オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

魂のふるさと

2013-04-28 00:00:00 | 礼拝説教
2013年4月28日 伝道礼拝(ヘブル11:13-16)岡田邦夫


 「事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」ヘブル11:16

◇地の故郷
 後世に残したい日本の歌のアンケートでトップだったのが、「兎追いしかの山…」の文部省唱歌「故郷(ふるさと)」でした。その作曲者の岡野貞一(ていいち)という人は、鳥取教会で受洗し、米国人宣教師に見出されて音楽を志し、終生熱心なクリスチャンで、約40年にわたり東京の本郷中央教会のオルガニストをしていた人でした。ですから、その旋律は讃美歌の影響を受けたと思われます。金田一春彦氏が「日本の唱歌は讃美歌がお手本になっている」と書いていますように。確かに故郷の旋律とよく似た讃美歌475番があります(元歌だろうという人もいます)。「うき世のたびゆく身は まくらすべき家なく、うきよとおそれ たえずあれど、あめこそわが ふるさと」。唱歌の方は地上の故郷ですが、こちらは「天(あめ)こそわが故郷」です。ヘブル人への手紙11:13の聖句をテーマにした永生・葬式の項に納められている讃美歌です。
 私が小学6年生の時、友だち、5~6人で何か、いたずらをして担任の先生に見つかって、授業中、廊下に立たされたことがあります。その二階の廊下の窓から外が見えるのですが、下の方に目をやると、隣の寺のその墓地が掘り起こしてた状態の光景が目に入ってきました。土葬したものが風化して、骸骨がいくつもさらけ出されていました。怖くて怖くて、逃げ出したい、目をつむってもやはり見てしまう、このお仕置きの終わるのが長かったこと。それから、この仲間、卒業するまで学校では悪さはしなかったように思います。自分が死んでから先、骨は先祖の墓に葬られても、自分の魂はどこにいくのでしょうか。普段考えないでしょうが、何かあったときに、そのような問いや不安や求めが内側から起こってくるものではないでしょうか。
◇天の故郷
 地上の故郷は帰っていく所ですが、天の故郷はめざしていく所です。私たちの精神というものは変わらない風景としての地上の故郷を必要としているでしょう。しかし、「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれ」るものではないでしょうか。人生は旅だと言われています。アブラハムもイサクもヤコブも、神を信じ、祝福を約束されたのですが、地上では旅人であり寄留者でした。これらの信仰者たちは帰っていく地上の故郷ではなく、めざしていく天の故郷をあこがれ、信じ求めていたのだと、聖書は述べています。さらに、そう生きた彼らの信仰に対して、最大の賛辞がなさています。
 「事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」(11:16)。
 私たちは人様に恥じない人生を送りたいものです。しかし、ヘブル人への手紙では、神を信じて生きるなら、神様が恥じない人生を送ることができるのだと告げているのです。

 先ほどの唱歌・故郷も、歌詞は地上の故郷を慕う、日本情緒あふれるものがありますが、曲の方は天上の故郷をあこがれる、キリスト教精神がにじみでています。私、讃美歌475「うき世のたび」の歌詞を唱歌・故郷で歌ってみましたら何の違和感もなく、ぴったりきました。似ているといえば、「シャボン玉」は「主われを愛す」の生まれ変わりではないかと言われています。作曲者の中山晋平は前述の本郷中央教会に出入りしていましたし、作詞家の野口雨情もキリスト教の影響を受けていたからでしょうか。讃美歌461「主われを愛す」は明治5年(1872)に訳され、キリスト者に最も愛されてきた賛美です。そうして、日本人の心に染みこみ、明治26年(1893)にはこの曲に「子供よ子供 この広庭で」という歌詞に代えられ、小学唱歌に入れられたのです。

◇御国の門を開きて
 さて、「主われを愛す」の作者はアンナ・ウォーナー、米国人女性です。彼女の家は裕福でしたが、1837年の経済恐慌で瞬く間に貧困状況に立たされてしまいました。そのような時、叔母の薦めで姉のスーザンと共に小説を書くようになり、それが売れて一家を支えるようになりました。そうして、その小説の中にアンナが「私たちは主イエスに会いたい(We would see Jesus)」という賛美歌を挿入しました。それは彼女の魂の叫びでした。二人の姉妹は明確な回心をし、変わりました。前述の賛美歌制作の8年後、「主われを愛す」を書きました。日曜学校の教師であったジョン・リンデンが、重い病気に苦しんでいる少年を両腕で抱きかかえて静かに歌う歌でした。
 ウィリアム・ブラッドリーという人がこのアンナの「主われを愛す」の歌詞に出会って、作曲し、折り返しを書いて、賛美歌にしたので、これが今日まで愛され、歌われているのです。

 最初の作「主イエスに会いたい」は主イエスに対する愛と、この世に対する愛に引き裂かれている苦しみを歌っています。回心後、信仰の確信が与えられてからの作「主われを愛す」は主に愛されているという確信があります。2節の「わが罪のため 栄えを捨てて 天(あめ)より降り 十字架につけり」があります。イエス・キリストが十字架にかかり、私の罪のために身代わりに死んで救ってくださったという罪の赦しの確信です。3節には「御国の門(かど)を 開きてわれを 招き給(たま)えり 勇みて昇らん」になっています。この英語の直訳は「イエスは私を愛しておられる!主はいつも私のそばに寄り添ってくださる。私が主を愛すると、私が死ぬとき、主は私を天のふるさとに、つれていってくださる」。…大塚野百合著「『主われを愛す』ものがたり」より。罪の赦しをいただき、天のふるさとに入れる信仰、確信が与えられた賛美です。あなたもご一緒に天のふるさとを信じて、望み、愛して、歌いながら人生の旅路を進んで行きませんか。


付記:一つのエピソードを載せておきましょう。日本が開国し、明治初期、宣教師たちが次々と来日してきました。その中で横浜、長崎、札幌で開いた洋学校が三つの流れとなっていきました。熊本洋学校に招かれたアメリカ人教師L.L.ジェーンズは熱心なキリスト教徒、しかし、熊本藩はキリスト教を教えることを禁じました。明治6年、キリシタン禁制の高札が廃止されたのですが…。そこでジェーンズは土曜日に自宅に学生を招いて伝道しました。明治9年、熊本城外の花岡山で「奉教趣意書」に35名が著名して、声高らかに「主われを愛す」を歌ったのです。
 その著名した人の中に、宮川経輝、金森通倫、海老名弾正、徳富蘇峰、浮田和民等がおり、著名しなかったがメンバーで小崎弘道、徳富蘆花、長田時行等がおりました。この事を知った当局は洋学校を閉鎖、ジェームスを回顧、熊本バンドの多くは京都の同志社に移りました。
 その時に歌ったのは明治5年に訳された以下のものだったと思います。迫力があります。
  耶蘇我を愛す 左様聖書まをす
  帰すれば子たち 弱いもつよい
  ハイ 耶蘇愛す ハイ 耶蘇愛す
  ハイ 耶蘇愛す 左様聖書申す
 関西弁もあります。
イエスはん わてを好いたはる
  イエスはん 強いさかいに
  浮世はいうたかて 怖いことあらへん
  わてのイエスはん わてのイエスはん
  わてのイエスはん わてについたはる

わたしは

2013-04-21 00:00:00 | 礼拝説教
2013年4月21日 主日礼拝(創世記1:26-31)岡田邦夫


 「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記2:7、1:27

 電車やバスに乗るなど、雑踏の中に出ると、周囲を気にしている自分がいます。人通りの少ない道で、誰かが向こうから歩いてくる、知っている人か、知らない人か、向こうは私をどう見て、どう思っているか、気になります。わたしを意識しています。集合写真を見る時は、まず自分がどう写っているかを見まて、他の人はそれからです。それほど、人は「わたし」というものを意識しています。
 これから、使徒信条からメッセージをいたします。信条(クレド)というのは「あなたはこれを信じますか」への応答として、「わたしは信じます」と告白するものです。信仰と服従の決断を述べるものです。使徒信条はわたしは信じます…第一に父である神を、第二にイエス・キリストを、第三に聖霊を、という構成で、「わたしは」で始まります。
 聖書は進化仮説のように、人間の源流をさかのぼる物語を求めてはいません。わたしはどこから来て、どこへ行くのか、わたしは何者かとその存在の根拠を問うているのです。
 詩篇を見てみましょう(121:1-2、8:3-5口語訳)。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」。「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ」。そのように、「わたし」を意識し、わたしは何者かと尋ねているのです。

◇息とかたちと助け手と
 そこに光を与えているのが創世記1~3章です。「神である主は、土地(アダマ)のちりで人(アダム)を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」(2:7)。人は土という無価値な素材で形造られ、神の息、神の霊が吹き込まれた者だと告げます。そこで、人は、生きものとなった、神に存在の根拠がある者だ、無限に価値のある者なのだと宣言しているのです。全く無価値な者でありながら、無限大の価値ある者という不思議な存在なのです。神より低い所におかれてはいますが、神の息のかかった、重要な者として存在しているのです。神である主は人であるわたしにそうメッセージしているのです。
 1章にさかのぼってみましょう(1:26-27第三版)。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」とおっしゃられ、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」のです。われわれというのは三位一体の神です。その違う三位のお方が全く一つであられるという関係はわたしたちの想像を越えたものです。そのかたち(イメージ)=影のように、人は神と関係を持つようにと、神と差し向かうようにと造られたのです。わたしたちはそのような光栄ある位置におかれているのです。
 しかも、男は男として造られ、女は女として造られ、一緒ではなく、違うものとして造られました。さらに言うなら、すべて、わたしたちはそれぞれが固有の人格として造られ、生まれてきたのです。創造の神がこれをご覧になって、「それは非常によかった」と評されたのです。あなたもわたしも神の目から見ると出来がよいというのです。神は「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と言われ、男が深い眠りの中にいるときに、あばら骨一本を取り出し、肉付けをして、女を造りました。男はその女を見て、愛の歌を歌いました。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉…」(2:18、21-23)。わたしたちは違うからこそ、互いにふさわしい、向き合える助け手になれるのです。そう造られたのです。それは男女に限らず、わたしたちは他者のために生きるようにと造られたのです。

◇食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする
 しかし、狡猾(こうかつ)な蛇・サタンが誘惑します。エデンの園のどの実を食べてもいいと神がほんとうに言ったのかと、神のことばを疑わせます。そして、蛇は女に言うのです。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(3:5)。善悪というのは東西という意味も含んでいることばで、無限の東から無限の西という全領域、神の領域をさします。それを知ろうとするのは「神のようになる」ことです。被造物の身でありながら、実に傲慢の極みの罪です。エバもアダムも唯一の禁止命令を破り、善悪を知る木の実を食べてしまうのです。「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ5:12)。
罪の結果、二人は御顔を避け、身を隠します…神との関係の破壊。人(アダム)は他者(エバ)のせいにして責任転嫁します…他者との関係の破壊。人(エバ)は自分は悪くない、蛇・サタンが悪いと言い逃れます…主体性の喪失(3:8-13)。神のようになろうとした傲慢な人間、それもわたしのこと、エデンから追放されてしまいます。「それは非常によかった」が「それは非常に悪かった」になってしまったのです。

◇ああ、わたし 栄光、悲惨 同居して
 そこから、聖書全巻に渡って、神が人を救うという歴史、history、His story、神の物語が展開するのです。失われたいのちの息、失われた神のかたち、失われた助け手を取り戻すために、神が御顔を向け、御手を伸ばし、ついには御子イエス・キリストを遣わされたのです。わたしはどこから来たのかに光が与えられた次は、わたしはどこへ行くのかに光が与えられるのです。人であるわたしの回復です。プリズムにかければ、三つの光に分けられます。わたしはどこへ行くのでしょうか。神である主は人であるわたしの本来性を回復させ、主体性を回復させ、社会性を回復させようと熱心に導いておられるのです。関係を回復し、存在を回復し、使命を回復して、「それは非常によかった」という状況へと向かわせているのです。

 「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(コロサイ3:9ー10)。

同じ尊い信仰

2013-04-14 00:00:00 | 礼拝説教
2013年4月14日 主日礼拝(2ペテロ1:1)岡田邦夫


 「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」ユダの手紙1:3
 「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」ユダの手紙1:20-21
 「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。」2ペテロ1:1

 この三つの聖句が示すように、私たちの信仰がひとりよがりのものではなく、また、まやかしではなく、「聖徒にひとたび伝えられた信仰であり、最も聖い信仰であり、私たち(使徒)と同じ尊い信仰である」ということです。それが2000年の教会の歴史の中で、脈々と受け継がれてきました。
 その中で、宗教改革者たちはその信仰とは何かを述べている、三つの文章を取り出しました。その三文章というのは、使徒信条、十戒、主の祈りです。洗礼準備に用いられてきました。使徒信条は聖書全体の要約とも言えますし、救いについて急所を述べているものです。十戒は旧約聖書を代表するものであり、主の祈りは新約聖書を代表するものです。
 使徒信条は聖書全体のメッセージに対して「このように信じます」という信仰告白です。聖書全部をただ読み通しても、色々の解釈が生じますので、使徒信条は聖書を解いていく鍵になり、キリスト教信仰はこれであるということを言い表しています。ですから、教派をこえて、共通の、基本的な信仰を言い表しているものです。違った教えと区別するものでもあります。
 十戒は神とその民との契約なのですが、「このように生きなさい」という教えでもあります。人の生き方、信仰者の生き方を示すものです。根本的なものです。主の祈りは主イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えられた祈りです。終末に生きる者の祈りです。
 この三つ、「このように信じます」「このように生きます」「このように祈ります」は初歩的な学びだけではなく、生涯かけて学び、信仰を会得していくものです。この信仰は自分たち自身が神の御前に立てるようにし、また、次の世代に伝えいくものです。たえず口にし、吟味し、身につけてまいりましょう。
 ある牧師は母親が病に倒れたときに、使徒信条を教えました。教えたというより伝えたといったらよいでしょう。そうして、母親は救いに導かれ、安らかに天に召されていったという証しを聞いたことがあります。問題のある子供のことでは苦労していたある主婦が、その反抗期の子供から、ひどい言葉をあびせられました。カーッとなって、台所にいき、包丁を手に握りしめていました。その時に、十戒の殺すなかれという言葉が臨んできて、われに返り、包丁をおきました。そのまま、教会に走っていき、涙をあふれさせ、悔い改めの祈りをしました。その婦人はその時、人類を救うために御子を犠牲にされた神の愛がわっかたそうです。ある高校生が試験場でたいへん緊張してしまい、心は動揺し、頭が働かなくなっていました。その時に、ゆっくり、心の中で、主の祈りを三回、祈りました。すると、気になっていた周りの生徒も見えなくなって、そこにはイエスさまだけがおられるような感じられ、心が平安になり、しっかりと答案が書けたという証しを聞いたことがあります。答案が書けたことより、主と共にある時の平安を経験したことが嬉しかったと言っていました。

 この年度、一年かけて、伝道礼拝以外の主日礼拝で、この三つからの説教をさせていただきたいと思ってます。私たちはこの三点セットしっかり身につけ、使いこなせるように、まずはその文章を覚えましょう。また、口にしましょう。他の方と共にその信仰を共有してまいりましょう。

聖徒にひとたび伝えられた信仰

2013-04-07 00:00:00 | 礼拝説教
2013年4月7日 主日礼拝(ユダの手紙1:1-4、7-25)岡田邦夫


 「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう」(ユダの手紙1:3)

 近年、コンピュター・ネットワークにより、世界中の誰とでも簡単に交流ができるようになりました。一方、生身の人間のふれあいが薄れていると言う人もいれば、そういう機器を通して、交流が豊かになっていると言う人もいます。いずれにしても、人と人を結びつけるものが打算などを越えたものを大切にしたいものです。

◇トライアングル
 ここに一章しかない手紙が聖書の正典に入れられています。黙示録の前に置かれているユダの手紙です。ユダはヤコブの兄弟、ヤコブは主イエスの兄弟なので、ユダは主イエスの兄弟ということになります。しかし、イエス・キリストのしもべだと言って、手紙を書き出しています。そして、手紙の相手が誰だったか、よくわかりませんが、何ともうるわしいあいさつが記されています。「父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ」とか、「愛する人々」と呼んでいます(1,3,17,20)。
 神に愛されているというのも、三位一体の神に愛されているというものです。三位というのは「父なる神」と「イエス・キリスト」と「聖霊」です(20)。しかも「唯一の神」(25)として、一体なのです。それで、三位一体というのです。父・子・聖霊の三位の神が愛の交わりにおいて完全に一体なのでお一人なのだと説明した神学者がいます。そのような、そのような三位の中での躍動的な愛があふれ出て、罪深い私たちを愛してくださっているのです。それは計り知れない愛です。私の今心にある新聖歌は359番です(愛唱歌)。
 罪深きこの身を 愛して イエスは木に掛かられ いのち捨てぬ
 何たる愛ぞ! 愛ぞ! 涙に ただむせびて イエスを見るほかなし
 救いはこの身に 成就しぬ われいかで疑わん 主のみわざを
 また、キリスト教の三本柱というのも、この文面に見受けられます。信仰と希望と愛です。愛はすでに出てきましたが、信仰は3節「信仰のために戦うよう」と20節「聖い信仰の上に」とあります。希望は出てこないのですが、日本語だと21節に「あわれみを待ち望みなさい。」の待って望むとあります(英語だとウェイトなのですが、望みがあるから待つわけです)。私たちを永遠に支えるのはこの信望愛の三本柱なのです(1コリント13:13)。信仰に生き、希望に生き、愛に生きるなら、永遠の神との絆はしっかりと結ばれ、死も審判も揺り動かされないのです。

◇トラディショナル
 このユダの手紙は教会に異端が忍び込んできたんので、福音の真理を守るようにと書き送ったのです。異端者は「不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです」。過去に裁きがあったことを列挙します。エジプトの地から救い出されたのに、不信仰者は滅ぼされたこと。続いて、堕天使、ソドム・ゴモラ、ミカエル、カイン、コラをあげています。そして、「すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」と警告します(1:15)。
 そして、前向きに信仰に生きることを勧めます。「
 「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました」。「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください」。「愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」(1:3 1:17、20-21)。
聖徒にひとたび伝えられた信仰、自分の持っている最も聖い信仰を守り、築き上げることが最も大切なことです。信仰の伝承です。キリスト教の伝統を継承していくことです。教会で借りている畑で、黒豆を栽培しています。最も心がけていることは、丸くて、大きくて、黒光りした豆を残すことです。収穫した黒豆をふるい分けて、大きいて、まん丸な、一番いい豆を先にわけ500~1000粒を残します。次の年に、400本ほどを育てるためです。良い種からは良い実がなるからです。それを除いたものを食べるというわけです。
 使徒たちが命をかけて残してくれた最上級の信仰をしっかりと受けとめてまいりましょう。駅伝のように信仰のたすきを、初代教会、古カトリック教会、中世の教会、宗教改革、敬虔主義運動、ホーリネスと渡されてきました(私たちの流れ)。この信仰を守り、守るだけではなく、信仰をきよいものに磨き、信仰を強固なものに築き上げ、最も良いものを残していきましょう。私たちは神に召されて、そういうキリスト信仰の伝統を守る光栄ある勤めがあるのです。もちろん、三位一体の神は「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方」です(1:24)。