2014年2月23日 伝道礼拝(1コリント10:31)岡田邦夫
「あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためになさい。」1コリント10:31
時計は時間を見るために、電話は電話するために作られている、人間が使うために作らている。「人は何のために生きるのか」。人は神に造られたのですから、人は神の目的があって存在しているのです。すっきりと上記のように聖書は告げているのです。今日は一つの民話と一つの実話を通してお話ししたいと思います。
◇「人はなんで生きるか」レフ・トルストイ
一人の貧しい靴屋が暖かいコートを買いに行ったが、貸していたお金が返してもらえず、やけになり、手持ちの金で酒を飲んでしまう。通りかかった礼拝堂の、その壁にもたれた裸の男をみかける。放っておこうとしたが可哀想なので、自分のコートを着せてやり、家に連れ帰る。迎えた妻は怒るものの、やはり放ってはおけず、食事を出す。しかし、その男、ミハイルは、綺麗な体と優しくかわいらしい顔をしているが素性を明かさない。結局、ミハイルは靴屋の家に引き取られ、仕事を覚え、どこへも出ず、余計な口も利かず、寡黙に仕事をこなし、注文も増え、生活は成り立っていく。
5年がたっても最初に食事を出された時に笑顔を見せただけだった。ある日、上等な馬車が止まり、地主で金持ちの大男が上等な革をもって来た。1年たっても壊れない長靴を作ってくれと言う。靴屋の男とミハイルはそれを引き受けると金持ちは帰っていく。なぜか、ミハイルは金持ちが来た時、笑ったし、その革でスリッパを作った。靴屋が理解できないでいると、また馬車が来た。地主の妻だ。地主が帰る馬車の中で死んでしまったので、死者にはかせるスリッパを注文しに来たのである。
また、6年後のある日、客として婦人が2人の女の子を連れて、ブーツをたのみに来た。その時、ミハイルは3度目に笑った。彼女たちの話を詳しく聞いて、そして、婦人達が暇を告げた後、彼は靴屋の家族に語る。自分は天使だったが、ある魂をぬくという神の命令に忠実に従わなかったので、次のことを言われて、翼を取られ、裸でいたのだというわけである。神が言われたのは3つの問いでした。「人間の中にあるものは何か、人間に与えられていないものは何か、人間はなんで生きるか」。この答が得られれば、天に帰れると言う。それが今、解けたと言い、ミハイルは光輝いて天に昇っていく。家には靴屋の家族だけが残された。
最初に笑ったのは、この夫婦が自分をもてなしてくれた時、天使は、①「人間の中にあるものは何か」がわかったからだ。「人の中に愛がある」と。
次に笑ったのは、地主が一年たっても強くて決して破れないブーツを依頼しにやって来た時。男の背後にはミハイルの仲間の天使がいて、今晩にもこの男が死んで取り去られることが分かったが、この男にはそのことがわからない。そして、ミハイルは2つめの言葉の意味を理解した。②「人間に与えられていないものは何か」。「人には自分には何が必要なのか知る力が与えられていない」。
三度目に笑ったのは、6年目に双子の女の子が一人の女性と共にやった来た時。双子は天使ミハイルが6年前にたずさわって死んだ女性が産んだ子どもたちだった。近所の優しい女性が、その女の子たちを引き取り育てていたのだ。そして、その女性が犠牲を払って他人の子どもの面倒を見ながら喜びの涙を流した時、天使ミハイルはその女性の中に「愛の神が生きておられる」のを発見し、最後の言葉の意味を理解した。③「人間はなんで生きるか」の答えだった。そして、「人はだれでも自分自身のことを思いわずらうことによってではなく、真実な愛によって生きる。」ということを知ったのである。
聖書の考えからすると、人は神に愛されるために造られ、愛された者が神を愛するために、人を愛するために生きるのです。そのように愛に生きることが神の栄光なのです。「あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためになさい。」1コリント10:31
◇「炎のランナー」エリック・リデル
「炎のランナー」は1981年の映画のタイトルで、1924年、パリで開催されたオリンピックで実際にあった出来事を元にしています。そこに出場した2人のイギリスの青年。1人はケンブリッジ大学の学生、ユダヤ人の血を引くハロルド・エイブラハムズ。1人はスコットランドの宣教師の家に生まれたエジンバラ大学の学生で、青年宣教師エリック・リデル。第一次世界大戦が終わり、エイブラハムズは差別で屈折した思いを走ることに情熱を注いでいた。リデルは宣教地、中国天津で生まれたが、教育を受けるため、エジンバラに来ていた。運動能力に優れていて、ラグビーから陸上に転向していた。440ヤード走、彼は転倒したのも関わらず、起き上がり、ゴール直前で先頭に立った。30分ほど人事不省になった。これが世紀のレースと言われた。
すぐ、オリンピックの話にいきましょう。この2人、オリンピック出場に選ばれ、期待がかけられていた。ところが、渡仏する当日、100メートル走の予選が日曜日に行われることを知って、リデルは愕然とする。日曜日は神を礼拝する日。日曜日に競技に出ることが神に喜ばれることなのか、宣教師として礼拝を守ることが神に喜ばれることなのか、迷った。リデルは棄権を申し出た。団長、幹部、皇太子の説得もリデルの決心を変えることはできなかった。そこで、リンゼーが自分の出場する400メートル走の出場枠を譲ると提案してきた。結果は100メートル走はエイブラハムズが金。リデルは試合で走ったことのない400メートル走を空前の世界新記録で走り抜け、優勝したのである。
1年後、リデルは大学を卒業し(22才)、その祝賀パーティで、祈った後、引退を宣言。栄光に輝くキャリアを捨てて、1925年、中国宣教に向かうため、天津に旅立った。天津ではミッションスクールで理科を教えながら、宣教師として、聖書を教えていた。第二次世界大戦が勃発し、危険なため、政府がイギリス人に退去命令が出されたが、リデルは妻子を帰国させ、自分1人中国に残り、宣教を続けた。しかし、収容所に入れられる事態になる。その所で、1945年、脳腫瘍でのため43才の若さで天に帰った。
エイブラハムズは走ることで神の栄光を現しました。それは誰もが輝いて見えるものでした。しかし、リデルは日曜礼拝を守ること、それは一見理解されないかも知れないいけれど、神を第一に生きる生き方を示し、神の栄光を現しました。宣教の働きを通して、神の栄光を現しましたが、それは一見報われないようなものでした。収容所に入れられた人生でした。しかし、そこで神の栄光を現しました。その収容所で出会った少年がやがて宣教師になり、日本で宣教され、今はイギリスに在住。その少年の名はスティーブン・メティカフ。彼がリデルから教えられたのは「敵を愛しなさい」と言うみことばでした。その通り、リデルは迫害する者のために祈っていたと証言しています。これこそ神の栄光のために愛に生きる姿です。
イエス・キリストの十字架は私たちの罪を赦し、犠牲となられた、悲惨ともいえるものでしたが、愛においては最高に神の栄光を現したのです。そのイエス・キリストを信じて、私たちも、大きい事でも、小さい事でも、「食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためにな」すのです。人の賞賛を得ようと、得まいと、「食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためにな」すのです。そういうあなたを神は喜ばれるのです。神の御前の人生レースで、神の栄光を現わさせていただいくよう、御国のゴール目指して、走り抜きましょう。人は愛されるため造られたのだから、十字架において神に愛されていると信じて受け取ることも神の栄光。キリストに愛されているのは、人を愛するためだと思い、誰かしらに愛を傾けていることも神の栄光。「栄光」は「愛光」と言えましょう。
「あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためになさい。」1コリント10:31
時計は時間を見るために、電話は電話するために作られている、人間が使うために作らている。「人は何のために生きるのか」。人は神に造られたのですから、人は神の目的があって存在しているのです。すっきりと上記のように聖書は告げているのです。今日は一つの民話と一つの実話を通してお話ししたいと思います。
◇「人はなんで生きるか」レフ・トルストイ
一人の貧しい靴屋が暖かいコートを買いに行ったが、貸していたお金が返してもらえず、やけになり、手持ちの金で酒を飲んでしまう。通りかかった礼拝堂の、その壁にもたれた裸の男をみかける。放っておこうとしたが可哀想なので、自分のコートを着せてやり、家に連れ帰る。迎えた妻は怒るものの、やはり放ってはおけず、食事を出す。しかし、その男、ミハイルは、綺麗な体と優しくかわいらしい顔をしているが素性を明かさない。結局、ミハイルは靴屋の家に引き取られ、仕事を覚え、どこへも出ず、余計な口も利かず、寡黙に仕事をこなし、注文も増え、生活は成り立っていく。
5年がたっても最初に食事を出された時に笑顔を見せただけだった。ある日、上等な馬車が止まり、地主で金持ちの大男が上等な革をもって来た。1年たっても壊れない長靴を作ってくれと言う。靴屋の男とミハイルはそれを引き受けると金持ちは帰っていく。なぜか、ミハイルは金持ちが来た時、笑ったし、その革でスリッパを作った。靴屋が理解できないでいると、また馬車が来た。地主の妻だ。地主が帰る馬車の中で死んでしまったので、死者にはかせるスリッパを注文しに来たのである。
また、6年後のある日、客として婦人が2人の女の子を連れて、ブーツをたのみに来た。その時、ミハイルは3度目に笑った。彼女たちの話を詳しく聞いて、そして、婦人達が暇を告げた後、彼は靴屋の家族に語る。自分は天使だったが、ある魂をぬくという神の命令に忠実に従わなかったので、次のことを言われて、翼を取られ、裸でいたのだというわけである。神が言われたのは3つの問いでした。「人間の中にあるものは何か、人間に与えられていないものは何か、人間はなんで生きるか」。この答が得られれば、天に帰れると言う。それが今、解けたと言い、ミハイルは光輝いて天に昇っていく。家には靴屋の家族だけが残された。
最初に笑ったのは、この夫婦が自分をもてなしてくれた時、天使は、①「人間の中にあるものは何か」がわかったからだ。「人の中に愛がある」と。
次に笑ったのは、地主が一年たっても強くて決して破れないブーツを依頼しにやって来た時。男の背後にはミハイルの仲間の天使がいて、今晩にもこの男が死んで取り去られることが分かったが、この男にはそのことがわからない。そして、ミハイルは2つめの言葉の意味を理解した。②「人間に与えられていないものは何か」。「人には自分には何が必要なのか知る力が与えられていない」。
三度目に笑ったのは、6年目に双子の女の子が一人の女性と共にやった来た時。双子は天使ミハイルが6年前にたずさわって死んだ女性が産んだ子どもたちだった。近所の優しい女性が、その女の子たちを引き取り育てていたのだ。そして、その女性が犠牲を払って他人の子どもの面倒を見ながら喜びの涙を流した時、天使ミハイルはその女性の中に「愛の神が生きておられる」のを発見し、最後の言葉の意味を理解した。③「人間はなんで生きるか」の答えだった。そして、「人はだれでも自分自身のことを思いわずらうことによってではなく、真実な愛によって生きる。」ということを知ったのである。
聖書の考えからすると、人は神に愛されるために造られ、愛された者が神を愛するために、人を愛するために生きるのです。そのように愛に生きることが神の栄光なのです。「あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためになさい。」1コリント10:31
◇「炎のランナー」エリック・リデル
「炎のランナー」は1981年の映画のタイトルで、1924年、パリで開催されたオリンピックで実際にあった出来事を元にしています。そこに出場した2人のイギリスの青年。1人はケンブリッジ大学の学生、ユダヤ人の血を引くハロルド・エイブラハムズ。1人はスコットランドの宣教師の家に生まれたエジンバラ大学の学生で、青年宣教師エリック・リデル。第一次世界大戦が終わり、エイブラハムズは差別で屈折した思いを走ることに情熱を注いでいた。リデルは宣教地、中国天津で生まれたが、教育を受けるため、エジンバラに来ていた。運動能力に優れていて、ラグビーから陸上に転向していた。440ヤード走、彼は転倒したのも関わらず、起き上がり、ゴール直前で先頭に立った。30分ほど人事不省になった。これが世紀のレースと言われた。
すぐ、オリンピックの話にいきましょう。この2人、オリンピック出場に選ばれ、期待がかけられていた。ところが、渡仏する当日、100メートル走の予選が日曜日に行われることを知って、リデルは愕然とする。日曜日は神を礼拝する日。日曜日に競技に出ることが神に喜ばれることなのか、宣教師として礼拝を守ることが神に喜ばれることなのか、迷った。リデルは棄権を申し出た。団長、幹部、皇太子の説得もリデルの決心を変えることはできなかった。そこで、リンゼーが自分の出場する400メートル走の出場枠を譲ると提案してきた。結果は100メートル走はエイブラハムズが金。リデルは試合で走ったことのない400メートル走を空前の世界新記録で走り抜け、優勝したのである。
1年後、リデルは大学を卒業し(22才)、その祝賀パーティで、祈った後、引退を宣言。栄光に輝くキャリアを捨てて、1925年、中国宣教に向かうため、天津に旅立った。天津ではミッションスクールで理科を教えながら、宣教師として、聖書を教えていた。第二次世界大戦が勃発し、危険なため、政府がイギリス人に退去命令が出されたが、リデルは妻子を帰国させ、自分1人中国に残り、宣教を続けた。しかし、収容所に入れられる事態になる。その所で、1945年、脳腫瘍でのため43才の若さで天に帰った。
エイブラハムズは走ることで神の栄光を現しました。それは誰もが輝いて見えるものでした。しかし、リデルは日曜礼拝を守ること、それは一見理解されないかも知れないいけれど、神を第一に生きる生き方を示し、神の栄光を現しました。宣教の働きを通して、神の栄光を現しましたが、それは一見報われないようなものでした。収容所に入れられた人生でした。しかし、そこで神の栄光を現しました。その収容所で出会った少年がやがて宣教師になり、日本で宣教され、今はイギリスに在住。その少年の名はスティーブン・メティカフ。彼がリデルから教えられたのは「敵を愛しなさい」と言うみことばでした。その通り、リデルは迫害する者のために祈っていたと証言しています。これこそ神の栄光のために愛に生きる姿です。
イエス・キリストの十字架は私たちの罪を赦し、犠牲となられた、悲惨ともいえるものでしたが、愛においては最高に神の栄光を現したのです。そのイエス・キリストを信じて、私たちも、大きい事でも、小さい事でも、「食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためにな」すのです。人の賞賛を得ようと、得まいと、「食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためにな」すのです。そういうあなたを神は喜ばれるのです。神の御前の人生レースで、神の栄光を現わさせていただいくよう、御国のゴール目指して、走り抜きましょう。人は愛されるため造られたのだから、十字架において神に愛されていると信じて受け取ることも神の栄光。キリストに愛されているのは、人を愛するためだと思い、誰かしらに愛を傾けていることも神の栄光。「栄光」は「愛光」と言えましょう。