オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

キリストの復活

2013-03-31 00:00:00 | 礼拝説教
2013年3月31日 復活祭礼拝(ヨハネ20:1-18)岡田邦夫

「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」ヨハネ20:18

 イースターおめでとうございます。
教会のシンボルとして掲げられているのは飼い葉おけではなく、十字架です。最も重要なのはキリストの死と復活とあわせた福音だと聖書に記されているからです。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと…」、「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(1コリント15:3ー4、15:14)。キリスト教の救いはキリストの復活があってこそ、実質のあるものなのです。

◇最初に見聞きしたのは…
 十字架にかかり、死んで葬られ、よみがえられたイエス・キリストを最初に見たのは女性でした。週の初めの日=日曜日の早朝、まだ暗いうちに、マグダラ出身のマリヤがイエスの墓を見にきました。すると、横穴式の墓を閉めてあった、その重い石が取りのけてあるのを発見。一大事、走って行って、ペテロとヨハネに伝えます。とてもステキな言い回しの「イエスが愛された、もうひとりの弟子」というのはヨハネに違いありません。墓に駆けつけると、彼女の言ったとおりであり、墓に入ってみるとイエスの遺体をまいていた亜麻布が置かれているだけでした。この弟子たちは戸惑うばかり、帰るしかないので、自分のところに帰って行きました。
 この時の心の状況をヨハネはありのまま書いています。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」(20:9)。
 弟子たちは帰ってしまったが、マリヤのほうはただ呆然(ぼうぜん)と墓のところにたたずんで泣いていました。そして、勇気を出して、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込みました。すると、ふたりの人がイエスの遺体のあった頭のところと足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えました。それは御使いだったと記されています。なぜ、御使いが登場するのでしょう。イエスは完全に死なれたのです。墓に葬られ、生き返ることの出来ない状態になられたのです。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」とあるように、主は父なる神によって「よみがえらされた」のです(使徒2:24)。この創世以来、最も大いなる復活の出来事の中に御使いがおり、石を転がすこともしたのでしょう。御使いが「なぜ泣いているのですか。」と声をかけても、彼女には何が起こったかわかりません。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」とうろたえるばかりです。
 そして、彼女がうしろを振り向くと、園の管理人らしき人がいて、また、同じようなやり取りをします。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります」。イエス・キリストの復活の第一発見者なのですが、マグダラのマリヤにはわからないのです。単に蘇生(そせい)したのであれば、目で見て、すぐわかったでしょう。しかし、栄光のからだによみがえられた主イエスを、この肉眼の目で見てわかるものではないのです。
 声を聞いて、わかったのです。生前聞いたお声です。「イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った」。イエスはこう言われます。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい」。わたしにすがりついていてはいけませんはある訳は「私を止めるな」。意訳ですが文章が続きます(バルバロ訳)。そして、「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた」のです(20:17-18)。
 このように、イエス・キリストの復活の第一発見者であり、その証人は十字架上で苦しまれるイエスのそばにいた婦人だったのです(ヨハネ19:25)。イエスの母マリヤには「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言って、ヨハネに引き取ってもらうよう、気遣いをされました。墓においてはマグダラのマリヤに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と気遣いの言葉をかけられたのです(新共同訳)。主は弱い女性と共におられるのです。主は泣く者と共におられるのです。

◇最初に出会ったのは…
 「人生は出会いで決まる」と言ったユダヤ系の宗教哲学者がいます(マルチン・ブーバー)。確かに私たちの人生は出会いによって織り成されています。 産声を上げた時の親との出会い、親族との出会い、友人との出会い、先生との出会い、伴侶との出会い等々…、そういう出会いで人生は決まっていきます。しかし、もっと重要な出会いがあります。神との出会いです。それで永遠が決まるのです。更に言うと、復活の主との出会いで、永遠の救いが決まるのです。
 イエスは復活の現象を見せようとしたのではありません。復活のイエスに出会ってほしかったのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか」とお声をかけました。あるキリスト者が「人間は悲しい存在である」と言いました(新渡戸稲造)。私たちはあのこと、このことで泣きたいほど悩んでいます。あの人も死んでいき、自分も死んでいかなければならない悲しい存在。しかし、主イエスは「人よ、なぜ泣いているのか」とお声をかけてくださるのです。マリヤには御使いが声をかけ、イエスも声をかけられました。悲しい問題、悲しい心、悲しい存在を全面的に受けとめてくださるのです。「人よ、なぜ泣いているのか」というお声を今日も聞きましょう。
 そして、「マリヤ」と名を呼んでくださるのです。マリヤは「ラボニ」と言って答えます。そのように、呼び合う関係に導かれるのです。そこに人格と人格との出会いがあるのです。そこで悲しみが喜びに変わるのが復活のイエス・キリストとの出会いなのです。嬉しくなってマリヤは「私は主にお目にかかりました」=私は復活の主に出会いましたと弟子たちに告げました。
 弟子たちについてこのようなことがこの福音書に挿入されています。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」(20:9)。復活がたまたま起こった現象ではなく、預言されていたこと、聖書に約束されていたこと、神の言葉と結びついていることが重要なのです。マリヤだけの個人的な出会いだけではなく、すべて信じる者の共有の出会いでなければならないからです。神の言葉と結びついてこそ、真の理解の出来た出会いになるのです。聖霊によって復活を理解できた弟子たちはこう語りました。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』…それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」(使徒2:24-31、詩篇16篇)。
 復活の主との出会いは、イエスに理解されることで始まり、キリストを理解するという、理解しあうものになることであり、その理解のためには言葉が重要なのです。そして、復活のイエス・キリストを信じる者は死んでもよみがえるのです。主と同じように栄光のからだに復活するのです。私たちもこの喜びの出会いを告げましょう。「私は主にお目にかかりました」。

命の水

2013-03-24 00:00:00 | 礼拝説教
2013年3月24日 伝道礼拝(ヨハネ4:1ー42)岡田邦夫


 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」ヨハネ4:13ー14

 私たちは蛇口をひねれば、いつでも使えるきれいな水道水を使っています。しかし、世界では川や池の汚れた水を飲み水にしていて、安全な水を利用できない人はおよそ8億人。そのため、病気になる人が多く、平均寿命は低く、幼児の死亡率は高くなっているのが現状です。2007年、バングラデシュにサイクロンが襲いました。その中で最も被害のひどかった村に、水の浄化剤を届けてほしいと、日本のある中小企業の会社に要請がありました。その浄化剤というのは納豆菌から開発した粉末で、少量でも水をきれいにしてしまうというもの。100キロ分を届け、装置を作り、きれいになった水を提供すると、村人は大喜び。ところがしばらくすると蛇口が盗まれてしまうなどして、それが使われなくなっていました。一時の援助では長続きしない、継続するためにはビジネスにしようと考えました。管理や営業などを現地の人がして、水を売るようにすると軌道に乗りました。感染症も幼児の死亡率もぐんと減り、しかも、働く意欲がでてきて、生きる喜びを感じるようになったのです。村人はお陰で救われたと言っておりました。県知事から、これを県全体に広めてほしいと要請されているとのことです。飲み水というものは生きる上で最も大切なものであることをあらためて知らされました。

◇「どうしても」引き受ける
 聖書には水にまつわる話はたくさん出てきます。その内の一つのエピソードを見てみましょう。歴史の経緯からユダヤ人とサマリヤ人とはきわめて仲が悪く、特にユダヤ人はサマリヤ人を極度に軽蔑していた。ユダヤ人はサマリヤの町を通ることさえ避けていた。それにもかかわらず、イエスはサマリヤの町を通って行こうとしていた。灼熱の太陽が照りつける昼の12時頃、イエスはスカルにある井戸のかたわらに腰をおろし休んでいた。渇いた喉をうるおしたいが汲むものがない。するとそこにサマリヤ人女性が水を汲みに来たので、「わたしに水を飲ませてください。」と頼む。なぜ、ユダヤ人がサマリヤ人に水を求めたりするのかと問うことから会話は進み、イエスは女性にこう言った。それはメッセージであった(ヨハネ4:13-14)。
 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。
 そう言われても、彼女はまだその意味がわからない。イエスはこの言葉とは関係ないようなことを言い出す。「行って、あなたの夫を呼んできなさい」。自分には夫はいないと女性がけげんそうに答えると、イエスはこの人を救いに導く言葉を言われる。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです」。夫が五人あったが今のは夫ではないというのは死別だったのか、離婚だったのか、読者にはわからないが、普通は朝夕の涼しいときに水くみにくるもの、世間の目を避けて日中に来たわけだから、たいへん辛い立場にたたされていたに違いない。イエスはこれは問題だ、お前はだめだと言って責めたててはいない。不思議と「あなたが言ったことはほんとうです。」と言たれた言葉にこの人は救われたのである。その時、先に言われたメッセージが解ってきた。「先生。あなたは預言者だと思います。」と言い、さらに、救い主=メシヤ(キリスト)に違いないと信じたのである。
 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。
 女性は魂が潤され、満たされて、嬉しくなって、持ってきた水がめを置いたまま、町に戻って行き、証しをしたため、サマリヤ人の多くの人がイエス・キリストを信じるようになったと聖書に記されています(ヨハネ4:1-42)。

◇「どうして」を引き出す
 イエス・キリストがサマリヤの女性に会われたとき、彼女に考えさせて、メッセージを告げました。夫が五人あったが、今いっしょにいるのは夫ではないという状況こそ、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」という状況でした。心情的に渇いていたのでしょうが、魂が渇いていることに気付いていなかったのです。これは特に現代の私たちに言えることです。人間は考える葦であると言ったパスカルはおおむね、このようなことを言っています。
 私たちには気ばらしという良いものがある。苦しい時、辛い時、虚しい時、身近な気ばらしがり、仕事でも何でも打ち込むことで気ばらしになる。しかし、気ばらしにはどうして人は苦しみがあるのか、どうして死ななければならないのか、というような人間の悲惨な状況を考えさせないようにしてしまう不幸がある。それはどうしてもうめることのできな虚しさという空洞であり、深淵(しんえん)である。それは神によってしかうめられないのである。この悲惨な人間を救うのはイエス・キリストの神である。
 この女性は「あなたはユダヤ人なのに、どおしてサマリヤの女の私に、水をお求めになるのですか。」と問いました。しきたりみたいのものを破るのは「どうして」なのかという素朴な問いでしたが、イエスはこの人に「どうして」の深みへと導いていきます。一方では、「どうして」夫が五人もかわり、今のも夫ではないのか、わからない、考えれば考えるほど虚しいということに気付かされます。もう一方では、「どうして」ユダヤ人とサマリヤ人の対立や違いがあるのか、どうして、神の取り扱いが違うのか、神への問いです。これも考えれば考えるほど解らなくなり虚しくなります。
 この「どうして」にイエス・キリストは答えられました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」の言葉がそれをよく表しています。人間の悲惨な状況を言ってくれる、知っておられるイエスに出会ったことで魂が満たされたのです。御子が人となり、悲惨な状況を訪ねられたからこそなのです。イエスが親しくしていたラザロが死んで墓に葬られ、そこを訪れたとき、イエスは憤られました。その憤りとは「人はどうしてこのように死ななければならないのか」というものだったでしょう。そこで、ラザロを生き返らせます。
 神が神であることを示すときにはずばりと示します。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」と。「わたしの言うことを信じなさい。」と神を知ることから、信じることへ導きます。女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」こうして、キリストとの出会いによって、うめることのできな虚しさという空洞、深淵(しんえん)が満たされていったのです。
 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」とのみことばのようになったのです。女性は嬉しくなって、持ってきた水がめを置いたまま、町に戻って行き、証しをしたため、サマリヤ人の多くの人がイエス・キリストを信じるようになったのです。

◇「どうして」を引き受ける
 初めに汚れた水に浄化剤をいれて簡単に飲み水にした話をしました。しかし、イエス・キリストが命の水を造り出すためにはそう簡単ではありませんでした。人間の汚れを引き受けなければならなかたのです。人間の汚れの根本は罪です。罪によって引き起こされる現象が虚無です。神を信じないところの虚しさです。イエス・キリストはそれをすべて引き受けて十字架にかかられたのです。罪のない方が罪人のひとりに数えられたと聖書に記されています。ラザロの墓の前で、どうして人は死ななければならないのかと憤られた方が、その「どうして」を引き受けて、十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたのです(マタイ27:46)。
 そして、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」という人間の虚無の渇きを全部引き受けて、十字架の上で「わたしは渇く」と言われたのです。そして、息を引き取られたあと、兵士が脇腹を槍で突き刺さしたところ、「血と水が出て来た」のです。そして、死んで葬られ、復活されました。この血と水こそ、「命の水」なのです。罪を赦し、きよめる命の水です。気を紛らわすものではなく、気を満たすいのちの水です。底知れぬ虚無の空洞を満たす神の水なのです。死に至る魂をよみがえらす命の水です。「イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネ7:37-38)。

神のことばを語り出す

2013-03-17 00:00:00 | 礼拝説教
2013年3月17日 主日礼拝(2テモテ4:1-8)岡田邦夫


 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」
2テモテ4:2

 楽譜というのは便利なものです。それがあれば、世界の誰もが演奏したり、歌ったりできます。楽譜は古代からあったようですが、教会ではグレゴリオ聖歌を歌うのに、記号を使っての色々な工夫をしてネウマ譜というのを作りました。11 世紀にはダレッツオという人が四線譜とドレミの音階を考案し、それがやがて、17世紀には五線譜になって、今日に至っています。これは教会が賛美するために生まれたものだといってよいでしょう。クリスマスで歌われる独特のメロディの「久しく待ちにし」は、曲が15世紀、歌詞が9世紀のものですが、21世紀の今も、この日本においても生きいきと歌われているのですから、不思議です(新聖歌68)。

◇聖書が神のことばを語り出す
 聖書というのもまた、不思議な書です。美術品ですと、その作品のある場所に行かなければなりませんが、音楽の場合は楽譜があれば、いつでもどこでも誰もが演奏したり、歌ったり出来ます。聖書も過去の遺物でも、単なる古典でもなく、今、手にある聖書という言葉を読む時に、生きた言葉となってよみがえり、魂に響いてきます。
 それは聖書が霊感を受けて書かれたからです。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(3:15-17)。ひと言で言うと霊感を受けて書かれた正典であるということです。ここでいう聖書は旧約聖書のことです。ここで聖書とは何かと述べたこのパウロの手紙がただの手紙で終わらず、新約聖書の一書に入れられ、正典となったのです。面白い話です。この手紙は個人的色彩が濃く、こんなことが書いてあります。迫害されて獄中におりますパウロは年老いていて、近づいてくる冬というのは体にこたえます。そこで、トロアスのカルポのところにおいてきた上着を持ってきてほしいと頼んでいます。また、その時には書物を、特に羊皮紙のもの、それは個人用の聖書でしょうか、それ持ってきてほしいと書いています。獄中では彼の元にはルカしかおらず、孤独だったので、何としてでもテモテに会いたいとも記しています。そして、伝道者テモテへの励ましも、個人的な色彩が濃いです。…1テモテ1:4、15、4:9ー11、13…。
 このように寒いとか、寂しいとか、会いたいとか、そういう生身の人間のままで、必要な使信を書いたものなのですが、そこに聖霊が働いていたのです。決して、霊が乗り移って、筆先を動かして書かされたと言うのではなく、知性と感情と意志をもって、現実に即しながら、神のみこころを書き記したのです。そこに霊感、インスピレーションが与えられていたのです。ですから、読者も色々な問題をかかえた生身の人間、寒いとか、寂しいとか、会いたいとか、そう言って生活している、そのただで聖書を読む時に、生きた言葉、人を生かす言葉となって、魂に響いてくるのです。心を震わすのです。

◇聖徒が神のことばを語り出す
 ローマ帝国の迫害の元で投獄されたパウロが殉教していくのを予期します。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました」(4:6)。この手紙はパウロの最後のもの、遺言のようなものです。最も言い残したいことを述べます。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(4:2)。実に厳粛であり、一点に集中しています。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」。
 みことばというのは健全な教えであり、真理のことばです。しかし、人は違った教えでも、気ままな願いをもって、都合のいい話を好みます。それは真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くのです。ですから、私たち、キリスト者の使命は時が良くても悪くても、しっかりとみことばを宣べ伝えることです。東京聖書学院で学んでいた時の修養生のモットーはこれでした。「 「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(2:5)。また、教授の一人で、私が入学したときには天に召されていたのですが、野辺地天馬という先生がおられました。先生が常々言っておられたのは、「雲の上は常に晴天なり」と「すべからく田舎伝道者たれ」でした。伝道者だけでなく、すべてのキリスト者にもそういう使命があると思います。時が良くても悪くても、場所が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えなさい。都合のよい話をして、間違った方に導こうとしている人たちがいる中に、健全な教え、真理のことば、聖書のみことばをまっすぐに説き明かしなさい。主イエス・キリストはそう言っておられるのではないでしょうか。
 使徒の働きを見ますと、時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝えたことがたくさん記録されています。多くの人が真理に立ち帰り、救われたことも証詞されています。今日の私たちも使徒の働きの続きを書いていきたいものです。パウロは私たちがイメージするような「聖人」ではないようです。テモテへの手紙には、寒いとか、寂しいとか、会いたいとか言っている人であり、罪人のかしらだとさえ言っている人です。しかし、模範者というのです。こういうことです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」(1テモテ1:15-16 )。
 最後に、輝かしい希望のことばを残します。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(4:5ー8)。
 キリスト者はパウロと共にみことばを世界中に宣べ伝える使命をもつ同志であり、信仰の戦いの戦友なのです。競技で言えば、団体競技、いっしょに天国で義の栄冠をいただくのです。
 何がそうさせるのかというと、神のことばがそうさせるのです。「神のことばは、つながれてはい」ないからです。天地は滅びても神のことばは滅びないからです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものだかです。聖霊の霊感、感動を受けて書かれた聖書が行ける神の言葉となって、あなたの内によみがえるからです。…マタイ24:352、テモテ2:9、1テモテ1:15、2テモテ3:16。
 私たちは生活の拠点である家庭から、礼拝の使命を果たすべく教会に「行ってきます」と言って、出ていきます。また、私たちは信仰の拠点である教会から、伝道の使命を果たすべく家庭に「行ってきます」と言って、出ていきます。この使命に生きる私たちは幸いです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」。

永遠の命に至る道

2013-03-10 00:00:00 | 礼拝説教
2013年3月10日 主日礼拝(1テモテ6:3-16)岡田邦夫


 「神の人よ、…信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」。(1テモテ6:12)

 家内が私にこう聞いてきました。私って、「愛の人」になれるかしら?なれないとはっきり答えたいところだが、少し間をおいて答えました。「西相野」の人にはなれるんじゃない!そうね、西相野の老人会のお菓子を作ったりしているものね…。愛の人と呼ばれたいと求めるのは違っているでしょうが、愛の人になりたいと求めるのはキリスト者として大切なことです。

◇利得の道
 パウロが長年の伝道牧会の経験から、若いテモテに手紙を書きました。偽教師が現れて、違った教えを説いているという問題に対処する手紙なのですが、牧会の指南書のようなものになっています。その中で、キリスト者が何を求めていったらよいかを教えているのがこの箇所です。以前いました教会で、キリスト者のご主人が天に召されて、その後から、彼の奧さんが教会の礼拝に来るようになりました。「教会は得にはならないけど、ためになる。」と的をいたことを言われ、続けて来られ、受洗しました。
 ところが、「大きな利益(利得)を受ける道」があるとパウロが言うのです。まず、敬虔(信心)を利得の手段と考えている人たち、金ほしさに信心について教えている偽りの教師を非難します。どういう結果になるかと言いますと。「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じまた、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです」。そして、その根っこにあるものを指摘します。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」。

◇美徳の道
 そこで、金銭を愛するのではなく、真理を愛する道を示します。「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔(信心)にかなう教えとに同意」することです(6:3)。金銭は数量で表し、他と比較できる相対的なものです。しかし、ほんとうの利得というものは数量ではかるれない、他と比較できない、ある意味で絶対的なものです。見えないものです。富で欲は満たされても、魂は満たされません。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」。その方が魂は自由なのです。金銭は必要です。しかし、金銭を愛すると金銭の奴隷になってしまいます。「金の人」になってしまいます。しかし、キリスト者は「神の人」のはずです。
 ですから、手の指の間から、抜けていってしまわないものを求むべきです。「神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」。あなたの魂の預金通帳に正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和という霊的財産を貯めていくのです。満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。その財産を霊的な有効活用をするのです。これこそが、キリスト教の美徳の道であり、キリスト教的シンプル・ライフなのです。

◇獲得の道
 先週の日課、使徒の働きの中で、美しの門で生まれつき足のなえた男がいて、通りかかったペテロとヨハネに施しを求めてきた話がありました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって、歩きなさい。」とペテロが言うと、男は歩き出し、神を賛美して、神殿にいっしょに入っていきました。それに驚いた人たちにペテロが復活の福音を回廊(かいろう)で語ります。神殿当局がそんなことをされては困ると、二人を捕らえ、尋問すると、また福音を語り、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と言い切ります。当局は「ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった」のです(使徒の働き4:13ー14)。
 使徒たちは普通の人だったという評価です。普通の人なのにその言動が普通でなかったのです。使徒の場合は復活の主に出会い、聖霊の注ぎを受け、それに伴うしるしを行い、福音を証詞していくという特別な任務はありましたが、それでも、普通の人でした。キリスト者というのはそれを受け継ぎ、使徒信条を告白する者たちです。私たちは普通の人ですけど、普通の人ではないのです。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」と告白し、証詞する者です。テモテも普通の人、しかし、信仰の告白は立派でした。「あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました」。違った教えが横行しています。信仰を惑わすものはあとを絶ちません。生存競争のただ中におかれていて、私たちは惑わされやすいのですが、やはり信仰の戦いをしていかなければなりません。金に仕えるか、神に仕えるか、欲におぼれるか、良心に従うか、世俗にまみれて心が虚しくなるか、御国の恵みに浴して心が満たされるか、信仰の戦いは続きます。聖書は明確に命じます。
 「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」(6:12)。永遠の命は限りない命以上のもので、神の命に与ることであり、キリストを信じる者はすでに獲得しているものです。しかし、また、永遠の命はキリストを知ることであり、キリストを内にお宿しすることですから、たえず、求めていくものであり、獲得し続けるものです。(ヨハネ3:16、10:10、17:3、ピリピ3:10-12)。前述しました、キリスト者がシンプル・ライフをおくるのは、このエターナル・ライフ(永遠の命)を得るためなのです。
 私たちは世間の目を気にして、生活の戦いをしています。しかし、キリスト者は静まって、御前にあることを意識しましょう。「すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前」にあるという意識です。「私たちの主イエス・キリストの現れの時」(神はご自分の良しとする時)という再臨の時の意識です。アーメンと呼べるお方を意識するのです。「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン」。
 そのような方だからこそ、永遠の命を獲得させてくださるのです。私たちはイエス・キリストの福音によって、聖霊の励ましのよって、信仰の戦いを戦う勇敢な人になれるのです。信仰の告白をし、立派な人になれるのです。私たちは、御前で働くサラリーマン、信仰の商戦を戦い、良きサービス(奉仕、礼拝)を行い、永遠の命のサラリーをいただくのです。私たちは、御前で戦うアスリート、信仰の競技を戦い、いばらの冠にかえて、永遠の命の月桂冠を、金メダルをいただくのです。私たちは普通の人ですが、召されて神の人なのです。

一粒の麦

2013-03-03 00:00:00 | 礼拝説教
2013年3月3日 主日礼拝(ヨハネ12:20-26)岡田邦夫


 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ12:24

 テレビなどの宣伝で、私がドキッとするものがあります。保険のCMで「死亡保障」。これ以上ないというほど単純明瞭で、効果のあるCMには違いないのですが、言葉だけ聞くと、身の震え上がるような響きとなって伝わってきます。人は確かに誰でも必ず死にます。死なない人はいません。死亡は保障されています。私には現代版「メメント・モリ」に聞こえてきます。この言葉はラテン語で「汝の死を憶えよ」「死を忘れるな」という意味。コレラやペストが大流行した中世ヨーロッパで流行となった言葉だと聞いています。フランスの修道院では、このメメント・モリが挨拶の言葉として交わされたと言います。イエス・キリストが重要なことを言うとき、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と言います。何が重要なのかというと、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」という死の問題です。

◇小さな死と小さな再生
 「別れは小さな死」というフランスのことわざがあります。私たちの人生には色々な人とに出会い、また別れがあります。出会いを通して、その大切な人が心の一部にさえなっていきます。そして、愛する者との別れはその心の一部が死ぬような、小さな死の経験となるのです。ドイツでは「別れる」は「別れを受け取る」という言い回しで表現します。別れは受け取るものであり、失うだけのものではないという意味がこめられているのですと、アルフォンス・デーケン先生が言っておられます(「死生学」を教える上智大名誉教授)。小さな死を通して、別れた存在がいかに大切な存在であったか知らされ、相手の人間性を新たなる深い次元で見つめ、新たな自己を誕生させる「小さな再生」も可能なのです。その意味で「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」を座右の銘にしている人がいます(キリスト者でない人もです)。

◇キリストの死と復活・一粒の麦
 この言葉はイエス・キリストご自身のことです。イエスは過ぎ越の祭りにエルサレムに入場して、最後の一週間が始まりました。それは死に行く行程なのです。ユダヤ人以外のギリシャ人(異邦人)がイエスに会いたいとピリポを介して訪ねてきました。世界宣教の始まりが見えてきた、このことが契機となり、いよいよ死に向かうという自覚をされたのでしょう。すると、イエスは彼らにこう言われたのです。「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(12:23)。
 一方では人となられた方として、私たちと同じように、死に行くプロセスをたどろうとされたのです。そして、もう一方では贖い主として十字架の苦難を受けるという、特別なプロセスをたどる決意をされたのでしょう。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」(12:27)。主が心騒ぐと言われたのですから、どれほど騒いだことのでしょうか。修行をつんだ修行者であれば、少しも動揺したそぶりも見せず、大往生していくのかも知れません。そして、このようになれと弟子たちに範を残すのかも知れません。しかし、イエス・キリストは死を克服するのではなく、人間の死をそのまま受けとめ、まことに死んでゆかれたのです。また、いけにえの羊として、底知れない死の苦しみの杯を最後の一滴まで飲みほされていくプロセスを選ばれたのだと思います。だれひとりマネの出来ない愛における犠牲の死でした。だから、栄光を受けるのだと言われたのです。「父よ。御名の栄光を現わしてください。」と祈られますと、天から声が聞こえました。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう」(12:28)。
 祭司長等のユダヤ人に連帯して、罪深い私たちは御子イエスをゴルゴダの地に投げ落とし、ののしりながら罪のどろ足で、ギュウギュウと踏みつけて、一粒の麦として葬ってしまったのです。しかし、御子はそんな私たちの罪を引き受けて、その罪と共に完全に葬られたのです。そのところから、聖霊によってよみがえらされ、御子を見捨て、踏みにじり、押しつぶした私たちの罪を赦し、私たちを見捨てず、踏みにじらず、押しつぶすことをされないという福音の実が豊かに結ばれたのです。

◇従う者の献身と永遠の命・一粒の麦
 12章24節~26節を弟子のあり方として見てみましょう。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」。
 イエスは弟子たちに理想像を提示して、このようになれとは言いませんでした。ただ、わたしに従って来なさいと言われるのです。イエスのみ顔を仰ぎ、救われた者はイエスの「背中」を見ながらついていくのです。ペテロはペテロ、ヨハネはヨハネらしく、あなたはあなたらしくついていくのです(21:22)。
 田辺元という哲学者が「メメント モリ」という短い書を表しました(死を忘れるな)。死の哲学です。それは妻‘ちよ’の死(1951)が契機で、後に「わがために命ささげて死に行ける妻はよみがへりわが内に生く」と歌っています※。かたい哲学はおいといて、二人称で呼ぶ人の死はその歌のような現象をもたらします。それが二人称で呼べる愛するイエス・キリストが一粒の麦となって死んでゆかれたのなら、そのお方は「よみがへりわが内に生く」るのです。一粒の麦となって地に落ちて死んでゆかれたイエス・キリストの背中をじっと見つめ、ついていくと、その方が内に生き、その方が生きたように、しらずに一粒の麦となって生きていくのです。一粒の麦となっていくなら、父なる神がその人に報いてくださり、豊かな実、永遠の命を結ばせてくださるのです。