オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

にもかかわらず笑う

2017-06-26 00:00:00 | 礼拝説教
2017年6月25日 伝道礼拝(創世記21:1~7)岡田邦夫

 「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」。(創世記21:6共同訳)

アメリカのバプテスト教会の牧師がメッセージの導入でこのような話をされました。「私の友人である牧師がしてくれた話です。十分準備をして、ためになる良い説教をしていると思っているのに、途中で居眠りをする信者さんが多いので、どこかに問題があると思い、自分の説教の録音を聞いてみました。すると、途中で彼自身が居眠りを始めました」。このユーモアに富んだ話、愛と思いやりの現実的な表現があります。聖書にはユーモアが豊かに含まれていますが、なぜか「笑い」という言葉そのものはわずかです。その少ない中から、笑いについてお話をしましょう。

◇サラは二度、笑った
 イスラエル民族の先祖はアブラハムとサラ。二人には子供ができず、今から3800年ぐらい前の当時としては、それは不幸なことで、神に呪われているさえ思われたことでした。周囲はそうでも二人はそうは思っていなかったでしょう。サラは美しかったし、遊牧するうえでの財産もあったようです。でも、無いものがありました。土地と子供です。アブラハム75歳の時、天地創造の神は子孫を増やし、土地を与えると「祝福」の約束をされます。といって、なかなか子供は与えられません。
 彼が99歳の時、み使いと思われる三人の人が訪ねてきました(創世記18章)。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」と告げます。サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていて、心の中で笑います。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで」。み使いに心の内を見抜かれ、叱られますが、「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている」と念を押して去っていきます。冗談だと思って笑ったサラ、翌年には喜びの笑いがこぼれることになるのです(創世記21章)。
 「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ(百歳)。…子をイサクと名づけた」。イサクは笑いという意味です。サラは喜びにあふれて言ったからです。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(21:6共同訳)。
 ユーモアとは「にもかかわらず笑う」と言われています。卵巣がんの末期でホスピスに入院してこられた中年の女性がいました。ある日の回心の時に、「いかがですか?」という柏木哲夫医師の問いかけに、彼女は、「おかげさまで順調に弱っております」と答えました。医師はプッと笑いました。そしてその言葉によって慰められたと感じました(「恵みの軌跡」より)。
サラの場合、神のユーモアがあるのではないかと私は思います。サラは不妊症、妊娠は無理、しかし、不可能にもかかわらず、可能にする、神の粋な計らい、神の世界のユーモアがあるのではないかと私は言いたいところです。不可能にもかかわらず、可能にする、冗談に見えて冗談ではない神のお約束、神の愛と思いやりの現実の表現がそこにあります。

◇人は泣いて、笑う
 「おかげさまで順調に弱っております」と言われた、なかなかのユーモア、強がりでは言えません。すべて神の導きの中にあるという、神への信頼があってのセンスではないでしょうか。サラについては神が後のイスラエル子孫を祝福する初めの一歩でした。そこに笑いがありました。さらに人類を祝福する立役者はイエス・キリスト、山の上の説教で祝福の言葉が綴られています。マタイ福音書5章にありますが、ルカ福音書を見てみましょう(平野の説教)。
イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから」(6:20-21)。
「幸い」と訳されていますが「祝福」と訳したほうがいいかも知れません。地上的な人間的なしあわせではなく、天からの、永遠につながる祝福です。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから」。苦しみに会い、試練に会い、涙を流している、しかし、神はご存知で、それを無駄にはなさらない、それを遭遇して、神に祈り、そして、神の、天来の祝福に与り、永遠の命に与るのです。地位や名誉や財産の幸福はこの手からすり抜け、消えていくでしょう。しかし、神の救いをいただき、見えない神の祝福に与るなら、この信仰の手からは永遠に逃げてはいきません。
神を信じていても、「順調に弱っていきます」。しかし、永遠の命は強くなっていきます。天国の望み、栄光の体への望みが膨らんでいきます。問題は、神絵の不信仰であり、罪です。それが少しでもあれば、祝福はありません。イエス・キリストをその問題を解決し、私たちを救いに導くために、人となられました。十字架を担われた時、私たちの悲しみを担われ、不信仰や罪を身代わりに担われました。涙を笑いに変えるためでした。イザヤ書53章でその真意が告げられています。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」
私たちに代わって苦難にあわれ、全うされ、愛の神による救いを全うされました。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足されたのです。極限の苦悩の顔が主ご自身、満足の笑みに変えられたのです。順調に弱りつくし、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取り、三日後に復活されました。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから」と言われた福音をご自身が先立って経験され、信じる私たちも、そのように天来の笑いに導かれるのは確かなことです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。