オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

愛はどこまでも

2016-02-28 23:09:43 | 礼拝説教
2016年2月28日 伝道礼拝(ヨハネ福音書3:16)岡田邦夫


 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3:16

大阪ローカルのテレビCMで面白いのを発見しました。シニア夫婦が質問に答えるように言います。主人が「えっ?夫婦円満の秘訣?」。奥さんがすかさず、机ポンとたたいて…、「ずばりっ、言いたいことをゆう。ほんま、このひと選んで…よかった思てますぅ」。主人は迷惑そうな顔で…「我慢の賜物ですわ」。「お葬式も、ちゃんと選んだら」と葬儀屋さんの宣伝でした。どこかにこんな夫婦、ありそうだなあ、と思いつつ、微笑んでしまいました。人の愛のかたちは色々ですね。話は飛びますが、今日は究極の愛についてお話しいたしましょう。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」です。宗教改革者マルティン・ルターがこう言いました。「もし聖書の御言葉が全て失われたとしても、このヨハネ3章16節だけが残れば、福音の本質は誤りなく伝えられるであろう。…小福音書である」。


 子どもの賛美で神の愛はどれほどなのかと出だす歌があります。「ある日イエスさまに聞いたんだ。どれくらいぼくを愛してるの?これくらいかな?これくらいかな?…」(両手いっぱいの愛・プレイズワールド13=新聖歌483)。小福音書は「そのひとり子をお与えになったほどに」です。それほどの愛でだれを愛したのでしょうか。「世を」愛されたのです。言語のギリシャ語「コスモス」は調和のとれた「世界」の意味ですが、聖書では罪に満ちた「世俗」の意味にも使われています。神が愛されたのは両方の意味だと思います。世界の人間を愛し、世俗の人間を愛されたのです。
 昨今、歴史認識がなんだかんだ言われていますが、全体像を押さえておく必要があると思い、私は世界史の全体を一枚の紙にまとめてみようと試みています。何しろ膨大なので、一冊ものの本を集めて、やっていますが、この年になって、しかも、苦手な分野、なかなかしんどいものがあります。そうしていると、神は世を愛されたという、その「世」とは何か、歴史の上で見えてきたというか、感じられてきたものがあります。

◇はなはだ良いから
 文化=カルチャーの語源はラテン語の「土を耕す」からきています。「自然発生では無く人間の行為によって」が含まれ農業との関連が強いです。例えば、紙一枚とってみても、どれだけの工程や労力を経てここにあるのでしょうか。販売ルートがあり、工場での製造工程、その材料の調達過程があって、私たちの手元に来ています。その木材は何十年も前に植えた木、その製造機械もそれ用に作られたもの。運搬車も、従事者もいれば、電気やガソリンも使います。紙一枚にも文化があるのです。また、紙というものがどれだけ文化を築き上げるのに貢献してきたことでしょうか。物もそうですが、社会に仕組みやルールなども作り上げてきました。日本でいえば縄文時代から文明があったのですから、驚きです。
 そのように人間は文明、文化を耕すものに造られたのだと私は思います。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日」と創造者が言われています(創世記1:31)。大自然も非常に良いものですが、それを用いて、人が耕した文化も、背後に神がおられ、非常に良いと言っておられるのではないかと私は思います。
 ただ、何でもいいというわけではありません。

◇はなはだ悪くても
 世界史の図式という本を見ると、図式にシンプルにまとめていまして、参考になりました。自然に恵まれていれば、そこで穏やかに生活しているわけですが、そこが乾燥する自然に恵まれない土地だったりすると、他からとってこなければならず、ほかの人々から奪って生き延びようとします。それが欲が絡んでくると、侵略が起こり、支配するものと支配されるものという図式になっていきます。そこに大量の殺害が起こり、奴隷が生まれます。人種差別が起こりました。
 人を殺す武器が作られ、支配する仕組みが作られ、築いてきた文明が破壊さ、人間さえも抹殺されました。初めは中東、アジア、ヨーロッパの三つの世界の並び立つ時代(鼎立(ていりつ))がありました。後に世界的になる宗教が登場します(キリスト教も)。この時代も侵略、略奪、搾取、殺害、奴隷…がありました。これが序章です。しかし、大規模な勢力拡大が始まります。大まかにいうとこうです。
 第1章はイスラム国家が生まれると、目標が世界征服ですから(布教によるか、武力によるか)、中東の勢力が拡大します。陸続きでアジアにヨーロッパに及びます。ランド・パワーの時代です。ここにどれだけの命が失われ、犠牲があったでしょうか。
 第2章は大航海の時代です。シー・パワーの時代。ヨーロッパが全世界を植民地にしていきます。キリスト教やヨーロッパ文化が広まったとはいえ、植民地化された側は悲惨な歴史をたどります。侵略、略奪、搾取、殺害、奴隷…どれだけの命が失われ、犠牲があったでしょうか。
 第3章はエアー・パワーの時代。飛行機や大量破壊兵器が作られ、世界中が戦火に巻き込まれ、数百万かそれ以上に犠牲者をだし、多くの文化都市、文化財が破壊させられました。人種差別もひどいものでした。第一大戦、第二字大戦で、戦争は終わってはいません。1章の問題も2章の問題も、3章の問題もいまだに引きずっています。
 こう見ていくと世界史は侵略の歴史、残酷の歴史と言えます。聖書の言う「義人はいない。一人もいない。みな罪をおかして」はその通りです。

 それが「世」です。そのドロドロした醜い世を神は愛されたのです。残酷で無慈悲な、高慢な人々の世を愛されたのです。その愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」は人知をはるかに超えたものです(エペソ3:18-19)。数学の世界でこの宇宙をリボンで結べるかという問題があり、生涯かけてその数学の難問を解いた人がいます。この罪に満ちた「世」を包み込める愛は人知を超えた神の愛です。
 滅んでしまわないようにと、神は御子イエス・キリストをこの世の罪の身代わりにされました。十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫びました。愛は捨てないことです。ご自分の御子を棄てて、信じる私たちを愛をもって救われたのです。救われた私たちを神は決して捨てないのです。永遠に捨てないのです。共にいてくださるのです。
 戦争のさなかに私は生まれ、東京から田舎に疎開していました。東京大空襲で一帯が焼け野原、終戦後、家がなく、長屋に住んでいました。日の当たらぬぼろ屋なので、一家で働いて、郊外に家をたて越しました。私、6年生の時でした。隣の2人の姉妹と田んぼで魚取りをした後、縁側に並んで座って話をしていました。そのお姉ちゃんの方が泥のついた球網をふりまわし、戸袋に当たって、泥が新築の家に着いた。おとなしい私、むっとした顔をしたら、面白いか、あははと笑った。私、カーっとなって、その姉の首を思い切りしめていたのです。妹が叫びました。「クンちゃんがお姉ちゃんを殺そうとしてる!」。はっと我に返って手をほどきました。その時のことを思うと、殺人も他人ごとではない、そういう条件があれば、侵略、略奪、搾取、殺害、奴隷にする人だと私は感じています。その世の人、罪の人を、御子を身代わりにしてまで、永遠の救いに導こうとしておられる神の愛は何と素晴らしいことか、何と麗しいことか、ありがたさに心が震えます。
 いつも、この福音から出て、この福音に返ってきましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3:16

聖化には法則がある

2016-02-21 07:55:59 | 礼拝説教
2016年2月21日 主日礼拝(ローマ人への手紙6:1~11)於・みのお泉教会、岡田邦夫


 「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。ローマ人への手紙6:11(口語訳)

 息子が言っていましたキリスト教の保育園で、クリスマス会があり、子供たちの聖劇の後、園長先生のこのようなお話がありました。ある船が大海原で嵐にあいました。船が木の葉のように波風にもまれて、沈まないようにと荷物も食べ物もみな捨てました。船はこわれ、舵もきかなくなってしまい、ただただ荒波に揺れているだけでした。波は静まっても船はどこにいるのかわかりません。外には海水があるのに飲む水が一滴もなくて困りました。すると一隻の船を発見。「水をください」と叫ぶと、こう声が返ってきました。「ロープを付けたバケツをおろしてみろ。ここは川ではないか」。何と海だと思っていたら、大きな川の河口に船は入り込んでいたのです。そのように神さまは私たちが気づかないうちに救いの中に入れていてくれるので、お祈りして、恵みをいただきましょう」。
 そのように、私たちは恵まれていないと感じていても、実は神の恵みの中にいるということにどうしても気付く必要があります。

◇「知らないのか」…結びつきの法則
 「それとも、あなたがたは知らないのか。」と聖書は問いかけます。「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである」(6:3)。すでに洗礼受けている者たちに、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんかと言います。
 「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(6:4)。
 私たちは実際、自分のバプテスマ(受洗)の時にその意味をそれほど深く、捕らえていたでしょうか。洗礼の時に決定的なことが起こったのでが、しかし、それが解るのはたいがい後になってからです。
 まず、キリストが死んでよみがえられたのは一度限り。洗礼も一度限りです。洗礼において起こったことは、古い人がキリストと共に死んだのです。そして、よみがえられたキリスト共に新しい命に生きる者となったのです。
 キリストの死はただ一度で人類の救いには十分で、完全です(6:10)。キリストと私が結びついて「共に」死に「共に」よみがえったのです(6:5)。古い私は2千年前のゴルゴダでキリストともに死んでいるのです。イースターの朝、キリストともによみがえった新しい私がいるのです。すべてのキリスト者はその時死んで、その時よみがえっているのです。そして、その救いを個々に手渡すために、父と子と聖霊の名による洗礼の時を設けられたのです。私の歴史の中では受洗の時がキリストに結びついて死んだ日であり、新しい私によみがえった時なのです。これが「結びつき」の法則です。

 テーブルの上に、やかんで水を注ぐと、水はテーブルの上を広がっていきます。そのように歴史の上になされた、ただ一度の十字架の救いの恵みは過去にも現在にも将来にも、東西南北、信じるものの全体におよび、行き渡るのです。そして、私の人生においてもそうなのです。父子聖霊のバプテスマの一点から、私の過去、現在、未来、そして、私の全領域に救いはおよんでいるのです。
 全能の神、愛に満ちた父がなされたことですから、だれが何と言おうとも、圧倒的な事実なのです。しかし、まだ続きがあります。

◇「認むべきである」…うなずきの法則
 とはいえ、現実の生活はどうでしょうか。信仰者は熱心であればあるほど、自分が罪深いことに悩まされます。パウロはそうでした。悪いことはやめようと思うけれど、してしまう、良いことをしようと思うけれど、できない。むさぼるなという戒め、守ろうとすればするほどむさぼってしまう自分がいる。隣人を愛しなさいというけれど、愛せない。罪の奴隷みたいだ、罪の法則というのがあるようだ(7:23)。しかし、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放したのである」と神は言うのです(8:2)。「御霊の法則」によって、罪の法則から解放されるのです。
 今、することがあります。6章5節。もしわたしたちが、彼に“結びついて”その“死の様にひとしく”なるなら、さらに復活の様にもひとしくなるであろう」。聖書学院・修養生の時に、ウィルダムス宣教師が説教されたのを忘れることができません。昔、ローマで最も残酷な死刑にこのようなものがありました。受刑者にほかの死体を体と体、顔と顔を向かい合わせに縛り付けるというのです。死体の腐れが生きた者にうつり、腐って死んでいく、世にも恐ろしい処刑でした。罪びとの私がキリストと結びつけるとはそのようなもの。私の罪の体の腐れが、キリストのみ体を腐らせ、死に至らせたということなのです。残酷でいい例話でないかもしれませんが、それほどまでして、愛を注いでこの罪深い者と結びついてくださったのです。
 車田秋次先生が説教で接ぎ木のたとえをされました。渋柿の幹のほうを斜めに切れるナイフで切ります。渋柿は私たち、悔い改めて罪を切り捨てると心は痛みます。甘柿の芽はイエス・キリスト、十字架において贖いのために切られて、壮絶な痛みを味あわれました。私の悔い改めの切り口とイエス・キリストの十字架の切り口を結びついけると永遠の命につながり、甘い柿の実、すなわち、御霊の実を結ぶようになるのです。
 歴史の上では2千年前にキリストと共に死に、共によみがえったのですし、私の中ではバプテスマの時にキリストと共に死に、共によみがえったのですが、それが実感としてわかるように、「今」キリストと結びついて、共に死に、共によみがえったのだという信仰経験をしましょう。それをさせてくださるのが聖霊なのです。それが御霊の法則によるきよめ(聖化)の経験なのです。それこそ現実味のある信仰経験です。

 聖書はこう命じています。「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(6:11「と思いなさい」「と考えなさい」とも訳されている)。今、私はキリストと共なる死生を「認むべきである」。言語はロギゾマイ。商業用語では「帳尻が合わないけれど合わしてしまう」ということにも使うそうです(バークレー)。理性や感性では計算が合わなくても、そうなんだと認めてしまいなさいと聖霊が促します。聖霊は認めますと言わせてくれるのです。今、私は新しくされたと確信させてくれるのです。
 私は若い時、その明確な経験をしました。20歳で洗礼を受け、救われたことが嬉しくて、気が弱くて、無口な人間が家族や友人を教会に誘ったり、証しをしたり、路傍伝道をしたりしていました。さらに日曜学校をさせてほしいとまで言い出しまして、その奉仕の一端を担わせてもらいました。ところがある日、牧師夫人に呼び出されて、「岡田兄弟、あなたの魂はこの頃おかしい!」と指摘されました。その時、思い当たりました。その奉仕の動機が主のために、また、生徒のためにしているのではなく、実に人にいいところを見せようとしてだけだったと気付きました。その時、牧師夫妻の前で悔い改めて祈ったのですが、聖霊が強く働いたような気がします。家に帰ってからも、その件だけでなく、色んな罪が思い起こされ、神の前にいかに罪深い者かがわかり、その自分が情けなくて、情けなくて、一晩泣き明かしました。
 次の朝、鏡を見ると瞼ははれて、目は真っ赤。このままじゃ、会社に行くのは恥ずかしくてたまらない。うそを言って休むわけにはいかない。行くしかない。満員電車も最後に乗って、ドアにへばりつて、顔を見られないよにする。京浜東北線に乗り換えて、東京駅、有楽町駅で多くの人が降り、新橋駅で大部分の人が降りて、車内がガランとした時のことです。細き声が聞こえてきました。「わたしが世の者でないように、彼らも世の者ではありません」。内側から心に響く声です。これは何の言葉だろうと思っていると、また、「わたしが世の者でないように、彼らも世の者ではありません」と聞こえる。そこでハッと気付きました。聖書の言葉だ。いつかは覚えていないが、説教で聞いたことがある。イエス・キリストのみ言葉だ。昨夜悩んだこんな罪深い者を主が世の者でないように、十字架によって罪赦され、世の者でないとはっきりと言ってくださる。何という恵み、何という愛、何という救いだろう。感謝します。アーメンでした。心は晴れ晴れしていました。世の者でないのだ。嬉しくてたまらなかった。新橋の景色が輝いて見えたのです。
キリストに「結びついて」古い私に死んで、新しい私になったと聖霊が確証を与えてくれたのです。初め、聖霊は私に罪を認めさせましたが、次、聖霊はキリスト・イエスにあって神に生きている者であること(聖化されたこと)を、認めさせたのだと確信しています。

 今というこの瞬間、十字架においてとバプテスマにおいて、私に対してなされた決定的な救いの御業を知り、今、私の内になされている聖化の恵みを認め、義のしもべとして生きてまいりましょう。

発見:「信じるだけ」という信じられないこと

2016-02-14 18:35:00 | 礼拝説教
2016年2月14日 主日礼拝(ローマ人への手紙3:21~30)岡田邦夫
 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。…また、イエスを信じる者を義とお認めになるのです。」ローマ人への手紙3:24、26抜粋

 昨年、大村智教授がノーベル医学・生理学賞を受賞しました。土の中で「発見」した微生物から、アメリカの製薬会社と共同でイベルメクチンという薬を開発。大村氏はその特許権を放棄し、WHOを通じ、アフリカや中南米などで延べ10億人以上に無償提供されました。それでそれらの人々を失明の危機から救ったことなどから、受賞が決まったとのことです。

◇ルターの発見
 一人の息子が父の期待を受けて法律家になるべく、ドイツはエアフルト大学に入学した。1505年のある日、彼は家を出て大学へ向かった。シュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨に襲われ、目の前に雷が落ちた。彼は死の恐怖に襲われて叫んだ。「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」。両親の反対を押し切り、誓ったとおり、アウグスティヌス会修道院に入る。彼の名はマルティン・ルター。修道院で厳しい修行をしながら、神学博士号を得て、聖書教授となる。しかし、聖書を学べば学ぶほど、当時の教会の教義に疑問を持ち、修行すればするほど、魂に平安がないのである。ルターは苦しみ続けた。が、神学校の塔にあった図書室で、突如光を受けたのである。それが今日、話します「信仰義認」です。福音の再発見でありました。塔の発見と言います。そこには切なる求めがあり、ただ、信じて救われるという福音を発見し、確かな答えを得たのです。その感動と確信たるや並々ならぬものがあったでしょう。それが宗教改革へと伸展(1517年)。世界に福音が届けられることになっていくのです。

◇パウロの発見
 サウロというユダヤ教の青年も衝撃的な出来事に遭遇します。ユダヤの最高法院でステパノという人が捕らえられ、キリスト教の弁明をしていた。それを聞いたユダヤ教徒たちにはそれが邪教にしか思えなかった。これは神を冒涜している…はらわたが煮え切る思いで歯ぎしりをし、彼を町の外に連れ出した。大声で呪い、雨あられと石を投げつけ、殺したのだ。サウロは証人たちの脱いだ上着の番をして、その光景を見ていた。それから、サウロはキリスト教は邪教、撲滅せねばと、正義感に燃え、活動していくのである。
 しかし、ステパノの殉教が気になる。あんなに罵倒(ばとう)され、なぶられながら、天を仰ぎ見ている。よく平安でいられたなあ、どうして呪い返さず、とりなしが出来たのだろう。これは本物かもしれないとも思わされる。しかし、自分は正しいのだと意気込んで、撲滅活動をしていた。そして、ダマスコに近づいた時、突然、身の周りが天からの光に照らされ、天の声を聞いたのである。それが復活されたイエスとの出会いであった。光で目が見えなくなったが、アナニヤの導きでキリストの福音を信じると目からうろこのようなものが落ち、見えるようになったのである。福音の真理が見えたのである。
 この手紙を見るとパウロは相当、深刻に悩んでいたようです。律法に「むさぼるな」とありますが、そう戒められると余計にむさぼってしまうというのです。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない…。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」(7:18-19)。私たちも同じですね。パウロは深刻に苦しみます。自分は罪の奴隷、「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と(7:24)。
 ダマスコの途上の時だったか、後にアラビアで静まっていた時だったか(ガラテヤ1:17)、私にはわかりませんが、その罪がイエス・キリストの贖いによって、ただ、信仰によって赦され、神の前に義とされるという福音を発見して、この苦悩から解放されたのです
 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。…それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(3:24-26)。
 「ただ、信じるだけ」でよかったのだ。「なだめの供え物」となってくださった恵みを信じるだけで、神の前で義とされるのだ。求める必要はあるけれど、がんばる必要はない。幼子のように、素直に信じればいいのだ。贖いがあるから、神と和解ができるのだ。聖霊によって、神の愛がわかる。救いの喜びを神とともに味わえる(5:1-11)。まさに福音です。大福音です。
 ルターはこの「信仰のみ」の福音を再発見し、パウロの体験の追体験をしたのです。私たちも再発見し、追体験していくのです。

◇ペテロの発見
 何を根拠にパウロはそう言うのでしょう。一つはアブラハムです。「聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。』とあります」(4:3=創世記15:16)。もう一つはハバククです。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」(1:17=ハバクク書2:4)。信仰に生きた聖徒の信仰の足跡です。
 そして、何よりも確証となったのは使徒たちステパノ等の生きた証し、信仰でした。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」という証し、生きた信仰でした(使徒の働き4:12)。パウロはこのペテロの体験を生き生きと追体験をしたのです。私たちも生き生きと再発見し、追体験していくのです。

◇ワタシの発見
 私のことです。牧師となって、初めは東京の母教会が任地でしたが、愛媛の壬生川教会に転任となりました。教会では初めは東京の先生と紹介されていて、いつかはそう言われなくなるように願って奉仕に励んでおりました。しかし、それが5年が過ぎても、東京の先生なのです。この土地の人にとっては悪気はないのでしょうが、きっと10年たってもよそ者なのでしょう。たまらないホームシックにかかりました。そのような時、四国教区の聖会がありました。私は司会でしたが、説教を聞いているうちに、罪が示されました。「東京に帰りたい!」、ホームシックは自然なことで罪ではないのでしょうが、その時は、献身者として、神から遣わされたことを否定している罪だと聖霊によって強く示されたのです。ひとつ、罪がわかると、さらにそれは氷山の一角、隠れた罪、信仰がない、愛がない…と次々に示されました。たまらなくなって、司会者でありながら、全会衆の前で自ら罪を告白しました。会衆の皆さんにも恵みの座に出て祈るよう勧めたのです。
 その時のメッセージは「向こう岸に渡ろう」でした。こちらの罪の岸辺から、向こうのきよき神の岸辺に「信仰によって」渡らせてもらいました。きよめのみ言葉として響いてきました。不思議とホームシックは消えて、神の遣わしたところが都だと思えたのです。つけ加えておきます。それから、2年たって、「向こう岸に渡ろう」は宣教のみ言葉として響いてきました。瀬戸内海の向こう岸、大阪は豊中に転任になり、その後、現在は武庫川を渡り、兵庫は三田に遣わされています。
 話を戻しましょう。原点は「義人は信仰によって生きる」です(2:4)。信仰義認です。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。…また、イエスを信じる者を義とお認めになるのです」(3:24、26抜粋)。私たちは福音をそれぞれが再々発見して、証ししてまいりましょう。ただ、信ぜよ!

義人はいない

2016-02-07 08:21:34 | 礼拝説教
2016年2月7日 主日礼拝(ローマ人への手紙3:9~18、21~24)岡田邦夫

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ人への手紙3:23-24

 私の友人の牧師は家族あげて「天使にラブソング」が大好きで、尋ねた時にビデオを見せてくれたほど。音楽のゴスペルを題材にした映画ですが、聖母マリヤを歌うので、本来のゴスペルではないようです。アフリカ人がアメリカに連れてこられて奴隷となり、その大変苦しい状況で、プロテスタント系の教会で福音(ゴスペル)と出会い、救われ、彼ら独自の賛美を神にささげるようになりました。それが、スピリチュアル(黒人霊歌、新聖歌113、404、440、469)、それが現在のゴスペルに発展していきます。
 そのゴスペルは英語、ギリシャ語ではユーアンゲリオン、日本語では福音、良い音信を意味します。パウロはローマ人への手紙で、その福音を使命をもって熱い思いで、みごとに解き明かしていきます。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と(1:6)。

◇神の前の人間…すべての人が罪の下に(3:9)
 いつの時代も、人は人を区別します。パウロはその時代の常識で、「ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」福音を差別なく伝えたいと述べます(1:14-15)。政治はローマ帝国ですが、文化はギリシャ文化でした。知識のある人はギリシヤ人、知識のない人は未開人。「未開の人」とは野蛮な人のことで、当時のギリシャ人は自分たちこそ教養のあるもので、それ以外の者は野蛮な者だと軽蔑していました。
 もう一つの言い方は「ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも」(1:16)。ユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)という意味です。ユダヤ人は神に選ばれ、律法を持つ特別な民、そうでない異邦人を軽蔑していました。
 しかし、人間をそのような区別を神はしないのです。「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです」(2:9-11)。そして、神の啓示が明確に述べられます。「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある。…義人はいない。ひとりもいない」(3:9-10)。
 だからこそ、福音がすべての人に必要なわけです。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです」(1:16-17)。

◇福音の前の人間…すべての人が救いの下に(1:16)
 「無限と連続」という本を読んだとき、不思議な感じを持ちました。数学の集合を紹介したものです(遠山啓著)。無限を数えようというのです。自然数は1、2、3と数えていくと果てしなくあります。無限です。では偶数はどうか、2、4、6…自然数の半分なのか、やはり、無限です。1と2、2と4、3と6という風に「一対一対応」していくと限りなく続くので、おなじ無限だというわけです。そんな風に有限とは違う無限の不思議が記された本でした。
 私が言いたいのは、福音の力は無限大だということです。そして、人の罪というものも無限大だということです。聖書はまず、福音ありきでメッセージされていきます。繰り返しますが、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(1:16)。そして、それから、人の罪を責めるのです。「私たちは神の前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです」(3:9)。
 「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあるではありませんか(5:20)。福音の恵みは無限に満ち溢れているのです。「神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです」(詩編139:17-18)。
 私たちの犯した一つ一つの罪に対して、福音=イエス・キリストの贖いはきっちりと一対一対応し、赦されるのです。果てしなく罪があっても、果てしなく一対一対応し、赦されない罪はないのです。罪は無限にあるのですが、無限に対応してくださるのです。福音は無限大の赦しの力をもっているのです。

 ですから、自らの罪を数えてみましょう。それに対応するイエス・キリストの福音を数えてみましょう。果てしなくある罪に果てしない赦し、果てしない神の愛、その驚くばかりの恵みに感謝しましょう。
 だからこそ、自らの罪を掘り下げてみましょう。神以外のものを神とする偽りの偶像礼拝、あるいは心の欲望からでた恥ずべき偶像礼拝がないでしょうか(1:21-27)。また、してはならないことをしている者ではありませんか。「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者。…そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意して」いませんか(1:29-32)。一対一対応で赦しを確認しましょう。
 信仰者でありながら、他人をさばいていませんか。他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めているのです(2:1)。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか(2:21-23)。一対一対応で赦しをいただいたと信じましょう。
 「では私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは神の前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」、罪の下にある、私の全体が罪であると思いませんか(3:9)。対応して無限の赦しをいただいたこと、永遠の赦しをいただいたことを信じ、確信しましょう。以下のみ言葉が確信を与えます。
 「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(3:21-24)。