オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

罪をゆるす方

2011-10-30 00:00:00 | 礼拝説教
2011年10月30日 主日礼拝(マタイ福音書9:1-8)岡田邦夫


 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ福音書9:2)

 聖歌や讃美歌のタイトルは歌詞の出だしにしているため、たとえば、司会者が「新聖歌330番『幸い薄く見ゆる日に』を賛美しましょう。」と言うと何か暗い歌なのかと思ってしまうことがあります。曲はアイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」で、続く歌詞は心にぐっと来る素晴らしい聖歌です。お金がなかったり、何かをなくしたり、病気になったりすると、幸い薄く見ゆる日と感じるものです。ガリラヤ湖北西の町で宣教の拠点としていたカペナウムにイエスが帰られた時でした。脳卒中で倒れたかして、後遺症で半身不随となったのでしょう。中風の人が床に寝かせたままで、イエスのところに運ばれてきました。不幸な人を連れてきたのです。

 医師であれば、現れている外見、身体の症状を見て、手当をします。しかし、主イエスは中部の人と運んできた人たちの内面、心の状態を見て、対応なされたのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」のです(1サマエル16:7)。一般的に病気になったのはその人に何か罪があるからだ思われていたようです。因果応報で考えるからでしょうか。財産を失い、子どもを失い、健康も失われたヨブを見舞いにきた友人がそうでした。こんなに不幸になったのは君が神の前に何か罪を犯しているからだ、それを悔い改めればよくなると言ったのがそれです。それをくつがえすのがヨブ記です。きっとこの中風の人は病気の症状だけでも辛いのに、こうなった原因は自分の罪にあるのではないかと思い詰め、悩みに悩んでいたのでしょう。それで周りの人が救いを求めて、主イエスの御許に連れてきたのではないかと思います。

 そこで「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言われた」のです(9:2)。一言一句、いつくしみに満ちたお言葉です。病のために世間から白い目で見られ、疎外されていたのかも知れませんが、子よ。アブラハムの子よ。神の民の子よと呼ばれたのです。思い悩んで心がなえていたかも知れませんが、「しっかりしなさい」と言われたようにしっかり心が立ち上がれたのです。「あなたの罪は赦された」と宣言され、良心の責めから解放され、魂は生き返ったのです。
 それから、律法学者たちとのやり取りの後、主イエスが「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われると、中風がいやされ、起きて家に帰っていきました。主は罪の問題と病の問題とわけて扱われました。罪の赦しの宣言と病の癒しの宣言と別々になさり、両方をされました。私たちが何かに心が縛られて動けないでいる、精神的な中風かも知れませんが、主イエスに出会って、主イエスの言葉を信じて、そこから解放されることでしょう。

 主は心を見られます。そこにいた律法学者が罪の赦しを宣言出来るのは神だけだ、この人は神を冒涜していると心の中で言ったことを見抜かれました。そこで、はっきりとメッセージを伝えます。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」と言われて、奇跡を起こしました(9:5-6 )。主イエス・キリストのメッセージの趣旨は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」であり(マタイ4:17)、奇跡はその御国が近づいたしるしです(ルカ11:20)。赦しの宣言と癒しの宣言とどちらがやさしいかと問うています。言葉を変えれば、良心宗教と幸福宗教とどちらがやさしいかともいえます。
 私が初めてキリスト教の集会に行った時は興味本位でしたし、教会に行くようになっても、何か幸せを求めていたようです。しかし、教会から伝わってくるメッセージを魂が感じていました。直接、牧師から聞いたわけではないのですが、「最後の審判の時にお前は神の前に立てるのか?」と言うことでした。楽しく充実した日を送った夜中に、その問いかけを感じるのです。ある伝道会で、信じる決心をし、神を信じてこなかったことを悔い改め、私の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったと言葉に出して祈りました。そして、あなたは罪赦され、神の子だと呼ばれて感動しました。「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」と罪の赦しの宣言を受けた時は(ローマ8:1口語訳)、中風のように良心のとばめで硬直していた私の魂が、解放されたように感じられました。恵みの支配する天のみ国で、魂が自由に羽ばたいている心持ちになりました。

 しかし、罪の赦しは犠牲の血が流されなくてはなされないのです。イエス・キリストが十字架において、私たちの罪の身代わりとなって、苦しみを受け、ご自分の命を贖いの代価として払うことなしには罪の赦しはなりたたないのです。動物の犠牲ではなく、ご自身の犠牲をもってこそ、私たちは罪の赦しを宣言していただけるのです。良心の責め苦から解放されるために、どれほどの御子の犠牲が払われたことでしょうか。罪の赦しという至難の業を私たちを愛するがゆえに最大の犠牲をもってしてくださったのです。
 そのように私たちは「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」という天上の祝福が与えられ、それに添えて「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」という地上の幸せが与えられて生きていくのです。

嵐を静められるイエス

2011-10-23 00:00:00 | 礼拝説教
2011年10月23日 主日礼拝(マタイ福音書8:23-27)岡田邦夫


 「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか、信仰の薄い者立ちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。」マタイ福音書8:26

 本日はみのお泉教会と三田泉教会の合同礼拝です。箕面市13万人、三田市11万5千人で人口は同じくらい。都市計画も、箕面では愛称・彩(さい)都(と)の「国際文化公園都市」、三田では「神戸三田国際公園都市」というのがあり、箕面には箕面山(やま)の箕面自然公園があり、三田には有馬富士(山)の県立有馬富士公園があって、両市は共通点があります。教会の方も人数は同じく位で、みのお泉も三田泉もそれぞれ市のはずれに位置して、似ています。似てると言っても、ちょっと無理がありますけどね。
 山の話が出ましたが、「嵐」という字は山に風と書きます。山から吹き下ろしてくる風をあらしと呼んでいたかららしいです。ガリラヤ湖というのはヨルダン峡谷の谷底にあり、東西を高地に挟まれた形になっているため、しばしば、山から強烈な風が崖を吹き下ろして来て、湖が突然荒れ出すのです。この日、イエスが舟に乗られたので、弟子たちも同船しましたところ、ガリラヤ湖に大暴風が起こって、舟は木の葉のように波にもまれ、大波をかぶり、今にも沈みそうになりました。長年、この湖で漁師をしてましたペテロたちは経験上、自分たちはもう助からないと恐怖に襲われました。
 私たちの人生の船旅でも、嵐にあい、荒波に翻(ほん)弄(ろう)されることがあります。事故や病気の嵐、不況の嵐、リストラの嵐、いじめや虐待の嵐、広くは戦争や飢餓の嵐、あるいは、迫害の嵐…。さらに新聖歌には「罪の嵐はいかに吹くとも」というのがあります(321)。

 ところが、主イエスはそんな嵐の中で「眠っておられた」のです。人になられた方としてはたいへん疲れて寝ていたのですが、神の子としてはこのような嵐など何も恐れることもないことでした。この嵐が思わぬ出来事でしたが、それ以上に驚くような(アンビリーバブルな)出来事が起こりました。福音書はこう伝えています。「弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けて下さい。私たちはおぼれそうです。』イエスは言われた。『なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、一体この方はどういう方なのだろう。』」(8:25ー27)。

 私たちの人生の舟に主イエスは同船されているのです。時に嵐に遭遇しても、口を出さないでいるかも知れません。しかし、弟子たちのようにみもとに行って「主よ。助けて下さい。私たちはおぼれそうです。」と祈る時に、「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちだ。」と言われるかも知れません。それは、私たちをしかっているのではないのでしょう。嘆きもあるけれど、救いの言葉だと思います。しかられたのは風と湖、嵐に対してでした。風や湖までが言うことを聞いて、大なぎにしてしまうのです。私たちの人生の船旅に同船されるイエスという方は私たちと苦楽を共にされる方です。しかし、この方は波風を自在にできる全能の神、復活の主なのです。主を信じた神の子たち、神の家族を守るため、風と湖をしかる方なのです。大阪のお母さん流に言うなら、「うちの子に何すんねん」と私たちの敵をしかり飛ばすのです。

 しかし、主はむやみにしかる方ではありません。ゲッセマネのことを思い起こして欲しいのです。イエスは十字架の受難という「嵐」に入られた時に、イエスは悲しみもだえ始め、弟子たちに言いました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」(マタイ26:38)。しかし、弟子たちは眠ってしまうのです。イエスは迫害の嵐、受難の嵐の中で、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と三度も祈られたのです。そして、十字架の嵐に身を投じていかれたのです。
 私たちのほんとうの嵐は罪からくる死とその裁きの嵐です。私たちはゲッセマネの弟子たちのようにそれを意識せず、霊的に眠ってしまってはいないでしょうか。その死と裁きの究極の嵐から私たちを救出するために、主はご自分の命をかけてくださったのです。そして、復活されたのです。そのお方が人類の敵をしかるのです。「私の神の子たちに何をするのだ!」と。「心のガリラヤ湖に嵐はすさめど、主イエスのひと言葉は平和をもたらす」のです(新聖歌453)。
 ある方にテープを借りました。難波紘一さんという方の講演でした。熱心なクリスチャンで教会生活をしっかりされて、中学校の教師をして働き、クリスチャンの方と結婚し、主に仕える生活をしていました。しかし、30を過ぎてから、歩行が難しくなることから始まり、体が順々に動かなくなっていきました。進行性筋萎縮症(筋ジストロフィー)の難病だと診断されて、たいへんなショックを受けました。まじめに信仰しているのに何でこんな目に会うのか、私は現代のヨブだと言って嘆く日々でした。奧さんもたいへんでした。手足が動かなければ、服一つ着られませんし、食べるのも困難、手を貸さなければなりません。ある夜中、彼が寝ている所のドアのすき間から、台所が見え、そこで妻があぐらをかいて、一升瓶をかかえて、コップ酒を飲んでいるのでした。眠れないというと友だちに勧められたの始まりだったようです。彼はこれでは自分たちはダメになってしまう、何とかしなければと思い、キリスト教の巡礼に出ます。それは彼の言い方で、キリスト教の集会なら、どこにでも出かけて行くということでした。メッセージは頭でわかるのですが、何か抜け出せない感じでいました。
 それから、妻の友人が陸奥(みちのく)の教会にいるというので、尋ねました。アルコールを飲まないと眠れないことを話すと、友人に「それはダメよ。布団に顔を伏せて必死に祈りなさいよ」と言われました。その途端に、彼女はつっぱていた棒がはずれたように、そこに泣き崩れたのです。しばらくして、友人は「あなたのために苦しみを先立って行かれた方がいるのですよ」と言われました。その時、二人がもだえ苦しんでいたものが消え去り、何とも言えない平安と感謝が心一杯にしていたのです。それからは、お声がかかれば全国どこへでも講演や証詞に行くようになりました。難病という嵐に見舞われたのですが、それ以上に彼らを苦しめたのは「心のガリラヤ湖に嵐がすさ」んだことです。しかし、主イエス・キリストは嵐をしかり、静め、なぎにされたのです。私たちの救いのために十字架の苦難、苦い杯を受けられた方が全身全霊を持って、嵐を巻き起こす風と波をしかりつけられて、私たちの魂をなぎにしてくださるのではないでしょうか。

ただお言葉を

2011-10-16 00:00:00 | 礼拝説教
2011年10月16日 主日礼拝(マタイ福音書8:5-13みのお泉教会にて)岡田邦夫


 「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。」マタイ福音書8:8

 「ミシュランガイド京都・大阪・神戸・奈良2012」が10月21日に発売されるとのことです。レストランとホテルを評価し、ガイドするものです。1つ星はその分野で特に美味しい料理、2つ星は極めて美味であり遠回りをしてでも訪れる価値がある料理、3つ星はそれを味わう為に旅行する価値がある卓越した料理としています。
 信仰の世界においても、天国ガイドのようなものがあります。聖書です。エノク、ノア、アブラハムなどは3つ星信仰でしょう。ヘブル人への手紙11章には「昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」と書き出し、そのリストが載っています。福音書でイエスが直接、信仰を評価され、賞賛された人が何人か載っています。その一人が百人隊長です。

◇言葉をかわす
 イエスがガリラヤ北岸のカペナウムに帰ってこられたとき、ある百人隊長が訴えてきました。「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。あわれみふかいイエスが行ってなおしてあげようと言ったのですが、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです。」と答えたのです(8:8-9)。
 この百人隊長の答えを聞いたイエスは彼の信仰を絶賛し、それこそ、3つ星信仰だと評価されたのです。「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」(8:10)。加えて、イスラエル人の不信仰を指摘し、天国に入れないかも知れないと警告をします。そして、百人隊長に言います。「行け、あなたの信じたとおりになるように」(口語訳)。新改訳では「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」。ちょうどその時、その瞬間、僕はいやされたのです。百人隊長とイエスとが言葉をかわしただけで、奇跡が起きたのです。

◇心をかよわす
 この人は軍隊においては、上官が死ねと言えば、兵士は死ぬ覚悟の、命をあずけた関係です。隊長の命令は絶対的です。それを引き合いに、神という隊長に、兵士である私たちがその命令の言葉が絶対であることを百人隊長は示してくれました。明治の有名な作家、二葉亭四迷はツルゲーネフという作家の翻訳をしたのですが、「ヤー・リュブリュー・バス」(英語のアイ・ラヴ・ユウ)が「わたしあなたを愛しているわ」では明治初期まではまずかったのです。愛という言葉は、むさぼりとか、愛欲というような仏教用語からきた悪い意味しかなかったわけです。そこで、二葉亭四迷は悩んで、思いついたのが、「あなたのためなら、死んでもいいわ」という翻訳だったという有名なエピソードがあります。
 神と私たちは「あなたのためなら、死んでもいいわ」という愛の信頼関係でなりたつのです。イエス・キリストという隊長は「あなたのためなら、死んでもいいわ」を実行されたのです。ほんとうに私たち・兵士の罪の赦しのために十字架において死んでくださったのです。そして、それを突き抜け、復活されました。このような犠牲を惜しまない隊長のためには兵士である私たちも当然「あなたのためなら、死んでもいいわ」という思いが与えられてくるはずです。それが3つ星しるしの信仰です。百人隊長とイエス・キリストがただ言葉をかわしただけでだけではありません。心を通わせたのです。更に言うなら、命を交わしたといっても良いでしょう。神と私の関係がこのような「あなたのためなら、死んでもいいわ」という3つ星印の最高級の関係であるなら、何とも幸いなことでしょうか。

 そのように人格的な信頼がありますなら、その人格の「ひと言」ですべてが伝わるというものです。「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。」を新共同訳は「ただ、ひと言おっしゃてください。わたしの僕はいやされます。」と訳しています。よく、ひと言のご挨拶を申し上げますと言うような使い方をしますが、この「ひと言」はまったく違います。そのひと言の背後に神の言葉の全部があり、「あなたのためなら、死んでもいいわ」というお方、イエス・キリストというご人格があるのです。今ここにいますとう臨在があるのです。「ただ、お言葉を下さい。」「ただ、ひと言おっしゃてください。」はみ言葉信仰を表すものとして、良き伝統として教会に受け継がれてきました。たいへんな困難に遭遇した時に、落ち込んでそこから抜け出せない時に、人生の選択を迫られた時に、今、そこにおられるイエス・キリストにみ言葉の「ひと言」を求めましょう。その時、無限星印の愛のみ言葉を聞くことでしょう。

そうしてあげよう、きよくなれ

2011-10-09 00:00:00 | 礼拝説教
2011年10月9日 主日礼拝(マタイ福音書8:1-4)岡田邦夫

 「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」マタイ福音書8:3

 みなさん、ご存じの聖路加国際病院の理事長・日野原重明医師はこの10月4日で100歳の誕生日を迎えました。この病院は彼の願いで災害時に備えた施設だったため、1995年の地下鉄サリン事件の際に被害者をすべて受け入れ、被害者治療の拠点となって、犠牲者を最少限に抑えることに繋がりったことは良く知られています。この病院は聖公会宣教師ルドルフ. B. トイスラー師の言葉を理念としています。「キリスト教の愛の心が人の悩みを救うために働けば、苦しみは消えて、その人は生まれ変わったようになる。この偉大な愛の力をだれもがすぐわかるように計画されてできた生きた有機体がこの病院である」。パウロと伝道旅行に同行したルカが医者だったことから、この病院を聖路加(聖ルカ)と名付けたのです。

◇汚れた人なのか、人が汚れているのか、
 ところで、病院というのは患者一人一人に合わせた医療を行います。学校ですと、通常、グループをまとめて教えます。イエスの山上の説教は学校のように大勢の人になされました。「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚」き、「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った」のです(7:28、8:1)。そこへ、一人の病める者が病院を訪れるように、イエスの所にやって来ました。「すると、ひとりのツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』」(8:2)。イエスの言葉は普遍的な権威ある教えの言葉であり、また、個々の問題を抱える一人一人に届くいやしの言葉です。ツァラアトと新改訳聖書は旧約の原語、ヘブル語をそのまま音訳したものです。かつては「らい病」と訳され、差別用語だとして、訳し直すことになりましたが、今度は言葉が見つからないのです。「ハンセン病」とは限らず、見た目の症状で言っている呼び名なので、他の皮膚病も含まれているため、新共同訳は「重い皮膚病」とし、新改訳は原語のままとしました。
 訳が難しいだけでなく、この病そのものが難しいものでした。このツァラアトの人は治してほしいと言ってきたのではなく、きよめてほしいと言ってきたのです。旧約聖書の法によると、神に選ばれた民は聖なる民だから、不浄なものと清浄なものと区別し、聖なる者としてあるための行動をするようにとの理念が貫かれています。食物も清いものと清くないものとにわけ、きよい食物のみを食べるとか、体から流出するものや死体は汚れているので、もし触れたら、きよめの祭儀をしなければならないなどという厳しい規定があったのです。今日の目で見るなら、それは感染や中毒から民族を守るという衛生的なものであり、聖なる唯一の神を信じ、諸外国の偶像宗教から身を守るという宗教的なものが底に流れていたと思います。ツァラアト(重い皮膚病)の人が互いに生き延びるための、「区別」であったはずです。しかし、人間というのは罪深く、偏見と差別を産んでしまうのです。日本においてもハンセン病の方たちが偏見と差別の中でどれほど苦しんでこられたか、測り知れません。1907年(明治40年)及び1931(昭和6)年に制定された強制隔離政策の「らい予防法」が、廃止されたのが1996年(平成8年)。違憲国家賠償請求訴訟が熊本地裁で結審したのが2001年(平成13年)と、つい最近のことです。

◇きよい人なのか、人がきよめられるのか、
 この時代、このツァラアトを患っている人がその病の苦しみだけでなく、天刑病というようなことを言われ、社会から疎外され、想像を絶する苦悩の中に生きていたことと思います。罵倒され、石を投げつけられるのを覚悟して(もしかしたら、そうされる中で)、必死にイエスの所に来たのです。ひれ伏して言いました。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります」。御許に行くと、きよめてくださいの願いの言葉はカッコに入れて、おできになりますと信仰の言葉が出てきたのです。きっと聖霊によって、イエスの中にある恵みに満ちた権威というものを悟ったのでしょう。あるいは、自分のような汚れた者をきよめるのは預言者イザヤのいう「イスラエルの聖なる方」でなければならないが、イエスはそういう方だと感じ取ったのかも知れません。
 端的にいえば、汚れたものを汚れたぞうきんで拭いてもきれいにはなりません。きれいなぞうきんで拭く必要があります。汚れたものはきれいなもののほうに移行するのです。誰一人、彼にさわろうとしませんでした。汚れると思うからです。また、誰も彼の人生に関わろうともしなかったでしょう。しかし、主イエスは手を伸ばして、彼にさわられたのです。汚れから分離して生きようとするパリサイ派の人でしたら、死んでも触れないでしょう。しかし、主イエスは手を伸ばし、最もひどい患部に手をおきました。彼は御子の暖かいぬくもりを感じ、それが体中に広がったのです。そして、恵みにあふれた権威ある言葉がイエスの口から告げられました。「私の心だ。清くなれ」。頭のてっぺんから足のつま先までしみ通る言葉でした。魂の琴線が鳴り響く言葉でした。一瞬のこととはいえ、天地創造からこのかた、こんなことがあったのだろうかと思わされる出来事でした。
 気付いたら、ツァラアトはきよめられていたのです。信じた以上の恵みでした。見た目も中身も良くなって、完治したのです。生きる力もわいてきました。ツァラアトはすっかりきよめられたのです。その汚れは彼から聖なるイエスに移行したのです。預言者イザヤを通して言われた事、「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」が成就するためでした(8:17 =イザヤ53:4)。十字架において、このツァラアトに冒された一人の人の汚れ、罪咎を引き受け、背負われて、そして、偏見と差別というような汚れた私たちの一人一人の罪咎を引き受け、背負われて、私たちに代わって、神に裁かれたのです。イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)と叫ばれ、息を引き取られたのです(27:46)。罪咎汚れを負ったイエスが完全に捨てられたのです。その無限の愛の満ちた犠牲によって、私たちは贖われ、きよめられたのです。
 十字架において、イエスは権威を奪われましたが、死人の中からよみがえらされて、神の右のあげられ、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられ(マタイ28:18)、「私の心だ。清くなれ」と圧倒的な勝利を宣言してくださるのです。
 そして、きよめられた彼に、民衆がイエスの救い主としての行動を曲解し、イエスをクーデターのリーダーに祭り上げてしまうというような事態を避けるため、のを避けるため、「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。」と釘を刺します。そして、「ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」と言って、法に基づいた手続きをして、きよめられた証明をもらい、社会復帰をして、生きる道も備えられました(8:4)。主イエスのご配慮に驚きます。イエス・キリストの十字架においてきよめられた者たちを「聖徒」と呼びます。宗派によっては、聖人と認められた人に聖ルカ、聖ペテロ、聖パウロ、聖アウグスティヌス…というように「聖」をつけます。また、受洗するとクリスチャンネームがつけられます。しかし、私は思います。「聖岡田邦夫」というように、すべてのクリスチャンに聖がつけられても良いのではないかと。聖人という意味ではなく、キリストによってきよいものとされた聖徒という意味でです。
 アメイジング・グレイスは英語ですと、私のようなみじめな者までも救ってくださる(That saved a wretch like me.)ですが、日本語訳は「驚くばかりの恵みなりき、この身の汚れを知れるわれに」。これを心から賛美したいものです。

賢い人と愚かな人

2011-10-02 00:00:00 | 礼拝説教
2011年10月2日 主日礼拝(マタイ福音書7:24-27)岡田邦夫


 「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブの手紙1:22)

 NHKスペシャルで取り上げられた日本でただ一軒、焼き畑農業を続けている農家の婦人の話です。「今なお秘境と言われる宮崎県椎葉村の山奥で、山に火を放ち焼き畑を作る「おばば」椎葉クニ子さん(87)が暮らしている。まず、年老いる前に木を切る。それは椎茸栽培に使う。山火事にならないように火を放ち、消えたらすぐにソバの種を蒔く。焼き灰の肥料がよくきく。2年目はヒエかアワ、3年目はアズキ、4年目は大豆をやる。焼いたことで森は若返り、山菜やきのこなどさまざまな恵みを生み出し、切り株から新芽が出て、しっかり育つ。4年収穫したら26年間放置すると、森は元気に再生する。毎年焼く場所を変えながら少しずつ畑を作り、そして30年周期で山全体を一巡する。かつては誰もが知っていたこと。しかし、今は椎葉クニ子さんだけ。クニ子さんは身の周りにある植物のほとんどを識別し、山のことは何でも知っている人です。人間が自然の循環の一部となって暮らす、見事な知恵がある」。彼女の知恵は生物の体系も気象の循環も、個と全体を、知識においても感覚においても総合的に把握し、30年サイクルの大プロジェクトを行っているという、素晴らしい英知です。私たち日本人はこのような英知を取り戻したいものです。

 それも大事なことですが、どうしても必要な英知を持つようにと、主イエス・キリストが山上の説教の最後にたとえで語られました(7:24ー27)。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

◇人の前の賢い人愚かな人
 洪水と暴風が押し寄せても倒れないようにと、自分の家を岩の上に建てた「賢い人」と洪水と暴風が押し寄せてら、ひどい倒れ方をすることを考えないで、自分の家を砂の上に建てた「愚かな人」の対比のたとえです。賢い人と愚かな人の対比です。
 イエスと使徒の時代のローマ社会では賢い人々と愚かな人々と分けていました。ローマ人への手紙1:14に出てきます。口語訳ですと「わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者(文語「愚なる者」)にも、果すべき責任がある。」です。この「未開の人」は元々はギリシャ語を話さない人という意味の言葉でしたが、やがてギリシャ人が自分たちの考え方や生き方にたいへんな誇りを持ち、そのように生きていない他民族に優越感をいだいたことから、「未開の人」の意味に使われるようになりました。ギリシャ人だけが人間にふさわしい生き方をしているという意識があったようです。これを新改訳では「知識のある人にも知識のない人にも」と訳しています。そのような知識のある人と知識のない人と優劣をつけたり、差別をしたりする風潮は今日の社会においても、あるのではないでしょうか。先進国と後進国とか、学歴がある人とない人とか、違いはあったとしても、優劣をつけることではないと思います。使徒パウロはどちらも差をつけず、どちらにも等しく福音をのべ伝える責任があると言っているのです。

◇神の前の賢い人愚かな人
 主イエスがおっしゃるのはそのような人と比較して、賢い人、愚かな人と言っているのではありません。神の前にどうなのかと言っているのです。「土台」というものは必要ですが、見えないものです。人生を建て上げていく時にも土台を岩盤にするか、砂地にするか、見えないことです。イエスのこれらのことばを聞いてそれを行なうことも、イエスのこれらのことばを聞いてそれを行なわないことも見えない部分です。しかし、大きな試練が来た時に、さらには最後の審判がきた時に、建て上げられたものが残るか、全く崩れ、壊れてしまうかが決定的に決まってしまうのです。
 昔の人は、人を殺す者はさばきを受けなければならないと言うが、イエスのことばは兄弟に向かって「能なし」とか「ばか者」と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれると見えない部分をも問うものです。この言葉を聞く時、私は人殺しです、十字架の贖いによってお赦しくださいと主に祈り、聖霊によって兄弟を尊敬できるように行うことです。父なる神は隠れたことを見ておられるので、善行も右の手のしていることを左の手に知らせないとか、祈りも自分の奥まった部屋に入り、魂の深層部で祈ることを示され、優先的に実行することです。思い煩うな、まず神の国と神の国を求めよと言われるキリストのことばをそのまま信じて行うのです。「信仰」は「信行」だと思います。警戒すべきは、偽善であると主はくり返し告げています。信じている「つもり」とか、やっているいる「ふり」とかはいけません。聞いて行うというには当然、葛藤があったり、苦闘があったりします。その取り組みが大事なのです。それを突き抜けると実にさわやかで、静かでいい知れない喜びに、聖霊が導いてくださいます。

 私は東京の日暮里の小学校にかよっていましたが、美術の授業で、歩いて谷中の墓地を通り抜け、上野の国立西洋美術館に連れて行ってもらうことがありました。それで青年になっても観に行っていました。その本館前庭にはロダンの彫刻「地獄の門」がおかれています。その門の上に「考える人」がいるのです。私には大変印象深いものでした。イエスが言われる洪水と暴風の時、最後の審判の時を考えて生きる人こそ、賢い人です。人生の生まれて、死ぬまでのこと、そこの結果はどうなるか、神の審判の時まで、トータルとして総合的に考え、対処して生きている人こそ、賢い人です。「キリスト・イエスにある者が罪に定めらることは決してありません。」との契約をいただいて、人生まるごと、終わりの日に震われないのだと聖霊によって確信して、そして、みことばに従って生きようとする人こそ、賢い人です。
 みことばを聞いて行うというのはそれを語るイエス・キリスト自身に心を向けることであり、その語るお方を信じ、その語るお方に望みをおき、その語るお方を愛して生きることです。イエス・キリストという岩盤に土台をおいて、みことばに従って人生を築いていくなら、最後の洪水の日がきても、「信仰と希望と愛」という家がいつまでも残るのです。椎葉クニ子さんは人が生き延びるために、総合的な英知をもって自然と共生して生きる賢さを教えています。キリスト者は永遠に生き延びるために、総合的な霊知をもって神と共生して生きる賢さを身につけていきましょう。