2011年3月27日 主日礼拝(使徒の働き28:1~31)岡田邦夫
「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」使徒の働き28:31
皆さまにお祈りいただきまして、3月23日に鼻の手術を無事終え、順調に回復しており、31日に退院予定です。外出を許され、今ここで説教をさせていただけますことはたいへん感謝なことです。私にとって、とても苦しかったのは、手術後、鼻の中にガーゼを詰め込まれ、口だけで呼吸しなければならないことでした。喉のほうに何かが流れ込むと喉がつまうのではないかと意識過剰になり、余計に苦しくなるという状態が24時間続きました。あの手この手で気を紛らわそうとするのですが、気晴らしに持っていった本も、そこにあるテレビも、しんどさを増すだけでした。
ところが、私はそういう時に聖書を開いて、説教のための黙想と組み立てをしてると気が紛れたのでした。私はそれがいいこととは思わないのですが、そんな状態でした。こうしたことから、人はどこに気が向いているのか、どこに向かって生きているのかが、たいへん重要なことだということを知らされました。(※以下、もっていったのが新共同訳聖書でしたので、以下、聖書の引用は新共同訳のままにしてあります。)
◇一点に向かって
パウロは一点に向かって生きていました。彼は伝道旅行中、エペソで「わたしはそこ(エルサレム)へ行った後、ローマを見なくてはならない」と聖霊に示され、決意しました(19:21)。それからは、何があってもローマに向かって行ったのです。ユダヤ人の殺害計画、主にある仲間の引き留め、また、暴風にあっての難破も、ローマ行きを止めることは出来ませんでした。彼は福音を異邦人に運ぶ「使徒」として召されていたからです。船がユーラクロンという大嵐にあい、絶望的状況の中で、カイザルの前に必ず立たなければならないから助かるのだと、使徒として神の言葉を告げました。マルタ島に流れ着き、全員助かり、それが真実であることが分かりました。島民が用意してくれたたき火にあたっていると、パウロがまむしに腕をかみつかれ、振り落としたので、島民は「正義の女神」のさばきに違いないと言ったかと思えば、パウロが何の害も受けないので、「この人は神様だ」と言うように変わりました(27:4-6)。また、パウロが病人に手をおくといやされたので、島民に敬意を表され、三ヶ月を過ごしました(27:9)。この奇跡も使徒のしるしだと思います(マルコ16:18参考)。
そのようなことがあってから、航行できる季節となり、一行を乗せた船は出帆し、ついにローマに着いたのです。信者が迎えに来ていました。さまざまな障害がありましたが、ついにローマに着いたのです。こうして、神のみこころが成ったということに、パウロは感激したことでしょう。
ここで私たちは一点に向かって全力で生きておられた「お方」を忘れてはなりません。主イエスはガリラヤ伝道から、向きを変えて、エルサレムに向かったことです。
「イエスは、天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固めた」のです(ルカ9:51)。「イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」たのです(新改訳)。そして、エルサレムへの伝道旅行を続け、ついにエルサレムに到着しました。人々は歓迎しますが、祭司長、長老たちはイエスが神を冒涜(ぼうとく)した(主は真実を証ししているのですが)という罪で死刑にしようとします。総督ピラトに執ように訴え、民衆の群集心理を利用して、ついに十字架刑にしてしまいます。むしろ、主イエスはそうなるために、エルサレムに向かったのです。人類を罪から救うために、犠牲となり、贖いとなられるために、この一点に向かわれ、ついにそこに着いたのです。
イエスが向かった一点、エルサレムは、十字架と復活による救いの場として、永遠に変わらないものです。しかし、パウロが向かった一点、ローマは、彼が異邦人使徒として召されたための福音宣教の場としてのものでした。あとに続く私たちにとってのローマは、色々です。ある人は海外宣教の地、ある人は開拓伝道の地がそれでしょう。ここに集う私たちのローマは三田です。福音宣教における中心地は三田なのです。もちろん、機械的に場所を示すものではなく、気持ちや信仰なのです。皆さん、気持ちを向け、信仰を向けるのはこの教会です。
◇一点から
さて、福音は「よいおとずれ」であり、音という字を使います。音は空気を媒介に伝わっていきますが、福音は信者を媒介に伝わっていきます。イエスはエルサレムを福音の発祥地としました。全世界に出て行って、福音を伝えよと命じました。パウロをローマに送り、異邦人宣教のための中継所としました。パウロはローマで番兵一人つくだけで、自由に福音宣教が出来ました。重だったユダヤ人を集め、これまでの経緯(いきさつ)を証しし、イエスについて論じました。信じた者もいれば、反逆したユダヤ人も多くいました。そこで、使徒パウロは「この救いは異邦人に向けられた。」と宣言します(聖霊によってでしょう)。音が壁にぶつかり、向きを変えるように、ユダヤ人に向けられた福音が彼らの反逆という壁に屈折して異邦人に向けられたのです。(※それがどういう主のみ心なのかはローマ人への手紙9~11章に述べられています。)
初めは軟禁状態で自由に福音を伝えられたのですが、皇帝ネロのキリスト教徒迫害が激化し、パウロもその中で殉教していきました。しかし、そのような中で、パウロはピリピ人への手紙でこう書いています。言い換えれば、「監房」という福音放送局から、世界に向けて福音を発信させていったのです。ピリピ1:12~14を見てみましょう。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、」とあり、さらに、「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」と、驚くべきことが記録されています。
監禁されているのはキリストのためだということが、この福音放送局から兵営全体に知れ渡っていったのです。パウロは決して強がりではなく、止めることの出来ない「福音の前進」の事実を言っているです。パウロが捕えられているのを見た兄弟たちが、励まされて、ますます勇敢に福音の言葉を伝えていって、なおもそのよきおとづれの音(ね)が増幅し、伝播していったのです。
「監禁されているのはキリストのため」だということが広まったのです。私たちは病いというものに監禁されているかも知れない。あるいは障害というものに監禁されているかも知れない。困難だとか、失敗だとか、心配事とか、トラブルとか、何かしらに監禁されているのではないでしょうか。しかし、キリスト者が「監禁されているのはキリストのため」だと受けとめて、生きているなら、その生き様が証しとなり、福音が伝わり、福音が響き渡っていくのです。
私たちの教会は、開拓にあたって与えられたみ言葉は「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」で、これは福音の一つの特徴です(エゼキエル47:9)。“この福音の音(ね)の流れる所では、すべてのものが生き返る。”と確信し、それぞれの監禁状態の中でキリストのためだと証ししていくなら、必ず、福音の前進に役立つものとなるでしょう。この三田泉教会が間違いのない、生きた福音放送の、しっかりした中継局になってまいりましょう。
「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」使徒の働き28:31
皆さまにお祈りいただきまして、3月23日に鼻の手術を無事終え、順調に回復しており、31日に退院予定です。外出を許され、今ここで説教をさせていただけますことはたいへん感謝なことです。私にとって、とても苦しかったのは、手術後、鼻の中にガーゼを詰め込まれ、口だけで呼吸しなければならないことでした。喉のほうに何かが流れ込むと喉がつまうのではないかと意識過剰になり、余計に苦しくなるという状態が24時間続きました。あの手この手で気を紛らわそうとするのですが、気晴らしに持っていった本も、そこにあるテレビも、しんどさを増すだけでした。
ところが、私はそういう時に聖書を開いて、説教のための黙想と組み立てをしてると気が紛れたのでした。私はそれがいいこととは思わないのですが、そんな状態でした。こうしたことから、人はどこに気が向いているのか、どこに向かって生きているのかが、たいへん重要なことだということを知らされました。(※以下、もっていったのが新共同訳聖書でしたので、以下、聖書の引用は新共同訳のままにしてあります。)
◇一点に向かって
パウロは一点に向かって生きていました。彼は伝道旅行中、エペソで「わたしはそこ(エルサレム)へ行った後、ローマを見なくてはならない」と聖霊に示され、決意しました(19:21)。それからは、何があってもローマに向かって行ったのです。ユダヤ人の殺害計画、主にある仲間の引き留め、また、暴風にあっての難破も、ローマ行きを止めることは出来ませんでした。彼は福音を異邦人に運ぶ「使徒」として召されていたからです。船がユーラクロンという大嵐にあい、絶望的状況の中で、カイザルの前に必ず立たなければならないから助かるのだと、使徒として神の言葉を告げました。マルタ島に流れ着き、全員助かり、それが真実であることが分かりました。島民が用意してくれたたき火にあたっていると、パウロがまむしに腕をかみつかれ、振り落としたので、島民は「正義の女神」のさばきに違いないと言ったかと思えば、パウロが何の害も受けないので、「この人は神様だ」と言うように変わりました(27:4-6)。また、パウロが病人に手をおくといやされたので、島民に敬意を表され、三ヶ月を過ごしました(27:9)。この奇跡も使徒のしるしだと思います(マルコ16:18参考)。
そのようなことがあってから、航行できる季節となり、一行を乗せた船は出帆し、ついにローマに着いたのです。信者が迎えに来ていました。さまざまな障害がありましたが、ついにローマに着いたのです。こうして、神のみこころが成ったということに、パウロは感激したことでしょう。
ここで私たちは一点に向かって全力で生きておられた「お方」を忘れてはなりません。主イエスはガリラヤ伝道から、向きを変えて、エルサレムに向かったことです。
「イエスは、天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固めた」のです(ルカ9:51)。「イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」たのです(新改訳)。そして、エルサレムへの伝道旅行を続け、ついにエルサレムに到着しました。人々は歓迎しますが、祭司長、長老たちはイエスが神を冒涜(ぼうとく)した(主は真実を証ししているのですが)という罪で死刑にしようとします。総督ピラトに執ように訴え、民衆の群集心理を利用して、ついに十字架刑にしてしまいます。むしろ、主イエスはそうなるために、エルサレムに向かったのです。人類を罪から救うために、犠牲となり、贖いとなられるために、この一点に向かわれ、ついにそこに着いたのです。
イエスが向かった一点、エルサレムは、十字架と復活による救いの場として、永遠に変わらないものです。しかし、パウロが向かった一点、ローマは、彼が異邦人使徒として召されたための福音宣教の場としてのものでした。あとに続く私たちにとってのローマは、色々です。ある人は海外宣教の地、ある人は開拓伝道の地がそれでしょう。ここに集う私たちのローマは三田です。福音宣教における中心地は三田なのです。もちろん、機械的に場所を示すものではなく、気持ちや信仰なのです。皆さん、気持ちを向け、信仰を向けるのはこの教会です。
◇一点から
さて、福音は「よいおとずれ」であり、音という字を使います。音は空気を媒介に伝わっていきますが、福音は信者を媒介に伝わっていきます。イエスはエルサレムを福音の発祥地としました。全世界に出て行って、福音を伝えよと命じました。パウロをローマに送り、異邦人宣教のための中継所としました。パウロはローマで番兵一人つくだけで、自由に福音宣教が出来ました。重だったユダヤ人を集め、これまでの経緯(いきさつ)を証しし、イエスについて論じました。信じた者もいれば、反逆したユダヤ人も多くいました。そこで、使徒パウロは「この救いは異邦人に向けられた。」と宣言します(聖霊によってでしょう)。音が壁にぶつかり、向きを変えるように、ユダヤ人に向けられた福音が彼らの反逆という壁に屈折して異邦人に向けられたのです。(※それがどういう主のみ心なのかはローマ人への手紙9~11章に述べられています。)
初めは軟禁状態で自由に福音を伝えられたのですが、皇帝ネロのキリスト教徒迫害が激化し、パウロもその中で殉教していきました。しかし、そのような中で、パウロはピリピ人への手紙でこう書いています。言い換えれば、「監房」という福音放送局から、世界に向けて福音を発信させていったのです。ピリピ1:12~14を見てみましょう。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、」とあり、さらに、「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」と、驚くべきことが記録されています。
監禁されているのはキリストのためだということが、この福音放送局から兵営全体に知れ渡っていったのです。パウロは決して強がりではなく、止めることの出来ない「福音の前進」の事実を言っているです。パウロが捕えられているのを見た兄弟たちが、励まされて、ますます勇敢に福音の言葉を伝えていって、なおもそのよきおとづれの音(ね)が増幅し、伝播していったのです。
「監禁されているのはキリストのため」だということが広まったのです。私たちは病いというものに監禁されているかも知れない。あるいは障害というものに監禁されているかも知れない。困難だとか、失敗だとか、心配事とか、トラブルとか、何かしらに監禁されているのではないでしょうか。しかし、キリスト者が「監禁されているのはキリストのため」だと受けとめて、生きているなら、その生き様が証しとなり、福音が伝わり、福音が響き渡っていくのです。
私たちの教会は、開拓にあたって与えられたみ言葉は「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」で、これは福音の一つの特徴です(エゼキエル47:9)。“この福音の音(ね)の流れる所では、すべてのものが生き返る。”と確信し、それぞれの監禁状態の中でキリストのためだと証ししていくなら、必ず、福音の前進に役立つものとなるでしょう。この三田泉教会が間違いのない、生きた福音放送の、しっかりした中継局になってまいりましょう。