弟子たちも、宣べ伝え、教え、いやし、同じことを聖霊によって致しました。後から使徒になったパウロはペテロがしたように、聖霊によって宣べ伝え、教え、いやし、同じことを継承して、福音を信じ、福音に生き、福音を伝えました。イエス・キリストの福音、イエス・キリストからの福音を純粋に継承しようとしました。
大いなる福音の流れを世界に向けて流していく、通りの良い「管」として使徒の役目を担ったのです。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」、しもべとして一貫していました。ある人たちはパウロがいなかったらキリスト教は確立していなかったろうと言います。宗教学的にはそう言えなくもないですが、信仰的にはパウロはあくまでも、イエス・キリストが源流で、その直弟子=使徒はパイプ役であり、パウロはそれに続くパイプ役でした。そのように貫かれていたのです。
私たちも二千年継承されてきた福音の流れを詰まらせないように異物(違った教えなど)を取り除き、取り良き管として整えていきましょう。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と信じてまいりましょう。
◇貫かれているもの…超越
マルティン・ルターはローマ人への手紙を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべきもの」と激賞しています。この書簡を通して、福音の再発見をし、宗教改革を進めたからです。二つの聖句を見てみましょう。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」(1:17)。
「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」(1:2-4)。
旧約とのつながりが貫かれています。救い主はダビデの子孫から生まれるという約束が果たされて、「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」たと言います(イザヤ9:6-7,11:1-2)。また、パウロは福音をテーマに書くにあたり、旧約聖書をテキストにして、始めます。『義人は信仰によって生きる。』は預言書ハバクク書の言葉です(ハバクク2:4)。旧約も新約も一貫しているのです。終始一貫、神のみ旨が貫かれているのです。
神のみ旨が歴史の中に貫かれているのです。そして、私という人生の歴史の中にも、神が臨んだ時を結ぶと、神のみ旨が貫かれているのです。
福音は「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリスト」ご自身なのです。神の聖なる領域と罪ある私たちの俗なる領域の間には、コンクリートよりも、鋼鉄よりも、ダイヤモンドよりも固い壁があって、断絶しているのですが、御子はその壁を破って、俗なる領域に来られ、贖いを成し遂げ、また、その壁を打ち破って、昇天され、聖なる領域に行かれました。イエス・キリストの贖いの福音を信じて救われた者は、その敗れたところ、狭き門より、聖なる領域に行けるのです。義人は信仰によって(聖なる領域に)生きることができると「啓示」されたのです。
「義」というのは「真っすぐ」という意味です。神との間が真っすぐということです。真っすぐな道が通っている、貫かれているのです。道というのは踏まれてできるのですが、イエスが罵倒され、ないがしろにされ、釘付けにされ、処刑され、のろわれて、私を含む人類の罪によって踏みつけにされ、神に通じる「道」となってくださいました。真っすぐなハイウェイで貫かれているのです。アバ父よと呼べば、一瞬で届くのです。み言葉をください、聖霊をくださいと求めれば、すぐに届けられるのです。信じますと言えば、主ご自身がすぐそばに来てくださるのです。傲慢とか、不信仰の大石が道を妨げていたら、悔い改めて求めれば、御子の血によって、きれいに取り除いていただけます。天の神に真っすぐに貫かれた生き方ができる。これこそが福音です。
私たちはこの小さい者、罪人が、計り知れない大きな恵みの福音をいただいているのだと、謙虚に生き、地に足をつけ天を手につかむような福音に与
って大胆に生きてまいりましょう。福音を信じ、福音に生き、福音を伝えてまいりましょう。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ローマ人への手紙1:16
人は誇りをもって生きることが大切です。大人だけではない、小さい子供にも誇りをもたせ、年老いても誇りを失わせてはならないと思います。パウロという人はたいへんな誇りをもって生きていた人です。血筋も良く、熱心なユダヤ教徒で律法学者、律法の義につては落ち度のない者、要するに、エリートで模範生だという誇りをもって、その生き方を貫いていました(ピリピ3:4-6)。ですから、キリスト教は邪教だと思い、その撲滅活動に邁進していたのでが、ダマスコに行く途上で、復活されたイエスが現れ、目が開かれ、回心して、イエス・キリストの福音を信じて救われます(使徒9:1-19)。これまでの誇りが打ち砕かれて、はるかに勝る誇るべきものをいただいたのです。
「私は福音を恥とは思いません。」は否定的な言い方をして、より強調する表現で、私は福音を大変、たいへん誇りに思っているということです。自分は逆見本だと言っているのです。「私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこのうえない寛容をしめしてくださったからです」(1テモテ1:15-17)。回心後はそういう生き方を貫いていきました。
◇貫かれているもの…謙虚
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」は今申しましたように、逆説で貫かれています。こんな神に敵対し、キリスト者を迫害していた者が十字架の贖いによって赦されて、救われたのだから、宗教界のユダヤ人でも知識界のギリシャ人でも、世界の誰でも救われるはずだという逆説です。それは分数のようなもの、分母が自分、分子は恵み、分母が小さければ小さいほど、値は大きくなります。自分を過大評価し、恵みを過小評価すれば、値は小数点。自分を正しく過小評価し、恵みを正しく過大評価すれば過分数になるのです。過分なる恵み、過分なる福音が証しできるのです。
パウロはこの福音は最もたいせつなことで、自分がはじめではなく、イエスの直弟子、使徒たちから「受けた」ものだと言います(1コリント15:3)。イエス・キリストが福音を宣べ伝え、神の国を教え、しるしとしてのいやしをなさったように、弟子たちも、宣べ伝え、教え、いやし、同じことを聖霊によって致しました。後から使徒になったパウロはペテロがしたように、聖霊によって宣べ伝え、教え、いやし、同じことを継承して、福音を信じ、福音に生き、福音を伝えました。イエス・キリストの福音、イエス・キリストからの福音を純粋に継承しようとしました。
大いなる福音の流れを世界に向けて流していく、通りの良い「管」として使徒の役目を担ったのです。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」、しもべとして一貫していました。ある人たちはパウロがいなかったらキリスト教は確立していなかったろうと言います。宗教学的にはそう言えなくもないですが、信仰的にはパウロはあくまでも、イエス・キリストが源流で、その直弟子=使徒はパイプ役であり、パウロはそれに続くパイプ役でした。そのように貫かれていたのです。
私たちも二千年継承されてきた福音の流れを詰まらせないように異物(違った教えなど)を取り除き、取り良き管として整えていきましょう。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と信じてまいりましょう。
◇貫かれているもの…超越
マルティン・ルターはローマ人への手紙を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべきもの」と激賞しています。この書簡を通して、福音の再発見をし、宗教改革を進めたからです。二つの聖句を見てみましょう。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」(1:17)。
「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」(1:2-4)。
旧約とのつながりが貫かれています。救い主はダビデの子孫から生まれるという約束が果たされて、「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」たと言います(イザヤ9:6-7,11:1-2)。また、パウロは福音をテーマに書くにあたり、旧約聖書をテキストにして、始めます。『義人は信仰によって生きる。』は預言書ハバクク書の言葉です(ハバクク2:4)。旧約も新約も一貫しているのです。終始一貫、神のみ旨が貫かれているのです。
神のみ旨が歴史の中に貫かれているのです。そして、私という人生の歴史の中にも、神が臨んだ時を結ぶと、神のみ旨が貫かれているのです。
福音は「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリスト」ご自身なのです。神の聖なる領域と罪ある私たちの俗なる領域の間には、コンクリートよりも、鋼鉄よりも、ダイヤモンドよりも固い壁があって、断絶しているのですが、御子はその壁を破って、俗なる領域に来られ、贖いを成し遂げ、また、その壁を打ち破って、昇天され、聖なる領域に行かれました。イエス・キリストの贖いの福音を信じて救われた者は、その敗れたところ、狭き門より、聖なる領域に行けるのです。義人は信仰によって(聖なる領域に)生きることができると「啓示」されたのです。
「義」というのは「真っすぐ」という意味です。神との間が真っすぐということです。真っすぐな道が通っている、貫かれているのです。道というのは踏まれてできるのですが、イエスが罵倒され、ないがしろにされ、釘付けにされ、処刑され、のろわれて、私を含む人類の罪によって踏みつけにされ、神に通じる「道」となってくださいました。真っすぐなハイウェイで貫かれているのです。アバ父よと呼べば、一瞬で届くのです。み言葉をください、聖霊をくださいと求めれば、すぐに届けられるのです。信じますと言えば、主ご自身がすぐそばに来てくださるのです。傲慢とか、不信仰の大石が道を妨げていたら、悔い改めて求めれば、御子の血によって、きれいに取り除いていただけます。天の神に真っすぐに貫かれた生き方ができる。これこそが福音です。
私たちはこの小さい者、罪人が、計り知れない大きな恵みの福音をいただいているのだと、謙虚に生き、地に足をつけ天を手につかむような福音に与
って大胆に生きてまいりましょう。福音を信じ、福音に生き、福音を伝えてまいりましょう。