オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

奇跡には意味がある

2014-06-01 13:01:22 | 礼拝説教
2014年6月1日 主日礼拝(マルコ福音書6:30-44)岡田邦夫


 「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」。マルコ福音書6:34

 福音書は奇跡でいっぱいです。現代の私たちにとって、病気のいやしの奇跡とか、死人の蘇生は耳にします。悪霊の追放も違和感があるものの、そういう現象はあるかも知れないと否定できないところがあるでしょう。しかし、5000人を5つパンと2匹の魚で満腹させた奇跡、同様に4000人を7つのパンと少しの魚で満腹させた奇跡は上記の奇跡と違って、どこか受け入れにくい話でしょう。また、湖での話も同様でしょう。舟が嵐にあった時、風と湖をしかって静めた奇跡と、イエスが湖の上を歩いてきて弟子たちの舟に乗り込むと凪(なぎ)になった奇跡です。しかし、「神の救い」という観点で見るなら、奇跡は本当はたいへん重要な意味をもっているのです。

◇重ねてみると
 主イエスは奇跡をおこし、人々を驚かせ、人気を集めようとされたのではありません。公生涯に入る前に石をパンにかえるという奇跡をなして、人々の関心を集め、人気を得ればというサタンの誘惑を受けましたが、主はみ言葉をもって、それを退け、救い主としての使命にたたれたのです。そのことからも解ります。奇跡にはきわめて重要な意味があるのです。主の奇跡を総合してみて解ることがあるのです。主の奇跡を上記で大別して述べました。
  病気のいやしなど、解放の奇跡
  湖の波風を静めた、湖の奇跡
  大勢を満腹させた、パンの奇跡
 解放の奇跡は、イスラエルの人々を主が奴隷の家、エジプトから脱出させた出エジプトという救いと重なります。湖の奇跡は、出エジプト後、エジプト軍に追われ、主が紅海の水を分けてイスラエルの民を渡らせ、救われた奇跡と重なります。パンの奇跡は、荒野に進み、食料不足に困り果てたイスラエルに対し、主がマナを降らせて40年間、養われ救われたという奇跡と重なります。聖書における歴史がただ「人間が」どう歩んだかという歴史であれば、時間と共に過ぎ去った過去のことです。しかし、神がどうされたかという「神の」救いの歴史ですので、今の私たちをも巻き込み、包み込んでくる救いの出来事なのです。全能の神には「出来る事」なのです。旧イスラエルの救いが、イエス・キリストを通して、世界の人々を含む、新イスラエルの救いへと大いに拡大、伸展したということです。

◇掘り下げてみると
 さて、イエス・キリストがなされた奇跡はどういう意味を持っているのかは、5000人を5つパンと2匹の魚で満腹させた奇跡の今日の聖書箇所に出ています。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)。羊飼いのいない羊のように迷い、飢えている人々(私たちを含む)をご覧になり、「深くあわれまれ」、満腹させる奇跡をされたのです。すべての人の魂のど底までとどく愛です。すべての人の心の痛みを痛みとする愛です。迷い苦悩する者の中に潜り込む愛です。
 バネというのは押さえれば、押さえるほど、反発力は強くなります。イエスのあわれみは深く深くど底までいったので、人を救いに引き上げる愛の力は最大限になるのです。イエスは十字架において傷みきられたので、痛みからのいやしは最大限なのです。イエスは十字架において、とことん苦しまれたので、私たちを苦しみから解放する力は最大限なのです。
 さらに、罪と死と滅びの下にある、その私たち人間のど底のど底まで、身を投じられたのです。極限の侮辱と呪いと暴力により、血を流し、身をさかれ、命が奪われたのです。それは傷つき迷った羊を背負って助け出すように、罪と死と滅びの中から、私たちを背負い救出されたのです。主の深いあわれみというのは思いだけでなく、言葉だけでなく、体もすべて使われた愛だったのです。
 すべて、主の奇跡は深いあわれみの奇跡なのです。5000人にパンが配られたのは、深いあわれみが配られたのです。はらわたにしみいる深いあわれみがあったのです。私たちに配られるパンは深いあわれみに満ちたみ言葉です。私たちに配られるパンは深いあわれみに満ちた聖餐のパンです。信仰をもって十分いただき、十二分に味わいましょう。

◇広げてみると
 「多くの群衆をご覧になって」深くあわれみ、奇跡をされました。群衆、集団になされたのです。かつてイスラエル民族という集団を奴隷の家から救い出しました。イエス・キリストは新しいイスラエルという集団、すなわち、キリストの体である教会という集団を罪と死と滅びから救い出されるのです。5000人へのパンの奇跡も人数を分けて座らせてから配りました。それは組織的でした。私たちは組織をもつ有機的な主にある共同体になるのです。そして、目指すは人類の救い、世界の救いなのであります。主のパンで個々が満足し、全体が満足するのです。解放の奇跡、湖の奇跡、パンの奇跡という救いの歴史は私の人生のうえに起こります。罪の赦しをいただき解放され、試練という嵐を乗り越えさせ、永遠の命というパンで養われ、約束の天国に導かれていきます。これは主のなされること、奇跡なのです。
 私たちの体はたくさんの細胞が集まり、組み合わされて、生かされますが、逆に個々の細胞は体全体があって、生かされます。2000年前、イエス・キリストの十字架と復活により、私たちの集団=キリストの体である教会共同体は罪と死の奴隷から解放されたのです。そして、繰り広げられる歴史において、迫害や誘惑や傲慢や落胆などの嵐に合いますが、頭(かしら)であるキリストが嵐を静めます。また、礼拝や礼典や交わりを通して、永遠の命のパンで群れが養われます。そうして、福音が世界中に宣べ伝えられ、主の再臨の時が来て、最後の審判があります。そして、教会は着飾ったキリストの花嫁として迎えられ、新天新地において、披露宴が行われます。この宴を「メシヤの饗宴(きようえん)」と言います。そこではあふれるばかりの喜びがあり、賛美があり、満たしがあるのです。5000人へのパンの奇跡はそのしるし、先取りの宴でした。礼拝において、神のみ言葉のパンが配られる時に、聖餐において、キリストのからだであるパンが配られる時に、デボーションにおいて、霊の糧のパンが配られる時に、メシヤの饗宴(きようえん)を思い巡らし、その先取りをしているのだとの信仰を持ちましょう。

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