オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

この目であなたを仰ぎ見ます

2017-06-11 00:00:00 | 礼拝説教
2017年6月11日 主日礼拝(ヨブ記42:1~6)岡田邦夫


 「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」ヨブ記42:5-6共同訳

 渡辺和子先生の最後の著書にこのような文章がありました。「冬に思うこと」というタイトル。
 “八木重吉さんが、こんな詩を読んでいらっしゃいます。
  苦しみのさなかに入ると
苦しみはもうなくなって
  ただ生きるということだけだった
 苦しみについて評論家めいたことが言えたり、苦しみの正体をあれこれ詮索したりしているうちは、まだ自分に余裕がある証であって、苦しみのさなかの入ってしまうと、ただもう生きることで精一杯になってしまい、気がついた時には、苦しみはいつの間にか自分の後ろにあったように思います。
 履歴書を書かされる時、必ずといってよいほど学歴と職歴が要求されます。しかしながら、もっとたいせつなのは、書くに書けない「苦歴」とでもいったものではないでしょうか。学歴とか職歴は他の人と同じものを書くことができても、苦歴は、そのひとだけのものであり、したがって、その人を語るもっとも雄弁なものではないかと思うのです。
  これまで乗り越えてきた数々の苦しみ。
気がつけば、それらは経験という宝になっている。”

◇神の創造の広大さはいかに
 このような内容のことが先週のエリフの言葉にも出てきました。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(36:15口語訳)。そして、正しいものがなぜ苦しむのか、神と論じようと意気込むヨブを諭します。「私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない」(37:23-24)。
 すると、主は嵐の中から「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と言って、ヨブに答えられたのです(38-39章)。
「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを」(38:4-5)。ヨブの問いは「なぜ」義人を苦しめるのかでしたが、神は問いかえしまします。「だれが」このことをしているのか、創造と摂理の神ではないかというのです(38:16、22、31、35、39:1、19、26)。
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。
あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。
あなたはいなずまを向こうに行かせ、「私たちはここです。」とあなたに言わせることができるか。
あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。
あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。
あなたの悟りによってか。たかが舞い上がり、南にその翼を広げるのは。

 奥様ががんの末期という状況で、ある歌舞伎役者がこう言っていました。苦しんだ末、ある流れの中にいると捉え、妻には良くなるよ、大丈夫とは言わない。良く現状を把握して、今を生き、最善を尽くすことだ。笑顔で対応するのだ。自宅療養なので朝、妻の疲れ切った寝顔を見ても、大変なもの。妻の母親にそれをどう思うかと聞かれた時、自分は本気で言った。「可愛いよ」。なぜ、妻がこんな試練が、と思えば辛い。しかし、病める状態でも妻は妻だ、なぜではなく、だれなのだ。愛すべき存在がそこにいる。
 神にとって、悲惨に見える状況にあっても、ヨブはヨブ、愛すべき存在です。そのようにヨブを見ておられる神をヨブの方からも見なさいというのです。ヨブを存在させておられる全知全能の神を見よというのです。
 ヨブは解ってきました。「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません」(40:4-5)。

◇神の創造のち密さはいかに
 神はねんごろです。さらに、あらしの中から答えます。
 「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか」(40:7-9)。
 主権は神にあるのです。信仰とは神の主権を認め、委ねることです。それが解るようにと、二つの生き物を引き合いに出します。
 「さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの、牛のように草を食らう。」と言い始め(40:15)、これは神が造られた大地の獣と言い、その生態を詳しく、詳しく述べていきます。
 次はレビヤタン。わにのこと。「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩(わなわ)でその舌を押えつけることができるか。あなたは葦(あし)をその鼻に通すことができるか。鉤(かぎ)をそのあごに突き通すことができるか」(41:1-2)。語り続ける中で言います。「だから、だれがいったい、わたしの前に立つことができよう。だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ」(41:10 -11)。
 河馬もレビヤタンもそのすべての生態、その命の神秘、すべては神の知恵と力によるものだと示します。ヨブの頭のてっぺんから足のつま先まで、ヨブの一挙手一投足、人生の初めから終わりまで、神はち密に考え、摂理のうちに導いておられるのです。マクロにおいてもミクロにおいても、愛における主権の中に導かれているのです。

 ヨブは主に答えます。信仰の告白です。
「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。私はあなた(のうわさ)を耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」(42:1-6)。ヨブは解ったので、積極的な信仰告白をしたのです。ヨブ記はこの後、友人のために祈った時、財産は二倍に、娘たちが与えられ、長寿を全うしたと締めくくられます。

なぜなのかと神に問いかけたのが、問うているその神はだれなのかと問い返されて、答えをいただいたのです。人の理屈ではなく、神の理屈が答えでした。解決ならざる解決を得たのです。すべてのことを働かせて益とされる「摂理」の理を知ったのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
 苦しい時こそ神解りです。自分がどんな状態でも、神は私そのものがかわいいと思っておられ、摂理をもって最善に、救い主をもって永遠の命に導こうとしておられるのです。苦しい時こそ、それを知る機会、そういう苦歴こそ、永遠に残る宝です。


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