オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

立って、出てきなさい

2010-07-25 00:00:00 | 礼拝説教
2010年7月25日 伝道礼拝(雅歌2:10) 岡田邦夫


 「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」雅歌2:10


 私たちは何かに縛られて生きています。因習に縛られているとか、世間というものに縛られているとか…ですから、そういうしがらみから、自由になって生きたいと思うかもしれません。しかし、本当に自由になれるのでしょうか。このように例えることがあります。たこの糸が切れてしまうとたこは風に流されていきますが、すぐに落ちてしまいます。しかし、糸でつながっていれば、人に操られながら、大空を自由に飛び交えるというものです。また、魚が自由になりたいと丘に上がっても、ばたばたしても、たいして移動は出来ないし、また、生きてはいけません。魚は水の中にあってこそ、自由に泳ぎ回れるのです。人は本来あるべきものにつながっていれば、自由なのです。また、人は本来あるべきところにいる時、自由なのです。
 本来あるべきものとは私たちを造られた神です。創造者である神につながっている時に、また、神のふところに帰る時にこそ自由に生きられるのです。ところが、アダム以来、神に背を向け、神を信じない罪をおかし、糸の切れたたこのようになってしまいました。また、丘に上がった魚のようになってしまい、滅びをまつ身となってしまいました。私は宗教からも自由に生きていると言いましても、お金という神、偶像に縛られているかも知れません。 イエス・キリストは私たちに自由を得させるために地上に来てくださいました。人をほんとうに不自由にしている罪と死から解放するために、十字架にかかり、私たちの身代わりとなって死んでくださいました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と主は招いておられます(マタイ福音書11:28)。罪に縛られ、疲れた人、それに負けまいとする律法主義の重荷を負っている人はイエス・キリストのもとに来なさいと言っています。それらから、十字架において解放し、休ませてあげますと約束しています。
 重い病気で死に、墓におさめられたラザロにイエス・キリストは「大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』」(ヨハネ福音書11:43)。すると、ラザロは生き返りました。私たちに向かって、縛られている罪と死の中から出てきなさいと呼んでいるのです。永遠の命に生き返るのです。神のふところに立ち返るのです。愛に死んでいたのが、神の愛に帰るのです。あなたが神を信じるのです。
 旧約聖書に雅歌という愛の歌があります。そのまま読めば恋愛歌なのですが、神と私たちの関係で見ていくなら素晴らしい宗教歌なのです。娘と羊飼いはイスラエルと神、ソロモンは偶像という解釈し、「シュラムの娘は、ソロモン王の強引な誘惑にもかかわらず、自分の恋人、羊飼いの若者への愛を貫き通すという」劇詩(チェーン・バイブル)と見ることが出来ます。このような、愛する者を呼ぶ呼びかけの言葉があります。それはイエス・キリストの神が私たちを呼ぶ呼びかけです(口語訳)。
 「わが愛する者はわたしに語って言う、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」(雅歌2:10ー13)。

 以前おりました教会に、大学生の時に交通事故にあい、脊髄(せきずい)を損傷し、おへそから下がまったく動かなくなった一人の青年にお会いしました。家を訪ねていくと、二階でベッドの生活をしていました。教会に来るのは難しい状況なので、牧師が毎週、訪問して、聖書の学びをするこうとになりました。教会員に看護師がおられたので、脊髄損傷というのは治るのか、聞いてみますと、現在の医学では直せないが、そのような方で実際、充分に生活されている方がいるので、紹介してくれるということになりました。その方が彼の家まで、手だけで運転できる車を自分で運転し、会いに来てくださり、車椅子を自分でおろし、自分で車椅子に乗り移りました。車椅子を乗りこなし、仕事もし、結婚もし、バスケットまでもしているとのことでした。それで、彼に希望が与えられたのですが、今の生活とはかなり、ギャップがありました。しかし、一歩ずつ進んで行くしかありません。
 まず、目標をもつこと、自分がしたいこと、できそうなことは何か…英検1級を取って、英語を教える人になること。そして、生きていく力は何か…聖書のみ言葉で、「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる」(イザヤ書32:15)。
 ベッドの生活から、車椅子を乗りこなす生活に変えていく自己訓練が始まりました。床ずれ(じょくそう)に気をつけて座り、勉強すること(車椅子用の机は牧師が作成)、10センチの段差を越える練習すること(倒れることもあるのでふとんを用意)などです。一人でガンバって、英検2級まで合格しました。
 次は車を乗りこなすことです。彼は一大決心をして、家の近くの教習所に、一人、車椅子で、恥ずかしさのあまり、顔を上げられずに、それでも行ったのです。その道のりは果てしなく長かく感じたとのことです。教習所には家族が用意してくれた手だけで運転できる自家用車がありました。毎日、かよい、卒業試験も無事、合格しました。問題は運転免許の試験会場、当時のこと、エレベーターもスロープもなく、階段なのです。牧師が一緒に行くことになり、背負って上がり、車椅子は人にもってもらうという具合でしたが、その日に合格、共に喜んで帰りました。
 こうして、外に押し出て行く力となったのが、主イエス・キリストが語りかける言葉「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」でした(雅歌2:10)。彼は閉ざされた生活から、閉じていた心の状況から、立って、出てきたのです。免許をとっての初乗り、練習は牧師が同乗しました。緊張はするものの嬉しいものでした。車に乗れば、どこにでも行ける、世界観が変わったような思いでした。
 最初の外出先は教会としました。ところが、あいにく雪が降り始めたのです。礼拝が始まっても、説教が始まっても、来られないのです。牧師夫人は寒くても、祈って、外で待っていましたが、彼の姿は現れません。礼拝最後の祝祷の時に、車椅子を操って、彼が礼拝堂に入って来たのです。祈っていた教会員の皆さん、「よう来た!」と大喜び、彼は大いにテレながらも、一緒に喜び合いました。家を出ようとしたら、他の車が前にあって、出にくく、あきらめず、何度も、切り返して、出てこられたのですが、遅くなったとのことでした。車から車椅子を降ろすことも、自分がそれに乗り移ることも、少し長い教会への通路を通って、教会に入っていくことも、いっさい牧師夫人は手出しせず、一人でされるのを見守っているだけでした。その日の午後から、大雪となったのです。彼はその後、塾で英語を教えるようになり、やがて、結婚もされました。
 十字架にかかり、命を捨てるほどあなたを愛しておられるイエス・キリストはあなたを招いています。いつまで悩みのるつぼにいるのですか、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」。罪と死に縛られて滅んでいくのはかわいそう、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」。私は復活したではありませんか、復活の平安の中に、復活の命の中に、無限の神の愛の中に、おいでなさい。そう招いているのです。

ダビデとヨナタンの友情

2010-07-18 00:00:00 | 礼拝説教
2010年7月18日 主日礼拝(1サムエル記18:1~20:42)岡田邦夫:みのお泉教会にて


 「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある」(箴言18:24口語訳)。

 NHK教育テレビに「ピタゴラスイッチ」という子供たちの考え方を育てる番組があり、その中に登場する「ピタゴラ装置」が私は好きです。身の回りにある定規などでさまざまな、からくり装置を組合せ、そこをビー玉などが転がってゆき、最後はピタゴラスイッチという題名を示すというものです。

◇友情のスイッチ
 人生にはスイッチが入る時があります。少年ダビデがペリシテの巨人ゴリアテを倒した時も、きっと、彼の戦いのスイッチが入って、臨んだのでしょう。そのダビデを将軍アブネルがサウル王のもとに連れてきた時のことです。
「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。…ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」と記されています(18:1、3、4)。サウル王の息子・ヨナタンの心にダビデへの「友情」という心のスイッチが入ったのでしょう。それは理屈ではないものです。人生には大なり小なり「友」に出会うことがあるのです。きっと、人生をよりよいものにするための神からの贈り物なのでしょう。「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある」(箴言18:24口語訳)。
 それから、ダビデは戦士の長として、サウル王のもとで、活躍します。凱旋するのを迎える女たちが踊って、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌う程でした。

◇憎悪のスイッチ
 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになり、ついに、「その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。」のです(18:10)。憎悪という心のスイッチが入ってしまったのです。サウルの心を静めるために琴を弾いていたダビデに、いきなり、王が槍を投げつけたのです。ダビデはすばやく身をかわし、難を逃れました。それでも、ダビデの行く所、どこでも勝利でした。
 今度は、「サウルの娘ミカルがダビデを愛した」のです(18:20)。恋愛のスイッチが入ったわけです。サウルはこれを利用して、ダビデを葬り去ろうと企てます。「サウルは言った。『ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいる、と。』サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた」(18:25)。わずかな部下をつれて、敵の百人を倒すなど、できるわけがありません。しかし、ダビデは部下と出て行き、倍の二百人のペリシテ人を打ち殺し、陽の皮を王の前に持ち帰り、婿となる条件を果たしました。王はやむなく、娘ミカルを妻として、ダビデに与えることになったのです。

 ダビデが戦果ををあげるので、サウル王はますますダビデを恐れることになりました。「サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた」(19:1)。王が重要な家来を殺そうというのですから、最悪の事態です。ヨナタンは板挟み。王を説得します。ダビデに対して、罪を犯さないように、彼のしたことは王にとって有益だったし、彼が命をかけて敵と戦い、主が勝利を与えられたのだから、罪のない者の血を流してはならない…と。サウルはそれを聞きいれ、おさまります。
 しかし、またペリシテとの戦いが起こり、ダビデが敵に大損害を与えれば、殺意のスイッチがはいって、琴を弾くダビデを槍で壁に突き刺そうとします。ダビデは逃げ、難を逃れます。妻ミカルがこの状況を察して、窓からつり下ろし、ダビデを逃がします。それから、ダビデはヨナタンにこっそり会いに来ました(20章)。新月祭で王といっしょに食事をしなければならないことがあるからです。ここで熱い友情の言葉がかわされます。食事に行かないことに気付き、王が怒っているかどうか、殺意があるかどうか、ヨナタンが暗黙の内に知らせるということになりました。新月祭の日が来て、王はダビデが来ていないことに気付き、殺意がありありであることをヨナタンは知って、弓矢のいり方でダビデにだけそのことを伝えます。ダビデは隠れたまま出てきません。ヨナタンに命を助けられたのです。ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。ヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です。』と言って、主の御名によって誓ったのです。」こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。…20:41-42。実に素晴らしい友情です。

◇救済のスイッチ
 イエス・キリストは友情を高く評価して言われました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ福音書15:13)。そして、友情のような、それを越えた主との関係をこう言われました。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(同15:14)。そして、主ご自身が私たちを滅びから救おうという、愛のスイッチが入って、十字架でいのちを捨ててくださいました。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(ローマ5:7ー9)。神の愛のスイッチは入りっぱなしなのです。

タビデとゴリアテとサウル

2010-07-11 00:00:00 | 礼拝説教
2010年7月11日 主日礼拝(1サムエル記17:1~58)岡田邦夫


 「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」1サムエル17:47

 2010 FIFA ワールドカップでイビチャ・オシム氏が日本代表チームについて、こうコメントしていました。「カメルーンは巨人ゴリアテで、日本は小人ダビデだった。~本田が(うぬぼれて)ゴリアテになってしまったら、彼と日本の未来にとって悲しいこと」だと(6月15日)。キリスト教国ならではの発言です。そのタビデとゴリアテ(ゴリヤテ)の戦いは今日の聖書にでてくるものです。

◇ダビデとゴリヤテの対比
 巨人ゴリヤテを少年ダビデが倒すというこの物語は痛快な話です。ペリシテ人が軍隊を召集してエフェス・ダミムに陣を敷き、それを迎え撃つイスラエル人はエラの谷に陣を敷き、「ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。」のが始まりです(1サムエル17:3)。ペリシテ側はひとりの代表戦士を出して、一騎打ちをさせようとイスラエル側に提案します。それはペリシテ側の戦術。背の高さ、6キュビト半=286センチの巨人ゴリヤテを戦士に持っていたからです。青銅のかぶと、57キロのうろことじのよろい、青銅のすねあて、7キロの鉄の穂先のある青銅の投げ槍…という重装備、盾持ちが先を歩くというような、しかも、軍事訓練を受けた、巨大戦士ゴリヤテ、それには誰をも圧倒してしまうものがありました。戦う前から、戦意を失わせる威圧感を持っていました。そのゴリヤテが40日間、朝と夕に現れてはイスラエル陣営を脅し、一騎打ちをしろと挑発します。それを聞き、イスラエル側は戦おうとする者もなく、すっかり意気消沈してしまいます。
 そこに若きダビデがやってくるのです。彼はベツレヘムに住み、父はエッサイと言い、父のもとで羊飼いをしており、八兄弟の末っ子、その兄弟の内、上の三人はサウル王に従い、この戦列に加わっていました。ダビデは父から、兄たちに食料を届け、安否を調べて来るように頼まれて、この戦場に来ました。そこに例のゴリヤテが現れ、イスラエル人を脅かす光景を見ます。ダビデは憤慨します。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは」(17:26)。兄が身の程知らずといさめ、怒りますが、ダビデの言動がサウル王の耳に入り、召し出されます。ダビデは羊飼いの経験から、羊を守るため、主に助けられ、獅子(しし)や熊を打ち殺した経験があるから、あのペリシテ人から、主が必ず、救ってくださるに違いないと申し出ます。
 ダビデはよろいも着ず、槍も持たず、羊飼いの「杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。」のです(17:40)。両者が近づきます。ゴリヤテが見おろせば、ダビデは若くて、紅顔の美少年、彼をさげすんで、自分の神々によってダビデをのろいました。ドスのきいた声が響きわたったことでありましょう。しかし、ダビデは少しも臆することなく、立ち向かいます。「きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(17:46-47)。
 ゴリヤテが近づくと、ダビデは走って行き、石投げに一つ石を入れ、ゴリヤテ目がけて放つと、みごと、額に命中、石は額に食い込み、ゴリヤテは気を失い、前に倒れ込み、うつぶせになったのです。ダビデは走りより相手の剣を抜き、とどめをさしました。一瞬の出来事でした。すると、ペリシテ人は恐れて逃げ、イスラエル人は奮い立ち、追撃し、圧勝しました。

◇ダビデとサウルの対比
 ダビデの勝利の秘訣は何でしょう。①経験を生かしたことです。羊を守るために獅子(しし)や熊を打ち殺した羊飼いの経験を応用して、獣を巨人に変えて、のぞんだわけです。②チャンスを生かしたことです。ダビデはサウル王の道具持ち、王を慰める立琴奏者でしたが、この時、武勇をたてるチャンスがきたわけです。③若さを生かしました。無謀ともいえる戦いにいどむことが出来たのも、失うものもあまりない若さにあったのでしょう。
 しかし、聖書では「この戦いは主の戦い」であり、「イスラエルの陣営の神、万軍の主」が戦われ、勝利したのだと告げています(17:47)。主が剣や槍を使わずに民を救うことを他の国々に知らせるために、羊飼いの少年ダビデを用いたのです。サムエル記は主に用いられるか、退けられるか、その明白な対比が記されています。この戦いの前に、サウル王に対して、サムエルが宣告を下していました。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」(15:22-23)。

 そして、彼に代わる王を主は選ばれました。主に導かれ、サムエルがエッサイの家を訪ねた時、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と告げられ、八人の兄弟がいる中で、一番下のダビデを主が指名しました。ダビデの心、すなわち、主の声に聞き従う心を見られたのです。彼は羊飼いです。羊飼いは自分の羊の名を呼び、彼の羊は自分の羊飼いの声を聞き分けて、ついていくのだとイエスが教えられたように(ヨハネ福音書10章)、ダビデは従順な羊の心を持っていました。また、きっと、神の民という羊の群のために、命をかけるという、牧者の心が芽生えていたに違いありません。
 そして、王となる、御前での任職式が行われました。「主は仰せられた。『さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。』サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」のです(16:13)。聖霊が注がれたのです。聖霊の受信者、受容者となったのです。その日以来、彼を突き動かし、支えたのはその聖霊なるお方だったのです。それと対照的なのがサウル王。「主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた」(16:14)。新約の時代、イエス・キリストを通して、私たちには聖霊が注がれているはずです。私たちも聖霊に突き動かされ、支えられていきましょう。「主の霊が私を離れ、悪い霊が私をおびえさせ」ということがありませんように。もしそうなったら、イエス・キリストの前に出て、本来あるべき従順な羊の心にしていただき、他者を思いやる牧者の心を良い羊飼いイエスからいただきましょう。そして、ゴリヤテのような敵、それは圧倒されるような問題でしょうか、世のこと、サタンの迫りでしょうか、それに向かって、「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」と聖霊により、信仰を持って立ち向かいましょう(1サムエル17:47)。そうすれば、私たちの小さな石つぶての祈りも、問題の巨人の急所を一撃するに違いありません。この戦いは主の戦いだからです。

「泉のほとりの」

2010-07-04 00:00:00 | 礼拝説教
2010年7月4日 四泉合同礼拝・於宝塚泉教会(創世記49:22-26)岡田邦夫


 「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。」創世記49:22

 豊中泉、宝塚泉、みのお泉、三田泉の4教会が合同礼拝をしますのは、元をたどっていくと同根の群であり、株分けされた教会がその後も、祈り、協力し合ってきたからです。神田ホーリネス教会で受洗し、結婚して豊中に来ていた方が、豊中にホーリネス教会がほしいとの祈りに導かれ、家庭集会を開き、人が集まってきたので、1956年7月8日、豊中使徒教会が設立されました。それがそもそもの始まりでした。1980年9月、豊中使徒教会が土地を購入して、移転を予定していたのが、株分けの形に変えられ、株分けされた教会が、豊中泉教会でした。それが4泉教会になっていく第一歩でした。その当時の牧師に後任の私が「泉と名付けた聖句は何ですか?」と聞きましたら、聖書には泉がたくさん出てくるからだとだけ言われました。それではと、祈り、与えられたみ言葉が、創世記49:22の「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。」でした。そして、教会はそのみ言葉のように実を結んできたのです。

◇全能の神による
 このみ言葉はヤコブが臨終の時に、12人の子どもたちを祝福した言葉の一つです。ヨセフは下から二番目の子で、父の寵愛(ちようあい)を受け、しかも、夢見る人で、その夢が兄たちを怒らせるものでした。兄たちは弟ヨセフを野で殺そうとしますが、通りかかった商人に売り渡してしまいます。そして、エジプトのポテパルの奴隷となります。よく働くのですが、また、あらぬ恨みを買い、投獄され、もはや、日の目を見ることはないかと思われました。しかし、囚人の見た奇妙な夢を解き、やがて、エジプト王パロの見たたいへん奇妙な夢を王の前で解くことになりました。夢見る人は夢解く人でもありました。ヨセフの賢さを見込み、王は彼を総理大臣に任じ、そのことでエジプトは危機から救われることになります。
 やがて、飢饉(ききん)がやってきて、兄たちが食料を買いにエジプトに来た時、ヨセフと再会します。しかし、彼がまさか総理大臣になっているとは思わないので、ひれ伏します。ヨセフは色々手を使って、兄たちが自分を売り渡したことを悔いていることを確かめ、和解し、ヤコブ一家を安全なエジプトに迎えたのです。始めに神が見させた夢の通りになりました。
 それがこの言葉に表現されています。「射る者は彼を激しく攻め、彼を射、彼をいたく悩ました。しかし彼の弓はなお強く、彼の腕は素早い」(49:23ー24)。しかし、それはヨセフをたたえているのではなく、神を誉め称えているのです。「これはヤコブの全能者の手により、イスラエルの岩なる牧者の名により、あなたを助ける父の神により」と(49:25、平行法という強調の表現)。私たちの群も祝されているのは、ひとえに「これはヤコブの全能者の手により、イスラエルの岩なる牧者の名により、あなたを助ける父の神によ」るのです。

◇祝福の神による
 なお、そのお方は祝福の神なのです。さかのぼりますと、神が人を創造された時のことです。「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。」(創世記1:28)。しかし、人は神に背き、罪を犯し、祝福を失いました。そこで、アブラハムを選び、彼と彼の子孫を救い、祝福の約束をされました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基(もとい)となるであろう」。私たちは信仰によるアブラハムの子孫であり、この祝福をイエス・キリストによって継ぐ者です(ガラテヤ3:9参照)。
 49章に戻りましょう。「上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福、乳ぶさと胎の祝福をもって、あなたを恵まれる全能者による。」とあり、「あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、永久の丘の賜物にまさる。」とありますから、何とも素晴らしいことです。何か心が躍ってきそうです。その祝福が私たちの上にのぞむのです。「これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する」(49:26)。最高の祝福はイエス・キリストによって、私たちにもたらされました。それはイエス・キリストの福音です。「これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである」(1テモテ1:11)。

 豊中泉教会が株分けされた年(1980年)、私たちは愛媛県の壬生川教会に遣わされて7年目、祈っていますと、「向こう岸へ渡ろう」、「新田を耕せ」のみ言葉が示され、開拓伝道の使命が与えられ、教団委員会に申し出ました(マルコ4:35、ホセア10:12 )。翌年、遣わされた教会は豊中泉教会、開拓の教会ではありませんでした。しかし、豊中泉教会主催の宝塚での家庭集会に行きましたら、同じ愛媛県の新居浜教会から、先に転勤で二家族がこちらに来られ、宝塚の社宅におられたのです。すると、「先生、宝塚にホーリネス教会がほしい。」と言うのです。その時、私の中で「新田を耕せ。」とはこのことだと、御霊に示されました。
 話を聞きますとこうです。その中の一人の姉妹が社宅の庭の枯れ葉をはき集め、しばらく日が過ぎて、その枯れ葉の山が黒くなっていました。それを見た時に、聖霊が示したのでしょう。宝塚の魂が滅んでいく光景に見えて、涙していると、「この町には、わたしの民が大ぜいいる。」のみ言葉が与えられました(使徒18:10)。そして、家庭集会を続け、ホーリネス教会が必要と祈り会をして、ずっと祈っていたのでした。そうして、見えない神のみ手に操られて、私たちは宝塚というところで出会ったような気がします。豊中泉教会が宝塚開拓を打ち出すとすぐに、宝塚泉教会のある、ここの土地が寄付され、はじめはプレハブでを建て、一期工事、二期工事をへて、伝道牧会が進められてきました。また、みのお泉教会も三田泉教会もできて、今ここで合同礼拝をするまで至っています。
 これは決して、誰かの計画で出来てきたことではなく、「上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福、乳ぶさと胎の祝福をもって、あなたを恵まれる全能者による」のであります。祝福する父なる神、イエス・キリストの神、聖霊の神によるのです。ここにおられる私たち、みんなが御手の中で用いられただけです。しかし、神によるのですから、何にも代え難い祝福です。その祝福に私たちは与っているのです。

◇「泉のほとりに」
 ヨセフの祝福の源は「泉のほとり」でした。神の恵みの泉がいつもそばにあったのです。聖書では、一番苦しい時にこそ、そうだったことが記されています。「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。…主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家とうくh畑とにあるすべての持ち物に及んだ。」(39:2-5)。「主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。… 獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた」(39:21-3)。
 主がヨセフと共におられたのでと繰り返しています。祝福される父、子、聖霊の三一の神が共におられるなら、必ず、祝福されるのです。主が共におられるなら、だいじょうぶなのです。その時に、苦しくて見えないこともありますが、後に祝福が見えて来るものです。そして、最後には栄光の内に現れる再臨のイエス・キリストにより、永遠の祝福にあずかるのです。どうぞ、私たちはイエス・キリストの泉のほとりにおりましょう。イエス・キリストの泉のほとりから流れてくるのは、イエスの血潮です。十字架の血潮は私たちの罪をすべて洗い流す祝福です。血は命。キリストの血潮は私たちに永遠の命を与える祝福です。十字架の上で注ぎ出された血潮は私たちを憐れみ、愛の限りをつくされたイエス・キリストの祝福です。どうぞ、私たちはイエス・キリストの泉のほとりにおり続けましょう。