オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神の前に立ったイザヤ

2011-11-27 00:00:00 | 礼拝説教
2011年11月27日 主日礼拝(イザヤ6:1-13)岡田邦夫


「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(イザヤ6:3)

 新聞の「おくやみ」蘭にAさんの死亡のことが掲載されました。召されたのは22日でしたが、一日おいて通夜と告別式が行われました。告別式のあいさつで、ご主人に続いて、長女のBさんが今の思いを語られました。「お母さんが天国に行ってほしくはなかった。家族といっしょにいてほしかった。でも、お母さんは心の中にいるから、ガンバ
って生きていきます」。私たち、その言葉を聞くのは辛いことです。
 Aさんがすい臓ガンであることは牧師には知らされていたのですが、み言葉を示されましたので、教会の方々に祈っていただくことにしました。昨年10月20日祈祷依頼「大切な祈りの課題とお願いです。」をお渡しし、決して他言せず、本人にはプレッシャーをかけないように気遣い、各自で一日三度、病のいやしと魂の救いをそれぞれ、祈り始めました(ダニエル6:10、使徒12:5)。そうしてきた私たちは簡単に天国に行ったから大丈夫とは言えません。どうして、彼女がこの若さで神に召されてしまったのか、という思いも消せません。
 しかし、私たちは限られた命を一生懸命生きられた彼女の足跡を思い起こし、私たちの精神の中に刻み込むことが残された私たちのするべきことと存じます。

 Aさんが中学3年のBさんといっしょに教会の礼拝に来られたのは2008年4月13日でした。思春期の多感な時の高校受験というのは誰もが大きなストレスをかかえるものです。夜、教会の発光ダイオードの十字架が見えるので、この教会があることは知っていて、相談に行きたいと思っていたそうです。ご主人の後押しもあって来会され、それから、月2回ほど礼拝に続けて来られていました。進路の選択にはたいへんな不安がつきもの、お二人に教会員の教師と牧師夫婦でそれぞれの立場から、お話しして祈りました。そして、無事進学され、新しい学校にもなれ、安心したことでした。それからも、いっしょに礼拝に来られ、時にはBさんだけ来られるという時もありました。

 ところが、昨年8月、事態は変わりました。Aさんの方がすい臓ガンであることが判り、病院で抗ガン剤及び放射線治療をされることになりました。その様な状況でしたから、10月20日に上記のような祈祷依頼を教会の皆さんに致しました。しかし、治療の効果はなく、その後、免疫療法などに望みをかけられました。
 このことが判る前から、宣教的聖餐の時にはそれを受けらるようになっていました。イエス・キリストを信じる人は受けるようにとの招きに答え、パンとぶどう液をその手で取られました。やがて、受洗したい人との問いかけにも答えて、受け取られるようになりました。それが彼女の信仰だったと思います。昨年10月10日から、今年9月18日まで、来られる限り、毎週、礼拝に参与され、教会に来ることができる9月19日まで続きました。最初からですと、三年半で81回の聖日に来られたのです。それも、信仰の現れだったと思います。
 そうして、今年3月14日に牧師夫人と個人的に入門テキストを学び始め、その中で信仰告白をされました。続いて、個人的に聖書の学びをし、共に祈ってきました。「希望は失望に終わることがありません。」のみ言葉に信頼して、祈りました(ローマ5:4)。
 彼女は教会に来るのは楽しいとよく言っていました。教会のイベント、そうめん流し、バーベキュー、粉もんパーティなどを通して、その教会の交わりを楽しんでおられました。時には教会員とカラオケに行き、楽しまれ、教会のボーリング大会では病んでいる方とは思えない程、元気に楽しく過ごされました。特に、昨年のクリスマス礼拝の後の祝会がとても楽しかったと喜んでおられました。その時、み言葉のプレゼントで彼女に与えられたのが、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」でした(1コリント10:13)。

 何とか良くしてあげたいというご主人の切実な思いで、東京に行かれて、治療をされました。気がかりだったので牧師夫人は彼女の見舞いに東京に行き、ごく短い時間でしたがお祈りして帰ってきました。その後、彼女にメールしても返事がないので、牧師夫婦は心配でたまらなく、自宅を訪ねると、姑さんが市民病院に転院されたと話してくれたので、その場で祈りました。涙ぐんでおられました。すぐ、病院に行きますと、彼女はだいぶ衰弱しておられました。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」のみ言葉をもって祈りました(詩篇46:1)。親交のあった教会員にも知らせ、見舞いにいっていただきました。
 11月21日の夕に、牧師夫婦が病院に行った時には個室に移されており、東京まで見舞いに来てくださったのですねと言って、ご家族が私たちを喜んで病室に迎えてくれました。ベッドには数珠がおかれ、家族で最後の時を過ごされている状況でした。声が出ないのですが「ありがとう」と言ってくださいました。主が共におられることを祈りました。病室をでると「お母さん」と言って泣く声が背中に聞こえました。後から聞いたのですが、その直後、病状は悪くなり、最後は子どもたちの付き添っている時に穏やかに息を引き取られたとのことでした。もしかしたら、姉妹は牧師が来るのを待っていたのではなかったかと思わせる、神の時の計らいだったと思います。
 その様なわけで、22日に病院に行くと、帰られたというので、自宅にお伺いしました。ご家族と犬が召された彼女を囲んでいました。ご主人は私たちにたいへん好意的でお礼を言ってくださり、彼女の顔が笑っているように見えて、それがせめてもの救いだと打ち明けてくださいました。主の慰めをお祈りして、目を開けると枕元にお守りのようなものがあり、一枚のカードが頭を出していました。それが前述のクリスマスの時のみ言葉カードでした。きっと、生前、それを手に持ち祈っておられたのでしょう。地域や親族の関係もあって、受洗できなかったし、葬儀も仏式でしたが、魂は主の懐に召され、安らかにおられると私は信じています。
 私は20日はみのお泉教会に行く日で、コンサート礼拝という特別集会でした。安田美穂子姉が独唱されたのですが、彼女も夫をガンでなくされ、悲しみの中を通られ、その賛美が心に染み渡ってきました。その中で特に「球根の中には」の賛美はAさんのことを思いを馳せて聞きました(讃美歌21の575番)。
 「球根の中には」
1 球根の中には 花が秘められ、
  さなぎの中から いのちはばたく。
  寒い冬の中 春はめざめる。
  その日、その時をただ神が知る。
2 沈黙はやがて 歌に変えられ、
  深い闇の中 夜明け近づく。
  過ぎ去った時が 未来を拓く。
  その日、その時をただ神が知る。
3 いのちの終わりは いのちの始め。
  おそれは信仰に、死は復活に、
  ついに変えられる 永遠の朝。
  その日、その時をただ神が知る。

 今日の聖書はイザヤが聖なる神に出会ったところです。神を見たと記されています。聖臨在にふれたのです。罪に汚れた自分をとことん知らされますが、主によってきよめられます。私たちの人生の究極は聖にして愛なる神に出会うことです。人の臨終の時は神の臨在の時です。生きている時に重要なのは主イエス・キリストの臨在にふれて生きることです。
 そして、私たちは天に召される前に、イザヤの召命のように、宣教に召されてまいりましょう。「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』(イザヤ6:8)

傷ついている人の「包帯」

2011-11-20 00:00:00 | 礼拝説教
2011年11月20日 主日礼拝(ルカ福音書10:30-37みのお泉教会)岡田邦夫



 百才の詩人・柴田トヨさんの詩集「くじけないで」にこのような詩があります。
ことば
何気なく
言った ことばが
人を どれほど
傷つけていたか
後になって
気がつくことがある
そんな時
私はいそいで
その人の
こころのなかを訪ね
ごめんなさい
と 言いながら
消しゴムと
エンピツでことばを修正してゆく

 私もあの時、どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと何度も思い出して悔やむ時があります。私はトヨさんのように「その人のこころのなかを訪ね…修正して」いきたいと思わされました。
 私がまだ小さかった時、母に負ぶさって、橋の上を歩いていたのですが、石につまずいて、思い切りこけたのです。その拍子に母の紙の毛にさしていたピンで私の鼻が切れて、血が噴き出したので、物のない戦時中で、千切った新聞紙をそこにぺたっと貼って血を止めたとのことです。そのため、傷は治っても、傷跡が残り、きれい消えたのは50年ぐらい経ってからでした。まして、人は心が傷つくと簡単にはその痛みは消えないものです。
 私の母は長男のたかちゃんが4才の時に、伝染性の病気であっという間に亡くしました。1年は泣き明かし、経の本を読み、新約聖書も3回読んでいく内に、時が痛んだ心を少しずつ、いやしていきました。その後、4人子供が生まれて、そのことは過去のことになったはずでした。それから、60年も過ぎたある日、親戚の人が訪ねてきて、その会話の中で、たかちゃんの話におよぶと、母はしくしく泣くのです。あの時、注意していれば、死ぬことは無かったろうに、私が悪かった、子供が可哀想だと…。
 その後、私がクリスチャンになり、母を誘うと教会に行くようになり、65才で洗礼を受け、ある礼拝で、牧師が「幼子がわたしのところに来るのをとどめてはならない」というキリストのメッセージを聞いた時、その言葉が心に入り込み、不思議と心が晴れ、心の痛みは消えたのです。

 イエス・キリストが傷ついた人のたとえ話をされました。ルカ福音書です。
10:30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
10:31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
10:32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
10:34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
10:36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
10:37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

 レビ人や祭司という宗教家でも、自己保身が先立ち、傷ついたサマリ ヤ人には関わろうとしないで行ってしまいました。しかし、サマリヤ人はユダヤ人を軽蔑されていたのですが、傷ついたユダヤ人をほおってはおけず、助けました。それが隣人を愛すること、隣人になることだと、イエスが教えられたのです。このサマリヤ人は偏見にとらわれないで、「偏見なきこころ」で傷ついた旅人を助けたのです(堀肇「たましいのなぐさめ、こころの余裕」より)。「気の毒に思い」(かわいそうに思い)という相手に痛みに共感する心が大事だと思います。よくあることで、そんな危ない所をとおるから、こんな目に会うのだというような批判的、解釈的態度ではありませんでした。
 そして、「その傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてや」ったのです。それは音楽や美術や文学かも知れないし、カウンセラーの心理的ケアかも知れませんが、また普通の「温かく優しいこころ」がそうだと思います。見捨てず、見方になることでしょう。それが傷ついた人生の旅人をいやしていくのだと思います。
 さらに突き詰めて考えるなら、オリブ油とぶどう酒とほうたいは神からのものだと思います。たとえの底辺にあるものは私たちが傷ついた旅人であり、イエス・キリストというよきサマリヤ人がかわいそうに思い、その傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてくださるという物語なのです。オリブ油とぶどう酒とほうたいというのは、イエス・キリストの十字架の贖いです。「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(1ペテロ2:24)。罪ゆえに良心が傷ついている私たちの罪の身代わりに十字架において、神と人に打たれ、ののしられ、裁かれてくださったので、私たちの罪が赦され、良心の痛みも消えるのです。私たちの出来る事は悔い改め、信じて、介抱してくださるよきサマリヤ人のイエス・キリストにすべてを委ねることです。
 そして、イエス・キリストにしていただいたという信仰と感謝から、私たち自身が傷ついている人の「包帯」となって、隣人になっていくのです。

四つの種

2011-11-13 00:00:00 | 礼拝説教
2011年11月13日主日礼拝(マタイ福音書13:1-23)岡田邦夫


 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ福音書13:23)

 東京聖書学院の授業で、故山崎鷲夫先生がこういう話をされました。ずいぶん昔の話です。エスキモーの人たちのためにと宣教師が聖書を翻訳していたのですが、困ったことがありました。「見よ、罪を取り除く神の小羊」の訳です。何しろ、エスキモーの人たちは羊を見たことがないからです。知恵をしぼって、「見よ、罪を取り除く神の小あざらし」と訳したということです。見たこともないものは他のものにたとえる必要があります。天の御国(神の国)を私たちは見たことがありませんから、地の国、この世界のものでたとえなければわかりません。そこで、主イエスは「天の御国は~のようなものである」と言われて、誰にでもわかるようなたとえ話をされました。

 マタイ福音書はそのイエスのたとえ話をまとめて記しています。イエスが舟に腰をおろして話をされ、大ぜいの群衆は浜に立って聞いていたのでした。最初のものは種まきの話です(13:3-8)。私たちは畑を耕してから種を蒔くのですが、この辺りでは種を蒔いてから耕すというのが見慣れた風景でした。
 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」

◇預言の結実
 この話自体はよく身近にある話です。しかし、どんなメッセージなのかわからないので、弟子たちが主に尋ねました。すると主は「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」と答えられ、次のイザヤの預言の実現、成就だと言われました。「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである」(イザヤ6:9-10→マタイ13:13-14)。
 逆を言えば、天の御国のことを知っている方でなければ、世の国のことにたとえられないはずです。天の御国のことをすべて知っておられる全知の方が預言のとおり世に来られたのです。たとえを話せるのは救い主しかおられないのです。世の物語のたとえから、天の物語、すなわち「奥義」を知るのはどうしても「飛躍」しなければなりません。棒高跳びをする人はバーの高さまで行くには棒が必要です。しかし、バーを越えるには握っていた棒を離します。そして、体一つ空を舞い、バーを越えます。たとえは棒のようなものです。私たちを天の御国の境界線を越えさせ、そして、御国の自由に舞いさせてくれるというものです。
 ちなみに、男子棒高跳びの世界記録は6m14、ウクライナのセルゲイ・ブブカ選手が1994年にだして以来破られていません。それにしても高いです。地の話から天の話に飛び上がるには相当の「飛躍」があるわけです。心がかたくなであれば、それが足かせになって、たとえ話を聞いても天の御国のことは悟れないのです。

◇み言葉の結実
 種まきの話はそうしたことのたとえなのです。主イエスは、ですから、種蒔きのたとえを聞きなさいと言って説明されました(13:19ー23)。
 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
 主イエスのたとえ話は強いメッセージを持っています。み言葉に対して、どういう受け止めをするか、4つのタイプがあると単に解説しているのではありません。み言葉を聞いても悟らなければ、どんな理由があろうと実を結ばない人生になってしまう。だから、み言葉を聞いて、悔い改めて心を耕して生きなさいという心に迫るメッセージなのです。
 そして、たとえ話は「みことばを聞いてそれを悟る人…はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」という福音のメッセージなのです。み言葉を聞いて、悔い改めて心を耕しみこころを悟って生きるなら、何十倍、何百倍の実を結ぶ人生、さらに言うなら、永遠の結果の出る人生となるという祝福があるのです。
 みことばを聞いてそれを悟るために、天の御国を求めることが必要です。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)。そうすると、み言葉が開かれてくるのです。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(詩篇119:130)。そして、私たちを愛と恵みの支配する御国へと「飛躍」させてくださるのです。生けるみ言葉の種自身が永遠の命の実を結んでくれるのです。
 このたとえ話にはもう一つの見方があります。神のみ言葉は世界に蒔かれていき、み言葉を悟らない人たちもいるが、必ず悟る人たちがいて、天の御国は30倍、60倍、100倍と実を結び、大きな結果をもたらしていくというものです。種に不思議な力を持っているように、十字架と復活の福音のみ言葉には御国の不思議な力があるのです。人生に実を結ばせ、世界に実を結ばせていくのです。