2017年1月29日 主日礼拝(1コリント11:23~34)岡田邦夫
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。…この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」1コリント11:24-25抜粋
コリントの教会はあの問題、この問題と何にやかやとゴタゴタしていました。それに対して、パウロは手紙で一つ一つにていねいに答えていきます。食べるもの、被りもののことなどで色々もめている、枝葉に見えて、本筋でないようなこと、それを面倒くさがらず、しっかりと回答文をていねいに書いたのです。そこには彼の「兄弟たちよ」や「私の愛する者たちよ」の呼びかけに見られるように、並々ならぬ教会愛、コリント愛があふれているのです(1:10、10:14)。
◇周辺の問題から、中心の真理に…
「生きるべきか。死ぬべきか。それが問題だ。」はハムレットの中のセリフ。ここコリントで売られている偶像にささげた肉、それを食べたら罪になるのか、ならないのか、それが問題でした。日本でも慣習となっている宗教行事とクリスチャンはどうかかわっていくのか、問題を感じるものです。偶像など架空のものだから、肉はただの肉、自由に食べたらいい、そんなことは問題ではないとパウロ自身は思っています。しかい、問題だと感じる、罪意識を感じる人もいて、自分のような行為を見ていてつまずくかもしれない、だから、配慮して、そういう肉を自分は食べないことにしていると言います。愛は人の徳をたてるというものです。
自分は使徒の務めを持っていて、働きの報酬を受ける権利がありますが、その報酬を受けずに福音宣教の働きをしてきました。それは自由な立場でいるためです。律法を持つユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法を持たない他の民族にはその民族のようになりました。その文化にあわせて福音を伝えたのです。何を食べていいか、どうかは文化です。文化の受容は問題ではありません。福音は文化を超えて、文化を媒介に伝えられるものだからです。
問題ないといっても、偶像礼拝はいけません。偶像の本性はむさぼりであり、偶像礼拝はまことの神でないものに心を寄せる姦淫のようなもの、そして、傲慢にも主を試みることです。旧約の民は荒野でそういう偶像礼拝に陥ったので、滅ぼされたのです。それは私たちへの警鐘です。偶像にささげられた肉が問題ではないのです。霊の問題です。悪の霊を受けてはなりません。戦々恐々と信者をおとしめようとしているサタンに惑わされてはなりません。霊の食物、聖別された聖餐のパンと杯こそが最も重要なのです。ですから、生活のことについてはこのような生き方をすべきなのです。「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光のためにしなさい」(10:31)。
もう一つ、文化と折り合いをつけていく例が出てきます。かぶり物の問題です。世界を見渡せば、今日の問題でもあります。この時は、公に礼拝するときに、男はかぶり物をしてはいけない、女はかぶり物をしなくてはならないと規定しました。この時代の感覚からくる風紀の問題だったかも知れません。パウロは、「権威」に従う礼拝精神を形にしようとしたのでしょう。最高のかしらは神、その方を礼拝し、従うことが神の栄光をあらわすことです。礼拝する男女は「平等」とも言います。「女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています」(11:12)。
この当時、集まる時に、愛餐会も聖餐式もいっしょになされていたようです。それは良いことなのでが、「あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっている」と厳しく指摘します(11:17)。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。ですから、兄弟たち。食事をするときは、互いに待ち合わせなさい。そのようにパウロは指示し、身勝手な文化を直させます。
それよりも重要な問題は、究極の食事、聖餐の意味を知ることでした。それは「主から受けた」最も重要な福音だからです(11:23)。聖餐は富める者も貧しい者も、教会すなわち、キリストのからだが一つの糧に与り、一つになる場だからです。
◇焦点の真理から、周辺に…
私はものをまとめる時、楕円2焦点思考法を使います。楕円を作図するのに、2点にピンをさし、そこに糸をかけ、ペンで引っ張りながら描く方法があります。その2点が焦点です。例えば、光には粒子の性質と波動の性質とがあって、相反するように見える、焦点が2つあるとして楕円で囲めば、考えはまとまります。聖書の性質も人の言葉で書かれた神の言葉ですから、2焦点で考えるとまとまります。
キリスト教の儀式には結婚式や葬式など色々ありますが、イエスが命じられた儀式は二つだけです。洗礼式(バプテスマ)と聖餐式(晩餐)です(マタイ28:19、1コリント11:23-25)。十字架と復活の福音を形に表した、2焦点の儀式です。主が十字架で死なれたのは私の罪を贖うためだった、主が死からよみがえられたのは私に永遠の命を与えるためだった、そう信じて救わるのが洗礼です。それが決定的であるしるしとして洗礼式を主は定められたのです。それを忘れないようにと、福音の焦点に集中し、信仰がリアルであるようにと聖餐式が制定されました。「主イエスは、渡される夜、(夕食の後)パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました」。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい」。そして、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい」。
パンとぶどう液にあずかることを通して、イエスの十字架の血による罪の赦しとキリストの復活による永遠の命に与っていると信じ、確認し、確信するのです。主が来られる再臨に備え、証ししていくのです(11:26)。ですから、自分を吟味し、十字架のイエスのひざ元に、復活のキリストの胸元に行くのです。主の御業に生で与るのです。主が十字架で死なれた時、私の罪における古い人もいっしょに死んだ、死に与ったのです。主が復活された時、私の命における新しい人もいっしょに復活した、復活に与ったのです。聖餐はその焦点へと導くのです。
毎年、ノーベル受賞者は授賞式終了後、ストックホルム市庁舎にて、スウェーデン王室および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われます。最高級の料理がふるまわれます。主が再臨され、神の国が現れる時、それどころではない、はるかにまさった救い主メシヤの晩餐会が行われるでしょう。王の王キリストに迎えられ、復活した聖徒たち、私たちは義の冠をいただき(2テモテ4:8)、最高級のふるまいをいただくのです。その晩餐会を思いながら、パンとぶどう液という最も質素な晩餐会、聖餐式をするのです。余計なものがない質素な聖餐だからこそ、初臨のイエス・キリスト、再臨のイエス・キリストへの思いと信仰が膨らんでくるのではないでしょうか。
日常においても主の霊的恵みがふるまわれています。イエス・キリストの血によって命が与えられ、聖霊によって味付けされたみ言葉がふるまわれています。三田牛の肉を食べても、私たちは牛のようにはなりません。逆に霊的なものは与るとそれに染まっていきます。私たちは主の恵みに与っていくと、主のようになっていくのです。洗礼を受けてない方がおられたら、洗礼の恵みに与ることをお勧めします。私たち、聖餐の恵みに与り、神の言葉の恵みに与り、永遠の命がいっそう豊かになっていきますようにと祈ります。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。…この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」1コリント11:24-25抜粋
コリントの教会はあの問題、この問題と何にやかやとゴタゴタしていました。それに対して、パウロは手紙で一つ一つにていねいに答えていきます。食べるもの、被りもののことなどで色々もめている、枝葉に見えて、本筋でないようなこと、それを面倒くさがらず、しっかりと回答文をていねいに書いたのです。そこには彼の「兄弟たちよ」や「私の愛する者たちよ」の呼びかけに見られるように、並々ならぬ教会愛、コリント愛があふれているのです(1:10、10:14)。
◇周辺の問題から、中心の真理に…
「生きるべきか。死ぬべきか。それが問題だ。」はハムレットの中のセリフ。ここコリントで売られている偶像にささげた肉、それを食べたら罪になるのか、ならないのか、それが問題でした。日本でも慣習となっている宗教行事とクリスチャンはどうかかわっていくのか、問題を感じるものです。偶像など架空のものだから、肉はただの肉、自由に食べたらいい、そんなことは問題ではないとパウロ自身は思っています。しかい、問題だと感じる、罪意識を感じる人もいて、自分のような行為を見ていてつまずくかもしれない、だから、配慮して、そういう肉を自分は食べないことにしていると言います。愛は人の徳をたてるというものです。
自分は使徒の務めを持っていて、働きの報酬を受ける権利がありますが、その報酬を受けずに福音宣教の働きをしてきました。それは自由な立場でいるためです。律法を持つユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法を持たない他の民族にはその民族のようになりました。その文化にあわせて福音を伝えたのです。何を食べていいか、どうかは文化です。文化の受容は問題ではありません。福音は文化を超えて、文化を媒介に伝えられるものだからです。
問題ないといっても、偶像礼拝はいけません。偶像の本性はむさぼりであり、偶像礼拝はまことの神でないものに心を寄せる姦淫のようなもの、そして、傲慢にも主を試みることです。旧約の民は荒野でそういう偶像礼拝に陥ったので、滅ぼされたのです。それは私たちへの警鐘です。偶像にささげられた肉が問題ではないのです。霊の問題です。悪の霊を受けてはなりません。戦々恐々と信者をおとしめようとしているサタンに惑わされてはなりません。霊の食物、聖別された聖餐のパンと杯こそが最も重要なのです。ですから、生活のことについてはこのような生き方をすべきなのです。「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光のためにしなさい」(10:31)。
もう一つ、文化と折り合いをつけていく例が出てきます。かぶり物の問題です。世界を見渡せば、今日の問題でもあります。この時は、公に礼拝するときに、男はかぶり物をしてはいけない、女はかぶり物をしなくてはならないと規定しました。この時代の感覚からくる風紀の問題だったかも知れません。パウロは、「権威」に従う礼拝精神を形にしようとしたのでしょう。最高のかしらは神、その方を礼拝し、従うことが神の栄光をあらわすことです。礼拝する男女は「平等」とも言います。「女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています」(11:12)。
この当時、集まる時に、愛餐会も聖餐式もいっしょになされていたようです。それは良いことなのでが、「あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっている」と厳しく指摘します(11:17)。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。ですから、兄弟たち。食事をするときは、互いに待ち合わせなさい。そのようにパウロは指示し、身勝手な文化を直させます。
それよりも重要な問題は、究極の食事、聖餐の意味を知ることでした。それは「主から受けた」最も重要な福音だからです(11:23)。聖餐は富める者も貧しい者も、教会すなわち、キリストのからだが一つの糧に与り、一つになる場だからです。
◇焦点の真理から、周辺に…
私はものをまとめる時、楕円2焦点思考法を使います。楕円を作図するのに、2点にピンをさし、そこに糸をかけ、ペンで引っ張りながら描く方法があります。その2点が焦点です。例えば、光には粒子の性質と波動の性質とがあって、相反するように見える、焦点が2つあるとして楕円で囲めば、考えはまとまります。聖書の性質も人の言葉で書かれた神の言葉ですから、2焦点で考えるとまとまります。
キリスト教の儀式には結婚式や葬式など色々ありますが、イエスが命じられた儀式は二つだけです。洗礼式(バプテスマ)と聖餐式(晩餐)です(マタイ28:19、1コリント11:23-25)。十字架と復活の福音を形に表した、2焦点の儀式です。主が十字架で死なれたのは私の罪を贖うためだった、主が死からよみがえられたのは私に永遠の命を与えるためだった、そう信じて救わるのが洗礼です。それが決定的であるしるしとして洗礼式を主は定められたのです。それを忘れないようにと、福音の焦点に集中し、信仰がリアルであるようにと聖餐式が制定されました。「主イエスは、渡される夜、(夕食の後)パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました」。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい」。そして、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい」。
パンとぶどう液にあずかることを通して、イエスの十字架の血による罪の赦しとキリストの復活による永遠の命に与っていると信じ、確認し、確信するのです。主が来られる再臨に備え、証ししていくのです(11:26)。ですから、自分を吟味し、十字架のイエスのひざ元に、復活のキリストの胸元に行くのです。主の御業に生で与るのです。主が十字架で死なれた時、私の罪における古い人もいっしょに死んだ、死に与ったのです。主が復活された時、私の命における新しい人もいっしょに復活した、復活に与ったのです。聖餐はその焦点へと導くのです。
毎年、ノーベル受賞者は授賞式終了後、ストックホルム市庁舎にて、スウェーデン王室および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われます。最高級の料理がふるまわれます。主が再臨され、神の国が現れる時、それどころではない、はるかにまさった救い主メシヤの晩餐会が行われるでしょう。王の王キリストに迎えられ、復活した聖徒たち、私たちは義の冠をいただき(2テモテ4:8)、最高級のふるまいをいただくのです。その晩餐会を思いながら、パンとぶどう液という最も質素な晩餐会、聖餐式をするのです。余計なものがない質素な聖餐だからこそ、初臨のイエス・キリスト、再臨のイエス・キリストへの思いと信仰が膨らんでくるのではないでしょうか。
日常においても主の霊的恵みがふるまわれています。イエス・キリストの血によって命が与えられ、聖霊によって味付けされたみ言葉がふるまわれています。三田牛の肉を食べても、私たちは牛のようにはなりません。逆に霊的なものは与るとそれに染まっていきます。私たちは主の恵みに与っていくと、主のようになっていくのです。洗礼を受けてない方がおられたら、洗礼の恵みに与ることをお勧めします。私たち、聖餐の恵みに与り、神の言葉の恵みに与り、永遠の命がいっそう豊かになっていきますようにと祈ります。