オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

生きるから価値がある

2014-07-27 00:00:29 | 礼拝説教
2014年7月27日 主日礼拝(マタイ福音書16:26)岡田邦夫


 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」マタイ16:26

 テレビの「なんでも鑑定団」のフレーズ「ところで、お宝はなんですか」が何かを期待させます。骨董品であったり、芸術品であったり、特殊なコレクションであったり、お宝はさまざまです。そして、そのお宝に垣間見られる歴史が面白いと私は思っています。必ず、鑑定士がその価値をはかり、値段をだします。皆さんにも聞きたいです。「ところで、お宝はなんですか」。神さまにも聞きたいです。「ところで、お宝はなんですか」。
 子どもが道ばたで拾った石ころや釘でも、自分には価値があると思うから、宝物になります。赤ちゃんが一億円の札束をもらっても、何の価値もないと思うでしょう。お母さんの乳が何よりの宝でしょう。価値があるからお宝です。地位や名誉や財産、されに価値があると思うから、それを得ようと働くなどして努力をします。
 ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子師の著書にものような文章が載っていました。「ある日の新聞に載っていた投稿です。『私は体の弱い十六歳の女の子です。学校でクラブに入っていますが、先輩たちが聞こえよがしに“体の弱いやつは、いるだけで迷惑だ”といいます。でも私はおもうんです。人間、価値があるから生きているじゃなくて、生きているから価値があるんだと』。…『役に立つ人』は、それなりに生きがいを持って生活できても、この弱肉強食の今の世の中に、『役立たず』と考えられている人、または、役立たずになってしまった人にとっては、まことに、生き辛い世になっているのです。その中で、投書した少女のように、『人間、価値があるから生きているじゃなくて、生きているから価値がある』といい切れるためには、何が必要でしょうか。私は、それは人の愛、相手をあるがまま受け入れる愛だと思います。…マザーテレサに、こんな言葉があります。『私はいつも心の中に、死んでゆく人々の最後のまなざしを忘れていません。この世の役立たずのように見えた人たちが、死の瞬間に“愛された”と感じながらこの世を去ることができるためなら、何でもしたいと思っているのです』」(「面倒だから、しよう」p22)。
 そうして、こうくり返します。「価値があるから生きるのではない。生きているから価値がある。何ができても、できなくてもいい。どんな人でも、生きているだけで価値がある」。

 それは創造者である神の前で言えることです。また、救い主であるイエス・キリストの前で言えることです。有名な聖句があります。「43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」(イザヤ書43:2ー4 )。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。あなたを造られた神が言われるのです。あなたは高価で尊い。あなたが生きているから価値がある。しかし、人は神を忘れ、神を無視し、神に背を向け、罪深い者となり、被造物としての高価さを認識できなくなってしまいました。そこで、その罪人を贖い、罪を赦し、神を覚えさせ、神を意識し、神に面と向かい、神と共に生きるようにと、イエス・キリストが十字架にかかり、救いの道を開きました。悔い改めて、救い主及び贖いを信じるなら、救われるのです。そうして、イエス・キリストに贖われた者として、明瞭にわかるのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」ということが、「価値があるから生きているじゃなくて、生きているから価値がある」ということが。

 イエス・キリストは言われます。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:26)。これまで述べてきた命もそうなのですが、ここでは「まことのいのち」と言います。イエス・キリストを信じて与えられる新しい命なのです。罪を赦していただき、きよめていただいたきよいいのちです。地上の命は死んで終わりです。このまことのいのちは天国に行けるいのち、永遠に神と共にいることが出来る永遠のいのちです。この地上の命も全世界よりも価値があるのですが、なおさら、イエス・キリストの愛の犠牲によって与えられた永遠のいのちは全世界よりはるかに勝って価値あるものなのです。

 そう、自分に向けた目を、隣人にも向けていきたいものです。テレサのように愛を傾けて生きるなら、なお、価値ある信仰生涯になるのではないでしょうか。そして、何かできたか、できなかったかではなく、そう生きているところに価値があるのです。それがイエス・キリストの神の価値判断なのだと思います。

だれが一番偉いか

2014-07-13 00:00:00 | 礼拝説教
2014年7月13日 主日礼拝(マルコ福音書10:33-45)
岡田邦夫


 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ福音書10:45

 今年の私の失敗談です。教会で借りている畑に6月17日、黒豆の種を一粒一粒ていねいに丸二日かけて蒔きました。7畝400本分。ところが一向に芽が一つも出ない。掘ってみると腐っていて、全滅。地主さんの方は芽が出てるのに。とりあえず余った種を植え直したが、今度は出た芽を鳩がきて全部食べてしまった。収穫を楽しみにしている人たちにお断りし、道行く人にはあと半年の間、何か言われるだろう。地主さんに顔向けならない。ショックで私の体から血が引いていくようだ。芽が出ないのが夢にまで出てくるし、教会もだめになってしまうのではと落ち込むのでした。そこで、このことのために真剣に祈りました。素人のくせに自分には最上の豆が作れる、自分が偉い者であるかのような高ぶりに気づきました。「下には永遠の腕がある」とのみ言葉が響いてきて(申命記33:27)、失敗しないことも良いが、失敗したとしても、それにどう対処するかで証しになる、そう思うと気は楽になりました。祈りは聞かれ、後から苗床に蒔いた種の芽がにょきにょきと出てきて、先週、全面に移植できました。

◇だれが一番偉いか…仕える者
 弟子たちはカペナウムに行く道々、だれが一番偉いか論じあっていました。到着すると、主イエスはすわられ、十二弟子を呼んで言われました(9:35-37)。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」。それから、イエスはひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて言われました。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」。
 世の中では、一番偉い人はピラミッド型の頂点に立つ人です。しかし、神の国では逆ピラミッド型で、逆頂点に立つのは仕える人だというのです。幼子、小さい者が最も大切にされる所だというのです。これはとても大切なことなので、メッセージはくり返されます。
 強烈なメッセージが続きます(9:41-50)。「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」。聞くに堪えないような説教が繰り広げられます。そえはいかに小さい者を大切にしなければならないかを強調するあまり出てきた言葉です。
 平和なメッセージが続きます(10:13-16)。人々が主イエスに触れていただくために子供たちを連れて来ました。弟子たちはじゃまだと思ったのかこの人たちを叱りますと、主イエスは逆に憤られ、言われたのです。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」。そして、子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されたのです。主ご自身が小さい者をきわめて大切にし、抱きしめるほど愛しておられるかを見るのです。神の国では小さい者が偉いのです。
 またまた、弟子たち、だれが偉いかの話になります(10:35-44)。ヤコブとヨハネが他の弟子たちを抜け駆けして、主イエスに頼みます。先生が栄光の座に着く時、一人を左大臣に、一人を右大臣にしてくださいと。これからわらしが受ける殉教という「杯」を飲み、「洗礼」を受けられるなら、それはあり得るが、左右の高位というのは定められた人々に許されるのだと主は言われました。すると、当然ですが、他の十弟子は腹を立てます。そこで、主イエスは再び、逆ピラミッドのメッセージをします。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」。私たちも偉くなりたいと思う者のです。ですから、キリスト者として、しもべとして生きよという主イエスのメッセージをよくよく聞かなければなりません。

◇だれが一番偉いか…仕える主
 しかし、もっと知らなければならないメッセージが最後に述べられています。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(10:45)。これがマルコ福音書の中心聖句です。人の子とはダニエル書が預言する来るべきメシヤ・救い主のことです(7:13-14)。「人の子のような方が天の雲に乗って来られる」と描写されています。「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」という預言です。主イエスはご自分がこのような全世界の人々を支配下におく主権者だというのです。それは再臨において実現するのですが、その前に仕えられるためではなく、かえって仕えるために来られたのだと告げます。人の命、すべての命を支配される方が、十字架において「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与え」られたのです。
 「人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むちうち、ついに殺します」と三度にわたって予告されました(8:31、9:30-31、10:33-34)。主イエスは時の支配者、祭司長、律法学者たち、総督ピラトたちに命を奪われたのです。そう見えたのですが、実は、それは私たちに「永遠のいのち」を与えることだったのです。「人の子は三日の後に、よみがえ」られて、実現したのです。この福音が解る時に福音のためにすべてを捨てて従っていこうとする弟子の生き方が可能になり(8:34-35、10:29-30)、みなに仕える者なり、みなのしもべになることは出来るようになるのです。
 もう一度言います。低きに降られた人の子を思い、その福音に生かされましょう。そこから、神と人に仕える高貴な弟子道に生きましょう。私の失敗談で述べました「下には永遠の腕がある」の聖句は以下の詩文です。味わってみてはいかがでしょう(申命記33:26-27a )。
  エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。
  あなたを助けるために天に乗り、
  威光をもって空を通られる。
  とこしえにいます神はあなたのすみかであり、
  下には永遠の腕がある。
  (エシュルンよ=イスラエルの詩的呼びかけ)