オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

イサク・父と息子の間で

2015-05-31 00:00:00 | 礼拝説教
2015年5月31日 主日礼拝(創世記:17-25)岡田邦夫


 「主はその夜、彼に現われて仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。』」創世記25:24

 私たちの信仰の基礎を築いたのは、族長「アブラハム、イサク、ヤコブ」です。先週、説教の中でパスカルの回心を話しましたが、彼のメモの中には、アブラハム、イサク、ヤコブの神、イエス・キリストの神を信じるとも記されています。新約聖書でこう述べられています。「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」(マタイ22:32)。神がモーセに始めに現れ言われた言葉があって(出エジプト3:6)、それをイエス・キリストが引用されたのです。ところがアブラハムの神、ヤコブの神というのはよく出て来ますがイサクの神という言い方は出て来ません。では、イサクの存在意味は何なのでしょうか。考えてみたいと思います。

◇跡継ぎ
 イサクは生まれるはずがないのに、生まれてきた子です。サラの胎は閉ざされており、アブラハムとの間には子どもがいなかったのですが、全能の神が生まれて来ることを約束。神の奇跡によって祝福されて、アブラハム、百歳の時、生まれてきた子がイサクです。イサクが成長した時、アブラハムにその愛する子をモリヤの山で生け贄(にえ)として献げよとの命令を受けます。父はそのみ言葉に従います。それに抵抗したか、しなかったか、わかりませんが、イサクは生け贄のために祭壇の上に乗せられます。天使がストップをかけ、アブラハムという人が、真に神を怖れる者であることが確かめられました。この時、イサクについても、アブラハムにならい、命を賭けた信仰があったのだと想像しても、間違いはないでしょう。父に従うことが神に従うことだったと思います。
 聖書には面白い話が記されています。アブラハムはイサクにはカナンの娘ではなく、親戚の娘をめとらせようとしもべに命じます。生まれ故郷に行って、嫁さんを捜し、連れてきなさいと。十頭のらくだに貴重な品々を乗せ、持参します。ナホルの町に着き、しもべが祈っていると、井戸で一人の女性に出会います。尋ねてみるとアブラハムの親戚、ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘リベカだと言うのです。しもべが家に招かれ、一部始終を話すと、一同、これは主の導きと確信し、リベカをイサクに嫁がせることにします。リベカも了解し、イサクの元に行き、結婚に至ります。イサクはリベカを愛します。このほのぼのストーリーは67節という長さ、よほど重要な話なのでしょう。これもまた、父に従うことが神に従うことだったとし、父の信仰を受け継ぐのです。しかも、純粋な信仰の継承なのです。

◇中継ぎ
 飢饉の時に、アブラハムが妻を妹と偽って身の危険を回避しようとしたのと同じ事をイサクもしてしまいます。親子だからでしょうか。しかし、重要なことはイサクはアブラハムが聞いたみ声を聞いたことです。彼はそこからベエル・シェバに上った。主はその夜、彼に現われて仰せられた(26:23-24)。
 「わたしはあなたの父アブラハムの神である。
 恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。
 わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。
 わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
 彼ら夫婦にエサウとヤコブの双子が与えられ、イサクが世を去ろうとする時、だまされはしたものの、ヤコブの方に祝福を与えたのです。やり直すことはしませんでした。いわゆる一子相伝です。アブラハムはイシュマエルを退け、イサクに神の祝福を継承し、イサクはエサウを退け、ヤコブに神の祝福を継承しました。純粋な信仰を継承するためです。ヤコブは12人の子どもに祝福を継承します。
 野球のよくあるケースはピッチャーの継投で、先発、中継ぎ、押さえというのがあります。アブラハムが先発、ヤコブは押さえ。イサクは中継ぎです。注目されるのは先発と押さえで、中継ぎは少し影が薄いかもしれませんが、やはり、重要な役割です。イサクは正に信仰の継承の中継ぎをみごとに果たしたのです。しかも、正しく、生きた信仰を中継ぎしたのです。広く言えば、私たちも、先発の使徒たちの信仰を正しく、生きいきと継承し、次の人たちへの中継ぎをしていくのです。その役割は重要です。しっかりと中継ぎしていきましょう。祝福の継承者として。

◇本継ぎ
 イサクについては加えておきたいことがあります。旧約は「予型」があり、新約はその「本体」が現れたという解釈です。イサクがモリヤの山で、燔祭として献げられる時、彼は従順でした。それは予型でした。後に、父なる神の御手で、十字架上で犠牲とすることに対し、御子イエス・キリストは全く従順で、屠られました。モリヤの山の予型はゴルゴダの丘で本体として現れたのです。
 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」。「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」(ピリピ2:6-9,12口語訳)。
 神への従順がいかに価値あるものか、ホテルやレストランでいう、三つ星とか五つ星なのです。

人の心に永遠への思いを

2015-05-24 15:22:20 | 礼拝説教
2015年5月24日 伝道礼拝(伝道者の書3:1-14)岡田邦夫


 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書3:11

 聖書の個所でも、この伝道者の書3章はよく説教されるところであり、愛唱されている聖句でもあります。それは豊かになった現代の私たちにマッチするメッセージが述べられているからだと思います。この書の冒頭で著者は「エルサレムの王、ダビデの子」とありますから、あの栄華を極めたソロモン王なのでしょう(1:1)。豊かにはなったけれど、心の中をすきま風が吹く、魂を満たすものがない、そういう精神状況が似ているからでしょう。

◇ゼロの焦点
 ソロモンは何か心は空虚である、「知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。…すべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ」と知ります(1:13-14)。知的に探求しても虚しいのです。虚しい、意味が見いだせないのです。
 「私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。…私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた」(2:4-8a)。「私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた」(2:8b)。財的にも性的にもそれを得ても、それは「風を追うようなものだ」と言います(2:11)。
 死ぬ運命:「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ」(3:19)。社会や自然の不条理:しいたげられる者に慰める人がいない。仕事の成功も結局、ねたみだ。悪者の報いを正しい人が受け、正しい人の報いを悪者が受ける。等々
、「これもまた、むなしい、と私は言いたい」(8:14)。
 その虚しさを三浦綾子さんは「光あるうちに」で、御自分の経験からこう記しています。「『虚無』という言葉は、数字になおしたら何となるだろう。…0(ゼロ)という数字になるのではないかと思うのだ。0という数字は不気味な数字である。一億に0をかけも、一兆をかけても0となる。0はわたくしたちの最も大切な命も、人生も、ことごとく0にかえる。一瞬にして0にのみこまれ、いかなる貴重な業績も、0の中にのみこまれる」。そして、「虚無の隣りに神がいる」と光る言葉を次に記しています(p113)。
 そのように、人が虚しく思えるのはその虚しさを通して、創造者を知るためなのです。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」からです(3:11)。科学者であり、キリスト者であったパスカルの言葉ですと、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋めることができない。」という意味のことです※1。そのパスカル、イエス・キリストを信じ、その空洞に神が満ちた時の感激を「火」と題してこう記しています。「確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。…なんじの神はわが神とならん。神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。…歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。われかれよりはなれおりぬ。…願わくはわれ永久にかれよりはなれざらんことを。…」。パスカルはこれ以後死ぬまでこのメモを服に縫込み、肌身離さずにしていたといいます※2。
 あなたは心の真ん中にイエス・キリストの神を迎えていますか。それなら、あるべき姿で、素晴らしいことです。

◇楕円の焦点
 こんな面白い俗説があります。ある人の「花鳥風月」論です。人間、歳をとると自然、なかんづく「花鳥風月」が好きになってくのだと言います。最初は花を含む植物に興味を示し、次第に鳥から風に移り、最後は月を眺めていいなあと思うようになってきたらボチボチお迎えにきているんだという説です。言い得て妙だなあという感じです。花は地に生えており、地面に近い、鳥はもう少し遠くなる。風はさらに遠い。月は遙かかなたである。だんだん、遠いものを思うようになるのでしょうか。その先は「永遠」ですよね。
 聖書に戻りましょう。人間の本性(ほんしよう)は永遠を思い、永遠者すならち創造者を覚え、迎え、その命令を守ることです(12:1,13)。そこから、被造物としての充実した生き方が生まれて来るのだと伝道者は告げています。
 楕円を書く時、二つの焦点にピンをさし、糸を三角にし、鉛筆で引っ張って丸く書きます。この虚無を満たして生きる生き方には二つの焦点があります。一つは永遠者=創造者を信じ、受け入れ、思って生きる焦点です。
 もう一つの焦点は、時に生き、分に生きることです。「すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。あれに時があり、これに時がある」のです(3:1-8)。人には良く見える時があり、悪く見える時がありますが、「神のなさることは時にかなって美しい(麗しい)」のです(3:11)。創造者なる神を信頼して生きる者は良い時も悪い時も、それをその時々で、時を享受(きようじゆ)して生きるのです。全体の時の流れを意識して、今の瞬間を味わうのです。時を生かして生活するのです。時にかなって美しいことをなさる神の思いを思いとして生きるのです。
 与えられた分に生きることも同様です。以下、三千年も前に書かれたとは思えないほど、現代人にマッチする文言です(5:18-20)。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ」。

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書3:11

新聖歌342「神の子なるイエス」
1 神の子なるイエス わが心に
 住(す)まわせ給(たも)う 妙(たえ)なるかな
  わが内に主はいます 奇(くす)しくも妙(たえ)なり
  わが内に在(いま)す主は 来(きた)るべき王なり
2 かくも主は悩み かくも愛し 4 全(すべ)て主は赦(ゆる)し 前の如(ごと)く
 主の花嫁と われをなしぬ  御胸(みむね)に抱(いだ)き 愛し給(たも)う
3 されど幾(いく)たびも 主を苦しめ 5 イエスはわが持てる 全てなれば
 畏(かしこ)き御旨(みむね) われは裂(さ)きぬ  乏(とぼ)しきことも 弱きもなし
新聖歌333「神の時の流れの中で」
1示し給(たま)え 深い主の御心を 2示し給(たま)え 歩むべきわが道を
 御神の時の 流れの中で 御神の時の 流れの中で
 すべては益となりぬ  すべてを 感謝しつつ

ひとり子を惜しまない

2015-05-17 00:00:00 | 礼拝説教
2015年5月17日 主日礼拝(創世記22:9-14)岡田邦夫


 「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」創世記22:12

 先週、大川瀬の方から車で帰る途中のことでした。桜も山つつじも花が終わり、雑木林は新緑の一色に染まっていた。小雨がやんだが薄曇りで、草木はしっとりと濡れて、気持ちよさそうに見えた。すると右手の斜面に二本の茎が凛と立っていて、その先には真っ赤な二輪のばらの花が咲いていた。これ以上ないというくらいの鮮やかな赤である。「なんてきれいなのだろう」。今まで見た花の中で最も美しい花に出会ったと思えた。瞬間、私の胸はキュンのなった。私は創造者が見せてくれたその感動の一幅の絵を心のアルバムに保存した。
 話は全く違うのですが、きょうお話しする、アブラハムがイサクをモリヤの山で献げたところは私にとっては胸がキュンとなる話です。特にこの場面を題材にした絵画には、直視できないほどリアルに描かれた作品があります。

◇わからないことの辛さ
 神はアブラハムの名を呼んで、とても考えられないような過酷な命令をされます。愛してやまないひとり子のイサクを連れて、モリヤの山の上に行き、彼を全焼のいけにえとして神に献げよ、というものです(22:2)。アブラハムは相当思い悩んだでしょうが従います。翌朝、ろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れ、全焼のいけにえのためのたきぎを積み、出かけました。三日目、アブラハムが目を上げると、告げられた場所がはるかかなたに見えました。若い者たちにろばといっしょにここに残っているようにと指示をします。たきぎをイサクに負わせ、自分は火と刀とをもち、ふたりは進んで行きました。
 疑問をもったイサクは父に尋ねます。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」。アブラハムは苦悩の中からこう答えます。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」(22:8)。ついに、告げられた場所に着き、祭壇を築き、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、その上に置いたのです。動物のいけにえのように…。イサクも相当、葛藤があったでしょうが、父に従います。何と従順なのでしょうか。アブラハムも親として、息子をこの手で命を犠牲に献げるなど、とうてい出来ないことです。けれど、神には従わなければならない。心臓はもう破裂しそうだったでしょう。ついに「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした」のです(22:10)。

 これまでは、なぜ、このようなことをしなければならないかがわからなかったのです。子孫が大いに祝福されるとの約束があり、子が生まれるはずのない夫婦から、全能の神の奇跡によって、イサクが生まれてきた。それなのに、神はそのひとり子をいけにえに献げよという。祝福すると言われているのにいけにえとせよとは全く理解できないことです。しかし、神は決して理不尽なことはさせない、よくわからないが何か神のみこころがあるのだろうと、神を信頼してここまできたのです。後で、これは「神の試練」であったことがわかるのです。聖書では冒頭(22:1)に記されていますが、彼にとっては後で悟ったのです。
 試練を訓練と見るなら、こうなのです。「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル12:11口語訳)。アブラハムにとっては実に喜ばしくない、むしろ悲しい訓練だったのでしょう。

◇わかることの幸い
 刀を取って、イサクに手をかけようとした時、神がストップをかけます。次のやりとりを見てみましょう(22:11)。「そのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。』と仰せられた。彼は答えた。『はい。ここにおります。』御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』」。アブラハムは神を恐れる人かどうか、良い意味で試されたのですが、合格でした。事実は、イサクは殺されませんでした。他の宗教には信仰の極致として、人の命をいけにえにしていましたが、聖書では一貫して人身御供(ひとみごくう)を大罪として、禁じています。
 アブラハムがひとり子を惜しまないほど、神を恐れる者だと、今、よくわかったと評されたのです。これこそがアブラハムの信仰だと、新約のヤコブの手紙には記されています(2:21-23)。
 「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです」。旧約の時代でありながら、神の御子が十字架の祭壇に献げられる光景をアブラハムは先行的に見えたのでしょう(※)。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」をアブラハムは感じ取れたのでしょう(ローマ8:32、創世記22:16)。実行してみて、やってみて、わかったのです。
 この時、彼の思いを神がわかり、神の思いを彼がわかる、わかり合えたという、素晴らしい出来事が起こったのです。奇跡の中の奇跡です。神と彼は友になったのです。親友になったのです。実に美しい光景です。胸がキュンとなる話です。
私たちも、御子をさえ惜しまずに死に渡された方を知っています。私の側からも、神に対して、最も大切なものをお献げしましょう。それは物でしょうか、時間でしょうか、仕事とか、趣味とか、家族とかでしょうか、心の内に第一としているものを、惜しまず献げるのです。神第一の信仰に立つのです。神の惜しまない愛と私の惜しまない愛で結びつくのです。その経験(敬虔)こそ、残しておきたい一幅の絵となるでしょう。

神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだとイサクに言ったとおり、この時、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいたのです。これを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。その場所を、アドナイ・イルエ(主の山の上には備えがある)と名づけました。この「神の備えがある」から「摂理」という言葉が生まれました。イエス・キリストの神とこの私がわかり合える、胸がキュンとなる最高の交わりの時を主はあらかじめ用意してくださっているのです。


アブラハムは信じた

2015-05-10 00:00:00 | 礼拝説教
2015年5月10日 主日礼拝(創世記15:1-7)岡田邦夫


 「彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」創世記15:6

 今頃、農家では稲の種籾(たねもみ)を苗床に蒔いて、覆いをかぶせ、田植えの時を待っています。きれいに出そろった苗の状態が良ければ、豊かな収穫につながるそうです。創世記は聖書の苗床と言われています。天地の始まりが前半に救いの始まりが後半に記されています。大まかに項目を述べていきましょう。
 1~11章・緒論(救いの歴史の以前)
   天地の創造、人間の堕落、ノアの洪水、バベルの塔
12~50章・族長物語(救いの歴史の始まり)
   アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ

◇神がどう臨んだか
 救いの歴史を始めようとする時に、その舞台の主役を誰にするかということが大きな問題です。今日、町中などで、モデルやタレントにスカウトする場合、何か光るものがありそうな人を捜すものです。しかし、神は救いの歴史の舞台に、特に取り立てて何かがあるというような人ではないアブラハムという人をスカウトしたのです。祭司でも、占い師でも、宗教学者でもない、その人を選ばれたのです。
 「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた」とあるように(15:1)、神の方から臨まれたのです。12章1節から登場します(12:1ー3カッコは口語訳)。主はアブラム(後にアブラハムと改名)に仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる(あなたは祝福の基(もとい)となるであろう)。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。
 全時代の祝福の基(もとい)とし、全世界の祝福の器(うつわ)とするために、神がアブラハムに臨んだのです。この後、何かあるたびに、根気よく何度も、主が臨まれました(13:14,15:1,17:1,18:1,20…)。初めは父親のハランが死んだ時、しかも、年齢は75歳で子どももなく将来に希望もないような時でした。次に甥のロトと色々あった後で、また、跡取りのことで思案している時でした。また、子が出来ないからと妻の計らいで、女奴隷に子を産ませ(イシュマエル)、それが家庭騒動になっていた時でした。そのような時に、主の言葉が臨んで、その神の約束が告げられ続け、遂行されていったのです。
 神は高齢のアブラハムと不妊症のサラとの間から子どもが生まれ、子孫は星の数ほどになるという、とてつもない約束を告げるのです。神ご自身が盾となってあなたを守り、全能の神として不可能を可能にするのだと励まします(15:1、17:1)。神は有言実行の神です。25年が過ぎ、百歳になって、ついにサラから男の子が生まれたのです。あまりにも嬉しかったので、笑うという意味のイサクと命名しました。
 主は私たちが順調な時より、むしろ、辛い時、苦しい時、問題のある時に、私たちに臨んで、祝福してくださるのではないかと思います。私、聖書学院で学んでいる時、成績は良くないし、話は下手だし、人とも良い関わりは出来ないし、指導力もないし、取り柄もないし、牧師としてやっていけるか、不安でたまらなくなって、寮の屋上にいって、ひとり祈ろうとしました。すると、夜空は晴れ渡り、たくさんの星が輝いているのに気付き、アブラハムを思いました。そして、その時「祝福の基(もとい)とする」とのみ言葉が心に響いてきて、召してくださった神が祝福してくださるのだから大丈夫だと受け止め、心配が消えました。

◇アブラハムがどう臨んだか
 神の側が一人の人間に真実に臨んでおられるのに対して、アブラハムのほうも主のみ言葉の前に真実に臨んでいったのです。
 「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(ヘブル11:8、創世記を新約の光で解釈)。行き先を知らないでも出て行く、冒険的な信仰です。誰の言葉より、神のみ言葉を信頼して、自らを賭けたのです。そして、なお臨んでくるみ言葉を心に聞き、神の御前に全身全霊で臨んだのです。15章を見てみましょう。
 主のことばが彼に臨み、こう仰せられました。…「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる」(15:4-5)。
 それに対して、…「彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)のです。「義」というのは聖書できわめて重要な言葉です。アブラハムは主というご人格を信頼し、信じたのです。何か御利益があるとか、都合が良いからとか、神秘的なものへのあこがれとか、そうではなく、私に臨まれた主ご自身を信じたのです。すると、義と認められたのです。神との関係が正しいと、神の方から言ってくださったのです。
 日本的な感性でいうなら、「まこと」と言ったほうが良いと私は思います。神との関係がまことであるということです。私たちはイエス・キリストを信じて、義と認められ、神との関係が嘘も偽りもない、駆け引きもない、「まこと」の間柄にしていただいたのです。パウロはそれを福音の中心として、最も肝心なこととして、大胆にこう述べています。
 「『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」(ローマ4:23ー25口語訳)。
 信仰とは認識することです。信仰とは信頼することです。信仰とは告白することです。信仰によるアブラハムの子である私たち、神とみ言葉を認識し信頼し、告白するのです。「主よ、信じます」と言い表しましょう。三位一体の神ご自身も、信じる私たちを、イエス・キリストの贖いのゆえに義と認識し、父なる神の愛のゆえに聖徒として信頼し、聖霊の励ましのゆえに神の子だと告白してくださっているのだと思います。相互にそうであるなら、それこそが「まことの間柄」であり、祝福です。祝福の中の祝福です。最高の祝福です。
 あなたはその祝福の基(もとい)だと主は告げています。あなたが祝する者を祝福してくださるのです。私たち(教会)は信仰によるアブラハムの子、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」ようにと全能の神、三位一体の神にスカウトされているのです。

ノアと洪水と箱船と虹

2015-05-03 00:00:00 | 礼拝説教
2015年5月3日 主日礼拝(創世記8:15-22)岡田邦夫


 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。」創世記8:21

 私たち夫婦が教団の任命で、1981年、豊中泉教会に転任してきました。手続きのため、豊中市役所にいくと、庁舎に向かって左手にロダン作の「考える人」が設置されていました。市とこの像と何の関係があるのか、いきさつはこうでした。1962年に豊中市制施行25周年を迎えるとき、「市は青年期。これからは考える時代である」と、市民から寄贈されたものです。ご存じのように、「考える人」はフランスの国立ロダン美術館にある本物から作った複製が東京の美術館にあり、さらにそれを複製したのが豊中市役所のブロンズ像というわけです(フランス政府から正式に許可を受けている)。

◇心に傷むこと…6:6
 今日の聖書はノア物語ですが、想像たくましく読めば、面白い話ですが、同時に、真剣に取り組んで読めば、恐ろしい話でもあります。遠い昔の話が今日の私たちの世界に物を語り、考えさせてくるメッセージなのです。
 神が御自分のかたちに人を創造された時、こう仰せられました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(1:28)。神がお造りになったすべてをご覧になって、「それは非常に良かった」という世界でした。私たちが自然界を見る時にそれは非常に良いのです。人間界を見る時、それは非常に良いのです。それは地に満ちているのです。
 ところがアダムとエバが「神のようになる」とうサタンの誘惑にかかり、傲慢にも禁断の実を食べてしまい、罪が人類に入り込んでしまいました。二人から生まれたのがカインとアベルですが、兄は弟を殺すという悲惨な歴史が展開され、堕落していきます(6:1)。「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾」き、「地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちていた」のです(6:5、6:13)。
 これは昔の話ですが、今の現実でもあります。世界を見ると、被造物である人が自然を、人を、神でさえ、傲慢に支配しようとしている。悪が増大している。自分たちは文化が進んだと言って、他を野蛮だと言って、差別、搾取、虐待をしている。神から見れば、人類すべからく、野蛮人である。今も、人類世界は暴虐で満ちているのであります。今や多くの情報が入ってきます。ニュースを見れば、暴虐で満ちている、そう感じるでしょう。身近でも、自分の中でもあるのではないでしょうか。私自身、あれは赦せない、抹殺してしまいたいという思いに満ちることもありました。
 主なる神は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ、人を地の面から消し去ろうと仰せられたのです(6:6-7)。そして、救済の道も開くため、主の心にかなっていたノア(6:8)に命じます。木を切って、箱舟を造れと。1キュビトは44cmなので、メートルに換算すると、長さ133.5m、幅22.2m、高13.3mです。比率からいうと安定したタンカーのような物です。命じられたように作り、ノアとその家族と生き物の種類に従って、つがいをも乗せます。すると、何と「主は、うしろの戸を閉ざされ」たのです(7:16)。四十日間、雨が降り、洪水となり、箱舟は水に浮き、他は全滅、神が消し去ったのです(7:23)。裁きは実行されました。
 ロダンの考える人の元は「地獄の門」の上に座っているものです。ダンテの「神曲」の地獄編に触発され生涯をかけて作り続けたと言われています。そう思うと、考える人は何を考えているか、想像できますね。神なしに暴虐に生きれば、その先に待っている門はこれだと。

◇心に留めること…8:1
 しかし、「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた」(8:1)。裁きの中に救いがあります。神は「心に留めておられた」のです。神の中に愛が満ちていたのです。
 水は引いていく。アララテ山に箱舟はとどまる。四〇日たって、カラスを放つ、続いて、鳩を放つ。オリーブの若葉を加えて帰ってきた。二度目には帰って来なかった。神のお声がノアにかかる。「箱舟から出なさい」(8:16)。すべてが出終わると、祭壇を築きいけにえを献げ、感謝し、礼拝します。
 すると主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」(8:21-22)。
 主は思われたことを形に表します。神の言葉が告げられます。聖書をそのままお読みしましょう(9:12ー17)。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。…これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである」。

 そして、アブラハムから始まり、救いの歴史が繰り広げられ、ついに、神の子、救い主、メシヤが現れます。十字架にかけられ、人類の罪、私たちの罪の罰を代わりに受けて、抹殺され、地上から消し去られました。しかし、死人の中から復活され、「まことの箱舟」となってくださいました。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。キリスト・イエスの中にあるなら、キリスト・イエスの箱舟に入っているなら、最後の審判の時も罪に定められることは決してないということです。人類の暴虐のゆえに、火をもって焼き尽くされる日が来ても、ご自身の身をもっておおって下さり、新天地に船は到着するのです。
 またまた、ロダンの地獄の門の製作動機ですが、構成の形式をフィレンツェ洗礼堂のギベルティの「天国の門」にならって、制作にとりかかったとも言われています。信仰者は地獄を考え、天国を考える人でもありたいです。周囲の人たちと共に暴虐に満ちたせ世界を少しでも平和に満ちた世界となるよう、市民として、努めて参りましょう。しかし、何と言っても、主の再臨を待望しながら、周囲の人たちにイエス・キリストの箱舟に乗るように勧めて参りましょう。また、兄弟姉妹が救いの箱舟から落ちないように支え合っていきましょう。考える人から、祈る人になりましょう。