オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

主から受けたことを

2017-01-29 00:00:00 | 礼拝説教
2017年1月29日 主日礼拝(1コリント11:23~34)岡田邦夫


 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。…この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」1コリント11:24-25抜粋

 コリントの教会はあの問題、この問題と何にやかやとゴタゴタしていました。それに対して、パウロは手紙で一つ一つにていねいに答えていきます。食べるもの、被りもののことなどで色々もめている、枝葉に見えて、本筋でないようなこと、それを面倒くさがらず、しっかりと回答文をていねいに書いたのです。そこには彼の「兄弟たちよ」や「私の愛する者たちよ」の呼びかけに見られるように、並々ならぬ教会愛、コリント愛があふれているのです(1:10、10:14)。

◇周辺の問題から、中心の真理に…
 「生きるべきか。死ぬべきか。それが問題だ。」はハムレットの中のセリフ。ここコリントで売られている偶像にささげた肉、それを食べたら罪になるのか、ならないのか、それが問題でした。日本でも慣習となっている宗教行事とクリスチャンはどうかかわっていくのか、問題を感じるものです。偶像など架空のものだから、肉はただの肉、自由に食べたらいい、そんなことは問題ではないとパウロ自身は思っています。しかい、問題だと感じる、罪意識を感じる人もいて、自分のような行為を見ていてつまずくかもしれない、だから、配慮して、そういう肉を自分は食べないことにしていると言います。愛は人の徳をたてるというものです。
自分は使徒の務めを持っていて、働きの報酬を受ける権利がありますが、その報酬を受けずに福音宣教の働きをしてきました。それは自由な立場でいるためです。律法を持つユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法を持たない他の民族にはその民族のようになりました。その文化にあわせて福音を伝えたのです。何を食べていいか、どうかは文化です。文化の受容は問題ではありません。福音は文化を超えて、文化を媒介に伝えられるものだからです。
 問題ないといっても、偶像礼拝はいけません。偶像の本性はむさぼりであり、偶像礼拝はまことの神でないものに心を寄せる姦淫のようなもの、そして、傲慢にも主を試みることです。旧約の民は荒野でそういう偶像礼拝に陥ったので、滅ぼされたのです。それは私たちへの警鐘です。偶像にささげられた肉が問題ではないのです。霊の問題です。悪の霊を受けてはなりません。戦々恐々と信者をおとしめようとしているサタンに惑わされてはなりません。霊の食物、聖別された聖餐のパンと杯こそが最も重要なのです。ですから、生活のことについてはこのような生き方をすべきなのです。「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光のためにしなさい」(10:31)。
 もう一つ、文化と折り合いをつけていく例が出てきます。かぶり物の問題です。世界を見渡せば、今日の問題でもあります。この時は、公に礼拝するときに、男はかぶり物をしてはいけない、女はかぶり物をしなくてはならないと規定しました。この時代の感覚からくる風紀の問題だったかも知れません。パウロは、「権威」に従う礼拝精神を形にしようとしたのでしょう。最高のかしらは神、その方を礼拝し、従うことが神の栄光をあらわすことです。礼拝する男女は「平等」とも言います。「女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています」(11:12)。
この当時、集まる時に、愛餐会も聖餐式もいっしょになされていたようです。それは良いことなのでが、「あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっている」と厳しく指摘します(11:17)。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。ですから、兄弟たち。食事をするときは、互いに待ち合わせなさい。そのようにパウロは指示し、身勝手な文化を直させます。
 それよりも重要な問題は、究極の食事、聖餐の意味を知ることでした。それは「主から受けた」最も重要な福音だからです(11:23)。聖餐は富める者も貧しい者も、教会すなわち、キリストのからだが一つの糧に与り、一つになる場だからです。

◇焦点の真理から、周辺に…
 私はものをまとめる時、楕円2焦点思考法を使います。楕円を作図するのに、2点にピンをさし、そこに糸をかけ、ペンで引っ張りながら描く方法があります。その2点が焦点です。例えば、光には粒子の性質と波動の性質とがあって、相反するように見える、焦点が2つあるとして楕円で囲めば、考えはまとまります。聖書の性質も人の言葉で書かれた神の言葉ですから、2焦点で考えるとまとまります。
キリスト教の儀式には結婚式や葬式など色々ありますが、イエスが命じられた儀式は二つだけです。洗礼式(バプテスマ)と聖餐式(晩餐)です(マタイ28:19、1コリント11:23-25)。十字架と復活の福音を形に表した、2焦点の儀式です。主が十字架で死なれたのは私の罪を贖うためだった、主が死からよみがえられたのは私に永遠の命を与えるためだった、そう信じて救わるのが洗礼です。それが決定的であるしるしとして洗礼式を主は定められたのです。それを忘れないようにと、福音の焦点に集中し、信仰がリアルであるようにと聖餐式が制定されました。「主イエスは、渡される夜、(夕食の後)パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました」。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい」。そして、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい」。
 パンとぶどう液にあずかることを通して、イエスの十字架の血による罪の赦しとキリストの復活による永遠の命に与っていると信じ、確認し、確信するのです。主が来られる再臨に備え、証ししていくのです(11:26)。ですから、自分を吟味し、十字架のイエスのひざ元に、復活のキリストの胸元に行くのです。主の御業に生で与るのです。主が十字架で死なれた時、私の罪における古い人もいっしょに死んだ、死に与ったのです。主が復活された時、私の命における新しい人もいっしょに復活した、復活に与ったのです。聖餐はその焦点へと導くのです。
 毎年、ノーベル受賞者は授賞式終了後、ストックホルム市庁舎にて、スウェーデン王室および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われます。最高級の料理がふるまわれます。主が再臨され、神の国が現れる時、それどころではない、はるかにまさった救い主メシヤの晩餐会が行われるでしょう。王の王キリストに迎えられ、復活した聖徒たち、私たちは義の冠をいただき(2テモテ4:8)、最高級のふるまいをいただくのです。その晩餐会を思いながら、パンとぶどう液という最も質素な晩餐会、聖餐式をするのです。余計なものがない質素な聖餐だからこそ、初臨のイエス・キリスト、再臨のイエス・キリストへの思いと信仰が膨らんでくるのではないでしょうか。
 日常においても主の霊的恵みがふるまわれています。イエス・キリストの血によって命が与えられ、聖霊によって味付けされたみ言葉がふるまわれています。三田牛の肉を食べても、私たちは牛のようにはなりません。逆に霊的なものは与るとそれに染まっていきます。私たちは主の恵みに与っていくと、主のようになっていくのです。洗礼を受けてない方がおられたら、洗礼の恵みに与ることをお勧めします。私たち、聖餐の恵みに与り、神の言葉の恵みに与り、永遠の命がいっそう豊かになっていきますようにと祈ります。

どうしても必要なことは

2017-01-22 00:00:00 | 礼拝説教
2017年1月22日 伝道礼拝(ルカ福音書10:38~42)岡田邦夫

 「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」ルカ福音書10:42

 2020年オリンピックを東京で開催するようにと招致活動がなされました。そのひとつのスピーチで印象的だった言葉が「お・も・て・な・し」でした。IOCは東京開催と発表しました。その年、選手やお客さんを精一杯、おもてなししたいものです。今日の聖書はそのおもてなしの話で、よく知られている話です。

◇身近な話…
 話は「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした」で始まります。旅人をもてなすという慣習に沿ったものです。喜んで家にお迎えしたところまではよかったのです。が、しかし、マルタはおもてなしで忙しくしている、妹のマリヤは何もしないでイエスの足元に座っているだけ、マリヤは切れて、お客のイエスにぶつけてしまします。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」今日でもそのまま、ありそうな話です。
 イエスのお答えはマリヤにもマルタにも注意するのではなく、大切なメッセージを投げかるものでした。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」。良いおもてなしの精神を学べます。しかし、あれもして、これもしてと、忙しくしている日常、「いろんなことを心配して」いて、そこに埋没してしまっていることを気付かされます。そして、これしかない「どうしても必要なことは…一つだけ」という教え、イエスのみそばで神の言葉、福音に聞き入ることが何よりも重要だという優しいメッセージが伝わってきます。

◇身近でない話…
 私たちはどうしても、「あれも、これも」で生きているのです。地位も名誉も財産もあって、そのうえで信仰があったらという願望がどこかにあるかも知れません。ある役人の金持ちの青年、しかも律法の規定を守っている品行方正な人が永遠の命を得るためにどうしたらよいかと、イエスに尋ねました。財産を売って施しなさいとイエスが答えると、青年は寂しく去っていったのです。青年は地位も名誉も財産もあって、それと同列に永遠の命を置いていたのでしょう。あれもこれもの一つとしていたのでしょう。
 「あれも、これも」が悪いわけではないのですが、ソロモンに言わせれば、虚しいものだといいます。地位も名誉も財産も何もかも人一倍得たソロモン王が言います。結局、死んでしまえば消え失せる、すべては風を捕らえようとするもの、虚しかったと告白します。だから、若い日に創造者を覚えよ、人間の本分である神の命令を守ることに身を置けとのメッセージを書き残したのです(伝道者の書)。
 「外見も知性も、生活水準も完璧な女性がいました。ただし、重い障がいのある息子さんがいたのです。同じ施設に子どもを預けている母親が、『あなたは、お子さんに障がいがなかったら、完璧な人生なのに』と思わず口にしてしまいました。するとその女性は、『いいえ、この子がいるから、私の人生は完璧になりました』と穏やかに答えたそうです」(今日という日の花を摘む・樋野興夫)。障がい者を抱えることで、ほんとうに「無くてならぬもの」を知ったのです。
 その著者は「ガン哲学外来」というのをされています。このような文が載っています。「がん患者に限らず、誰でも死ぬのは決まっているのです。大切なのは、死から逆算して人生を生きることではないでしょうか。『人生』とは、『人として生きる』ことですら、死に向かって下がっていくのではなく、最後の上り坂を上がっていく気持ちで、人間関係と身辺を整えましょう」。「最後の五年間をどう生きるか。砂時計を見ていると、時間の大切さに身震いする。身にまとったガラクタを脱ぎ捨てれば、本当の自由を手にすることができる」。普段、私たちは24時間過ぎればまた、始まるという、繰り返される時計を見て、生活しています。しかし、がん患者から教えられることは砂時計を見なさいというのです。それが、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」を知っていく助けなのです。

◇身近な話…
 と言いましても、私たちの日常はあれもして、これもしてというものです。これしかないと四六時中、思っての生活は出来るでしょうかね。私自信を見つめたときに、マルタだなあと思わされます。「クニオ、クニオ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています」と言われています。ダメな人間だなあと思ったのですが、主はお優しい方です。人間というのはいろいろなことを心配して、気を使うもんだよとおっしゃっているような気がしました。心配事がない方が心配だ、心配したことで主のところに行く、一切の胸の内を申し上げて、み言葉を聞こうとする、それを主は待っておられるのだと思わされたのです。
 「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」。マリヤが聞いたその一つだけのこととは何だったのでしょう。イエスの言葉、神の言葉、聖書の言葉なのですが、最も重要なのは救いの言葉、十字架と復活の福音です。私たちの心配事で、死から逆算して人生を考えれば、乗り越えられて生きることは多いでしょう。しかし、どうしても、越えられない、心配しなくてはならないことがあります。死がなぜ怖いかというと、死後の裁き、神の裁きがあることを無意識のも感じるからです。
しかし、神は愛に満ちた方、この心配事を見事に解消してくださるのです。あなたの罪、すなわち良心が痛むようなこと、そのすべてを背負って、イエス・キリストは十字架にかかられたのです。悔い改めてキリストを信じれば、その罪が赦され、審判の時にも、イエス・キリストの赦しにゆえに、裁かれないのです。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と約束されており、聖霊の神が弁護者となってくださいます。それは何とも神の愛のお心遣いです。この罪びとを最愛の者として、天国に入れるようにとの実に行き届いたおもてなしです。
そうして、私たちはマリヤになりましょう。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」。個人においても、教会においても、礼拝するときに、この身近でないものを身近なものにして、敬虔を養ってまいりましょう。
 そうして、このように生きていこうではありませんか。「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい」(マルティン・ルターの言葉をアレンジ)。


愛は人の徳を建てる

2017-01-15 00:00:00 | 礼拝説教
2017年1月15日 主日礼拝(1コリント8:1~6)岡田邦夫


 「私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」。1コリント8:1

 車を運転して礼拝に来られた方、どう祈って来られましたか。私はというと素直に事故が起きないようにと祈っていましたが、スピード違反で捕まった後は、捕まらないようにと正直に祈ったりしていました。しかし、今は高齢者、その心得として、平静な気持ちでパニックにならないようにと祈るようになりました。
 先週、新年聖会に出席して、感心したことがあります。講師が祈るときにこのような一日であるようにと、必ず、一つのみ言葉を言って祈ってきたそうです。それはガラテヤ5:22-23です。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」。毎朝、毎日、欠かさずそうしてきたそうです。皆さん、それぞれが神に示された流儀があるでしょうが、このようなそういう心構えがあるといいと思います。そういう意味で、この聖書箇所を通して信仰者の心構えを学んでみたいと思います。

◇知る…知らないということを
 人は自分の知っていることを話したがるものです。私もその一人、それで自戒の言葉にしているのが2節です。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」。あんなこと、こんなことと、知っていることを無邪気に話しているのはいいでしょう。しかし、その語りが上から目線で言うようになり、相手を裁くようになっていくことをここでは戒めています。1節後半。「私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」。知識が高慢にさせてしまう場合が問題で、警戒すべきことです。しかし、後半があるので救われます。「しかし、愛は人の徳を建てます」。口語訳は「しかし、愛は人の徳を高める」。私自身のことですが、不用意なことを言ってしまうこと、やってしまうことがありまして、それを改善しなければと思っています。「愛は人の徳を建てます」を心構えとする必要を感じました。皆さんはどうでしょう。
 詳訳聖書ではこの句をていねいに訳しています。『しかし、〔単なる〕知識は人を誇らせ〈みずからを偉いと思わせ、高慢にさせ〉ます。しかし、愛〔すなわち〕愛情〈善意〈慈愛〉は人の徳を高める〈人を育成する〈人を励まして〔十分な身のたけにまで〕成長させる〉のです〉〉』。これこそ、心得ておく言葉ですね。クリスチャンの心得帳に「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」を加えましょう。

◇知る…知られていることを
 コリントには崇拝する神々や女神を象徴する偶像があって、その偶像に犠牲としてほふられた肉が、神殿内で提供されたり、市場で売られたりしていました。その肉をクリスチャンは食べていいのか、悪いのか、それが問題でした。今日にも通じる異教とのかかわりの問題です。
 はっきりと、真の知識はこれだとパウロは言います。「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。…父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです」。創造の神、救い主・イエス・キリストは唯一の存在。私たちはその主によって存在し、神のために存在していると断言できるのです。
 それを知っていることで私たちは人生に、そして、来生に確信が持てます。それは素晴らしいことですが、さらに素晴らしい言葉が続きます。「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」(8:3)。人は誰かに認められたい、解ってもらいたいと切望しています。その誰かが神であるならどんなに素晴らしいことでしょうか。人が神を愛するなら、その人は神に知られている。また、詳訳聖書を見てみましょう。『しかし、もし人が〈愛情のこもった尊敬と、快く即座に従う服従と、主の恵みに対する心からの感謝とをもって〉主をほんとうに愛するならば、その人は神に知られている〔すなわち、主との交わりと愛を受けるにふさわしい者と認められ、主はその人を自分のものと言われる〕のです』。

◇知る…知るべきことを
 コリントの信者の間で、偶像に供えられた肉が市場で売られているがそれを食べていいのか、悪いのか、異教とのかかわりの問題で、人によって違うけれど、どう対応したらよいかでした。パウロはその問題から、キリスト教の本質、恵みの世界へと導き出し、それから、具体策をのべていくのです。それを食べること自体は罪ではないと述べつつ、弱い人への配慮が必要だと勧めます。もし、良心の弱い人が、供え物の肉を食べる信徒をまねて食べると罪悪感を抱いてしまうこともあり得る。だから、「私(パウロ)は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」と言っています(8:13)。
 この配慮もイエス・キリストからくるのです。「彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです」と戒め、「キリストはその兄弟のためにも死んでくださった」、そのような尊い兄弟なのではないか。そういう人を愛することは、神を愛することにつながり、自らの徳を高めることになり、また、その兄弟の徳を建てることになるのです。そうして、神に認められ、知られていく、そのような恵みの世界へと入っていくのです。
 以上を、四文字熟語で信仰者の心構えとしてまとめましょう。「建徳精神」「愛神信仰」「他者配慮」

おまけ
 愛媛の教会にいました時、教会員の御主人が広島の病院で手術をされました。戦時中、軍隊での虫歯が悪化して、年齢が進んで、あごのガンになっていたので、それを大きく切除して、腰骨を移植したのです。ところが移植した骨が着いてくれないのです。祈祷師がクリスチャンの奥さんのところに来て、宗旨をかえた者が親戚にいるから治らないのだというのです。それは迷信だから気にするなと言っても気になります。偶像との戦い。ですから、奥様と教会の兄弟姉妹は必死にいやさるよう主イエス・キリストに祈りました。と言っても骨はつかないのです。正月明けに検査して着いていなければ、移植した骨を取り除きますと言い渡されました。そうすると頬がそっくりこけてしまうのです。み言葉をいただいて、祈りに祈りました。正月明け、いいニュースが入ってきました。骨はついていると…。奥様も皆も大喜び、主のみ名を崇めました。そうして、完治して顔の変形もなく、退院しました。
 実は奥様に神の知恵が与えられました。カルシュウムとビタミンが必要だと直感しました。白身の魚をよく煮て、それを野菜と一緒にミキサーでジュースのようにしました。あごが使えないので、管で栄養剤を流し込みます。その時に、それを毎日かかさずしておりました。それが功を奏したのでしょう。退院の日、看護師がそのメニューを聞きに来たほどですから。「愛は人の徳を高める」。彼女の徳を高め、神の導きを信じて続けてゆき、着きそうにもない骨を着かせるという奇跡を起こしたのでした。
 ジュースの空き缶に短冊のついた造花の一輪差したものを牧師が見舞いにもっていきました。入院中、ずっと置いてありました。その短冊には「神は愛なり」と書いてあり、毎日、お二人で見ておられました。ご主人は寺の檀家総代でしたが、入院中、奥様の愛、教会の兄弟姉妹の熱い祈りを知りました。「神は愛なり」を信じるようになりました。本人がそう告白していました。信仰の奇跡です。「愛は人の徳を高めます」。『人の徳を高める〈人を育成する〈人を励まして〔十分な身のたけにまで〕成長させる〉のです〉』。宗旨を変えなくて済んだのです。ほんとうにイエス・キリストの神は唯一の存在、実に生きておられ、その方に知られている、愛されていることを彼は知ったのです。退院後、信仰告白をして受洗しました。


神の隠された奥義

2017-01-08 00:00:00 | 礼拝説教
2017年1月8日 主日礼拝(1コリント2:6~16)岡田邦夫

 「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです」。1コリント2:10

 昨今、日本に観光に来る外国人が増えているといいます。その国にはない風土と文化にふれることを楽しみに来られるようです。文化というのは味噌や酒など発酵食品のように、その風土の中で時間を重ねて熟成していくものです。長い歴史を持つ日本だからこそ、独特の文化が形成されてきたわけで、特に日本語がそれです。漢字を導入したけれど、ひらがな、カタカナを作りながら、どれも切り捨てず、調合して、熟成させてきました。
 これから、コリント人への手紙から話しますが、このコリントはという、地中海の東西の交通の要路となっていて、商業都市、文化都市でした。文化は発酵だといいましたが、この都市は熟成もあれば、腐敗もありました。その腐敗のため、評判の悪い所でした。しかし、パウロはここでしっかり伝道し、後に第一と第二の手紙を送っていますが、あわせると新約聖書中最も長く、パウロがどれほど力と思いを注いでいたかが伺えます。

◇「知らんがために信ぜよ。しかして信ぜんがため知れ」…前半
 神を知るためにはまず信じなさい。そうして神を信じるために学びなさい、という有名なアウグスティヌスの言葉として、伝えられています。聖書やキリスト教を学ぶことは大事なことですが、神、キリストを求めて信じなければ、本当には解らない、まず、信じることが必要です。そうして、なお信仰を豊かにするため、学んでいくということです。この第一コリント2章はそれに近いことを言っています。
 「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。…私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」(2:1-4)。
 その信じるべき宣教のことばは「十字架のことば」です。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力なのです」(1:18)。聖書を読破したり、神学校に行ったりする必要はないのです。幼い子がイエス様は私の罪のために十字架で身代わりに死んでくれたので、私は罪ゆるされて、天国に行ける神の子になったのだと素直に信じます。それなのです。感謝なことに御霊(聖霊)がそう信じさせてくださるのです。「それは、あなたがた(私たち)の持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためで」す(2:5)。

◇「知らんがために信ぜよ。しかして信ぜんがため知れ」…後半
 私、東京聖書学院を卒業して、東京の柴又教会の副牧師になってからのことですが、説教するものとして、語学力が弱いと感じ、まだ若かったので、津田英語塾に通い初歩から学びました。その後、愛媛の壬生川(にゅうがわ)教会に転任。誘われて、若手の牧師3人で学び会を始めました。学院で神学を勉強したことがよく身についていないから、もう一度、神学書をきっちり読もうと読書会をしたのです。牧師夫人も一緒に来て牧会上の学びをしました。実際に牧会、説教をしている中での学びでしたので、その後の生涯を決定づけるほどの良き学びの時でした。それから、豊中に転任、神戸にあるルーテル神学校の牧師向けの講義に参加する機会が与えられました。これがまた良かった。聖書の知識、聖書の見方など得るものが多かったのですが、何よりも、レポートを書くことでそれが身になったように思います。その一つが私の知的財産となっています。(※お読みになりたい方がいれば、そのコピーを差し上げます)。
 キリスト教の文化は言葉が豊かです。信仰者の先人たちが良い言葉をたくさん残していますし、今日もクリスチャンたちが良い言葉を発信しています。この教会で日課に使っています「こころのごはん」にもそのような言葉が引用されています。もちろん、聖書そのものの言葉もそうですが、それらが信仰を豊かにし、人生を豊かにするために大いに役立ちます。
 ところが、この聖書箇所にはクリスチャンに絶対不可欠な「神の知恵」というのが強調されています。この知恵は過ぎ去って行く世の知恵ではなく、世界の始まる前からあって、隠された奥義としての神の知恵だといいます。この世の支配者はこの知恵を悟れず、栄光の主を十字架につけてしまいました(要約するため、言い回しを変えています)。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」はイザヤ書の引用。神の計画は人間の見聞きする経験や、知恵が考え付くことをはるかに越えており、神の御霊による啓示によってのみ知ることができるということです。
 信じない、生まれながらの人間には解らないが、信じて御霊に導かれる人間にはこの神の知恵、神の奥義が解るのです。御霊の神学校です。まさに神の学校です。御霊が教師です。世界の始まる前から隠されていた「奥義としての神の知恵」を教えてくれるのです。また、「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」という神のみこころを理解させてくれるのです(2:11)。さらに、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです」とあります(2:10)。
 御霊なる教師はすべてのことを探り、神の深みにまで及んで教え、悟りの境地にまで引き込んでくれるのです。「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方」にこそ、神の深いみこころがあります(2:2)。御子を犠牲にしてまで罪びとを救おうとされた、世的には愚かと見える神の私たちへの計り知れない愛を受けさせてくれるのです。御霊の授業は心の授業です。「いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです」(2:16)。キリストの心が伝授されるのです。
 御霊の神学校は祈り集まる礼拝(含・祈祷会、学び会)です。それが基本ですが、御霊は家庭教師でもあり、いつでも、どこででも教え導かれます。一人虚しくしているところでも、何だか調子がいいというところにも、落ち込み沈んでいるところにも、求めて止まないところにも、神にあわす顔がないというところにも…個人教師の御霊は先回りしておられます。無料で恵みの授業、福音の授業をしてくださるのです。
 健全な信仰のため、広くキリスト教および聖書の知識を得ましょう。それとともに、いえ、それ以上に聖霊によって、深い神の御心を知ってまいりましょう。


続・鷲のように翼をかって

2017-01-02 00:00:00 | 礼拝説教
2017年1月8日 主日礼拝(イザヤ書40:27~31)誌上説教・岡田邦夫

 「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ書40:31

 元旦礼拝で話しましたのですが、もう一つのメッセージが与えられましたので、お聞きください。

◇「高き」を見よ…見て思う
 「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」は新改訳ですが(40:26)、文語訳では「なんぢら眼をあげて高(たかき)をみよ たれか此等(これら)のものを創造せしやをおもへ」となっています。その訳のように「見よ」は強調されている語なので、創造のわざをただ見るだけでない、創造者ご自身への思いまで至りなさい、ということだと思います。見て思うのです。天羅万象を見ましょう。神の創造された世界の雄大さ、繊細さ、美しさを見ましょう。生き物の不思議を見ましょう。その背後におられる創造者、私たちを見守っておられる父なる神を思いましょう。それが本当に見るということなのです。
 財産も家族も健康も失われて、どうして、神を信じているのにこんな目に合うのかとひどく悩むヨブに神が現れて、被造物を見させました。だれがこれらを創造したかと突き付けられた時に、創造者ご自身に思いがいき、神との出会いの経験となり、試練を突き抜けました。
 夜空に光る星々はどんな意味があるのでしょう。神が高齢者アブラハムを外に連れ出して仰せられました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる」。彼は主を信じ、主は彼を義と認められたのです(創世記15:5)。
 イエス・キリストは山の上で群衆に「空の鳥を見なさい。」と空を見上げさせました。天の父がこれを養っていてくださるのだから、あなたがたは生活のことで心配しないように、まず神の国を求めなさいと教えられました(マタイ6:26)。これらは「なんぢら眼をあげて高(たかき)をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ」のメッセージです。
 預言者イザヤの原点は国家存亡の危機の時に、魂が砕かれて、「神を見る」という特別な経験でした(6章)。彼は人として、世界情勢にも、歴史にも見識が高かったでしょうが、それを超えた見識(預言)が与えられたのです。そこで高きを見、創造者を思うという霊的経験(召命経験)があったからこそ、空から地を眺めるように、過去、現在、未来にわたる歴史の全体や諸外国と選ばれた民の行く末を見渡せたのだと私は思います。
 イザヤは自分だけではなく、メッセージを聞く者たちも、その高みへと引き上げられる霊的経験ができると言います。それがイザヤ書40:31のみ言葉です。

◇「高き」に上れる…舞い上がる
 「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」。
 テレビで「健康長寿」というタイトルの番組を見ていて、私は神の創造のわざの素晴らしさを発見した思いでした。100歳を超えた人たちのことを1世紀を生き抜いたということで「センテナリアン」というそうです。現在、日本で69,695人、世界では45万人もいるとのこと。そこで、どうして健康で長生きできているのか、医学的に研究が進められているという番組で、105歳になる日野原重明さんも出演していました(NHKスペシャル「あなたもなれる“健康長寿”徹底解明 100歳の世界」)。
 健康長寿の秘密は遺伝的な要因よりも、老化を抑える食べ物、働くなどの運動ほか、外的な要因にあるのではないかと研究を進めています。しかし、興味深いことに「心の持ち方」で老化を抑えていることも、医学的に見えてきたのです。精神的に満足感を得て生きていると健全な血流がおこり、老化を抑えるらしいのです。しかも、自分本位な快楽型満足感だとそれが悪くなり、人のためにというような生きがい型満足感だと良くなるというのですから不思議です。神は人を自己本位にではなく、人のために、何かに役に立ちたいと生きるような高尚なものとして造られたのではないかと思わされました。からだは正直なのでしょう。
 そして、80歳を超えるとからだは急激に衰えますが、ポジティブな感情はだんだん高くなっていき、100歳を超えると「老年的超越」という思わぬことが起こることが分かってきました。記憶力や判断力が衰えても、これまで生きてきて、「今が一番幸せだ」という感情、感覚をもつようになるといいます。105歳の日野原重明さんも100歳を超えてからの人生の在り方が全く違ってきて、今がとても生きがいを感じていると言っていました。
 この番組を通して、人は年をとるのが決して寂しい、みじめなものではなく、ポジティブに感じさせられるように神によって良く造られたのだ。センテナリアンともなれば老年的超越という幸福感を感じられるように、神がお造りになっているのだ。そう思うと嬉しくなりました。素晴らしい創造のみわざを思わされ、なお「なんぢら眼をあげて高(たかき)をみよ たれか此等のものを創造せしやをおもへ」もお言葉どおり受け止めていきましょう。しかし、私たちは必ずしも健康で長生きとは限りません。人、それぞれです。老年的超越もいいですが、それ以上に「信仰的超越」を得ることが重要です。

◇「高き」に上れる…待ち望む
 現実を見ると人生というのは疲れるものです。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」(40:30)。その疲れた現場で、主を待ち望む者を神は疲れない世界へと引き上げられるのです。信仰的超越へと導かれるのです。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(40:31)。人は高き神のところまで上っていくことはできません。罪という重力が鷲のように翼をかって上らせないのです。しかし、弟子たちは復活されたイエスに言われました。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)。
 キリストの昇天後、祈り待ち望んでいた弟子たち上に聖霊がくだり、新しく力が与えられました。イエス・キリストの十字架と復活の福音を体得し、罪から解放され、自由に羽ばたき、鷲のように翼をかって上ることが出来たのです。その後の弟子たちの羽ばたきぶり、自由さは使徒の働きを見れば、分かります。今や、聖霊の時代です。使徒時代と様相は違いますが、主を待ち望む誰もがこの新しい力を与えられます。新しい力は「聖霊による福音のみ言葉」です。創造された「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8)。昨年、クリスマスの案内を教会に来たことのある方々に送り、ほのぼのメッセージを同封しましたら、一人の方から、「言葉の力に感動しました」というお礼の手紙とカードをいただきました。神のことばは新しい力があって、永遠に立つことばです。いまここに疲れている人がいたら、その人は聖霊による福音のみ言葉という新しい力があたえられ、鷲のように翼をかって上り、信仰的超越へと導かれるのです。

 ①秘訣は待って望む、待ち望むことです。よく、ふだん信心がないのに、困った時の神頼みは良くないといいます。しかし、「困った時こそ神頼め」と上智大の先生が本に書いていました(ピーター・ミルワード)。困った時や辛い時にこそ、み言葉を待ち望むのです。積極的受け身で待ち望むのです。そういう時こそ、み言葉が魂に臨んできて、新しい力をいただき、そこを超えていくのです。
 ②ジョン・ウェスレーは牧師の子でしたから、牧師になりました。しかし、悩みがありました。例えば、死刑囚に教誨師として、その時にふさわしい聖書の言葉を言ってあげると、その囚人は神の赦しをいただき、喜び輝いて召されていきます。しかし、自分自身には救いの確信がないのですから、問題です。友人に相談すると、そのまま続けなさい。いつか確信が持てるようになるからと言われ、続けているうちに、敬虔派のグループにふれ、ある集会で「心に燃える」思いを経験し、み言葉による救いの確かさを実感したのです。それからメソジスト運動へと発展していきました。「解らぬ時こそ神頼め」です。聖書の知識はあっても、霊的に分からない、ぴんと来ない、でも、生きたみ言葉として解るのを待ち望むのです。積極的受け身で待ち望むのです。適切な時に、み言葉が魂に臨んできて、新しい知る力をいただき、深い神理解へと翻っていくのです。


鷲のように翼をかって

2017-01-01 00:00:00 | 礼拝説教
2017年1月1日 元旦礼拝(イザヤ書40:27~31)岡田邦夫

 「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ書40:31

 正月、日本人の多くの人が神社に初詣に行っています。その意味では皆さんは教会に初詣に来られたのでしょうか。いえ、正しくは神の言葉を聞き、礼拝をささげるために来られたのですね。
◇いと高きところからの訪れ
 しかし、私たちが神の御許に行く前に、神の方から、いと高きところから、私たちのところに訪問客のように訪れてくださっているのです。新しい年を迎えるというのは神を迎えるということです。
 このイザヤ書は66章ある大預言書。真ん中に歴史、その前が裁きの警告、その後が救いの約束の預言という形で、広く世界を見渡し、高い思想を掲げ、深い思慮をもって神のみ旨を告げています。その後半の出だしが慰めの訪れです。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。…エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ」。労苦は終わった、咎は償われた。神が現れるのだとメッセージが続きます。そして、10-11節。「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」。
 神は私たちのところに力をもって、報酬をもって来てくださるというのですから、実にありがたいです。また、私たち、弱い、迷える羊のところに入り込んでくださるのですから、願ってもないことです。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」。ほんとうに慰め、励ましです。
 日本で最初のノーベル受賞者、湯川秀樹の恩師が岡潔という世界的な数学者でした(多変数複素関数論)。エッセイの中で、情緒が頭をつくるとか、三つの直感を合わせれば本当の智力というものになるなど、日本的であろうとした人です。仏教に傾倒してはいますが、今日歌った新聖歌433「あまつましみず」にも関心を寄せています(春風夏雨p15)。日本的情緒に表現されたきれいな賛美歌だと私は思います。
 1、天つ真清水 流れ来て 遍く世をぞ 潤せる
   長く渇きし 我が魂も 汲みていのちに 帰りけり
 2、天つ真清水 飲むままに 渇きを知らぬ 身となりぬ
   尽きぬ恵みは 心の内に 泉となりて 湧き溢る
 自然の清水は下から湧くのですが、まことの清水は天から注がれ、魂を潤し、命に帰らせるのです。そして、注がれた恵みが泉となってあふれてくるのです。そうして、宣教へと導かれますが、特に3節は情感が込められています。
 3、天つ真清水 受けずして 罪に枯れたる ひと草の
   栄えの花は 如何で咲くべき 注げいのちの 真清水を
 今年も主なる神は迷える羊のところに優しい牧者として来られるのです。労苦しているところに来てくださり、慰められるのです。魂が枯れたとき、来てくださり天つ真清水を注がれるのです。

◇いと高きところからの招き
 生活の場に来てくださる方は私たちを天つところに招いてくださるのです。まずは、神の張り知れない偉大さを知れと言います。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(40:26)。ところが、人というのはひがみっぽく、不信仰で、こう言ってしまう。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」。神の偉大さはわかるけど、私のことなんか神に見過ごしにされていると思ってしまいがちですが、神は力強く、優しく、愛を注ぎ出して、言われます。今度は耳を傾けましょう。
 「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」(40:28-29)。
 牧師としての私ですが、昨年も話しました。ある時、不安や疑問や恐れや不信やで…いろんなものがないまぜになっている心の状態の中で、朝目覚めました。すると心の中に「あの祈りの本を読め」と言われているような気がして、その日のところを開きました。その日の聖句、「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ」という共同訳のみ言葉が、私の魂に語りかけてきました(詩編37:3)。そして、それが神の私への派遣の言葉に聞こえてきて、遣わされているという意識を再度もちました。不思議と心が晴れていました。そして、クリスマス礼拝・祝会に地域のあじさい会の人たちが昨年の倍以上、15名の方々が来られ、想定を超えてプログラムが足りなくなるほどでした。決して見過ごされてはいない、地の果ての創造者、永遠の神がたゆむことなく、疲れた者に活気を与えてくだるのだと神の御業を体験しました。
 また、クリスマス前の忙しい時です。豊中のある方から電話がありました。主人の状態が悪く、あと二、三日の命かも知れないと医者に言われたとのこと。それを聞いた晴美先生、居ても立っても居られない心境になりました。信仰に導かねばという強い思いで、病院に駆けつけました。ところが、「わしは無宗教だ」と言って、心を開いてはくれませんでした。思い返せば、2016年の夏、豊中で四泉合同礼拝があった時、彼が肝臓がんのため、9回目の手術を前にしているというので、午後、自宅を訪ねました。知的障害のある息子さんとご両親が寄り添うように生きてこられたので、「三つよりの糸はたやすくは切れない」のみ言葉をもって、手術が成功するよう一緒にお祈りしました。手術はうまくいき退院されましたが、今度、何かあったら最後だろうから、その時は天国に導かなければならないことを思わされておりました。
 今回はその時が来た、天国に押し込んででもいいから、絶対に信仰に導き、受洗に導きたいと聖霊に強く、強く迫られていました。クリスマス前の忙さなどそっちのけで、何かに憑(と)りつかれたようでした。一生懸命、熱意を込めて彼宛に手紙を書きました。しかし、それは投函するものではなく、再度訪問した時に、読むものでした。再度、危篤の知らせを受けて、口を真一文字にして出かけていきました。面会できました。意識ははっきりしていました。手紙を読みました。聖霊が働きました。「信じますか」と問うとはっきり「はい」と応答しました。悔い改めと信仰の祈りをしたら、はっきり「アーメン」と言いました。洗礼式の準備をして行ったので、すぐ、病床洗礼を授けました(正教師なので)。奥さんと最後のことば「ありがとう」を夫婦で言い合いました。彼もうれしかった。奥さんはもっと嬉しかった。涙でぐちゃぐちゃでした。
 その後、容態も少し良くなって、年末にベッドの生活ですが退院されました。あの時しかないと、神がお考えで、強く牧師に迫ったのだと思うのです。手紙も実によく書けていたのです。気力も体力も落ちてきているのに、不思議と力が与えられたのです。イザヤ書40:31のみ言葉がまさにそれです。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」。人が作った飛行機でもプロペラかジェットエンジンかで飛びますが、鷲のように羽ばたいて飛ぶのは極めて難しいものです。重力というものがどれほど強いか、それを神がお造りになった鷲は羽ばたいて、舞い上がっていくのです。どれほどエネルギーを神が与えてくださっているかを物語っています。
 落ち込んで這い上がれないことが私たちにはあります。疲れ切って何もできなることがあるでしょう。何かにいどもうとしますが、羽ばたけないこともあります。悪しき世という重力がそうさせます。しかし、主を待ち望む者には新しい力が事実与えられます。羽ばたけというスローガンではありません。上を目指せ、がんばれという奨励ではありません。これは信仰のことです。待ち望む者、信じる者、お任せする者に与えられる天来の力です。
 そうして、引き上げられてみると、自分を、人生を俯瞰(ふかん)して見えてきて、自分の欠点や失敗やこだわりや不幸や…もろもろのことを笑い飛ばせてしまうかもしれません。それがユーモアというもの。 黄泉にまでくだられた方は聖霊によって、翼をかって舞い上がり、天の神の右にまで引き上げられたのです。その復活のキリストが、落ち込んでしまった弟子たちを慰め、恵みの世界へと翼をかって上らせてくださったのです。私たちはその弟子の弟子です。翼をかって上る伝承者です。