2016年2月28日 伝道礼拝(ヨハネ福音書3:16)岡田邦夫
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3:16
大阪ローカルのテレビCMで面白いのを発見しました。シニア夫婦が質問に答えるように言います。主人が「えっ?夫婦円満の秘訣?」。奥さんがすかさず、机ポンとたたいて…、「ずばりっ、言いたいことをゆう。ほんま、このひと選んで…よかった思てますぅ」。主人は迷惑そうな顔で…「我慢の賜物ですわ」。「お葬式も、ちゃんと選んだら」と葬儀屋さんの宣伝でした。どこかにこんな夫婦、ありそうだなあ、と思いつつ、微笑んでしまいました。人の愛のかたちは色々ですね。話は飛びますが、今日は究極の愛についてお話しいたしましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」です。宗教改革者マルティン・ルターがこう言いました。「もし聖書の御言葉が全て失われたとしても、このヨハネ3章16節だけが残れば、福音の本質は誤りなく伝えられるであろう。…小福音書である」。
子どもの賛美で神の愛はどれほどなのかと出だす歌があります。「ある日イエスさまに聞いたんだ。どれくらいぼくを愛してるの?これくらいかな?これくらいかな?…」(両手いっぱいの愛・プレイズワールド13=新聖歌483)。小福音書は「そのひとり子をお与えになったほどに」です。それほどの愛でだれを愛したのでしょうか。「世を」愛されたのです。言語のギリシャ語「コスモス」は調和のとれた「世界」の意味ですが、聖書では罪に満ちた「世俗」の意味にも使われています。神が愛されたのは両方の意味だと思います。世界の人間を愛し、世俗の人間を愛されたのです。
昨今、歴史認識がなんだかんだ言われていますが、全体像を押さえておく必要があると思い、私は世界史の全体を一枚の紙にまとめてみようと試みています。何しろ膨大なので、一冊ものの本を集めて、やっていますが、この年になって、しかも、苦手な分野、なかなかしんどいものがあります。そうしていると、神は世を愛されたという、その「世」とは何か、歴史の上で見えてきたというか、感じられてきたものがあります。
◇はなはだ良いから
文化=カルチャーの語源はラテン語の「土を耕す」からきています。「自然発生では無く人間の行為によって」が含まれ農業との関連が強いです。例えば、紙一枚とってみても、どれだけの工程や労力を経てここにあるのでしょうか。販売ルートがあり、工場での製造工程、その材料の調達過程があって、私たちの手元に来ています。その木材は何十年も前に植えた木、その製造機械もそれ用に作られたもの。運搬車も、従事者もいれば、電気やガソリンも使います。紙一枚にも文化があるのです。また、紙というものがどれだけ文化を築き上げるのに貢献してきたことでしょうか。物もそうですが、社会に仕組みやルールなども作り上げてきました。日本でいえば縄文時代から文明があったのですから、驚きです。
そのように人間は文明、文化を耕すものに造られたのだと私は思います。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日」と創造者が言われています(創世記1:31)。大自然も非常に良いものですが、それを用いて、人が耕した文化も、背後に神がおられ、非常に良いと言っておられるのではないかと私は思います。
ただ、何でもいいというわけではありません。
◇はなはだ悪くても
世界史の図式という本を見ると、図式にシンプルにまとめていまして、参考になりました。自然に恵まれていれば、そこで穏やかに生活しているわけですが、そこが乾燥する自然に恵まれない土地だったりすると、他からとってこなければならず、ほかの人々から奪って生き延びようとします。それが欲が絡んでくると、侵略が起こり、支配するものと支配されるものという図式になっていきます。そこに大量の殺害が起こり、奴隷が生まれます。人種差別が起こりました。
人を殺す武器が作られ、支配する仕組みが作られ、築いてきた文明が破壊さ、人間さえも抹殺されました。初めは中東、アジア、ヨーロッパの三つの世界の並び立つ時代(鼎立(ていりつ))がありました。後に世界的になる宗教が登場します(キリスト教も)。この時代も侵略、略奪、搾取、殺害、奴隷…がありました。これが序章です。しかし、大規模な勢力拡大が始まります。大まかにいうとこうです。
第1章はイスラム国家が生まれると、目標が世界征服ですから(布教によるか、武力によるか)、中東の勢力が拡大します。陸続きでアジアにヨーロッパに及びます。ランド・パワーの時代です。ここにどれだけの命が失われ、犠牲があったでしょうか。
第2章は大航海の時代です。シー・パワーの時代。ヨーロッパが全世界を植民地にしていきます。キリスト教やヨーロッパ文化が広まったとはいえ、植民地化された側は悲惨な歴史をたどります。侵略、略奪、搾取、殺害、奴隷…どれだけの命が失われ、犠牲があったでしょうか。
第3章はエアー・パワーの時代。飛行機や大量破壊兵器が作られ、世界中が戦火に巻き込まれ、数百万かそれ以上に犠牲者をだし、多くの文化都市、文化財が破壊させられました。人種差別もひどいものでした。第一大戦、第二字大戦で、戦争は終わってはいません。1章の問題も2章の問題も、3章の問題もいまだに引きずっています。
こう見ていくと世界史は侵略の歴史、残酷の歴史と言えます。聖書の言う「義人はいない。一人もいない。みな罪をおかして」はその通りです。
それが「世」です。そのドロドロした醜い世を神は愛されたのです。残酷で無慈悲な、高慢な人々の世を愛されたのです。その愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」は人知をはるかに超えたものです(エペソ3:18-19)。数学の世界でこの宇宙をリボンで結べるかという問題があり、生涯かけてその数学の難問を解いた人がいます。この罪に満ちた「世」を包み込める愛は人知を超えた神の愛です。
滅んでしまわないようにと、神は御子イエス・キリストをこの世の罪の身代わりにされました。十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫びました。愛は捨てないことです。ご自分の御子を棄てて、信じる私たちを愛をもって救われたのです。救われた私たちを神は決して捨てないのです。永遠に捨てないのです。共にいてくださるのです。
戦争のさなかに私は生まれ、東京から田舎に疎開していました。東京大空襲で一帯が焼け野原、終戦後、家がなく、長屋に住んでいました。日の当たらぬぼろ屋なので、一家で働いて、郊外に家をたて越しました。私、6年生の時でした。隣の2人の姉妹と田んぼで魚取りをした後、縁側に並んで座って話をしていました。そのお姉ちゃんの方が泥のついた球網をふりまわし、戸袋に当たって、泥が新築の家に着いた。おとなしい私、むっとした顔をしたら、面白いか、あははと笑った。私、カーっとなって、その姉の首を思い切りしめていたのです。妹が叫びました。「クンちゃんがお姉ちゃんを殺そうとしてる!」。はっと我に返って手をほどきました。その時のことを思うと、殺人も他人ごとではない、そういう条件があれば、侵略、略奪、搾取、殺害、奴隷にする人だと私は感じています。その世の人、罪の人を、御子を身代わりにしてまで、永遠の救いに導こうとしておられる神の愛は何と素晴らしいことか、何と麗しいことか、ありがたさに心が震えます。
いつも、この福音から出て、この福音に返ってきましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3:16
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3:16
大阪ローカルのテレビCMで面白いのを発見しました。シニア夫婦が質問に答えるように言います。主人が「えっ?夫婦円満の秘訣?」。奥さんがすかさず、机ポンとたたいて…、「ずばりっ、言いたいことをゆう。ほんま、このひと選んで…よかった思てますぅ」。主人は迷惑そうな顔で…「我慢の賜物ですわ」。「お葬式も、ちゃんと選んだら」と葬儀屋さんの宣伝でした。どこかにこんな夫婦、ありそうだなあ、と思いつつ、微笑んでしまいました。人の愛のかたちは色々ですね。話は飛びますが、今日は究極の愛についてお話しいたしましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」です。宗教改革者マルティン・ルターがこう言いました。「もし聖書の御言葉が全て失われたとしても、このヨハネ3章16節だけが残れば、福音の本質は誤りなく伝えられるであろう。…小福音書である」。
子どもの賛美で神の愛はどれほどなのかと出だす歌があります。「ある日イエスさまに聞いたんだ。どれくらいぼくを愛してるの?これくらいかな?これくらいかな?…」(両手いっぱいの愛・プレイズワールド13=新聖歌483)。小福音書は「そのひとり子をお与えになったほどに」です。それほどの愛でだれを愛したのでしょうか。「世を」愛されたのです。言語のギリシャ語「コスモス」は調和のとれた「世界」の意味ですが、聖書では罪に満ちた「世俗」の意味にも使われています。神が愛されたのは両方の意味だと思います。世界の人間を愛し、世俗の人間を愛されたのです。
昨今、歴史認識がなんだかんだ言われていますが、全体像を押さえておく必要があると思い、私は世界史の全体を一枚の紙にまとめてみようと試みています。何しろ膨大なので、一冊ものの本を集めて、やっていますが、この年になって、しかも、苦手な分野、なかなかしんどいものがあります。そうしていると、神は世を愛されたという、その「世」とは何か、歴史の上で見えてきたというか、感じられてきたものがあります。
◇はなはだ良いから
文化=カルチャーの語源はラテン語の「土を耕す」からきています。「自然発生では無く人間の行為によって」が含まれ農業との関連が強いです。例えば、紙一枚とってみても、どれだけの工程や労力を経てここにあるのでしょうか。販売ルートがあり、工場での製造工程、その材料の調達過程があって、私たちの手元に来ています。その木材は何十年も前に植えた木、その製造機械もそれ用に作られたもの。運搬車も、従事者もいれば、電気やガソリンも使います。紙一枚にも文化があるのです。また、紙というものがどれだけ文化を築き上げるのに貢献してきたことでしょうか。物もそうですが、社会に仕組みやルールなども作り上げてきました。日本でいえば縄文時代から文明があったのですから、驚きです。
そのように人間は文明、文化を耕すものに造られたのだと私は思います。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日」と創造者が言われています(創世記1:31)。大自然も非常に良いものですが、それを用いて、人が耕した文化も、背後に神がおられ、非常に良いと言っておられるのではないかと私は思います。
ただ、何でもいいというわけではありません。
◇はなはだ悪くても
世界史の図式という本を見ると、図式にシンプルにまとめていまして、参考になりました。自然に恵まれていれば、そこで穏やかに生活しているわけですが、そこが乾燥する自然に恵まれない土地だったりすると、他からとってこなければならず、ほかの人々から奪って生き延びようとします。それが欲が絡んでくると、侵略が起こり、支配するものと支配されるものという図式になっていきます。そこに大量の殺害が起こり、奴隷が生まれます。人種差別が起こりました。
人を殺す武器が作られ、支配する仕組みが作られ、築いてきた文明が破壊さ、人間さえも抹殺されました。初めは中東、アジア、ヨーロッパの三つの世界の並び立つ時代(鼎立(ていりつ))がありました。後に世界的になる宗教が登場します(キリスト教も)。この時代も侵略、略奪、搾取、殺害、奴隷…がありました。これが序章です。しかし、大規模な勢力拡大が始まります。大まかにいうとこうです。
第1章はイスラム国家が生まれると、目標が世界征服ですから(布教によるか、武力によるか)、中東の勢力が拡大します。陸続きでアジアにヨーロッパに及びます。ランド・パワーの時代です。ここにどれだけの命が失われ、犠牲があったでしょうか。
第2章は大航海の時代です。シー・パワーの時代。ヨーロッパが全世界を植民地にしていきます。キリスト教やヨーロッパ文化が広まったとはいえ、植民地化された側は悲惨な歴史をたどります。侵略、略奪、搾取、殺害、奴隷…どれだけの命が失われ、犠牲があったでしょうか。
第3章はエアー・パワーの時代。飛行機や大量破壊兵器が作られ、世界中が戦火に巻き込まれ、数百万かそれ以上に犠牲者をだし、多くの文化都市、文化財が破壊させられました。人種差別もひどいものでした。第一大戦、第二字大戦で、戦争は終わってはいません。1章の問題も2章の問題も、3章の問題もいまだに引きずっています。
こう見ていくと世界史は侵略の歴史、残酷の歴史と言えます。聖書の言う「義人はいない。一人もいない。みな罪をおかして」はその通りです。
それが「世」です。そのドロドロした醜い世を神は愛されたのです。残酷で無慈悲な、高慢な人々の世を愛されたのです。その愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」は人知をはるかに超えたものです(エペソ3:18-19)。数学の世界でこの宇宙をリボンで結べるかという問題があり、生涯かけてその数学の難問を解いた人がいます。この罪に満ちた「世」を包み込める愛は人知を超えた神の愛です。
滅んでしまわないようにと、神は御子イエス・キリストをこの世の罪の身代わりにされました。十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫びました。愛は捨てないことです。ご自分の御子を棄てて、信じる私たちを愛をもって救われたのです。救われた私たちを神は決して捨てないのです。永遠に捨てないのです。共にいてくださるのです。
戦争のさなかに私は生まれ、東京から田舎に疎開していました。東京大空襲で一帯が焼け野原、終戦後、家がなく、長屋に住んでいました。日の当たらぬぼろ屋なので、一家で働いて、郊外に家をたて越しました。私、6年生の時でした。隣の2人の姉妹と田んぼで魚取りをした後、縁側に並んで座って話をしていました。そのお姉ちゃんの方が泥のついた球網をふりまわし、戸袋に当たって、泥が新築の家に着いた。おとなしい私、むっとした顔をしたら、面白いか、あははと笑った。私、カーっとなって、その姉の首を思い切りしめていたのです。妹が叫びました。「クンちゃんがお姉ちゃんを殺そうとしてる!」。はっと我に返って手をほどきました。その時のことを思うと、殺人も他人ごとではない、そういう条件があれば、侵略、略奪、搾取、殺害、奴隷にする人だと私は感じています。その世の人、罪の人を、御子を身代わりにしてまで、永遠の救いに導こうとしておられる神の愛は何と素晴らしいことか、何と麗しいことか、ありがたさに心が震えます。
いつも、この福音から出て、この福音に返ってきましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3:16