オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

イスラエルの最初の王様

2010-06-27 00:00:00 | 礼拝説教
2010年6月20日 ファミリー礼拝(1サムエル記8:1~11:15)岡田晴美

 「その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。」詩篇24:10

 今日はサムエルさんの続きです。
 この前は少年サムエルが寝ている時、神さまが3度も「サムエルよ、サムエルよ」とお呼びになって、やっと、神さまがお声をかけたことが判って、4度目に「しもべは聞いております。主よ、お語りください」とお答えしたお話しでした。やがて、少年は成長し、サムエル先生となって、イスラエルのリーダーとなりました。そして、いつも神さまのみことばに聞き従う預言者として、すばらしい働きをしていました。
 でも、だんだん年をとり、イスラエルの人々は不安になりました。サムエル先生はたしかに立派な預言者ですが、彼の息子たち(ヨエル、アビア)はわいろをとって、不正を行い、イスラエルのリーダーとしてふさわしくありませんでした。そこで、長老たちが全員集まって、サムエル先生のところにやってきました。「あなたは年をとり、あなたの息子たちは悪いことばかりしています。まわりの国々は強い国ばかりです。きっと国を治められる王さまがいるからです。私たちの国にも、他の国々のように王さまを立ててください。」とサムエル先生にたのみました。

 サムエル先生は「私は王さまを立てることは反対です。なぜなら、このイスラエルの国では天地万物を創造された神さまこそが王さまだからです。イスラエルの国が弱くて、まわりの国々に負けてしまうのは、王さまである神さまのいうことを聞かないからです。あなたたちはあなたたちの先祖がエジプトの王さまのもとで、奴隷になり、苦しんだことを聞いてきたはずです。王さまが立てられたら、どうなるか?判っているのですか?王さまは権力をもち、あなた方の息子たちが兵隊として集められ、軍隊が組織されるでしょう。また、王さまのために田畑を耕し、武器や戦車を作るために働かされるのですよ。女の人たちは召使いになって、王さまに仕えるのです。王さまは税金をとりたて、やがて、あなた方は王の奴隷となり、王さまを選んだことを後悔するでしょう。」
 でも、人々はサムエル先生のことばが耳に入らず、「王さまが必要です。他の国々のように王さまを立ててください!」と言い続けました。サムエル先生はこのような民の要求を神さまに申しあげました。すると、神さまは「今は彼らのいうとおりにしてあげなさい。彼らに王を立てなさい。」と言われました。
 サムエル先生は悲しい気持ちでした。それは人々の心が自己中心となり、神さまに従おうとせず、また、指導者にも従う気持ちがないことがわかったからです。民の心は決まっていて、神さまのみことばに対して、聞く耳がありませんでした。
 このような時代背景の中で、ベニヤミン族にキシュという勇敢な男の人がいました。その息子にサウルという人がいて、背が高く、とてもハンサムな若者でした。ある時、キシュのろばが数頭いなくなってしまいましたので、キシュは息子を呼び、若者をひとり連れて、ろばを探しに行ってくれと言いました。山をこえ、谷をこえ、あちらこちらを探しましたが、見つかりません。サウルは仕方なく、「もう帰ろう。あまり帰りが遅いと、お父さんが私たちのことを心配するといけないから。」すると、若者は「待ってください。この町には神の人がいます。そこへ行って、私たちがどこへ行ったらいいか、教えてもらいましょう。」そう言われて、サウルは若者と二人で、サムエル先生に会いに行きました。
 さて、一方、サムエル先生はサウルが来る前の日に、神さまからサウルのことを聞いていました。「あすの今頃、一人の人をベニヤミンの地から、あなたの所に遣わします。あなたは彼に油を注いで、イスラエルの王さまにしなさい。彼はわたしの民をあの強い外国・ペリシテ人の手から救ってくれるでしょう。」サムエル先生はサウルを見た瞬間、この人だと判りました。なぜなら、神さまがこの人だよと教えてくださったからです。サムエル先生はサウルがろばを探していたことを知っていて、「あなたが探していたろばはもう、見つかって、家に帰っています。」と教えてくれました。そして、お食事をし、お話しをしました。
 次の日の朝早く、サムエル先生はだれもいない所で、サウルの頭に油(香水)を注ぎました。これは神さまが特別にお選びになった人ですよというしるしの儀式でした。(ある特別な職務に神から任命されて、着任し、そのために必要な力が神から与えられるということを象徴する儀式)「神さまはあなたをイスラエルの王としてお選びになりました。」そう言って、サムエル先生はサウルを家に帰しました。サウルが神さまに選ばれたことはまだ、だれも知りませんでした。
 その後、サムエル先生はミツパという所に、イスラエルの人々を集め、「今から、神さまが王さまを選んでくださる。」と言い、分団ごとに主の前に出て、くじを引きました。くじはベニヤミン族のキシュの息子・サウルに当たりました。そこで人々はサウルを探しましたが、見つかりません。彼は何と荷物の間にかくれていたのです。人々は走っていって、そこから彼を連れてきました。サウルが人々の中に立つと、民の誰よりも肩から上だけ、背が高かったというのです。サムエル先生は皆の前で、「さあ、神さまがお選びになった王さまだ!」というと、人々は「王さま、ばんざい!王さま、ばんざい!」大合唱が続きました。こうして、イスラエルの初めての王さまが誕生したのです。

 さて、この王さまの誕生という、イスラエルの歴史の中で、重要な出来事は、油注ぎとくじという「二段構え」の神さまの方法でなされました。
 油注ぎ:それはサムエル先生とサウルと二人っきりで、「ひそかに」誰も知られずに行われました。
 くじ:それは「公衆の面前で」公平に選ばれて任命されました。周辺の国々の専制君主とは違って、力のある者がその力によって王となるということではなく、「神」が必要な職務に適切な人材を選ばれるという形がとられました。
 このことは信仰の構造を表しているように思います。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)とありますが、信仰は、“ひそかに”から、“公衆の面前”で、という二段構えといいますか、段階をふむのではないでしょうか。まず、見えない魂の領域でのイエスさまとわたしだけのやりとりがあります。「心で信じる」という霊の世界の出来事です。そして、口で告白します。公衆の面前で、信仰を言い表し、洗礼を受けます。また、何らかの心の決心を証詞します。神の語りかけをまず、聞き、応えていく、こうした、二段構えの積み重ねがわたしたちの信仰を成長させます。

 わたしは高校1年生の時、キャンプでイエスさまを信じました。集会の中
で、わたしだけに語りかけるひそかな主の語りかけを聞き、信じる決心をし、キャビンに帰って、グループの中で罪を悔い改め、お祈りをしました。その後、聖書を読んでいる時、「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ10:10口語訳)という聖書のことばに出会い、ああ、このみことばの通りに、わたしは心にイエスさまを迎え、その後、口で告白して、お祈りをして、救われたんだと受けとめました。
 24才の秋、失恋を契機に自分がこれからどう生きたらよいのか、悩んでいた時、神さまが聖会で語られました。「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24口語訳)。ひそかに、わたしだけに語られた神の招きのことばに応答し、伝道者、牧師として献身する決心をしました。一ヶ月後、両親にその決意を伝えた時、父は「お前にはそういう生き方しか出来ないんだろう。」と言って、わたしを東京聖書学院に送り出すことを許してくれました。
 その父は1995年、88才で洗礼を受け、その25日後に天に召されました。母は父が亡くなって、9年後に92才で洗礼を受けました。

 さて、神さまはサウルを王としての職務に着かせるために、まず、ひそかに召しなさいました。そして、民がそのことを認めるために、公平な手段として、くじを用いられました。ひそかに語られる神の召しに信仰によって応え、それを告白していくことで、わたくしたちは信仰の段階を登って行けるのではないかと思います。
 どうぞ、礼拝の中で、祈祷会や聖会やキャンプや日々のデボーションの中で、ひそかに、あなただけに語りかける主の声を聞き、信仰を公表することによって、前進して行くお互いでありますように。
 お祈りいたします。

イスラエルに王が与えられる

2010-06-20 00:00:00 | 礼拝説教
2010年6月20日 主日礼拝(1サムエル記8:1~11:15)岡田邦夫(みのお泉教会にて)

 「その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。」詩篇24:10

 2人以上集まれば、そこに社会ができ、共に生きようとすれば、政治が生まれます。お互い違う者ですから、対立が生じ、そこで、一致したりや妥協したりして治めていきます。小さな政治から、国家の政治まで、基本は同じだと思います。主に選ばれ、主を信じたイスラエルが、異教と偶像に囲まれた世界で、どう民を治めていくか、現実的に重要な課題でした。エジプトを脱出して独立したイスラエル人は主を信じる信仰で一致し、荒野の旅をし、カナンへの入国をはたしました。政治の形は12部族宗教連合で、モーセとヨシュア、その後の士師たちというカリスマ指導者=神の僕によって、また、信仰によって治められてきました。真に治めるかたは神ですので、聖書ではそれを「さばく」と表現しています。「サムエルは一生の間、イスラエルをさばいた」(7:15)。

◇人の意志が神の意志と一致していく
 ところが、それが続きません。サムエルが年老いて、息子たちをさばきつかさにしたのですが、彼らは「父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた」のです(8:3)。祭司エリの息子たちと同じ堕落の道を歩み、それはイスラエルを危機に陥らせることです。そこで、イスラエルの長老たちが集まって、サムエルに申し出ました。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」(8:5)。
 主の答は「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。…今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」(8:7、 9)。王政をとれば、徴兵と重税などがかせられ、民は王の奴隷になり、きっと後悔する日がくると警告します。それでも民は王が必要だと言って、サムエルの言うことを聞こうとしなかったのです。それをすべて、サムエルが主の耳に入れると、主の答えは「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」でした(8:22)。
 他国のように王政をとり、強い国にしたいというのは民の一致した意志、自由意志でした。そして、民がそう願ったからこそ、主が答えられたのです。「わたしの民の叫びがわたしに届き、わたしがその悩みを顧みるからである」(9:16口語訳)。しかし、荒野の時代、占領すべきカナンを目の前にして、主はすでに予測され、こう命じていました。
 「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、『回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。』と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない」(申命記17:14ー15)。すでに、神の意志が働いていて、人の意志がひとつになった時に、み業は確実になされ、そして、神の栄光が現されていくのです。

◇神の意志が人の意志となっていく
 いよいよ、王が選ばれていくのですが、その過程は実に面白いものがあります。ベニヤミン族のキシュの息子サウロがいなくなった父の雌ろばを若い者と二人で探しに出かけました。巡り歩いて見つからなかったので、帰ろうとしますが、その町に神の人(予見者)がいるというので、会いに行きました。一方、サムエルはその前日、ベニヤミンの地からひとりの人が尋ねてくるので、彼に油をそそぎ、イスラエルの君主としなさいと御告げがありました。そして、サムエルはサウルが来た時、雌ろばは見つかるので心配はいらない。今日いっしょに食事をすることになっていると言って、客として迎えます。そして、翌朝、屋上でサムエルはサウルに「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。」と言って油を注ぎました(10:1)。そして、サムエルはこれから起こることを予見し、ギルガルに行くように言います。サウルがサムエルのもとを去ると、予見されたしるしが、その日に起こり、神の霊が彼の上に激しく下り、預言者の一群の間で預言を始めたのです(10:10)。
 そして、サムエルはミズパで、民を集め、言います。「あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください。』と言った。今、あなたがたは、部族ごとに、分団ごとに、主の前に出なさい」(10:19)。そして、主の導きを求めて、くじをします。全部族のうち、ベニヤミン部族があたります。次にその氏族のうち、マテリがあたり、そして、キシュの子サウルにあたります。「サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。サムエルは民のすべてに言った。『見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。』民はみな、喜び叫んで、『王さま。ばんざい。』と言った。サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた」のです(10:24ー25)。
 くじというものは人の意志の働かないところです。確立からいえば、サムエルに油注がれたサウルに、くじがあたる確立は非常に低いわけです。神の意志が働いているとしか、言いようがありません。サウルがくじに当たるように神の手が働いていたのか、それとも、神は予めサウルがくじに当たることを知っていて、時間を逆行して、色々なしるしを行わせ、サムエルに出会わせ、雌やぎを迷わせたのかも知れません。民からすれば、神の導きと信じ、単にくじを引いて、王を選出したようですが、主は事前に用意周到に準備されていたのです。
 その後、アモン人が攻めてきた時に、民はたいへん恐れたのですが、サウルに神の霊が下り、イスラエルは33万人が結集し、一夜にして、アモン人を完全に打ち破りました。「それからサムエルは民に言った。『さあ、われわれはギルガルへ行って、そこで王権を創設する宣言をしよう。』 民はみなギルガルへ行き、ギルガルで、主の前に、サウルを王とした。彼らはそこで主の前に和解のいけにえをささげ、サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ。」と聖書に記されています(11:14-15)。

 ひとすじの光もプリズムにかければ、七色に別れて見えます。赤外線や紫外線もあります。ひとすじではなく、光のたばなのです。私たちはひとすじの導きと感じることにも、神のさまざまなことをたばねた導きなのです。もう一つ大切なことは、聖霊の導きということです。サウルが油注がれたあと、預言者の一団に出会った時に、神の霊が下ったということが重要です。くじの後、アモン人襲来の時、その神の霊がサウルに下って、戦いを勝利に導きました。聖霊というお方はダイレクトに神の意志を私たちに伝えるお方であり、私たち自身の霊を共感させ、私の意志にさせていくお方なのではないでしょうか。

一心に主に帰れ

2010-06-13 00:00:00 | 礼拝説教
2010年6月13日 主日礼拝(1サムエル記7:1~17)岡田邦夫


 「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」1サムエル7:3

 店に入り品物を捜していると、店員がそっとやってきて、英語の言い方なら‘May I help you.(メイ・アイ・ヘルプ・ユウ)’と言うでしょう。訳せば、手伝いましょうか、になり、「手」という字が入ります。医師が患者に対して、手を尽くすと言います。また、有能な外科医を神の手(ゴツド・ハンド)をもつ医師と言ったりもします。しかし、聖書では「神の手」というのはたいへん重要な言葉です。

◇人の手で神をかつぎだす
 ペリシテという強力な敵がイスラエルを攻めてきて、迎え撃ったのですが、打ち負かされ、約四千人の犠牲者を出してしまい、神の手助けは無いのかと思われる、敗北状況にあった時のことです。長老たちが提案します。「シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう」(4:3)。主の契約の箱がみこしのように担ぎ出され、イスラエル人の大歓声のもとで、戦いにのぞんだのですが、完全に敗北しました。それに追い打ちをかけるように、イスラエルに激しい疫病が襲い、歩兵三万人が倒れてしまいました。
 神の箱は敵に奪われ、祭司の息子、ホフニとピネハスも戦死し、その知らせを聞いた祭司エリもショックで倒れ、首の骨を折って死んでしまいます。身重であったピネハスの妻はそのショックの中で、子を産んだので、子を「栄光がない」と言う意味のイカ・ボテと名づけたのです。実に悲劇です。
 人の手で神の箱を担ぎ出したことは、すなわち、自分たちが戦いに勝つために「神」を手段として、勝手に担ぎ出したことなのです。被造物である人間の分際で、天地創造の神を手段や道具として利用したということなのです。何とも身勝手なことです。契約の箱はイスラエルの民の信仰にとって、最も重要なものですが、彼らは契約信仰を忘れ、契約の箱を偶像にしてしまったのです。ですから、敗北は当然で、神の栄光が去ってしまうという最悪の結果になったのです。私たちはどうだでしょうか。神を手段、道具として用いようとしていないでしょうか。そうだとしたら、きよめられなければなりません。きよめられて、「主を用いず主にわれの、用いらるる幸(さち)いかに、力よりも力ある、全能者ぞわれにある」と告白しましょう(新聖歌346)。

◇神の手が重くのしかかる
 この話には続きがあります。ペリシテ人は奪った主の箱を偶像のダゴン神の神殿に置いておいたところ、翌朝見ると、何とダゴン像がうつぶせに倒れていたのです。元に戻したのですが、その翌朝には頭と手と胴体がバラバラになっていたのです。この奇妙な出来事に彼らは恐れおののいてしまいます。聖書はこう記しています。「さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした」(5:6)。恐れて、主の箱をガテに移すと、「主の手はこの町に下り、非常な大恐慌を引き起こし、この町の人々を、上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた」(5:9)。エクロンにに移すと、「町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫び声は天にまで上った」(5:11-12)。
 ペリシテ人は占い師に、罪過のいけにえをそえて、主の箱を返し、「イスラエルの神に栄光を帰するなら、たぶん、あなたがたと、あなたがたの神々と、この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう。」と言われて、そのとおりに、主の箱をイスラエルに返します。途中のトラブルもありましたが、ついにイスラエルに返還され、キリアテ・エアリムに安置されました。
イスラエルと契約された「主」を、軽視し、無視し、侮辱し、冒涜する者への神の裁きは実に恐ろしいものがあります。神の(裁きの)手は、そこに非常に重くのしかかるのです。「神は侮られるような方ではありません」(ガラテヤ6:7)。しかし、今は罪過のいけにえとなられたイエス・キリストに神の手が非常に重くのしかかったので、主イエス・キリストを信じる者には、神の手は非常に軽くなるのです。

◇敵の手から救い出す
 20年の長い年月が過ぎたころ、「イスラエルの家はこぞって主を慕い求め」、「主を慕って嘆いた。」のです(7:2新共同訳、口語訳)。そこから、劇的な逆転の出来事が起こっていくのです。こぞって主を慕って嘆くという魂の渇きこそ、リバイバル(信仰復興)の要因です。そこで、サムエルが、この時こそと感じて、イスラエルの全家に宣言します。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます」(7:3)。民はそれに従い、かつて慕い求めていた偶像を取り除き、信仰に目覚め、主にのみ仕えたのです。
 更にサムエルは民をミズパに集めますと、彼らは水を汲んで主の前に注ぎ、断食をして、「私たちは主に対して罪を犯しました」と、心を注ぎ出して悔い改めました。勝手に神の箱を担ぎ出した手は真実な祈りの手に変わりました。主を慕い、主にすがりつく手を差し出したのです。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように」(7:8)。そこで、全焼のいけにえを主にささげ、サムエルはイスラエルのために主に叫びました。
 それで主はそれに答え、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したのです。そこにイスラエル人は突撃し、追撃し、圧勝しました。神のみ手がイスラエルを助けたことが明らかでした。「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言って、エベン・エゼルという名をつけた記念の石を置きました。こうして、ペリシテ人の手から奪われていた領土が解放され、平和となり、イスラエルの領内に、ペリシテ人が二度とはいって来れなかったのです。「サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。」と記録されています(7:15)。
 神にすがる者たちには神に手は下にあるのです。「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。敵をあなたの前から追い払って、『滅ぼせ』と言われた」(申命記33:27口語訳)。下には永遠の腕があるとは何と心強いことでしょうか。主イエス・キリストが力強くこう言われました。「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」(ルカ11:20)。私たちのために、十字架にかかり、復活され、サタンに勝利されたイエス・キリストが、天でとりなしてくださっている間、主の手があらゆる敵を防いでくださるのです。「主の手にある魂を揺り動かすものあらじ」(新聖歌247)。

しもべは聞きます

2010-06-06 00:00:00 | 礼拝説教
2010年6月6日 主日礼拝(1サムエル記3:1~21)岡田邦夫


 「主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、『はい。ここにおります。私をお呼びになったので。』と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。」1サムエル3:8

 ある天気のよい日に、夫婦が散歩していました。空を見上げて、妻が「見て見て、きれいな飛行機雲よ、珍しいわねー。」と言うと、夫が「飛行機雲というのはある条件が揃わないとできないんだよ。だから、珍しいんだよー。」と答えます。すぐに妻は「あらそっ。こっちの雲見て、ステキよ、ハート型してるでしょ」。夫は「飛行機雲ができる条件というのはなあー」。こうして、かみ合わない夫婦の会話は続きます。一般に男は理屈を言おうとし、女は気持ちを言おうとするから、ちぐはぐになるのでしょう。人の話を聞くというのは簡単のようで、簡単ではないようです。

◇嘆願から傾聴へ
 聞くという字は門構えに耳と書きます。神の国の門も「聞く」ことなしには入れないというのが聖書のメッセージです。
 ハンナという人がいました。夫、エルカナとの間には子供が授からないのですが、夫には愛されていました。もう一人の妻、ペニンナ(当時は一夫多妻の習慣)には子供がいるのですが、嫉妬からか、ハンナには子供がいないつらいところにふれて、思い悩ませていました。そこで、ハンナはいけにえを献げに神殿に行った時に、この深い悩みを主の前にすべて注ぎだし、男子を与えてほしいと願い、与えられれば、その子の一生を献げますと誓願をたてました。主は心を注ぎ出した祈りを聞いてくださり、ハンナに男子を授けました。神の国は「求めなさい。そうすれば与えられます。」というところです(マタイ7:7)。
 誓願の通り、乳離れしたその子、サムエルを「この子を主にお渡しします。」と言って、祭司エリに渡します。サムエルはエリのもとで主に仕え、主のみもとで成長していき、主にも人にも愛されていました(2:11、21、26)。一方、エリの息子、ホフニとピネハスは主への神聖なささげものを私物化し、食べてしまうなどの神への横暴ぶりはひどいものでした。神の人がエリのところに来て、その神へ大罪のため、エリ家は裁かれ、息子たちは一日で死ぬことになる、しかし、また忠実な祭司を起こすと告げました。このような信仰状況ですから、当然、主のことばはまれにしかなく、幻も示されませんでした(3:1)。

 それとは対照的に少年サムエルに、主が現れます。「神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮(神殿)で寝ていた。そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、『はい。ここにおります。』と言って、エリのところに走って行き、『はい。ここにおります。私をお呼びになったので。』と言った。エリは、『私は呼ばない。帰って、おやすみ。』と言った。それでサムエルは戻って、寝た」(3:2-5)。サムエルは主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかったので、何のことか分からないわけです。このようなことが三度繰り返されたので、主がサムエルを呼んでおられることをエリは悟り、アドバイスをします。
 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれたので、アドバイスされたように、サムエルは、「お話し下さい。僕(しもべ)は聞いております。」と申し上げました(3:10)。すると、「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう(災いを耳にして驚く)。」と前置きし、以前、神の人がエリに告げたことと同じ内容のことが告げられました。 このサムエルの「お話し下さい。僕(しもべ)は聞いております。」の聞く姿勢は、神の前にある私たちの最も重要な姿勢です。み前における「傾聴」です。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」と神の人が言ったとおりです(2:30)。相手の人格を尊び、重んじるからこそ、耳を傾け、心を傾けるのです。主はハンナの人格を尊び、重んじたからこそ、ハンナの思い悩み、嘆く祈りに耳を傾け、み心に留めてくださったのです。主はハンナのように私たちの祈りに傾聴されているのです。傾聴の主に対して、私たちも、主のみ名を尊び、主が語られようとしているみ言葉に傾聴しましょう。主のみ思いに心を傾けましょう。神と共に生きるとは相互が心を傾け合い、耳を傾け合うという愛の関係に生きることに違いないと思います。

◇傾聴から聴従へ
 「耳を傾ける、心を傾ける」というのは「耳を澄ます、心を澄ます」とも言えるでしょう。先日、郵便局に自転車で静かなたんぼ道を走って行きました。耳を澄ますと、野鳥の声が聞こえるのですが、もう一つ気付いたことがあります。さわやかな風なのですが、自転車で走るとそれが「ゴー」という音となって耳に聞こえるのです。私たちはしばしば、神はこう言われるだろうと決めてかかって、み前に出たりします。しかし、虚心になって、耳を澄まして、み声を聞くことに専念しましょう。二つの耳が鳴るように、神の厳しさや、さらに神の優しさが聞こえてきて、驚くことでしょう。
 散歩をして、耳を澄ませば、思わぬ、音や声が聞こえてくるように、祈りの散歩をし、心を澄ませば、思わぬ、真実のみ声、恵みのみ声が聞こえてくるでしょう。戸を閉じて祈り、耳を澄ませば、隠れたところにおいでになる父なる神の内緒の声が聞こえてくるでしょう。そのように神の子として聞くと共に、サムエルのように、「お話し下さい。僕(しもべ)は聞いております。」と神の僕(しもべ)としして聞くことが求められています。僕としてへりくだって聞くのです。そうすると、光栄ある神の僕として、用いられるのです。サムエルはそうして、聞いたメッセージを民に伝える預言者になっていきました(3:20)。私たちも神の言葉を預かり、伝える者です。イエス・キリストの福音に耳を澄ませて聞く時、自分自身が福音に生き、生かされ、その証詞が人に伝わっていくのです。確かに聞いたことは確かな結果となっていきます。確かなみ声は聖霊(御霊)によります。純粋に聞く耳も御霊が備えられます。「御霊の言える如(ごと)くせよ、心を固くするなかれ。御声をき聞かば今すぐに、御霊の言える如(ごと)くせよ」(新聖歌181)。