オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

美しきキリスト

2016-12-25 22:26:17 | 礼拝説教
2016年12月25日 クリスマス礼拝(ルカ福音書2:8-14)岡田邦夫

 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」ルカ福音書2:11-12

 お子さんが来られることを考えて、仕掛けを作って影絵をしました。元の影絵本はヤン・イエンコフスキーという人のクリスマス物語で、大変きれいなので、使わせていただきました。美しいものには心ひかれるものがあります。それでは聖書から「美」のお話しをいたしましょう。

◇時々を美しく
 聖書の最初のページを開きますと、神が天と地のありとあらゆるものを造られたことが書かれています。そして、最後に神はこう言われました。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」(創世記)。世界と人の出来栄えは非常に良かったのです。言い換ええば、非常に美しく造られたのです。人は外見で美人だとか、内面を見て性格美人だとか、そうでないとか評したりしますが、神からご覧になると、誰もが総合的に美人なのです。私のように髪が少なくなってきても美人らしい。たとえ私が認知症になってもきっと美しいらしい。誰もが「存在美人」なのだと言えましょう。
 次に知恵の書にはこうあります。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。…」と詩が綴られていき、このように締めくくられます。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道者の書)。誕生から臨終まで、新緑も紅葉も美しいようにその時々が美しい、順調の時も逆境の時も、時にかなって美しい、神のなさることだからです。時における美です。
 ところが、私たちは「時における美」が分からななってしまって、心配してしまうのです。イエスは人生を心配するなと言います(マタイ福音書から要約します)。空の鳥を見よ。天の父がそれを養っていている。それ以上にあなた方への心配りをして養ってくださっているではないか。野の花がどうして育つのか見よ。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいなかった。まして、あなた方の命(人生)を美しく装ってくださるのだから心配するな。天の父が時に応じて養い、時にかなって美しくしてくださるだから、神に任せて生き、神の国や永遠の神をまず第一に求めよ、それを優先させよと告げています。

◇永遠に美しく
 ところが人は自らを醜くしてしまっているのが現実ではないでしょうか。争いがあり、憎しみや妬みやいじめ等々、それらが本来の美しさを台無しにしてしまっているのです。神の目から見ると自己中心の罪で汚れてしまってるのです。
 例えば、テーブルに醤油をこぼしたとします。きれいな台布きんで汚れをふき取ります。台の汚れが布きんに移ったわけで、布きんの汚れは水で洗って水に移して流すというわけです。人の罪の汚れも同様です。全く罪の汚れのない方でなければ、決してぬぐうことはできません。ですから、全く罪のない神の御子が天から遣わされたのです。汚れの隅々にまで届かなければなりませんから、御子はマリヤを通して生まれ、人となられたのです。それが象徴するように、生まれたのは汚い家畜小屋の中、寝かされたのは飼い葉おけの上でした。ただし、全く罪のない、清らかな、美しいキリスト(救い主)として誕生されたのです。
 救い主は十字架において、私たちの汚れ、罪を一切をぬぐうように、その身に引き受けて、死んでくださいました。その汚れを死滅させたのです。その使命を果たし、復活し、天に帰られました。私たちは悔い改めて、それを信じるだけで罪の汚れがぬぐわれ、きよめられ、救われ、本来の美・魂の輝きを回復する道が開かれたのです。天国は神のお気に入りの永遠に美しいところ、神を素直に信じる人が行けるのです。そして、永遠に美しく栄光に輝くのです。それは聖書の約束です。
 御子イエスを心に迎え、今を美しく、やがて、御国で永遠に美しく、神と共に生きる存在でありましょう。

いと高き方の力が

2016-12-18 16:59:45 | 礼拝説教
2016年12月18日(日) アドベント第4主日礼拝(ルカ福音書1:26~38)岡田邦夫
 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。…神にとって不可能なことは一つもありません。」ルカ福音書1:35、37

 イエス・キリストの降誕は歴史上、特別なことなので、特別な方法で神から知らされました。夢あり、星あり、み使いありです。今日はマリヤにみ使いガブリエルによるみ告げの話ですが、まずは、このような天使の話から始めましょう。
 アメリカでは毎年クリスマスの日に必ずテレビ放送されるクリスマス映画の定番の一つが1946年制作の「素晴らしき哉(かな)、人生!」(It's a Wonderful Life)です。アメリカ人から最も愛されている映画ともいえましょう。自分の夢を追いながらも父親の急死にともない家業を継ぐこととなったジョージ・ベイリーが主人公です。彼は田舎の小さな町で低所得者のための住宅金融会社を継いで経営に尽力を注いでいきます。町一番の富豪である銀行家ポッターの圧力に負けず、真面目に働いて、家庭にも恵まれて、事業も好転しつつありました。その様な時に会社の大金が紛失する大事件が起こってしまいます。絶望した彼が橋から身を投げて自殺を図ろうとしたその時に、翼を得るために、翼のない二級天使が彼を助けます。見た目は普通の老人です。「自分は生まれてこなければ良かった」と言う彼のため、天使は特別に彼が生まれて来なかった場合の世の中を見せます(幻想)。それによって彼はこれまでいかに素晴らしい人生を送ってきたかを理解し、「メリー・クリスマス!」と歓び叫びながら走って帰ります。すると、奇蹟が起こります。彼の窮地を知った町じゅうの人々がカンパしに来てくれて助けられるのです。家族や町の人々の温かさに、改めて人生の幸福をかみしめた主人公でした。この映画で自殺しようとした彼に天使が言った言葉はこうでした。「君は実に素晴らしい人生を送った(You see, George, you really have had a "Wonderful Life.")。捨てるのは間違いだと思わんかい?」。…2012年12月2日「オアシスインサンダ」(光が我らを訪れ)にのせたもの…

◇天使「に」愛を
 このような天使というのは仮想のもので、それが迷信に陥ってはなりません。しかし、何でも合理的に考えればいいというものではありません。見えないものを想像するというのは人生や社会を豊かにするものです。天使も文化なのです。ある教授が水木しげる作「ゲゲゲの鬼太郎」の妖怪漫画は実に多くの妖怪がでてきて素晴らしい、日本の文化だと絶賛しています。見えないものを豊かに想像していく感性、芸術性が豊かな文化を生み出すのだと思います。
 英国の文豪ディケンズの小説「クリスマス・キャロル」には三人の幽霊が出てきて、過去、現在、未来の状況を見させ、守銭奴の男を改心させる物語です。幽霊とも天使ともいえる、見えない存在が人の心を変えていくわけですね。天使、それが架空のものであったとしても、それを入れた心の部屋が作られているのです。その心の部屋に本当に実在する見えない神をお入れすることができるのです。ですから、そこに偶像信仰、迷信などが入ってはならないのです。
聖書ははっきり命じています。「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません」=共同訳「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません」(コロサイ2:18)。
 しかし、また、聖書には神の使いとして、天使が旧約でも新約でもこの世界に登場しています。それは私たちに見えない世界を豊かに知らせてくれるものではないかと私は思うのです。

◇天使「が」愛を
 「御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった」(1:26-27)。ガブリエルは「神は力がある」という意味で、ダニエル書でダニエルに知恵を与える使者として登場した御使いです(ダニエル8:15,9:21)。終わりの日を告げるメッセンジャーでした。そのガブリエルが入ってきたのです。まず、マリヤにこう切り出します。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。…こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」。アヴェ・マリアは「おめでとう、マリア」のラテン語訳。もし、あなたの魂が飢え乾いていたり、意気消沈していたり、落ち込んでいるときに、このお言葉を私への語りかけとして聞けますなら、幸いです。
 とまどうマリヤに、受胎告知がなされます(司会者が読まれたので、要約します)。「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。…父ダビデの王位をお与えになります。…聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。…神にとって不可能なことは一つもありません」。マリヤは素直に受け止めます。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。これぞ、謙虚かつ大胆な信仰です。
 御使いガブリエルが神から遣わされて来たことから、始まりました。救い主イエスも神から遣わされて、聖霊によって人として誕生されたのです。世に遣わされて、贖いの使命をはたされて、復活され、帰って行かれました。復活の事実の伝令者としてみ使いが現れています(四福音書に記載、マタイ28:2他)。
 話を少し飛躍するのを許していただければ、お聞きいただきたいと思います。すべてのことは神から出たことです。マリヤもある意味で、御子を聖霊によってお宿し、お育てし、受難と復活の証人となるために遣わされた女性だったと思います。(※「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」ルカ2:35)。
 私たち信仰者も御子イエス・キリストを受け入れ、お宿しし、その証人として遣わされているのではないでしょうか。私、ある時、不安や疑問や恐れや不信やで…いろんなものがないまぜになっている心の状態の中で、朝目覚めました。すると心の中に「あの祈りの本を読め」と言われているような気がして(それが天使であったかどうかは定かではありませんが)、その日のところを開きました。その日の聖句、「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ」という共同訳のみ言葉が、私の魂に語りかけてきました(詩編37:3)。そして、それが神の私への派遣の言葉に聞こえてきて、遣わされているという意識を再度もちました。不思議と心が晴れていました。
 さらに思わされました。この主の教会に集う方々は天に国籍を持つ同国人。すべては同じ神から出て、同じ神によっているのではないか。人としてはそれぞれ良いも悪いもあるでしょうが、使命が与えられ、天から遣わされた兄弟姉妹なのだ。極端に言えば、みな「見える天使たち」なのだ。汚れた者に聖なる方が内住するなどとは不可能。しかし、マリヤに「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」と告げられたように、私たちにいと高き方の力がおおい、聖なる者、神の子、イエス・キリストが内住しておられるのです。その証人として、それぞれが天から遣わされているのです。その恵みにあずかっているのです。おめでとうマリア=アヴェ・マリアをあなたの名に入れ代えてみましょう。アヴェ・あなたの名。今年のクリスマス、まことに遣わされたイエス・キリストご自身があなたにそう言っておられるのではないでしょうか。

星に導かれて

2016-12-11 17:02:58 | 礼拝説教
2016年12月11日(日) アドベント第3主日礼拝(マタイ福音書2:11~12)岡田邦夫

 「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」マタイ福音書2:9~10

 先週、イエス・キリストの降誕というのは普通ではないこと、それが普通の私たちの生きる場に入ってきたという話でした。救いということでいえば、降誕は歴史上、一度限りの最も重要な出来事です。ですから、そのみ告げにしるしが伴います。み使い、夢、星など…。今日は東方の博士たちを導いた星の話です。

◇導かれて…
 エルサレムに事件が起きていました。東方からきた博士たちがヘロデ王に謁見し、こう尋ねたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」(2:2)。
 博士たちというのは占星術の学者(共同訳)で、偉大な指導者が誕生するとき、新しい星が現れると信じていた人たちです。イスラエルに世界のために救い主が王として生まれるという預言の書を読んでいたのでしょう。それで星に導かれてやってきたのです。ヘロデ王はローマ元老院からユダヤの王に任じられたエドム人ですから、そのような王が現れるとは自分の身が危ない。恐れ惑いました。エルサレムの住民も動揺しました。ヘロデ王は祭司長、学者にどこに生まれるものなのか、聞き出します。後で、居場所を突き止め、生まれた子を抹殺してしまおうという下心なのです。
 ミカ書(5:2)にこうありますとの答。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから』。ベツレヘムはパンの家という意味で、当時の人口500人ぐらいだったらしい、小さな町。どう、幼子を探し出すのか。東方で見た星がちゃんとナビをしてくれるのです。
 ヘロデ王はというと、気になる幼子の居場所を博士たちから得ようとしていたが、神が博士たちに夢で知らせ、真っすぐ帰ってしまったのです。それならと、ヘロデはベツレヘムと近辺の二歳以下の男の子を一人残らず、抹殺してしまいます。しかし、事前に神は夢で導き、ヨセフが幼子イエスとマリヤを連れられて、一時エジプトに避難して助かるのです。
 博士たちはというと、「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった」。星の運行と地上のことが一致するという、何とも不思議な、アメイジングなことでした。その星を見て、まだ、幼子イエスにお会いしてはいないのに、その恵みに感じて「彼らはこの上もなく喜んだ」のです。アメイジング・グレイスです。そこはきらびやかな宮殿でも神殿でもない、質素な家です。しかし、彼らは敬虔な思いになっていました。「その家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」のです。心からの喜びの礼拝をささげたのです。心満ち足りて、自分の国へ帰って行きました。
 博士たちは星というしるし、すなわち見える外的要因を通して、神に導かれて、幼子の救い主にお会いでき、礼拝を献げられたのです。皆さんも誰かに誘われて、教会に来たとか、何かで聖書をもらったとか、そういうことがきっかけで信仰に導かれたと思います。それぞれ、神に出会うまでの、そして、出会ってからの「導きストーリー」というものがあると思います。博士たちのは救い主「降誕」の証人としての導きストーリーでした。百人一首ではないですが、百人百様の導きストーリーがあるのです。あなたの導きストーリーは唯一かけがえのないものです。思いめぐらし、整理して書いてみてはどうですか。また、証詞する機会が与えられればと思います。

◇促されて…
 占星術の学者が不思議な星を見たとしても、それが救い主につながるという資料とがあったとしても、救い主に会いに行こうという魂への促しがなければ、また、その促しに従っていく思いがなければ、東の国からやっては来なかったでしょう。引っ張られるような、押し出されるような促しに従ったからこそ、ベツレヘムにたどり着けたし、救い主に会えたのです。ヘロデはどうでしたか。権力の座が奪われるのではないかという恐れに惑わされて、幼児虐殺に走ってしまいました。良心の声に従わなかったのです。ヘロデになるまじ。
 博士たちは星が救い主の居場所はここだと示した時、促しに従ったからこそ、「彼らはこの上もなく喜んだ」のです。内側からあふれる喜びがあったのです。もう、そこで神に出会っているのです。ですから、幼子の前に額を床につけてひれ伏したのです。神から最高のものをいただいたので、最高の宝物を喜んでお献げしたのです。恵みを受けることで満たされますが、献げることでも大いに魂は満たされるものです。内的促しは内的満たしへと導かれるのです。

 今日は私の導きストーリーをお聞きいただければと思います。小学6年の時に引っ越しをしたので、クラスメイトとは会うこともなく中学生活を送っていた。高校の入学試験の会場に、左の3つ目くらいの後ろに、何と小学校の同級生、A君がいた。合格して、授業が始まったら、偶然、彼も同じクラスだった。工業化学の学校なのに、彼は文学好きで、ロシア語とエスペラント語を独学で学ぶような人だった。もう一人、万葉集が好きだというB君、波長が合うのか二人は友達になっていた。B君と私、通学コースが一緒で親しくなり、全くの理系の私、自分にないものに惹かれ、影響され友達になる。それで、読んだことのない西洋文学をかじり、ロシア語にも触れてみた。
 また、3年のある日、通学途中、都電に乗ろうとしたら、目の前でチラシを配っていた。いつもならとらないのだが、その時はきれいな青のチケット風だったので、つい受け取ってしまった。教室につくとC君が「これ、いる奴いねーか?」とそのブルーのものを振り回していた。誰も取らない。結局B君がもらった。これを手にしたのは偶然、私とB君だけだった。キリスト教の音楽と講演のチラシだった。西洋のものを読むと、必ず聖書や教会が出てくるので、二人は興味本位でその大会に行った。それで、なぜか別々な教会を紹介されたので、それぞれが通ってみた。求めがあったB君は在学中に受洗したが、私はまだだった。
 就職試験で、私はS社を受け、内定した。B君は別の社を受けたが駄目だったので、二次募集の社を受け、内定した。相談したわけではなかったのに、偶然にも同じ社の研究室に入社したのである。仕事も余暇も楽しかったが、魂は空虚、将来は不安、求める気持ちが膨らんでいた時、彼から社内電話で教会の特別集会の誘いを受けた。行ってみたら、講師は牧師らしくない型破りな庶民的な話をするのである。私にはそれが良かった。こんな人でもクリスチャンでいいなら、私でもなれるという不思議な思いになったからでる。その時、強い促しを感じた。神を信じようと…。教会の青年に導かれて、神を信じてこなかった罪を告白し、身代わりに十字架にかかられたイエス・キリストを信じますとお祈りをした。「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、神の子となる力を与えたのである」のみ言葉が心に入った(ヨハネ1:12)。急に嬉しくなった。心の空洞に主イエスが来られ、私は神の子にされた。罪赦されて、最後の審判でもみ前に立てるのだと信じられた。すると魂に平安がきたのだ。
 一言でいえば、イエス・キリストと出会えたのです。偶然起こったように見えたことも、決して偶然ではなく、主のみ手がのばされて導かれたというのが後でわかりました。内側にも導きの霊が働いていました。促しです。自分の思いや意思で決めたようでも、神が促して、神を求めさせてくれたのです。外側の導きは摂理の導き、内側の導きは聖霊の導きといえましょう。三位の神が総力あげて、私を、あなたを導いておられるのです。ですから、何よりも安心です。博士たちとともに主に導かれたことを喜び、霊の良きものを献げ、礼拝の民として生きてまいりましょう。

◇さらに促され、導かれて…
 信仰者といえども、地上にある限り、不安になることも、疑うことも、虚しくなることもあります。だからこそ、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2口語訳、「創始者」新改訳)です。そうして、私たちが促され、最後に導かれるところは永遠のエルサレム、新天地です。黙示録7:17に約束されています。「御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」。


聖霊によりて

2016-12-04 16:42:07 | 礼拝説教
2016年12月4日(日) アドベント第2主日礼拝(マタイ福音書1:18~25)岡田邦夫

 「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」マタイ福音書1:21~22

 私が洗礼を受けた柴又教会に一人の年配の婦人が祈られている祈りが何とも心を打つもので、忘れられません。神への呼びかけが「主さま…」と普通使わない言葉なので、違和感を覚えていました。
 十戒には「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」があります(出エジプト20:7)。イスラエル人は「みだりに唱えてはならない」を文字通り重視しました。聖書のヘブル語文字はほぼ子音で記されていて、読むときは文章の流れから、母音を付けて読みます。「主」は英語的に書くと、YHWH。彼らはみだりに唱えないことを徹底させ、そのところを朗読する時はあえて「アドナイ」と読みかえていました。長年、そうしているうちに元の読み方がわからなくなってしまいました。今日“ヤハウェ”が元に近い読み方とされています。日本語ではわかりやすく「主」と翻訳しています。お名前ですから、敬虔に「主さま…」とお呼びするのは普通そういう言い方をしませんが、その方にとって、最高の言い方だったのだと思います。

◇普通の中に普通でないものが
 新約聖書の最初、アブラハムからの系図があって、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」と記されていきます(1:16)。ここまでなら、普通の人の誕生です。家系図からいうとヨセフの子で、血液からいうとマリヤの子、という普通の人としてイエスはお生まれになったのだと言えます。
 しかし、普通ではない誕生、唯一特別な誕生、すなわち「降誕」だったことが記されていきます。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」(1:18)。原因と結果で考えるなら、処女降誕は受け止めがたい事でしょう。夫婦の営みという原因があって子供が生まれるという結果になる。他の原因で子供は生まれるはずはないと。しかし、私たちの経験や常識を超えて、天からの「聖霊によって」乙女マリヤは身重になったのです。とても普通でないことが起きたのです。
 ここで、歴史の見方や人生の取り組み方を聖書から学んでみたいと思います。マタイ福音書は繰り返し、「…成就するためだった」と逐一述べています。まず、神の預言があって、それが現実に救いの出来事になっていくという歴史の展開です。預言と成就、言いかえれば、目的と達成です。生まれつきの盲人を見て弟子がイエスに尋ねます。この人の盲目は親のせいなのか、本人のせいなのか、この盲目という結果はどこに原因があるのかというわけです。イエスの答えはこうです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」(ヨハネ9:3)。因果応報ではなく、人はだれでも、神のわざが現わされるという目的をもって命を与えられたのだというのです。ある心理学者は言います(アドラー)。人は原因によって後ろから押されて生きるのではなく、(目的をもって)目標を設定しそれを追求するものである。
 罪を犯して神から離れている人類を、神がみもとに帰すという目的で、み使いを通して、ヨセフとマリヤに伝え、「聖霊による」という特別な方法で、救い主を誕生させました。ヨセフはみ告げを受けました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」。人類を救うという目的のため、わざわざ、特別、聖霊なる神が直接介入されたのです。これは人類史上、最大のニュースなのです。

 このすべての出来事は、主が預言者イザヤを通して言われた「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」のみ言葉が成就するためでした(イザヤ7:14)。神の大いなるご目的が果たされるためでした。それは機械的に予定をこなすというようなものではありません。強い思いがあってこそ、目的を持ち、実行されていったのだと想像するのです。先週、ケセン語訳聖書を紹介しましたが、私にとっては目からうろこでしたので、もう少し、言わせていただきます(山浦玄嗣医師による気仙沼の方言訳、ヨハネ福音書1:1~2、10)。
 「初めに在ったのァ 神様の思いだった。思いが神様の胸に在った。 その思いごそァ神様そのもの。初めの初めに神様の 胸の内に在ったもの。神様の 思いが凝(こご)って人どなり この人の世に在りやった。人の世ァ神様の 思いによってなったのに、この世ァそれェ認識(わが)んながった」。
 初めの初めに神の胸の内に在った「思い」が凝縮して、神の御子が人となって、世に来られたのです。そのみ思いにあふれた聖霊によって、御子イエスが誕生されたのです。歴史上かつてない降誕という、尋常でない御業をなさったのは、人類を、そして、あなたを救いたいという、神のあふれるばかりのみ思いの現れでした。私たちへのほんとうのクリスマス・プレゼントは神のみ思いのあふれた御子ご自身なのです。ですから、その神のみ思いを信仰の大手を広げていただきましょう。

◇普通でないものが普通の中に
 その信仰の手を広げるのも、聖霊によるのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」なのです(1コリント12:3)。聖霊によると、だれも「イエスは主です。」と告白することが出来るのです。聖霊は私たちの思いを導かれます。行いにおいても思いにおいても、自分がいかに神に背き、神にも人にも罪深いものであるかを思わせてくれます。そのすべての私の罪がイエス・キリストの十字架において贖われ、罪赦され、ためらうことなく、神の前に立てると信じさせていただき、魂の平安が与えられるのです。そして、心おきなく祈り、神と交わらせていただき、やがての裁きに日にも、み前に立てると確信させてくれます。
 この救いに導く言葉が1章23節にある神の言葉です。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)。救われた者のこれ以上はない祝福は、神が私たちと共におられるということです。やがての日、顔と顔を合わせてまみえるでしょう。しかし、聖霊が下った今は、主が私たちの人生の場、生活
の場に降りて来られ、何があっても、世の終わりまで、共にいてくださるのです。普通の生活の中にあなたを思う主がおいでくださるのです。
 神が共にいてくださることをどう実感しますか。ドイツのある方から送られてきた自作のデモテープにも歌われていましたし、映画やテレビドラマなどに使われています、ユー・レイズ・ミー・アップ(You Raise me up)をもう一度、紹介したいと思います。人気のある歌で「You=あなた」を「神」と思って歌うと賛美歌になります。普通の生活の中に、神共にいます・インマヌエルを感じ取っていきたいと思います。それが聖霊の感動につながればと思います。
  私が落ち込んで、弱り切っているときに
  困難にぶつかって、心が折れそうなときに
  私は静かにここで待っています
  あなたが来て、私のそばに座ってくれるのを
   あなたが私を立ち上がらせてくれるから、山の上にたつことができる
   あなたが私を立ち上がらせてくれるから、嵐の海を歩くこともできる
   あなたの肩に寄りかかっていれば、私は強くなれる
   あなたは、私ができる以上にもっと強く立ち上がらせてくれる
    When I am down and, oh my soul, so weary;
    When troubles come and my heart burdened be;
    Then, I am still and wait here in the silence,
    Until you come and sit awhile with me.
      You raise me up, so I can stand on mountains;
      You raise me up, to walk on stormy seas;
      I am strong, when I am on your shoulders;
      You raise me up: To more than I can be.
 十字架の贖いによって、また、聖霊の導きによって、み名をみだりに唱えてはならないというほど、聖にして尊いお方が私たちの普通の生活の中に、普通におられるのです。いつでも「主さま」と呼びましょうか。山坂ある人生でユー・レイズ・ミー・アップを歌いましょうか。日常の中にインマヌエルです。神に思われ、神を思う特別なことが普通の生活に溶け込んでいきますなら、これ以上の幸いはありません。