2011年9月25日 伝道礼拝(マタイ6:25-34)岡田邦夫
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ福音書6:33
◇まず、すること
朝、起きた時、あなたはまず何をしますか。きょう、しなければならないこともたくさんある、あるいはしたくないこともしなければならない、何か憂鬱(ゆううつ)だという時、どうしますか。何でも良いから、体を動かし、行動すると血流がよくなったり、脳が活性して、やる気みたいなものがでてくると言われています。
江坂にある病院に、高齢の方が入院しましたが、ベッドから落ちて、大腿骨を折って寝たきりになりました。骨折が治っても生きる気力がなくなり、食事も自分では食べようとせず、付き添いの奥さんが口に入れて上げれば飲み込むという状況でした。訪問した晴美先生、これではいけないと直感し、こう指導しました。食べる時は目を開けてしっかりかみなさい。手に小石を握らせ、指を動かすように。紙に書いた聖書の詩篇23篇を私が読んだのをオオムがえしに声をはっきり出して言いなさいと…。一週、二週としているうちに元のように回復したのでした。「まず」体の各部を動かす。これが生きる意欲を与えるようです。しかし、彼がほんとうに生きる気力を与えたのは、十字架でした。病院の窓から道路を挟んで向こう側のマンションが見え、そこ窓の一つに、外側に大きめな十字架が下げられていたのです。クリスチャンの家なのでしょう。それを窓越しに見た時に「まず」キリストの十字架を信じ、そしてその信仰によって生きていく勇気が与えられたのです。
田園都市・三田におりますと、朝「まず」自然を見ることができて感謝です。イエスが教えられたことがそのまま、受けとめられるだからです(マタイ6:25-30)。
◇まず、見ること
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」。
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか」。
◇まず、求めること
さらに、もっと大切なもの、どうしても必要なものを「まず」求めるようにと命じます。「信仰の薄い人たち」と言って、私たちの信仰を鼓舞します。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(6:31ー34)。
神の前に義とされて、神の国の恵みの支配に入ることを「まず」求めるのです。それは優先順位であり、死活問題です。まずしておかなければならないことです。生活のためにはまず、経済かもしてません。しかし、人は神の前に罪という負債を抱えており、人の努力ではかえせないのです。永遠の死という制裁を受けなければならないのです。しかし、その負債をイエス・キリストが十字架において、命の代価を払ってくださったのです。悔い改めて主を信じるだけで、私たちはその負債を免除されたのです。それが神の前に「義」とされた、正しいとされたということなのです。御子を信じる者たちは、神の国において、恵みにより、信仰により「負」の財が「正」の財に変えられ、御国を継ぐ者とされるのです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」なのです。
◇まず、得ること
私の親しくしていた知人のお兄さんでYという方がいました。この家のお父さんが結核だったので、Yさんもそれに感染し入院したのですが、新薬が普及してきて、治ったという話を聞いていました。戦後のがんばりがあって、日本は高度成長期に向かっていくのですが、彼も時代の波に乗り、就職をし、休みの日には有楽町に遊びに行くというような生活をしていました。そこで、喫茶店のウェイトレスと出会い、交際を始めました。フランク永井が低音で歌う「有楽町で逢いましょう」のような話でした。彼が病気したこと、それが再発すれば、命の危険にさらされるということを彼女は承知で、結婚しました。家は広くはないですが、両親と弟は一階に、二人は二階に住むという幸せな新婚生活が始まりました。
時代は経済成長期、まわりを見れば、家具や電気製品を順々に購入していくわけですから、お嫁さんもほしくなるわけです。しかし、当時、多くの人が残業して稼いで手に入れていたので、少しぐらいは大丈夫だろうと彼は残業を始め、二階に物が増えていきました。とうとう無理がたたって、彼は社員旅行の旅先で、倒れ、千葉の結核病棟に入院しました。どんな事情があったか分かりませんが、それを聞いた妻の母親がやってきて、家財道具もみな持って彼女を実家に連れ帰ったのだという話を私は聞きました。その頃、私は献身して東京聖書学院におりました。気にはなっており、見舞いにいって福音を伝えようと思うのですが、なかなか、勇気が湧いてきませんでした。
時も過ぎて、これ以上、ぐずぐずしてはいられないと切羽詰まって、やっと重い腰をあげて病院に行きました。病室に着くと彼は酸素吸入をして、苦しそうでした。食べたものにあたり、体力が落ちてしまって、病状が悪化したのだと彼が言います。どうやって、御言葉を伝えたらいいのかと思っていた矢先に、彼の方から話し出しました。「岡田君、庭を見てごらん」。夕暮れの病院の庭の芝生にすずめが数羽おりてきて、チュンチュンと鳴いているのです。「僕はもう長くはないけど、何も心配していないよ。あのすずめのように『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。』と神さまが言ってくれる。僕は天国があるから安心だ」。逆でした。むこうから証詞してくれたのです。私は何か嬉しかった。ただ、残された母の方が心配だと言っていたので、そのことを祈って帰ってきました。
それから、数日後、天に召されたと聞きました。実は彼が倒れて、奥さんが実家に帰られたことを聞いた時、死のうと思ったそうです。しかし、死ぬ前に宗教を求めてみようと考え、色々な宗教があるけれど、キリスト教が良いのではないかと思ったそうです。そう思っていたら、病院に牧師がやって来て、聖書の話をするというので、その集会をのぞいて見ました。これだと思い、出席し続け、イエス・キリストを信じ、病床洗礼を受けたらしいと、知人から聞きました。
彼が病床でハーハーと苦しい息づかいをしながら、「僕は安心だ」と言われた魂の告白は本物だったと思います。彼はすべてを失ったが、天国を獲得したのです。「有楽町で逢いましょう」は「天の楽園で会いましょう」に変えられたのです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(6:33)。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ福音書6:33
◇まず、すること
朝、起きた時、あなたはまず何をしますか。きょう、しなければならないこともたくさんある、あるいはしたくないこともしなければならない、何か憂鬱(ゆううつ)だという時、どうしますか。何でも良いから、体を動かし、行動すると血流がよくなったり、脳が活性して、やる気みたいなものがでてくると言われています。
江坂にある病院に、高齢の方が入院しましたが、ベッドから落ちて、大腿骨を折って寝たきりになりました。骨折が治っても生きる気力がなくなり、食事も自分では食べようとせず、付き添いの奥さんが口に入れて上げれば飲み込むという状況でした。訪問した晴美先生、これではいけないと直感し、こう指導しました。食べる時は目を開けてしっかりかみなさい。手に小石を握らせ、指を動かすように。紙に書いた聖書の詩篇23篇を私が読んだのをオオムがえしに声をはっきり出して言いなさいと…。一週、二週としているうちに元のように回復したのでした。「まず」体の各部を動かす。これが生きる意欲を与えるようです。しかし、彼がほんとうに生きる気力を与えたのは、十字架でした。病院の窓から道路を挟んで向こう側のマンションが見え、そこ窓の一つに、外側に大きめな十字架が下げられていたのです。クリスチャンの家なのでしょう。それを窓越しに見た時に「まず」キリストの十字架を信じ、そしてその信仰によって生きていく勇気が与えられたのです。
田園都市・三田におりますと、朝「まず」自然を見ることができて感謝です。イエスが教えられたことがそのまま、受けとめられるだからです(マタイ6:25-30)。
◇まず、見ること
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」。
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか」。
◇まず、求めること
さらに、もっと大切なもの、どうしても必要なものを「まず」求めるようにと命じます。「信仰の薄い人たち」と言って、私たちの信仰を鼓舞します。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(6:31ー34)。
神の前に義とされて、神の国の恵みの支配に入ることを「まず」求めるのです。それは優先順位であり、死活問題です。まずしておかなければならないことです。生活のためにはまず、経済かもしてません。しかし、人は神の前に罪という負債を抱えており、人の努力ではかえせないのです。永遠の死という制裁を受けなければならないのです。しかし、その負債をイエス・キリストが十字架において、命の代価を払ってくださったのです。悔い改めて主を信じるだけで、私たちはその負債を免除されたのです。それが神の前に「義」とされた、正しいとされたということなのです。御子を信じる者たちは、神の国において、恵みにより、信仰により「負」の財が「正」の財に変えられ、御国を継ぐ者とされるのです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」なのです。
◇まず、得ること
私の親しくしていた知人のお兄さんでYという方がいました。この家のお父さんが結核だったので、Yさんもそれに感染し入院したのですが、新薬が普及してきて、治ったという話を聞いていました。戦後のがんばりがあって、日本は高度成長期に向かっていくのですが、彼も時代の波に乗り、就職をし、休みの日には有楽町に遊びに行くというような生活をしていました。そこで、喫茶店のウェイトレスと出会い、交際を始めました。フランク永井が低音で歌う「有楽町で逢いましょう」のような話でした。彼が病気したこと、それが再発すれば、命の危険にさらされるということを彼女は承知で、結婚しました。家は広くはないですが、両親と弟は一階に、二人は二階に住むという幸せな新婚生活が始まりました。
時代は経済成長期、まわりを見れば、家具や電気製品を順々に購入していくわけですから、お嫁さんもほしくなるわけです。しかし、当時、多くの人が残業して稼いで手に入れていたので、少しぐらいは大丈夫だろうと彼は残業を始め、二階に物が増えていきました。とうとう無理がたたって、彼は社員旅行の旅先で、倒れ、千葉の結核病棟に入院しました。どんな事情があったか分かりませんが、それを聞いた妻の母親がやってきて、家財道具もみな持って彼女を実家に連れ帰ったのだという話を私は聞きました。その頃、私は献身して東京聖書学院におりました。気にはなっており、見舞いにいって福音を伝えようと思うのですが、なかなか、勇気が湧いてきませんでした。
時も過ぎて、これ以上、ぐずぐずしてはいられないと切羽詰まって、やっと重い腰をあげて病院に行きました。病室に着くと彼は酸素吸入をして、苦しそうでした。食べたものにあたり、体力が落ちてしまって、病状が悪化したのだと彼が言います。どうやって、御言葉を伝えたらいいのかと思っていた矢先に、彼の方から話し出しました。「岡田君、庭を見てごらん」。夕暮れの病院の庭の芝生にすずめが数羽おりてきて、チュンチュンと鳴いているのです。「僕はもう長くはないけど、何も心配していないよ。あのすずめのように『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。』と神さまが言ってくれる。僕は天国があるから安心だ」。逆でした。むこうから証詞してくれたのです。私は何か嬉しかった。ただ、残された母の方が心配だと言っていたので、そのことを祈って帰ってきました。
それから、数日後、天に召されたと聞きました。実は彼が倒れて、奥さんが実家に帰られたことを聞いた時、死のうと思ったそうです。しかし、死ぬ前に宗教を求めてみようと考え、色々な宗教があるけれど、キリスト教が良いのではないかと思ったそうです。そう思っていたら、病院に牧師がやって来て、聖書の話をするというので、その集会をのぞいて見ました。これだと思い、出席し続け、イエス・キリストを信じ、病床洗礼を受けたらしいと、知人から聞きました。
彼が病床でハーハーと苦しい息づかいをしながら、「僕は安心だ」と言われた魂の告白は本物だったと思います。彼はすべてを失ったが、天国を獲得したのです。「有楽町で逢いましょう」は「天の楽園で会いましょう」に変えられたのです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(6:33)。