オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

まず神の国とその義を

2011-09-25 00:00:00 | 礼拝説教
2011年9月25日 伝道礼拝(マタイ6:25-34)岡田邦夫


 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ福音書6:33

◇まず、すること
 朝、起きた時、あなたはまず何をしますか。きょう、しなければならないこともたくさんある、あるいはしたくないこともしなければならない、何か憂鬱(ゆううつ)だという時、どうしますか。何でも良いから、体を動かし、行動すると血流がよくなったり、脳が活性して、やる気みたいなものがでてくると言われています。
 江坂にある病院に、高齢の方が入院しましたが、ベッドから落ちて、大腿骨を折って寝たきりになりました。骨折が治っても生きる気力がなくなり、食事も自分では食べようとせず、付き添いの奥さんが口に入れて上げれば飲み込むという状況でした。訪問した晴美先生、これではいけないと直感し、こう指導しました。食べる時は目を開けてしっかりかみなさい。手に小石を握らせ、指を動かすように。紙に書いた聖書の詩篇23篇を私が読んだのをオオムがえしに声をはっきり出して言いなさいと…。一週、二週としているうちに元のように回復したのでした。「まず」体の各部を動かす。これが生きる意欲を与えるようです。しかし、彼がほんとうに生きる気力を与えたのは、十字架でした。病院の窓から道路を挟んで向こう側のマンションが見え、そこ窓の一つに、外側に大きめな十字架が下げられていたのです。クリスチャンの家なのでしょう。それを窓越しに見た時に「まず」キリストの十字架を信じ、そしてその信仰によって生きていく勇気が与えられたのです。
 田園都市・三田におりますと、朝「まず」自然を見ることができて感謝です。イエスが教えられたことがそのまま、受けとめられるだからです(マタイ6:25-30)。

◇まず、見ること
 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」。
 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか」。

◇まず、求めること
 さらに、もっと大切なもの、どうしても必要なものを「まず」求めるようにと命じます。「信仰の薄い人たち」と言って、私たちの信仰を鼓舞します。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(6:31ー34)。
 神の前に義とされて、神の国の恵みの支配に入ることを「まず」求めるのです。それは優先順位であり、死活問題です。まずしておかなければならないことです。生活のためにはまず、経済かもしてません。しかし、人は神の前に罪という負債を抱えており、人の努力ではかえせないのです。永遠の死という制裁を受けなければならないのです。しかし、その負債をイエス・キリストが十字架において、命の代価を払ってくださったのです。悔い改めて主を信じるだけで、私たちはその負債を免除されたのです。それが神の前に「義」とされた、正しいとされたということなのです。御子を信じる者たちは、神の国において、恵みにより、信仰により「負」の財が「正」の財に変えられ、御国を継ぐ者とされるのです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」なのです。

◇まず、得ること
 私の親しくしていた知人のお兄さんでYという方がいました。この家のお父さんが結核だったので、Yさんもそれに感染し入院したのですが、新薬が普及してきて、治ったという話を聞いていました。戦後のがんばりがあって、日本は高度成長期に向かっていくのですが、彼も時代の波に乗り、就職をし、休みの日には有楽町に遊びに行くというような生活をしていました。そこで、喫茶店のウェイトレスと出会い、交際を始めました。フランク永井が低音で歌う「有楽町で逢いましょう」のような話でした。彼が病気したこと、それが再発すれば、命の危険にさらされるということを彼女は承知で、結婚しました。家は広くはないですが、両親と弟は一階に、二人は二階に住むという幸せな新婚生活が始まりました。
 時代は経済成長期、まわりを見れば、家具や電気製品を順々に購入していくわけですから、お嫁さんもほしくなるわけです。しかし、当時、多くの人が残業して稼いで手に入れていたので、少しぐらいは大丈夫だろうと彼は残業を始め、二階に物が増えていきました。とうとう無理がたたって、彼は社員旅行の旅先で、倒れ、千葉の結核病棟に入院しました。どんな事情があったか分かりませんが、それを聞いた妻の母親がやってきて、家財道具もみな持って彼女を実家に連れ帰ったのだという話を私は聞きました。その頃、私は献身して東京聖書学院におりました。気にはなっており、見舞いにいって福音を伝えようと思うのですが、なかなか、勇気が湧いてきませんでした。
 時も過ぎて、これ以上、ぐずぐずしてはいられないと切羽詰まって、やっと重い腰をあげて病院に行きました。病室に着くと彼は酸素吸入をして、苦しそうでした。食べたものにあたり、体力が落ちてしまって、病状が悪化したのだと彼が言います。どうやって、御言葉を伝えたらいいのかと思っていた矢先に、彼の方から話し出しました。「岡田君、庭を見てごらん」。夕暮れの病院の庭の芝生にすずめが数羽おりてきて、チュンチュンと鳴いているのです。「僕はもう長くはないけど、何も心配していないよ。あのすずめのように『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。』と神さまが言ってくれる。僕は天国があるから安心だ」。逆でした。むこうから証詞してくれたのです。私は何か嬉しかった。ただ、残された母の方が心配だと言っていたので、そのことを祈って帰ってきました。
 それから、数日後、天に召されたと聞きました。実は彼が倒れて、奥さんが実家に帰られたことを聞いた時、死のうと思ったそうです。しかし、死ぬ前に宗教を求めてみようと考え、色々な宗教があるけれど、キリスト教が良いのではないかと思ったそうです。そう思っていたら、病院に牧師がやって来て、聖書の話をするというので、その集会をのぞいて見ました。これだと思い、出席し続け、イエス・キリストを信じ、病床洗礼を受けたらしいと、知人から聞きました。
 彼が病床でハーハーと苦しい息づかいをしながら、「僕は安心だ」と言われた魂の告白は本物だったと思います。彼はすべてを失ったが、天国を獲得したのです。「有楽町で逢いましょう」は「天の楽園で会いましょう」に変えられたのです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(6:33)。

隠れたことを見ておられる神

2011-09-18 00:00:00 | 礼拝説教
2011年9月18日 主日礼拝(マタイ6:1-24)みのお泉教会にて・岡田邦夫


 「あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」マタイ福音書6:4

 坂本九のヒット曲「上を向いて歩こう」が東日本大震災後、静かなブームを呼んでいます。中村八大作曲、永六輔作詞、坂本九歌唱・八六九コンビの名曲、1963年にはアメリカで「SUKIYAKI」というタイトルに変えられて、日本語のままで発売されると全米1位のヒットともなったものです。落ち込んでいる時に励みになる歌です。「上を向いて歩こう/涙がこぼれないように/思い出す春の日/一人ぼっちの夜/幸せは雲の上に/幸せは空の上に…」。
 聖書にも上を向いて歩こうというようなことが出てきますが、キリスト者の恵まれた生き方、生きる姿勢を示しています。迫害されパウロが獄中からコロサイ教会の人たちに書いた手紙に出てきます。「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:1ー2新改訳)。主イエス・キリストは山上の説教で繰り返して言われています。

◇天の父が
 「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい(新改訳:人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい)。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」で始まります(6:1)。世の人に見せるために善行を行うのは偽善だから、天の父に見ていただくように、隠れたところでしなさいと言われます。施しも祈りも断食もそうだと繰り返して、強調されます。
 「施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」(6:2)。
 「祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(6:6)。
 「断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである」(6:17ー18 )。
 これらのことを人前で見せるのなら、その瞬間に自分の報いを受けてしまっているという、自己満足でしか過ぎないことなので虚しいことです。しかし、施しも祈りも断食も、上記のように隠れた所ですることは、「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」と天の父の報いが約束されています(6:4,6,18)。人間をギリシャ語では「上を向く者」(アンスローポス)と表現します。人は上を向く者、キリスト者は天を向く者です。天を意識し、天の父と交わりのですが、その天の父は隠れた所を見ておられるのです。真実を見ておられるのです。しかも、その隠れたところの行為が真実に報われるのです。永遠の父が報いるというのですから、その報いは永遠なるものです。
 今の時代、見た目が強調される時代のようですが、私たちは讃美歌536番「むくいをのぞまで」のような、見えない所で美しく生きたものです。
 1.報いをのぞまで/ひとにあたえよ/こは主のかしこき/みむねならずや/水の上に落ちて/ながれしたねも/いずこのきしにか/生いたつものを
 2.あさきこころもて/ことをはからず/みむねのまにまに/ひたすらはげめ/かぜに折られしと/見えし若木の/おもわぬ木陰に/ひともや宿さん

◇天の父よ
 このところで、主は祈ることを特に教えられました(6:7-15)。それが主の祈りです。「天にいますわれらの父よ」と呼びかける言葉も隠れたところでの天にむかっての祈りです。私たちの必要はご存じなので、的確な聞かれる祈りを教えてくださったのです。前半の三つが天を意識した祈りです。それから導き出される地の祈りが三つ続きます。
 「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」。
 「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」。
 この「主の祈り」は隠れたところで祈る祈りなのです。隠れた所で見ておられる天の父が報いてくださる祈りです。呪文のようにくり返し、唱えれば効果があるというようなものでは決してありません。天から地に来てくださったイエス・キリストご自身の心があるのです。弱い私たちをとりなしてくださるイエス・キリストと心を一つにしてくださる祈りなのです。私たちはそれを持ち寄って、共同の礼拝で一緒に主の祈りを唱和するのです。

◇天の宝を
 人は自分の善行や祈りや節制によって、地位や名声や富を得られれば幸いだとと思うものです。隠れた行為を天の父に報いていただくとともに、世においても報われた生涯でありたいと、二股をかけたいかも知れません。しかし、それは虫のいい話です。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」とはっきりしているのです(6:24)。金持ちになってはいけないということをいっているのではなく、神と富とに兼ね仕えることはできないと言っているのです。信仰からくる価値観をもつことです。神第一の生き方をすることです。あるキリスト者の青年が彼女にこう言ってプロポーズしました。「私はあなたを二番目に愛しています」。彼女は怪訝な顔をします。一番目は神さまだと証詞されたので、快くOKしたと言います。その後、この家族は献身的に神に仕えておられます。
 地上にたくわえても、死んで天に持って行けませんが、天にたくわえてあれば、それは自分のものとなります。「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(6:20ー21)。これはキリスト者への命令でありと共に約束でもあります。隠れた祈り、隠れた奉仕が天国預金になっているというのですから、何とも素晴らしいことです。私たちは天の地位や名声や富に心を向けたいものです。備えあれば憂いなし。天に備えあれば地に憂いなし。そうきっぱり言えたら幸いです。
 そうなるためにも、隠れた所においでになる天の父を意識し、信頼し、イエス・キリストと共に信仰の道を進んでまいりましょう。

キリスト者の完全

2011-09-11 00:00:00 | 礼拝説教
2011年9月11日 主日礼拝(マタイ5:17-48)岡田邦夫


 「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」マタイ福音書5:48

 テーマが「教職」だったためか、新聖歌には入れられなかった聖歌215「キリストのあいと」はこのような歌詞でした(もがな=ないものかなあ)。
  1 キリストの愛と正しき教えを 日々生活する良き教師もがな
  2 すぐれし思いと高き人柄に 民に尊ばるる神の人もがな
 神の国がこの世に実現するために、このような主にある高潔な教職がいないものかなあと訴える歌だと思います。5~7章の山上の説教では天の御国=神の国での人々のあり方を示しています。あなたがたは、地の塩です。あなたがたは、世界の光ですと宣言され、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と証し人としての使命を与えらています(5:16)。言い換えれば、私たちは神の国の「国作り」に召されているのです。

◇聖なる神の国作りは召された者の手に
 かつて、イスラエルの民は主なる神の救いの手が述べられて、エジプトの奴隷の家から解放され、荒野の旅の中で神の民として導かれていきました。そして、カナンの地に国を建設するにあたり、その入国前にモーセを通して、神の下での国作りの理念と構想が述べられました。それが申命記です。神に選ばれたイスラエルは「聖なる民」だと宣言され(申命記7:6、14:2、21)、それだから、主の命令を守っていくなら、全く「聖なる民」となるのだと神が約束しました(申命記26:19)。そして、イスラエルがこれを守らなかったとはいえ、神の約束は生きているのです。イエス・キリストが父なる神の御許から私たちの所に来られ、「悔い改めなさい。天の御国(神の国)が近づいたから。」と告げられました(マタイ4:17)。そして、第二のモーセとして、それを越える方として、新しい御国建設を宣言されました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(5:17)。

 そして、私たちが「新しい聖なる民」となるために、申命記などの命令を徹底させたメッセージが述べられていくのです。
 「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」(5:21)は兄弟に向かって腹を立てるだけで、「能なし」とか「ばか者」というだけで、神の国では殺人罪で裁かれるというものです。さらに恨まれていたら、仲直りをしなければ裁かれるとも言うのです。ですから、私たちはひたすら御前に悔い改めざるをえないのです。
「姦淫してはならない。」(5:27)は情欲をいだいて女を見るだけで、心の中で姦淫を犯したというのです。右の目(手)がつまずかせるなら、それを切り取って捨てなさい。からだ全体ゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりはよいからだという徹底ぶりです。
 「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。」(5:31)も、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。」(5:33)も同様に「聖」ということに徹底して厳しいです。
 最後はそのまま読んでみましょう(5:43-48)。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」。
 これほど格調高い教えはありません。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れという、これほど完全な戒めはないでしょう。世界がこうなれば、武器も、裁判所も、差別も、飢餓も…ほとんどの問題はなくなるでしょうから。しかし、あなたは現実にはとても出来ないと言うでしょう。でも、その通り生きた人がいます。使徒の働きに出てくるステパノがそうでした。彼が恵みと力に満ちて伝道していると、敵対する者たちが偽証人をたてて、裁判にかけますと、彼は聖書から説教をします。聞いた者はかえって逆上し、よってたかって、石を投げつけ殺してしまいます。ところが、ステパノは恨むことは決してなく、顔は輝き、「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と証詞し、「主イエスよ。私の霊をお受けください。…主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈って眠りについたのです。事実、聖霊が臨む時、このような力を受けて、キリストの証人になるのです(使徒1:8)。

◇聖なる神の国作りは召した方の手に
「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」の「ように」というのは不思議と力のある言葉です。肉親の親子ですと、容姿、容ぼうもそうですが、電話の出方、階段の折り方、食事の仕方などの仕草も生き方も似てしまうという現象があります。遺伝子のなせる業と一緒に暮らすことからくるものとあります。イエス・キリストの贖いにより、信仰により神子にされ、御霊の遺伝子が与えられたこと、いつも天の父と共に生きていると、天の父が完全なように、完全になっていくのではないでしょうか。その完全さというのは小さな子どもが親がやるようにやり、親が言うように言っているような未熟なものかも知れませんが、それでも「ように」なのです。ステパノはイエス・キリストをしっかりと見つめて生き、イエス・キリストの「ように」生きたのです。それが、導きにより、殉教という光栄ある形をとったのです。
 そして、新約聖書の最初の福音書のテーマは預言の成就です。実に遠大なテーマです。新しい聖なる民となるという神との契約をはたすために、イエス・キリストは来られたのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(5:17ー18)。旧約の律法や預言者の深い意味と意図をイエス・キリストが「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」と言われました。そして、それをイエス・キリストは、私たち聖なる民の代理者として、事実、十字架にかかり、その言葉を実行され、成就されたのです。十字架にかかり、死んでよみがえり、神の右に召天されたイエス・キリストが見えていたからこそ、ステパノの上にこのみ言葉が成就したのです。
 ある姉妹が結婚され、子どもにも恵まれたのですが、その主人が亡くなり、寂しいこともあって、しばらくして再婚しました。ところが、新しい主人は子どもを可愛がってくれないし、邪険にするものですから、耐えられなくなって離婚をし、実家に帰ってきました。その様な時にクリスチャンの姉の勧めで教会に行くようになりまして、悔い改め、主を信じて受洗しました。ところが、子どもに対してとった前夫の態度が許せなく、憎んでさえいたことが心の中のしこりになっていました。そうして、御前に祈っていますと、そのような自分の罪のために、イエス・キリストが十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分ではわからないのです。」と祈られたことを示されました。罪深い自分がそうして赦されていると思ったとたんに、彼への憎しみが不思議と消えていたのです。
 このように、イエス・キリストご自身が「敵をも愛せよ」という御言葉を様々な形で成就させてゆかれるのです。厳しい現実の中にも、そのような聖なる国作りをイエス・キリスト御自身の手によって信じる者を通してなされていくのです。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」は主イエス・キリストの手によってなされていくのです(5:48)。

神の国の幸いはこの世のものとは違う

2011-09-04 00:00:00 | 礼拝説教
2011年9月4日 主日礼拝(マタイ5:1-12)岡田邦夫


 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」マタイ福音書5:3

 昨年10月に「トルストイの聖書展示、没後100年記念展」が倉敷の旧野崎家でありました。トルストイと交友があった小西増太郎というの人の遺品を中心とし、文豪トルストイの影響を受けた日本の作家たちの著作や翻訳本も展示されている中で、貴重なトルストイの「聖書」がありました。その聖書というのはトルストイが使っていたポケットサイズのものでトルストイから小西に送られたものです。聖書は色鉛筆で最も重要な部分は赤の線、重要なところには青い線を入れ、「読む必要がない」としたところは黒く塗りつぶしてありました。本来なら読む必要のない聖書の箇所は絶対ないのですが、帝政ロシアの時代という事情があったようです。彼は農奴制を否定し、農民の救済と教育に尽くした人ですが、そうさせたのは、ある時、農民が「人は神に仕えるべきであり、自分自身のために生きるのではない」と言ったことから、新約聖書に啓示された教えにこそ、生きる目的の答えが含まれていると信じるようになっていったと言われています。その聖書でほとんど赤線が引かれていたのが、今日からお話しする「山上の教え」です。彼が平和主義の理想主義者であったその源泉は山上の教えにあったと思われます。

◇人の理想
 その山上の教えの出だしは「幸いです」という詩です。余計な解釈はせず、声を出して読んでみることです。イエスが坐られ、私たちに語られる言葉として、聴いてみましょう(5:3ー10)。
 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
 もし、私たちが心砕かれて謙虚で貧しい者になるなら…、私たちが真に悲しむべき事を悲しむ者になるなら…、私たちがたいへん柔和な者になるなら…、私たちが切実に神の義に飢え渇く者になるなら…、私たちが誰に対してもあわれみ深い者になるなら…、私たちが神の臨在の前で心のきよい者になるなら…、私たちが敵をも愛し平和をつくる者になるなら…、私たちが真実な神を信じ、その義のために迫害される者になるなら…、そういう者になるなら、きっと世界は平和になるでしょう。私たちがこの理想に生きる者になるなら、きっと幸せな社会がおとずれるでしょう。私たちが全身全霊でそういう者になろうと取り組むなら、きっと地上は天国になるでしょう。

◇神の現実
 それは現実にはきわめて難しいと言われる方もおられるでしょう。しかし、これがイエス・キリストの示された道だと信じ、私たちはそういう幸いな世界を目指し、そのための生き方を選んでいくものなのです。この「幸いです」の詩(うた)がキリスト者の心の中に響いていくようにとイエスが声を発せられたのです。
 先日、ホームセンターで買い物をしました。店員がレジでバーコードスキャナで光をあてると、1164円。財布から小銭を出して、きっかりの額で支払おうとするのだが、もたついていると、夏休みのアルバイトらしい店員が貧乏ゆすりをして、じれったそうにこちらを見ているのです。私は腹がたってきました。こちら側は小銭入れが小さいから、硬貨を数えて取り出すには時間がかかってしまう。でも、そちら側はレジスターという便利なもので、スキャナをかざしさえすれば、合計は即でるし、おつりの小銭も出しやすい構造になっている。そっちはてきぱきやれるが、こちらは多少時間がかかる。ゆったり待っていてくれても良さそうなものなのに…。そう思うと怒りが増大して不機嫌な顔を現したらしく、向こうもむっとした態度でした。
 このような些細なことにも、とても「柔和」になれない自分がおり、謙虚でない、貧しくない心だと知らされたのです。とても、この山上の幸いには与れない失格者だと感じた時でした。
 もう一度、聖書を読み返してみました。救い主の現れに備えて、洗礼者ヨハネがのべ伝えていました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と。天の御国とは神の恵みの支配のことです。そのヨハネが捕らえられた「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」と同じ事をのべ伝えられました。それはイエスの宣教の包括するメッセージです。山上の教えもそうなのです。天の御国が近づいたというメッセージなのです。悔い改めなさいというメッセージなのです。心が貧しくなれない、謙虚になれない、物ごいのように神を求めてはいない自分を悔い改めるのです。悔い改めたその所に天の御国が近づくのです。「天の御国はその人のものだからです。」という天来の幸いに与るのです。
 この八行詩の初めの行と終わりの行を並べてみると、同じさいわいが宣言されています。
 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
その二行を除いた、初めの行と終わりの行を並べてみると、さいわいの内容が同じ様なものです。
 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
天の御国は主の慰めに満ちていて、主にある者たちが神の子と賞賛されるのです。次の天の御国の祝福は約束の地を相続し、聖なる神を見るという最高の祝福です。
 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
次の真ん中の二行は神の義を受けて満ち足り、神のあわれみを受け、満ち足りるという祝福が提供されています。
 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

 この幸いは、この手につかんだかと思うと指の間から抜けていってしまうこの世の幸いではありません。この手の中からいつまでも消えない神から与えられた幸いです。今、この世の幸いの中にいると思っていても、それは泡のように消えていくものですが、天の御国の幸いの中いると信じているなら、その天の御国はイエス・キリストの再臨の日に完成し、永遠に続くのです。
 この天の御国の中に生きる幸いを歌った新聖歌330番「幸い薄く見ゆる日に」を思わされます。良く知られているアイルランド民謡「ロンドンデリー」の曲に賛美歌の歌詞をつけたものです。
1 幸い薄く見ゆる日に 孤独に悩む時に
  わが恵みなれに足れりと 静かな声を聞きぬ
  さればわれわが目を上げて
  十字架のイエスを仰がん
  主よなが愛を思えば われに乏しきことなしと
2 愛する者を失いて 望みの消ゆる時に
  われ汝を一人にせじと 優しき声を聞きぬ
  さればわれ笑みをたたえて
  友なるイエスに応えん
  主よなが愛に生くれば われに乏しきことなしと

 もう一度、この「幸いです」という詩を私たちの目指す理想として、読んでみましょう。また、この「幸いです」という詩を「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という福音のメッセージとして、聴いてみましょう。